第127話 ■レ■■■リ・アプス 【1/4】

 狙い澄ました《空刃クーペア》は、クレデューリの死角を突くために、カナリアへも当たり得る軌道であった。

 無論それは自らに当たる前に霧散させ、カナリアはダメ押しとばかりに、本命と言える《空刃・纏クーペア・ポーティエ》をクレデューリの心の臓付近にあるケァに差し込むつもりであったのだ。


 だが、しかし、


 カナリアは詰め切る事無く、前に出ようとした勢いをそのままに、後ろに飛びのく。


『どうしてやらない!!』


 大声で飛んだシャハボの𠮟責はもっともであった。

 クレデューリの不意は突けた。首を切り、戦いを終わらせるのに最良の機会であったはずなのに、カナリアはそれを放棄したのだから。

 カナリアが退いた後も、クレデューリは剣を突き出そうとする姿勢のまま、動きを止めていた。


 首筋にはしっかりと赤い切れ目が入り、そこから一筋の赤い雫が垂れている。


『……やれなかったのか』


 状況を理解したシャハボの言葉に、カナリアは頷く事すらできなかった。

 彼女の視線はクレデューリに固定されたまま。外す事は微塵も出来ない。

 

 カナリアの手を引かせ、今も最大限に警戒させているそれは、クレデューリの目であった。

 首を切り落とした瞬間、本当に刹那の時ではあるが、クレデューリの目から光が消えたのだ。

 失光は、人が死んだ時の挙動に等しいものであった。

 だが、消えてすぐに、クレデューリの目は見開かれ、明瞭たる殺意のまなざしをカナリアに向けたのである。


 ただ一つの視線だけで、絶好の機会を逃すのは普通に考えれば馬鹿らしい話であった。

 ただ、その殺意に曝されたカナリアは直感したのだ。

 このまま手を出せば、必ず殺られると。


 その決断が正しかったのかどうかはカナリアとてわからない。

 しかし、シャハボの言う通り、『やれなかった』というのが現実であった。


 カナリアが見ている前で、首を切られ、死人であるべきはずのクレデューリの手が動いた。

 剣を持たぬ方の手でクレデューリは自らの頭を持ち、切り離された首のつなぎ目を合わせようと試みる。

 すぐにそれは合わされ、彼女は首を回して心地を確かめる。


 カナリアはずっと様子を見る事しか出来ないでいた。

 そして、調子の確認が終わったクレデューリは、開口一番、こう言ったのである。


「すまなかった」


 謝罪は何の為にか。

 この期に及んで丁寧に頭まで下げたクレデューリを、カナリアは微動だにせずに見守る。


「私は君の本気を見誤っていたよ。

 互いに剣を打ち合わせれば、互いに傷つき合えば、あるいは和解できるかも知れないと私は思っていたんだ

 だが、君という人にとっては、無粋な話だったんだな」


 そう言ったクレデューリは、自らの首を触り、指先に付いた血を眺める。


「魔法使いである君と接近戦か。

 それで戦えたと思っていた私が馬鹿だったな。いや、勝てるとだなんて夢を見せてくる君の戦い方が上手かったと……褒めても仕方の無い話か」


 反省なのか、何かによって後ろ髪でも惹かれる様に、じっくりと彼女は指先を眺めながら言葉を進めていく。


「私は……今この場で決めなければならないのだな。

 本当に君には教えられてばかりだ」


 首を横に振ったクレデューリは、ここでようやく指先から視線を外し、指先に付いた血を振り払う。


 カナリアは未だ動かない。いや、動けない。

 十分に隙はあった。しかし、先んじて動く事は出来なかったのだ。


 そんなカナリアに対して、クレデューリは深い憂いを交えた微笑を向ける。


「カーナ。君には全てを説明するよ」


 カナリアからの返答は、合わせた目線のみ。


「私の体には、アプスが居る。でもね、私と彼は、まだ本当の意味で一つにはなっていないんだ。

 彼は私と一緒になる事を求めた。けれども、最後の一線として、完全に同一化する事だけは、しない方が良いと言い続けたんだ」


 クレデューリは自らの心の蔵付近を愛おしむ様に触れ、目を瞑る。


「君の行動を見る限り、アプスは危険な存在なのかもしれない。

 しかし、私の知る限りでは、彼は悪ではない。

 今も私の行動に対して異を唱え、君に従う事を彼は勧めているよ」


 彼女は、家紋の入った金属の胸当てを付けていた。その胸当ての上から自らの胸を触れていたのだが、手に力を入れた瞬間、胸当ては紙のようにひしゃげてしまう。


「今ならまだ人に戻れるかもしれないそうだ」


 金属を紙のように扱うという所業を見せたクレデューリは、自らの手のひらを見る。

 当たり前のように血まみれになったその手をじっと。

 そして、彼女は自らの血を舐め、深く息を吐く。


「この血が、私がまだ人間である証拠だよ。

 けれど、私の選択には不要なものだ」


 静かに言ったそれが、クレデューリの決断であった。


「私には力が必要だ。

 自らの目的の為に私は全てを捨てよう。

 アプス、やってくれ」


 変化は、即座に起こった。

 クレデューリの着ていた服が、壊れた胸当てが、肘当て等の防具が、折れた剣が、順々に地に落ちていった。

 クレデューリの肉体は、肉である事を捨て、水に変化したのだ。

 水は彼女の装いを留める事無く、故に身に着けていた物は全て地に落ちる。


 それは人の形を保っていた。まだクレデューリとしての輪郭をぼんやりとだが保っていた。

 しかし、その姿は全てが水で出来ており、それが今のクレデューリであった。


「ああ! 素敵だ!!」


 クレデューリの声は、水の中から聞こえるようなくぐもった音に変っていた。

 彼女は、変容しきった自らの両手を、その体を、動かしながら確認する。


「あーっはっはっはっはっ!!

