溜息 前編

 八月の日差しに熱されたアスファルトから、陽炎がゆらめいている。

 冷感素材のインナーを着ているとはいえ、暑さは完全に遮断できない。最新技術の服は、最近の暑さを増した夏にはまだ負けてしまうらしい。

 結局はいつまでも環境悪化とのいたちごっこ、……難儀なことだ。

 額に浮かぶ汗と、汗をかかせている夏の蒸し暑さに辟易しながら――溜息を飲み込んだ。


 気が重い。


 警察官になって、気が進む仕事なんてものがあった例は無いが、この仕事は、今迄で一番気が重い。

「どうした? 溜息なんてついて」

 組まされている親父程も歳の離れた上司が、さして面白くも無さそうな顔でからかいを言ってきた。

「溜息まではついていませんよ」

「そうか」

 仏頂面で答える俺に、はは、と、軽くだけ笑って、再び足を速める高槻さん。

 高槻さんが背中を向けたから、聞こえないように俺は小さく溜息をついた。溜息を飲み込む癖がついたのは、きっとこの悪い上司に当たったせいだ。


 巨大な塔のようにも見えるビルの、正面玄関の自動ドアを潜る。八月の熱気が瞬時に掻き消された。だが、ここが何所なのかを考えれば、空調以外の理由で冷やされているような気もして、良くは思えない。

 俺って小心者なんだろうか?

「間違っても、今日のお相手におばさんなんか言わないようにしろよ」

 室内の涼しさに機嫌を良くしたのか、高槻さんが再びふざけたことを言った。

 不謹慎な台詞に声に棘を含ませて答える俺。

「被害者は三十三歳です。自分とは三つしか違いません」

「そうか」

 さっきと同じような顔で同じような台詞を言った高槻さん。

 腕は悪くない人なんだが、長くこの世界にいるせいか、配慮に欠ける台詞が多い。犯罪者と向き合う仕事だから、こちらも荒っぽくなっていくのも自然なのかもしれないが……。

 少なくとも、俺は、もっと真面目で、かつ、ドライに仕事に向き合いたい。

 そう考えていた矢先、俺が思っていたことと正反対の発言が投げ掛けられた。

「相手も女だ。その顔を上手く使えよ? お前は、歳よりも若く見えるんだから」

 高槻さんの台詞への理解がワンテンポ遅れ、一瞬、真顔で高槻さんを見詰め返してしまった。

「冗談でしょう?」

 顔を顰め、問い返してみても、返事がない。

 俺は、今度こそ高槻さんにも聞こえるように盛大に溜息をついた。

 そして無視される。

 部下の掘り下げて心情を酌んで欲しいサインだけはしっかりと見逃すんだから、悪いオヤジだよ。ほんと。


 それから、無言のまま小さな業務用通路を抜けると、一度、入り口のホールの二階部分へと出た。

 吹き抜けから見える階下の様子は、前時代の墓地と同じような場所であるはずなのに、随分と和やかで穏やかな空気が漂っている。ほんの二十数年前までは、重苦しい空気の中、仰々しい葬式を挙げて送り出していたのが、今は嘘みたいだ。

