別れ道

 あの人について覚えていることは沢山ある。

 野菜は好きじゃなかったけど、肉もそれほど好きじゃなくて、魚が好きだった。それも、刺身よりも焼き魚を好んでいた。休日でも六時には起きて、土日の家事は彼が率先して行っていた。

 平均よりは少し背が高かったのに、腕も足もほっそりとしていて長く、華奢な身体をしていた彼。私と比べてもとても大きな目をしていて、どこか中性的な容姿をしていた。

 だからなのか、結局、四十になっても彼はあまり老けた印象が無く、だけど、穏やかさの中に独特の凄み……というか、覚悟というか、ともかく、そういった存在感――いや、そんな表現ではなく、そう、あまり、良い意味では伝わらないのかもしれないけれど、微かな威圧感にも似た雰囲気をまとう人だった。

 私は彼を愛していたけど、時々見せる虚無的な威圧感は最後まで馴染めなかったと思う。

 今にして思えば、どうしてそれを分かろうとしなかったのか、という後悔しか出てこないけれど。


「あの……」

 受付の若い女の子に声を掛けられ、私はゆっくりと視線をその子へと向けた。

結城ゆうき かいさまが起きられましたら、お呼びしますが……」

 受付を済ませてからも部屋から出て行こうとしない私を不審に思っているのが丸分かりの表情で、彼女はそう告げた。

 改めて時計を見れば、目の前の女の子が少し前に似たような台詞を言うのを聞いてからもう三十分が経っていたし、ここまで来たら一度引いても大差ないと思い、少し意固地になっている気持ちのままで私は答えた。

「すみません、待ちたいんです」

 そうですか、と、ちょっとしょんぼりした様子の女の子。

 小さく、胸の中でゴメンなさいね、と、今日一番の貧乏くじを引いたのであろう彼女に謝る。

 私にも、時間が掛かることは分かっているし、ここにいたってすることがないことも分かっている。

 でも、部屋の外には、あの人の同級生やご両親が居るのだから、出て行くことは出来なかった。

 その中に居れるほど、私は図太くなんてない。


「……あ」

 不意に受付の女の子が声を上げた。

 驚くような声だったから、私は弾かれたようにその子を見つめてしまう。

「あ、いえ、すみません。結城 海さまがエレベーターに乗られましたので、もう、あと、数分でいらっしゃいます」

 予想通りの言葉が聞こえてきて――、少し……怖くなる。

 多分、私の中には、会いたい気持ちと同じくらい、会いたくない気持ちがある。

 私がすることは、とても残酷な告白なんだと思う。

 でも、それでも、あの人は、もう、この世界に居ないのだから……。

 だから、きっと、もう、仕方ないんだ――。


 長ったらしい書類は、もう、随分前に済ませた。

 本当は、彼と再会してから書く部分もあったのだけど、捺印待ちの状態まで仕上げることを大目に見てもらっていたので、もう、することなんてひとつもない。

 だから、この、手持ち無沙汰な時間は、余計に私を不安にさせた。

 いや、不安なんて、穏やかな言葉じゃ、きちんと表せていない。

 そう、本音を言うなら、凄く、逃げ出したい。

 たった五時間逃げ切れば、彼とは会えなくなる。もう二度と。

 でも、それは出来ない。

 逃げられるだけの強ささえも、私は持っていない。

 嫌だ! ……会いたくない。

 嫌だとか思っている自分も嫌だ。

 ……結局、いつも通り、ぐだぐだに悩んだ末に状況に流されてしまう。

 今だって、そう。

 私の心の中がまとまらないうちに、エレベーターは止まり、ドアが開く。

 彼は、すぐにそこから出て来てしまった。


 微かに首を傾げるような仕草をした彼。

 目にギリギリ掛からないほどに長い前髪が、さらりと流れている。服装は、漠然と白装束をイメージしていたけど、目の前の彼が着ているのはそんなあからさまな服じゃなくて、いつもの愛用のスーツ姿だった。