 本当に素敵だ!!

 なんて素晴らしい!!

 これが人を捨てるという事か!!!!」


 昂る声は、元のクレデューリの声からどんどんと逸脱していく。


「これが! 私! これが、力!! 『これが!』『私!』『ワタシ!』」


 カナリアはすぐに変化を理解する。

 クレデューリの声は、元の頭からではなく、その水で出来た胴体からも発せられていた。

 いや、体中のいたるところに口が出来始め、それぞれが異口同音に話始めていたのだ。


 クレデューリの姿は徐々に安定を失っていく。

 変わりゆく様を見ながら、カナリアの理解は、現状の変化のみならずクレデューリと融合したアプスの素性にまでも及んでいた。


 水管に居た時に、アプスは自らが不安定だと言っていた。

 不安定だからこそ水管の中に居たのは間違いないだろう。最初はカナリアもそう思っていたのだ。


 だが、今の彼女は理解している。

 アプスの本質は、水なのだと。

 今クレデューリを形どる水こそがアプスの本質なのだ。

 水管にあった水、クレデューリの肉から置き換わった水は、ケァを保護するためにあったのではなく、それ自体がアプスの魔力であり、体の一部だったという事を。


 この理解は、カナリアに対し、アプスの危険性と組織がアプスを廃棄した一因への手がかりも同時に与える事になる。


 水は元来、全てを溶かし込む素材である。

 シェーヴは、ルアケティマイトスが触った生物を分解吸収すると言っていた。

 そして、アプスのケァになっている素材は、ルアケティマイトスである。

 溶かすという点において、二つの素材は親和性が高かったのだろう。

 組織は何かの為にそれらを結び付け、アプスを作り上げたのだ。


 おそらくは、アプスを扱うために人も溶かし込んだに違いない。

 きっと組織が失敗したのはここだろう。人を溶かしてケァになる存在を植え付けようとしたのだが、ルアケティマイトスの潜在魔力を扱いきれなかったのだ。

 何度も失敗して、実験の挙句に残されて封印されたのが今のアプスなのだろう。


 本質は間違いない。あとの事は憶測ではあるが、正しいだろうとカナリアは考えていた。

 その憶測の部分が当たるかどうかは、見守るしかない。


 カナリアをも凌ぐだろう膨大な魔力を持つアプス。

 それと融合したクレデューリは、どうなるだろうか。


「力! 素晴らしい! 私は自由だ!! あーっはっはっはっ!!!」


 クレデューリは盛大に仰け反り、全身で高笑いをしていた。

 体の輪郭は笑い続けるにつれ、どんどんと崩れ、おぼろげになっていく。

 それはすなわち、彼女がアプスに飲み込まれていく様に違いない。


 しかし、カナリアが見守る中、笑い続けるクレデューリの手だけが動き、やおら自らの頭部を殴りつける。

 飛び散ったのは血しぶきではなく透明な水のみ。


 動きと笑いが止まり、首なしになった胴体から生える様に復活したのは、見慣れたクレデューリの頭であった。


「ああ、アプスの懸念していた事は、こういう事か」


 くぐもってこそいるが、声はクレデューリのままであり、今までとは打って変わった冷静さを保っていた。


「醜態を見せてすまないな、カーナ。

 アプスの力には雑念が多すぎて、どうしても流されそうになるんだ」


 彼女は、自らの体に新たに浮き出かけた顔らしきものを殴りつけ、それを平面に戻す。


「しっかりしていないと自らを失いそうになる。

 喜びに流されて、危うく私が私である事を忘れそうになったよ」


 クレデューリが言葉を発する事に、彼女の水の肉体の上をさざ波が流れ、それは次第にクレデューリであった時の肉体の輪郭を鮮明にしていく。


「今ならアプスの言い分も理解できる。

 何というか、私の体の中に無数の人たちが渦巻いているんだ。喜びも悲しみも怨嗟も、全ての感情が混ぜ合わせて襲って来るんだ。

 これは常人であれば耐えられなかっただろう。

 一度自失してしまえば、感情の渦の中に溶け込んでしまうのがわかる」


 カナリアの直感は正しかった。

 しかし、クレデューリの言は、それ以上に事態が最悪である事をカナリアに伝える。


「だが、私は違う。

 私には目的がある。意思もある。私は私の願いの為に動くのだ!

 私はアプスの力に負けることは無い!

 私はアプスの力を使いこなして見せる!!」


 完全に出来るのだろうか。疑問は多い。

 けれども、カナリアはクレデューリの言葉を信じる。

 意志の強さによって、クレデューリはアプスという存在を御し得たのだと。


「何度も言うが、君には感謝しているよ。

 しかし、私の道を遮るようであれば、もはや容赦はしない。

 この名に……」


 その肉体は、完全にクレデューリを模した姿へと変容していた。

 仕草さえも完全に人間であるときと同じ様子を見せる彼女は、改めて自分の全身を見直してから、頭を押さえる。


「はっ。こんな姿になってしまっては、私は栄えあるデブリの家名を名乗るわけにはいかないな。

 我欲の為に人である事を捨て、流れる血もなくなったのだ。

 名も捨てねばなるまい」

 

 名などカナリアにとってはどうでもいい話であった。

 しかし、名にこだわる姿勢こそが、がクレデューリである事を如実に表す。

 そして、最悪の敵へと変貌した彼女は、こう名乗りをあげたのだった。


「うん。そうだな。

 では、こう名乗ろうか。

 我が名はクレデューリ・アプス!

 自らの願いの為に、道を阻む君を討つ!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る