 旅立つ前の最後の時間は、金に塗れた宗教儀式ではなく、本当に近しい人とゆっくりと語り合う時間に今は変わっている。

 それだってのに、古傷を暴いて眠りを邪魔するのが俺達の今日の仕事……だ。


 奥まった関係者以外立ち入り禁止のドアを開ける。すると、二十代くらいの、栗色の髪の女性が俺達を硬い表情のままで出迎えてくれた。

「お待ちしておりました」

 彼女は慇懃に頭を下げていたが、俺達を良く思っていないのは、その表情からはっきりと読み取れた。

 まあ、死者を案内する側の人間なんだから、死者の過去を暴きに来た人間を良く思うはずもないんだが……。

 墓守り対墓あらし、か。

 皮肉が意図せずに口までこみ上げてきてしまう。

 エントロピー収束型精神復元システムが犯罪捜査に使用される法整備は整いつつあり、試験的な運用として、今回、十件の事件が抽出された。

 凶悪犯罪に関すると思われる八件、未解決殺人事件が一件、そして――。

 ……麻薬組織の死人の尋問や、死刑執行者の余罪や共犯者の追及の方がよっぽどマシだと思う。

 俺達が受け持つのは、他殺か事故かの判断に迷っている一般人女性についての案件だから。

 もっとも、死後数年が経過していても家族が再生を申請していない以上、おそらくは……。


「長谷川 葉子サンは?」

 一歩後ろに控えた俺を気にもせずに、高槻さんが口元だけを緩めた笑みで受付の女性に話しかける。

 この表情は、前々から好きになれない。

 多少は気さくに、だけど、警察官としての威圧感を出す顔だから、向けられた方は、絶妙に文句が言い難い。

 いや、俺は目の前の女性の肩を持つ気は無いんだが……。

 要は、仕事のスマートさに関する美学の違い……だと思う。

「再生そのものは、十分前から開始されております。もうすぐにお見えになりますので、少々、お待ちください」

 受付の女性は、若い割りにしっかりとした声で告げた。

「ここで会うのかい?」

 高槻さんは冗談めかしてはいたが、脅すような目を受付の女性に向けた。

 事情聴取の場面に、部外者を置くわけには行かない。

 それについて、こちらから命令するよりは、相手の自発的行動を期待したものだったのだが……。

「はい」

 受付の女性は、高月さんの態度を全く意にも解さずに肯定した。

 肩を竦めて見せている高槻さん。

「キミも、同席すると?」

 やれやれ、のジェスチャーが終わった後、今度は全く笑みを混ぜずに高槻さんが尋ねた。

 緊張感が、ごく短い時間流れ――。

 それでも受付の女性は、今度も特に怯んだ様子もなく、やんわりと首を振って答えた。

「こちらの場所は、あくまで待合室です。お会いになられるまでは、私共の管轄です。また、その後の事情聴取には、応接室を使われると伺っております」

 明らかに遣り取りでは負けた高槻さんではあったが、それを相手に悟らせない表情で肩を竦めてみせ、それならいいか、と、平時のふざけた顔で強がっていた。

 高槻さんが俺に向けた視線にある、ごく僅かな不満に俺は気付かない振りをして、視線を二人から逸らす。

 俺達の仕事の展開としては、高槻さんがやり過ぎないように適度に俺がフォローし、尋問相手からの親近感を得るというスタイルなので、受付の女性に歩み寄るべきか、特に今回の件とは関係がないのだから、下手に関わらない方がお互いのためなのか、少し判断に迷ってしまう。

 でも、取り合えず、芯が強くて駆け引きが上手い女性に関われるほど俺は交渉のプロではないので、不干渉を決め壁に背中を預けた。

 高槻さんは、空いている椅子にだらしなく座り、操作性重視の大型のB4の携帯端末を開いて、なんか操作をし始めた。

 事件の情報のおさらい……ではないだろうな、そんな真面目な人じゃない。ああ、でも、女性に振る話題の一つでも探しているのかも、な。趣味と実益を兼ねて。


 微妙な気まずさがある部屋の中で、時計ばかりを確認していると、沈黙が辺りを支配してから長針が三つ動いた後、エレベーターの低い音が聞こえ、それからすぐに俺達が入ってきたのとは別の扉から、若い女性が出てきた。

 受付の女性が、俺達を無視するような態度でその女性に向かって話しかけている。

「おはようございます。長谷川 葉子さまですね?」

 受付の女性の質問にぼんやりとした顔で頷き、それから、高槻さんと俺に順番に視線を向けた彼女――長谷川 葉子は、見覚えのない俺達に少し不思議そうな顔で小首を傾げて見せた。

 その仕草から、確認した写真で見た通りだ、と、思った。

 いや、写真写りは角度や光の加減から、顔の特徴が呆ける場合もあり――それ以外にも、女性の場合は、特殊効果を使っていたりもするので――、あまり当てにはしていなくて、肌の質感なんかはもっと老けているものだと思っていたが、目の前の女性は二十代の半ばと言っても全く不思議ではない容姿をしている。 

 ある程度の愛嬌のある仕草といい、男に好かれるタイプ、だな。

 もっとも、俺にとっては一番苦手なタイプだが。

 溜息を我慢して斜に構えた視線を送っていると、彼女は、偉そうにしている高槻さんではなく、側に控えている――可能であれば関わりたくない雰囲気を出している俺の方に向かって話し掛けてきた。

「やっぱり、私は死んじゃったんですね」

 軽やかな笑顔で――。

 そんな事を急に告げられて、俺は一瞬、言葉を忘れた。

「……あ、その」

「ええ、お悔やみ申し上げます」

 うろたえていると、形式だけは丁寧な言葉と態度を返した高槻さんに足を踏まれてしまい、俺は慌てて頭を下げて戸惑う表情と台詞を誤魔化した。

 いきなりこんな事を訊かれるものだとは思っていなかった。

 彼女には、死んだ自覚がなかったんだろうか?