 ちょっとだるそうな顔をした彼は、私を見つけるなり、いつも通りに少し勝気に笑って――。

「よお!」

「……よぅ」

 彼の癖が移った陽気なはずの挨拶だったのに、今は昔みたいに――結婚して、一番幸せだった時のようにはいかない。

 あからさまに緊張しているのが分かる自分の声に、微かに、自嘲してしまう。

 なんなのだろう、私は。

 三十も終わりかけの今になって……自分が何もしないでも、誰かがなんとかしてくれると、そう思っているんだろうか。

「気にすんなよ」

 私が元気が無い理由を誤解した彼が、優しく言った。

 首を振り、違う、と、心の中だけで叫ぶ。

 口に出す勇気はない。

 違う、違う、そんなに、私は、優しくない。

 そう、心の中で繰り返せば、彼なら……。

 思った通り、いつもみたいに気付いてくれた彼が、聞く体勢を取り――話しやすい空気を作ってくれた。

 勇気は出ないままだった。それでも、大きく息を吸って――。

「ごめんなさい……他の人を、好きになってしまったの」

 長い溜息のように、一息で私は言った。


 彼の居ない二年は、これまでに経験したこともない色々なことがあって、あっという間に過ぎてしまっていた。

 悲しみに耽ることも出来ないまま、矢継ぎ早に葬儀の手配や、彼の会社への連絡をし、退職などの手続きを済ませ、その後も、保険金なんかの煩雑な手続きの山と向き合っていて。言われるがまま、書類に捺印とレ点を打ち続けたが、よく分からないことばかりで、きっと、我ながら要領が悪かったのだと思う。

 だから、結局、彼の再生の日取りを決めるのに、二年も掛かってしまっていた。


 そして、そんな日々の中で、私を気遣ってくれた高校の頃の同級生に、プロポーズをされた。ずっと昔から好きだった、と。

 月並みな言葉だったけど、弱っていた胸には響いた。それに、多分、この人なら私を今後も助けてくれるって……そんな、打算も。特に記憶に強く残るタイプの人じゃなかったけど、とても誠実な人だったから。

 悩むぐらいなら、心変わりを伝えるべきじゃないかと助言してくれたのも、相方――今の恋人のしゅんだった。そうすれば、きっと、罪悪感は減るんじゃないかな、と。

 もっとも、私のためと言いながらも、峻自身の独占欲が、前の男を意識して不機嫌になったりすることに、気付いていないわけじゃなかったけど……。言葉にされたわけじゃないけど、専業主婦にさせるんだから、他の男は近付かせるな、って思っているんだろうな。

 誠実である分、それをこちらにも求めるのが、海とは違う。


 そんな、色々な思惑が重なって、きっと、私はここに居る。

 一番最初に感じていたはずの『好き』を、置き忘れたまま。

 悲しさはあるけど、もう、三十代の最後に差し掛かった私は純粋なままではいられなかった。

 そんな打算を持ったまま、変わらない彼の前に居ることがひどく滑稽で、空々しく、虚しかった。


 長い間が開いたけど、彼は、淡々とした様子で返事をした。

「そうか」

 怒っても悲しんでもいない、いつもの声だった。

 ごくごく平坦な声で一言答えただけだったので、続く台詞があるものかと思って私は身構えてしまったけど、彼が口にしたのはそれだけだった。

「それだけ?」

 ホッとしたというよりも、拍子抜けした気持ちの方が強くて、訊かなきゃいいのに、そんな台詞が口を衝いて出てしまう。

「もう決めたんだろ?」

 不安を隠せない私を見て、からかういつもの表情で彼は訊き返して来た。

「……うん」

 すぐに肯定できなかった私は、ワンテンポ遅れて頷く。

「じゃあ、仕方ないさ」

 彼は、肩を竦めておどけた調子でそう言った。

「……うん」

 私は、馬鹿みたいに同じ台詞を言ってしまう。

 そんな私の様子に、彼は、少しだけ寂しそうな目をした。


 彼は、私の心変わりの理由を訊かなかったし、彼自身が死ぬまで隠していたことも言わなかった。

 最初から、この人はそうだ。今、必要なことをしてくれるけど、対処療法で安心させられるだけで、大事な部分は決して見せない。本音を無理に引き出そうとしない。きっとだから私の甘え癖が酷くなった。

 彼がクラインフェルター症候群だったことを、私は、もう知っている。病気のかかりやすさとの因果関係には不明な点も多いけど、彼の場合は、心臓疾患に掛かりやすかったのは、それが遠因だったらしい。十年程度の結婚期間だったけど、その間に子供が出来なかった原因も……。

