愛に慣れるまで
無為憂
中峰爽にとって夏は暑いものではないらしい。寒いものだ、と。彼女と接点のなかった自分はクラスの中でもそれを知るのは遅かった。だがそのことを知っている人間はクラスに多く居たわけじゃなかった。
小学校六年の運動会の時、僕は彼女と二人三脚を組んだ。それをリレーで繋いでいく運動会の競技の一つだ。
夏といえば、体育の服装は半袖に短パンという格好が普通だが、彼女は長袖長ズボンを着てなお体を擦っていた。
僕は正直そんな彼女のことが嫌いだった。私は体が弱いと大げさにアピールしているように見えた。それに加えて彼女はクラスの華だった。それが嫌悪することに拍車をかけた。
僕は遠目から彼女の欠点を探した。周りから見れば、彼女は成績優秀なだけに完璧な少女だった。だから探したのは、僕なりの欠点だった。僕が勝手に納得できる欠点。彼女は人に対して大げさにアピールすることが多かった。それは僕にとってだけでなく周りにも嫌う人が居た。それにしても僕は彼女をよく観察していたと思う。
そして二人三脚を練習するはじめての授業の時、僕は一方的に嫌悪を示した。自分が思っていたより顕著にそれが出ていたらしい。
「朝比くん、なんかごめんね?」
「えっ? いや……」
彼女はそう言いつつもぼくの肩に手を回した。まだ成長期の来ていない僕は、背の高さが彼女と近かった。身長的に相性がいい、そういう理由だった。
布一枚を隔てて肩に回った彼女の腕は、ほんの少しだけ冷たさを感じさせた。彼女の柔い腕とふんわりとした体操着は、くすぐったさは感じるもののなぜかそこまで不快に思わなかった。
「ごめんね、私夏が苦手で」
「僕も暑いのは嫌いだよ」
意図せず暑いという単語が遠回しに彼女を含んだことは、彼女にはわからないだろう。
「そうだよね」
彼女は申し訳なさそうな顔をする。練習は始まる。いっせえの、で歩き始める。三歩進み、転ぶ。それの繰り返し。最初ということもあって、練習は捗らなかった。
それを象徴するかのように、彼女は一滴も汗をかかなかった。僕の汗が彼女の体操着に染みていたかもしれない。
「今日は暑いよね」
長袖長ズボンの彼女が言う。
「朝比くん、これから日向くんって呼んでもいいかな?」
これを機会に仲良くなりたいんだ、と遠慮しながら彼女は言う。
「いいよ」
「じゃあ、私も爽って呼んで」
僕は不思議にも快諾した。
「爽」
「ん?」
「呼んでみただけ」
「そっか。日向」
「うん」
僕たちは歩き始める。彼女の体操着が僕の素肌と触れ合う。その日は二日目にしてはだいぶいい成果を出せた。走れるようになった。彼女の体は熱を持っていた、気がする。
「今日けっこううまくいったでしょ。私もっと練習したいんだ」
幸い僕と彼女の家はそれほど離れていなかったし、放課後は僕も暇でやることがなかった。僕と彼女の家の中間地点の公園で練習することになった。彼女の申し出を断る理由があるとすれば、僕が彼女を嫌いなことだった。
「いいよ。やろう」
初日の申し訳なさそうな彼女の態度を見ると、僕はどうにも彼女を嫌うことはできなくなっていた。無理に嫌うことは僕を大いに疲れさせた。
それから彼女と接する機会は必然的に増えた。勉強はそこまで好きじゃないこととクラスメイトとの会話にはうんざりしていること、彼女は僕に日々の悩みを話してくれるようになった。それは単に僕が彼女の話を全肯定していることが要因だったと思う。彼女の悩みの返答を毎回僕の言葉で話すには、小学生には疲れるものだった。
「私さ、今まで黙っていたことがあるの」
運動会を間近に控えていたときだった。彼女は、日向に秘密を話すことはこれが最後、と言う。
「前に、夏が苦手って言ったじゃない? 私」
「うん」
「あれはちょっと嘘で。苦手なんじゃなくて寒いの。ずっと。一年中。私の体、なんだかおかしいみたいで」
「そうなんだ」
僕はそっけなく返す。