 復元される精神は、死んだ後のモノであるはずなのに……。

「早速で済みませんが、貴方がお亡くなりになられた際の状況について幾つかご質問させて頂ければと思います」

 全く心のこもっていない愛想笑いで、いきなり本題に踏み込んだ高槻さん。

 まあ、変に世間話から入るよりはよっぽど潔いのかもしれないけど、やはり、個人的には好きな流れじゃない。

 どうなんだろうな?

 改めて、死後に死の状況を訊かれるというのは。

 人生の半分も終えていない俺にとっては、想像でもその心理の欠片も分からなかった。

「……主人は?」

 被害者に問われて、ゆるゆると首を横に振って「再婚で権利消滅しています。が、お会いしたいなら、都合をつけますが?」と、高槻さん。

 高槻さんの悪人にしか見えない笑みから全てを察した様子だったが、彼女――長谷川 葉子は、俺の方にも視線を向けてきた。

 補足する点もなかった俺は、俯くように頷いて高槻さんの返事を肯定した。

 長谷川 葉子は、短く溜息をつき「馬鹿な人」と、呟くように言った。

 一呼吸分空いてしまった間に口を挟めずにいると、彼女は自分から語り始めた。

「自分から来れば、殺されちゃったことなんて誰にも言わなかったのに」

 すぐに喰いついては、逆に警戒を抱かせてしまう。

 俺と高槻さんは、敢えて思わせぶりに目配せし合い、彼女の声の余韻が消え、充分に時間が過ぎてから言葉を継いだ。


「それでは、他殺で間違いないんですね」

 高槻さんが、重い口調でゆっくりと確認している。

「はい……」

 どちらかといえば、申し訳無さそうな顔で肯定した彼女。

「これから、別室で詳しくお話を窺ってもよろしいですか?」

 俺が謙って尋ねると、彼女は……彼女がそんな顔をする必要なんて全く無いはずなのに、申し訳無さそうな顔のまま頷いた。


 受付の女性に応接室の場所を聞いてから、俺は先頭に立って歩き始めた。

 部屋を出る間際、背中から――おそらく、受付の女性が発したのであろうが「いってらっしゃいませ」という声が聞こえてきた。

 ふん、と、鼻で笑って俺は振り返らずに歩を進める。

 二度と戻らない女性に向かって、そんな言葉で送るのは、薄情のように思えたから。

 所詮は、向こうもお仕事ってことだ。

 俺達に関してもそう。

 心情や私情を挟む必要は無い、ってね。


 来た時よりも細い廊下を、意識してゆっくりと進む。

 高槻さんはあれでいて女の扱いが上手い。今も俺の後ろで、それなりには打ち解けた様子で被害者と談笑している。だから、歩くことに意識が向いていない二人を置き去りにしないように、普段の半分以下のペースで俺は歩いている。

 会話に混ざるつもりはない。

 高槻さんが上手くやっているなら、俺の出番は無いからだし、そもそも積極的に話しかけて……女にモテたいなんて子供じみた気持ちは、持ち合わせていないからだ。ヒーローになりたいのなら、ゲームでもやってればいい。今じゃ、現実とほぼ同じゲームの世界を眼球に映せるんだから。


 曲がり角で、ふと、後ろの様子を窺う。

 被害者――長谷川 葉子は、随分と穏やかな顔で話している。

 彼女がそんな表情で話せることを少し不思議に感じたせいで、俺は、事件と彼女自身の事についてのあらましが、取りとめも無く頭に浮かんできてしまった。

 なんでもかんでも可哀想と思うのは、良くないという風潮はあるが、それでも彼女の人生には同情を禁じえないと思う。例えそれが‟ボニーとクライド”のような、ありふれた非行物語であっても。

 いや、だからこそ、か。

 中学、高校時代とあまり目立たないタイプだった長谷川 葉子は、大学時代に容疑者と知り合い、恋に落ちた。容疑者は、少し悪ぶった部分のある男性だったから、真面目な彼女には、そういう部分が魅力的に映ったのかもしれない。

 大学そのものには真面目に通いつつも、夜は比較的派手に遊び始めたのも丁度この時期からだ。大学二年までは上手くそのバランスを保っていたようだが、三年の夏に彼女が妊娠したことで、生活は一変したようだ。

 大学を辞め、他県に移り、就職も――バイトと大差ない条件ではあったが、小さな会社の事務員として働き始めている。ただ、子供は……。結局は流産となっているが、当時の病院のデータを洗うと、幾つかの不自然な点も散見される。

 それでも、容疑者の男と彼女はその後二年も同棲し、最終的に、彼女が通勤途中に事故死するまで一緒に過ごしていたようだ。


 二人の仲がどうだったかは、正直解釈に悩む。

 仲は良かったとする意見も多いが、怒鳴り合う声を聞いたと証言する人間も多い。結局は当人達の問題、と、周囲も傍観者を決めていたということだろう。

 まあ、容疑者の方は、流産後に二年間『も』殺害を待った、という心理だったのじゃないかな?