 人工授精なら道はあったのかもしれない。

 でも、彼はなにも告げずに私との日々を過ごし、足早に去って、逝ってしまった。

 子供が居れば、私は――、もっと、違った今を歩いていたのかもしれない。

 いや、どうなのかな? 子供が居れば、今度はそれを理由にしてしまったかもしれない。一人でする育児なんて、きっと耐えられない。そんな途方もないこと、想像するだけで、足が竦む。

 だからなのかもしれない、お互いにしっかりと子供の話をしなかったのは。


「ははは」

 叱られている子供みたいな気分でいた私に、不意に笑い声が降って来た。馬鹿にした感じじゃない。責めてる色もない。なんとなく漏れたというような、本当に些細なことで噴き出してしまったというような、明るい笑い声が。

「どうしたの?」

 あまりに意外な彼の反応に、戸惑ってしまう。

 今日までずっと、こんなことを言ったら、きっと彼は怒ると思っていた。

 いや、むしろ、怒ってくれることが正解だと思う。

 喧嘩別れなら、多分、私はもっと簡単に自分を許せる気がする。駄目な理由を、彼に責任転嫁することで……。


「いや、最後の最後に離婚を言い渡されるとは思わなかったから、少し驚いたし……なんか、こう、……済まん、上手くいえないけど、これはこれで独特の面白さがあると思って、ね」

 スッと目を細めて私の表情を窺った彼は、それからすぐに軽い口調で付け加えた。

「責めてるわけじゃないさ。気にすんな。女の恋は上書き式なんだろう?」

「それでも……」

 反論しようとした口は、それ以上は動いてくれなかった。

 反射的に出てしまった台詞に続けられる言葉を、必死で捜したけど……私の少ない語彙じゃ見つけられなかった。

「キライになったわけじゃないよ」

 自分から、次へと進むことを決めたのに、今も好きだよ、なんて、言えるわけがない。

 決して。

 でも、そんな私の玉虫色の答えに、彼は、別段、気を良くした様子も悪くした様子もなかった。

「ありがとう。だけど、そういう台詞は、相手に悪いし、額面通りには受け取らないでおくよ」

 ただ、いつも通りの――私が好きだった頃のままの彼の言葉が返って来た。

 斜に構えているっていうか、悟っているのに敢えて皮肉っぽい言い草をしたりすることも多くて、そんなちょっと今風じゃない反骨精神も、私は好きだった。

 だから――、彼のそんな態度につられて、言わなくて良い余計なことを、つい、いつものように訊いてしまっていた。

「あ……。荷物とか、どうしよう?」

 急に出た現実的な問題に、彼は少しだけ苦笑いした。

 付き合いだした当初から面倒なことは、いつだって彼任せ。年上の彼氏は、やっぱり頼りになるな、なんて、安易に調子に乗った気持ちでいた私。

 だからなのかな、油断すれば、もうなくなった日常に依存したままの私が顔を出してしまう。

「要るものはそのまま使っても良いよ、俺にはもう必要ないし。要らない物は、形見として俺の実家に送ればいいさ、親には後で言っとく。ああ、あと、貯金は、二人で溜めたのは全額知香が貰って。それ以外の俺の貯金は、半分だけを俺の親に。保険金は生前の契約の通りに」

 苦笑いを浮かべたままだったけど、まるで訊かれることを予想していたかのように、淀みなく彼は答えた。

「うん……」

 彼は……こういう時、とても強い。やらなきゃいけないことの優先順位をつけるのが上手かったし、仕事も、とても効率的にこなしていたのを知っている。

 準備は、いつも、手抜かりが無かった。

 ……こんな事まで、万全じゃなくてもいいのに。


 彼と比べて、いざという時、ずっと弱いままの自分が嫌になる。

 昔から、ずっとずっとそうだった。やることが山積みになると、それだけで目が回る。ひとつひとつ処理していくしかないのに、最初の山を崩すのを躊躇ってしまう。

 他の誰かが、手伝ってくれるのを待ってしまう。

 追い詰められたらやれるって訳じゃない。むしろ、追い詰められると、意気地なしで泣き虫の地が顔を出してしまう。

 彼に助けて貰う権利は、もう私には無い。

 それなのに……。

「そんな、しょんぼりするなよ」

 泣いたら、ずるいのは、分かっている

 でも、ダメだ。

 耐えることも、抑えることも、私には出来ない。

 うん。

 私はずるい。

 そう開き直っても、余計に惨めになるだけ。

「……うん」

 なにに対してだか分からない返事をして、ただただ頷く。

 どうして、彼は怒らないんだろう?