「運動しても汗をかかなくて」
彼女は僕を見て話すが、僕は公園の端に咲いていた雑草を眺めていた。
「でもね、日向と一緒に組むと私、汗をかけるの。体がぽわっと熱くなるの」
ねえ、とか細い声で僕に言った。
「わかってたよ。なんとなく」
公園の前を一台の車が通り過ぎる。
「そっか。なんか恥ずかしいな」
「それで?」
「うん?」
「それを僕に言ってなんになるの?」
なんでこんなことを言っているのか、僕にはわからなかった。自然とそういう言葉が口を衝いて出る。
「なんにも、ならないね……」
なんだか、ごめんね? 泣き出しそうな声で彼女が言う。もう僕のことを見ていない。
「日向、そうだ。君に言うことがあったんだ、うん」
彼女の瞳が揺れる。
「好き──」
そのあとに続く言葉は彼女によって閉ざされた。彼女は目に腕を当てて僕のもとから走り去っていった。
そのあとも、「でした」が来るのか「です」が来るのかはっきりしなかった。
運動会当日、僕たちは「最初」に戻った。練習の成果だけが上手くいった。
これは、彼女と「別れる」までの話だ。
*
中学で疎遠になったあと、僕たちは高校で再会を果たした。
「覚えてる? 日向。私が誰だか」
放課後、春なのに小学校の頃と変わらず彼女は寒そうにしながら僕に話しかけてきた。一緒に帰ろうと誘ってくる。僕は了承し、高校をあとにする。新入生に贈られる花飾りをした彼女の背を僕はいつの間にか越していた。大きくなったね、と彼女は添える。
「覚えてるよ、爽。僕の初恋の人」
「……そっか。やっぱり」
意に反して彼女は得心した様子だった。僕の後悔の三年を彼女は一瞬で吹き消した。
「ひどいことをしたよ、僕は」
「いいよ、もう」
彼女は強く言った。
「気にしてないよ。私、気にしてないから」
「ありがとう」
謝罪の意味を込めた感謝だった。
「私、あの頃から気持ち変わってないの」
「でも僕は最低な人間だ」
「気にしてないって」僕の否定を彼女はすぐさまかき消す。
私それだけで判断したりしないよ、彼女はそれを口にすることで自分の気持ちを確認しているようだった。
「ごめん」
彼女が聞きたいのは僕の否定の言葉じゃないらしい。
「どうなの」
「僕も好きだよ、爽」
「ほんとうに?」
「うん」
「じゃあ、私のどこが好き?」
「優しいところかな。あと、僕にだけ弱みを言ってくれるとこ」
僕にだけ、というのは少し自意識過剰だったかもしれない。
「私、優しいかな。それに、私の弱みは日向にしか言えないよ。友達少ないから」と笑う。
「みんな爽の事好きだよ。僕も爽のことを好きな人間の一人でしかない」
「嘘だよ」
今度は照れたように笑う。
「だって、日向にしか温度を感じない」
うっと言葉に詰まる。僕を見ていた彼女の目は真剣だった。僕は目をそらさず、彼女に応える。
「今も寒いの?」
「あの頃より寒いの。耐えられない」
耐えられない、という一言に僕は甘えた。本当は僕のことが好きじゃなくても、嫌いになってても好きな人が僕を頼ってくれる、そのことが嬉しかった。僕が僕を許すために、甘えた。
「今は?」
と爽に訊く。
「今はどうなの?」
「気持ちいい。春の陽気、ってこういうのを言うんだって思う」
「僕のおかげ?」
「うん。日向のおかげ」
「そっか」
「もっと喜んでもいいんだよ?」
「わかったよ」
そこからの流れは、一般的なものだった。
「付き合って八ヶ月だよ、私達」
十二月に入って、マフラー巻いた彼女が嬉しそうに手袋をした両手で叩く。ぱふ、と厚い手袋が音を立てる。
「クリスマスどこに行こうか」
僕たちの会話は至って一般的な高校生のカップルの会話だと思う。
「そんな、無理しなくてもいいよ」
「家で食事でも?」
そんなのつまんないよな、と冗談で言った。
「そうしよ!」
