第141話 アン 【1/3】

「遅いお帰りでしたね」


 それは、聞き知った女の声だった。

 声の主。

 部屋の中でカナリアを待ち構えていたのは、彼女がよく知る一人の女性だった。

 女は立ち上がり、開けられたドアの前で突っ立ったままのカナリアの前に出て、膝まずく。


「心配しておりました、我が主人」


 恭しく頭を下げた人物、それは、地方都市タキーノにて、カナリアと深い縁を繋いだ、アンと言う名前の女だった。

 彼女の身長は平均よりもやや高く、出るところと出ないところが非常にはっきりとした艶やかな体つきに、赤みのかかった長髪が特徴である。


 特徴はそれだけではない。彼女は、

 元オジモヴ商会の商会長。様々な陰謀を張り巡らせ、目的のために散々に人を使い、自らの命さえ謀略の駒として使い捨てた人物。

 その人物の成れの果て、もしくは、全てを清算して変容した存在が、今のアンであった。


 カナリアはピクリとだけ表情を動かしたものの、すぐに無表情面に戻って、アンに石板を突きつける。


【どうしてここにいるの?】


「主人の身を案じました」


 いかにもな言い回しに、今度はカナリアの方に止まっていたシャハボがピクリと動く。


「ですが、杞憂だったようで、安心しました」


 言い終えたアンは、しばしの間カナリアと視線を合わせ続けていた。

 二人の間に、意識接続はされていない。ただ、別個の存在として、視線のみでお互いの思うところを推し量る。

 結果として、先に動いたのはカナリアの方だった。


【今から、少し話をしたいの。大丈夫?】


 カナリアの無表情面には、もう疲労の跡はない。

 いつも通りのままの姿を見せたカナリアに、アンは「ええ、もちろんですとも」と返し、二人は小さな丸テーブルを挟んで椅子に座ったのだった。



* * * * * * * * * *



 最初の話題は、カナリアとタキーノで別れてからのアンの動向についてであった。

 アンは、タキーノでカナリアたちと別れた際に、まずは地盤固めをすると言っていたのだ。

 それは、イザックの時に培ったゴーリキー商会の暗部の力を名実ともに引き継ぐことだろうと、カナリアは見当をつけていた。

 いくら元が同一人物とて、方々の伝手や、情報流通、有事の際の暴力など、元々の力全てを継承するのであれば、それなりに時間が必要になるだろうからだ。

 しかし、実際にアンが行ったことはそれだけでは済まなかった。

 彼女は、持つ力を十二分に使い、半年も経たずに小さな商会を立ち上げ、軌道に乗せたというのだ。


「時間さえあれば、元のゴーリキー商会のような大商会に育て上げることは可能でしょう。ですが、私はそうしないつもりです」


 続けてアンはこう言った。


「無論、カナリアさんが多額の金銭を必要とするならば話は別です。ですが、私が思うに、カナリアさんの必要とするものは金銭ではないでしょう。真に欲するものを供給するとなれば、小さな商会に留めておいた方がよいと思うのです」


 アンの立ち上げたばかりの商会は、数人しか雇っていないらしく、話の上では確かに規模の小さいものであった。

 ただし、それがアンの狙い通りであり、見かけだけのものであることを、カナリアはすぐに理解する。


「タキーノを中心にして、めぼしいところへの足がかりは作っておきました。

 あと、そうですね、どうしても手は足りないので、取引先は爵位持ちの方に限るようにしています」


【売り物は?】


「必要性の高いものを。あとは、先方の知りたいことを、そのままに」


 カナリアに向けられたアンの微笑は、とてもとても自然なものであった。

 作りものだというのに、裏を微塵も感じさせない、柔らかな笑顔である。

 しかし、カナリアは知っている。アンには表も裏もなく、ただその腹には底知れぬ闇しか詰まっていないことを。


 そして、カナリアに対して、隠さずに公開したアンの狙いをシャハボは口にする。


『情報屋、か』


 その返答は、すました笑顔のみ。


「物品も売りますとも。在庫は見せる程度にしか持ちませんがね。

 私どもは需要を見つけ、必要とあらば喚起して、あとは実際に物を持っている商会に繋いであげるのです。

 お客様は適切な価格で物を買うことができ、商会も太い客ができる。

 手数料は極力抑えてありますから、になれるように心がけていますよ」


 両手を開いて、うまい話をいかにも旨そうに話すアンの心胆は、常人に透かしきれるものではない。

 自らもそう思い込んで、徹底して人のために動くのだ。真心を以て鏡となり、相手の心を映しとる。

 そうして客の意を掴み、巧みに制御することで、アンは自らの仕事をするのだ。


『そして、お前は金ではなくコネと信頼を得るわけか。さらなる情報のために』


 シャハボは、自らの意とカナリアの意を合わせて告げる。

 返すアンの笑みは、悪心の全くない、誰かによく似た非常にきれいなものであった。


「ええ。全てはカナリアさんの為です。

 カナリアさんが知りたいことがあれば、なんでもお探ししましょう。なんでもね」


 アンの申し出は、カナリアへ無償の奉仕であった。


 そして、カナリアは知っている。アンはその美貌と笑顔を以て、親切という名の貸しと毒を方々に振りまいているのだということを。

 頷くことは、毒を飲むに等しいというのに、カナリアはそれを気にかけることはない。


 それは、アンがカナリアに絶対の忠誠を誓っているからである。

 カナリアがアンに仕掛けた《隷属エスクラブ》の魔法の事もあるが、それ以前に、タキーノで起こった諸々の事情により、アンはカナリアに絶大な恩義を感じているのだ。

 それをよく知るカナリアは、疑うことすらせず、貸しを作ることをいとわずにこう尋ねたのだった。


【今の[組織]の場所、わかる?】


 読んでから「ふむ」と言った後、アンは考え込む。遅れてカナリアの石板を読んで、驚いた声を出したのはシャハボだった。


『おい』


 カナリアとアンは二人とも同時にシャハボの方を振り向く。

 そして、そのまま動いたのはカナリアだった。


【ハボン、組織の人と、どうやって連絡するつもりだったの?】


 至極当たり前の質問に対して、シャハボはすぐに答えを口にしない。


【合図の札でも出して、連絡を待つ。きっとそんな感じでしょ?】


 カナリアの推測は、ほぼ確信を持った内容であった。

 実際に見た記憶はない。しかし、なんとなくというあいまいなものではあったが、そのようにしてシャハボが連絡を取っていた姿が脳裏に浮かんだのだ。

 根拠のない推測を信じて尋ねた内容は、はたして正しかったのか。それは、シャハボが頷く事で返される。


【それだといつになるのかわからない。だから、アンに聞いたの】


 シャハボは静かに再度頷き返していた。

 その間も、まったく彼は口を開かない。

 カナリアの言い分は正しいのだ。なれど、真っ先に頼られなかったシャハボの心中は穏やかではなく、かわりに口を閉ざすことでそれを封じ込める。


 そんな二人の様子を、アンは温和な表情の端に潜む鋭い目で、じっと見ていた。

 アンにとっても、今の二人の行動に思うことは多いのだ。そして、経験豊富な彼女はすぐにこの場にて最適な回答を用意する。


「あらあら、お二人とも痴話喧嘩でもされましたか? ここにいて私が仲をお邪魔するようであれば、今日はお暇しましょうか?」


 気を利かせたアンの言葉に、ほとんど同じ仕草でカナリアとシャハボは吹き出したのであった。

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