 どうして、彼は死んでしまったのだろう。

 どうして!

 どうして……。

 どうして、私が、この歳になって、こんなにも迷わなくちゃいけないんだろう。


 頭の中がぐちゃぐちゃになって――。心の中にあった、そんな本音に不意に鉢合わせてしまい……心臓の奥が痛くなる。

 私は、その程度なのか……なんて。

「だから、いつまでもそんな顔するなよ。虐めてるような気になるだろ?」

 ちょっとおどけて語尾を上げながら、慰めるように、私の頭に彼の掌が――。

 彼の手は、私にはもう乗らなかった。細くて少し冷えたあの指先が頭を撫でる感触は、もう味わえない。

 彼の気配を、少し、さっきよりも遠く感じてしまう。

 それだけで、もう、私は限界だった。

「無理だよ」

 さっきまでは零れ落ちる程度だった涙が、一気に溢れ出してしまった。

 彼は――、彼にしては珍しく、どうすればいいのか、迷っているみたいだった。

 少しだけ悲しそうな顔をして、私をじっと見つめている。

 その目は、なにかを尋ねているようにも見えた。

 でも、今更なにを私に問い掛けているのかなんて、理解できない。

 私の中にある迷いが、彼の表情に映ってそう見えているだけだとしても、自分の中にある疑問になんて、気付けない。気付きたくない。


 子供みたいに泣きじゃくる私。

 今になって、彼という存在を喪失したことに対する純粋な悲しみが止め処なく湧き出していた。

 彼の訃報を聞いた私は、なにも分かっていなかった。

 死んでしまうって、本当は、こういうことだったのに。


「ある皇帝の残した言葉を知ってる? 『この喜劇で私は人生という自分の役を上手く演じたと思わないか?』そう彼は息子だか親友に尋ね、最後に更に付け加えるんだ『この芝居に満足できたのなら、どうか拍手喝采を』」

 結婚していた時のような手段で私を安心させることが出来ないと悟ったのか、彼は、ゆっくりと語り始めた。

 この話し方、どこかで聞いたことがある。

 ……ああ、そうだ、彼と知り合って間もない頃、デートの時に、ちょっとした薀蓄を披露する時の彼の癖だ。

 それで? と、あの頃みたいに上手く言葉で訊けなかった私は、小首を傾げて彼を見上げる。

 ふ、と、虚無感と威圧感を秘めた笑みを口の端に乗せ、彼は傲然と言い放った。

「その皇帝に俺は共感する。俺は俺として俺の人生を生ききった。幕はもう降りた、良い人生だった。だから――。知香は、俺が想像も出来ないくらいの良い人生を送って、ずっと未来に驚かせてくれ」

 目を細めて笑う彼は、まるで別人のように傲岸不遜だった。

 それこそ、まさに、彼が引用した皇帝を想起させる表情だと思った。


 生前の彼に感じていた違和感の正体が、少し、解った気がする。

 年下の私を、きっと、彼はとても大切にしてくれていたのだろう。

 今更、そんなことに気付くなんて……。


 ひとつ、大きく息を吸う。

 その一拍後、涙を強く袖で拭い、私はドアを指差して言った。

「ご両親と、高校と大学の友達が、外で待ってる」

「そうか、じゃあ、顔を見せてこないとな」

 まるで近所のコンビニに行くような気安さで、私に背を向けて歩き出した彼。

 最後のお別れなのに、なんて思ってしまったけど、それを最初に台無しにしたのは私自身だ。

 きっと、彼は、もう、私との別離を受け入れてしまっている。

「海……バイバイ」

 私は、ようやく彼に、私自身の意思と言葉でさよならを告げた。

「おう、じゃあな」

 彼は振り向かずに右手を上げて応え、そのまま開いたドアの向こうへと消えていってしまった。


 彼が見えなくなった時、涙はもう枯れていた。

 心の奥まで空っぽになってしまったような気がする。


 でも!

 それでも私は生きていくしかない。

 彼の喜劇を見終えた観客がそのまま私を観たとしたのなら、浅ましいとか自分勝手と罵られるだけだろう。自分でも分かってる。でも、私は新しい生活の灯を点さなくてはいけない。私には、命が残っているのだから。


 私の世界に、彼は、もういない。

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