僕たちはこの八ヶ月の間に、なんどもお互いの家を行き来していた。大抵自室ですることは、勉強か娯楽を消費するかのどっちかだったけれど、僕たちはそれで満足していた。親がいないとき、彼女が甘えてくることはあったけれど、せいぜいキス止まりだった。僕がそれ以上をしなかったのは、彼女に嫌われると思ったからだ。彼女が僕のことを特別だと思わなくなるのが怖かった。温度のある人間でいたかった。
その日、二十五日は僕の家で食事会が催された。両親公認の僕たちの仲に甘えた。食後、僕たちは自室に上がった。土曜だったこともあって、泊まる予定だった。
「ゲームでもする?」
「しよう!」
小一時間ほどゲームをすると彼女は疲れたのか、僕に甘えてくる。僕の腕に彼女の腕を絡ませ、その先にお互いの指を絡ませる。僕のベッドに横になると、彼女はひとつあくびをした。
彼女は、僕を引っ張り、引き寄せる。そして首元にキスをする。
「好きだよ、日向」
「僕も大好きだよ」
蕩けるような声に僕の体はじんと熱くなる。反応を求めるように、
「熱いね」と囁いた。
彼女は少し間をためて言った。
「ううん。寒い」
「え?」
「私を、あっためて」
僕は彼女にキスをした。それで僕は満足だし、彼女もありがとうと言って喜ぶ──。
「寒いよ」
──はずはなかった。
「違うの、寒く感じるの」
僕は力いっぱい抱きしめた。
「あつくない」
彼女はこれ以上、寒いと言わなかった。すうっと僕の手が彼女から離れる。
「僕は爽のこと大好きなんだよ?」
「私も好きだよ」
「なんで」
彼女は力をいれ、僕のことを抱きしめた。彼女はなにも言わない。僕は暖房を入れた。限界の三十度に設定するのは、僕と付き合う前に彼女が一人でしていた対抗策だった。
「なにも感じない」
彼女は足を抱えて、少し不服そうに言った。僕の体は、彼女とキスをすることで──彼女と愛を確かめることで温まっていたけれど、彼女はなにも、と否定する。
「なんでよ。なんでだよ!」
僕は彼女の頬から首へ、肩へ、お腹へ、足へ、そして胸へと触った。首を触る時うっかり絞めそうになった。彼女はそれを意識していた。いつものように僕が爽に触れるのを爽はすべて受け入れていた。彼女の体を触ること、即ち体温を確かめることを彼女は拒絶することはなかった。彼女の胸に顔を沈める。トクトク、と心臓が脈打っている。少し早いぐらいだった。早鐘を打つ僕の心臓よりは遅かったが。
「僕はこんなにも愛しているのに」僕は愚痴る。
「知ってるよ。愛してくれているよね」
じんわりと彼女が汗を引いている。
「わかるよ。だって私も愛しているから。同じものを日向から感じるもの」
もう僕は、彼女が言ったことに対して返答できずにいて、その日最後のキスをした。
*
僕たちは、結局次の冬を迎える前、夏ごろまで付き合った。
僕が爽に触れると、彼女は「暑い」と言う。
彼女は、僕に対して明らかに変わってしまったが、僕への好意は変わらずに示してくれる。
「僕はずっと爽のこと大好きだよ」
「私も日向をずっと好きでいると思う」
何度も何度も僕達はそれを確認していた。
「なんだか、夏が苦手になってしまったよ」
独り言に近いものだった。昔、そんな会話をしたっけな、と思い出す。
「私も暑いのは嫌い」
それが、僕が明確に覚えている最後の会話だった。
夏になる前、なにもない日、僕たちは僕の部屋で寝転んでいた。僕は彼女に訊く。
「僕さ、今寒いんだよ。なんでかわかる?」
「わかる……と思う」
「僕に温度を感じる?」
「感じるよ。でも慣れちゃった」
「夏は暑いね」
「夏は暑いものだよ」
「僕がなにをしてほしいかわかる?」
「私じゃ、なにもできないよ」
僕が彼女と別れる寸前、この別れが復讐からのものでも、愛からのものでも、どっちでもいいと思った。
愛に慣れるまで 無為憂 @Pman
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