 だから、彼女としてみれば、たった二年『で』、という心境だったと思っていたんだけど……。

 相手への恨みを口にしない彼女が、俺には異質に映った。

 ちなみに、容疑者の動機については、現在調査中。ただ、ろくな話は聞かない。今の女へ心変わりして邪魔になった、金に困った、悪ふざけの延長という未必の故意、等々。

 個人的には、金目当てだったんじゃないかな、とは思っている。彼女の保険金の額は大したことはないが、全くのゼロというわけでもない。額の大小が事件の大きさを決めるわけじゃないのは確かだが、動機の面で初動が遅れた理由のひとつではあったと思う。

 そういうのも見越した上での犯行だったのかも。


 っと、考え事をしながらの移動だったので、うっかり通り過ぎてしまいそうになったけど、小さなプラスチックのプレートに書かれた応接室の文字を目の端で捕らえ、慌てて方向転換し、ごくごくちっぽけな木のドアを開けた。

 洋風で雰囲気は悪くないものの、縦長の四畳程の狭い造りの応接室だった。二人掛けのソファーがテーブルを挟んでひとつずつあり、窓は無く、変わりに、アクアリウムがドアの反対側の壁の大部分を占めている。いや、アクアリウムのホログラムか?


 高槻さんが下座のソファーの中央に当然のように座ったので、俺は後ろに控え、長谷川 葉子に上座の席を勧めた。

「それでは、改めまして、事件についてお聞きしてもよろしいですか?」

 長谷川 葉子が席に着き、一呼吸するのを待ってから、高月さんがそう切り出す。

 捜査の基本は、同じことを何度も質問することだ。心理テストでも同じだが、嘘がある場合は説明が徐々に異なってくる。長谷川 葉子を疑っているわけではない。というか、既に元交際相手を起訴することは上で決定しているんだが、だからこその通常通りの手順で調書を取るということなんだろう。

 移動中の遣り取りで、適度には高槻さんと打ち解けていたのか、彼女はあまり迷わずに「はい」と、頷いていた。

 頷く彼女の頭が完全に上がってから、頷き返した高槻さんは、ゆっくりと一字一句を丁寧に話し始めた。

「では、そうですね……事件当日の二十六日に何があったのかについて、覚えているところからで結構ですので、お話願えますか?」

「はい」

 もう一度、先程と全く同じ動作で彼女は短い返事をして、それから視線を斜め下に降ろし、悩みながら、最初は途切れながら、ゆっくりと過去を語り出している。


 最初は、……そうだな、普段の事情聴取でも、それが普通の事ではあるけど、ゆっくりと、時系列を多少前後させながら、彼女は話し始めた。

 日常をしっかりと記憶している人間はとても少ない。

 だから、語り始めはどうしてもそうなる。

 だけど、ある程度を過ぎた頃から、記憶を完全に思い出すのか、流暢に話し方が変わる。

 長谷川 葉子はその典型のようだった。


 訥々と殺害当時の状況を話す彼女の話を適当に聞き流しながら、証拠発見に繋がりそうな幾つかの部分を拾い上げ、手帳にメモをする。もっとも、この遣り取りは記録されているんだから、しっかりとしたメモなんて本当は必要ないんだけど。なにもしていないという状況が好ましくなかったから、手を動かしてるだけだ。後は、目の前の相手に対する威圧。

 勿論、自供だけで立件は難しい。

 ただ、犯行時刻の容疑者の現在位置の供述に矛盾があり、殺害現場の自宅との間にある監視カメラなり目撃証言なりを虱潰しに当たれば、切っ掛けは掴めるだろう。

 ……もっとも、そんなのは、彼女の自供が無くとも、始められないこともない仕事なのにな。

 要は、お偉いさんの実績作り、なんだろう。

 彼女は、確かに旦那に殺され、その死の状況も非常に微妙なものであったが、その二つの事は、より大きな目的の為、第三者に利用されることになった。そういう背景を理解してしまうと、やっぱり釈然としない、というのが、この事件に対する俺の本音だった。

 もっとも、どの業界でも仕事なんてのはそんな理不尽なモノばかりらしいけどな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る