夏の幽霊

 これは私が始めて“彼”に会って“恋”を知った、中学最初の夏の昼下がりのことです。そう、あれは気の早い三年の先輩が部活に来なくなりだした、八月の――その季節にしては珍しく涼しげな日でした。

 二十一世紀も後半戦になったとはいえ、世の中には怪談と呼ばれるものがまだ普通に信じられており――量子コンピューターで魂を呼べるようになったのに、幽霊が怖いというのもなんだか不思議な話ですが――、こんなお盆が近付く日には古臭いノイズの混じった心霊テレビ番組というモノが、何十年もの眠りから覚めて……そうまるでゾンビのように氾濫しますし、最近では通常ではない機械の挙動に霊が憑いているかを調べる動画も人気ですよね。

 心霊写真、なんて素敵じゃありませんか?

 なぜ、デジタル機器では撮れないのでしょう?

 大人は、存在しないから、なんてロマンの無いことを言いますが――。

 コホン。……話が逸れましたね。

 あの頃の私も、世の中学生の多分に漏れず、そうした摩訶不思議な世界を、時に笑い飛ばし時に強がったりしながら語り、そして、その日の夜には寝付けずに布団で震えるという矛盾を楽しんだりしておりました。

 そんな寝不足の夏の日でした。

 寝不足ではありましたけど、幻なんかじゃないですよ。

 あの人は、確かにあの場所にいらっしゃったのですから――。


 お友達と図書室で宿題をした帰り道だったのか、それともなにかつまらない忘れ物を取りに行った日だったのか、今となっては、なぜ夏休みのあの日に学校にいったのかは覚えておりません。ですが、教室から下駄箱へと向かう廊下の窓からなに気なく見おろした校庭の端の桜の木の下に、陰のように真っ黒な制服の男子がいるのに気がつきました。

 学校指定の灰色のブレザーではなく、かといってジャージの色はもっと青っぽい紺ですし……。それが、この辺りの学校では目にする機会の少ない学ランだと思い出すのには、瞬き五回分以上の時間が掛かったと思います。

 その間も微動だにしない学ランの男子は、運動部の練習を横目にボーっとしているように見えます。

 クラスメイトの女の子は、男子とのお付き合いに並々ならぬ関心がありましたが、私はどうにもそんなことよりもオカルトに惹かれてしまって、顔が良い男子や、勉強が出来る男子や、運動が出来る男子には興味が持てませんでした。

 ……なのに、なぜ、だったのでしょうね?

 少し暗い顔で、寂しそうな笑みを口元に張り付けたようにしてグラウンドを見ているあの男子が、どうしても気になってしまったのは。


「なにをしていらっしゃるのですか?」

 と、校庭に出た私は、日差しの中でも出来るだけ汗をかかないようにと、のんびりとした足取りで近付いて尋ねました。

 ゆっくりと近付いたのは、女子としての身だしなみだけではなく、もし不審者なら学校の生徒が近付いてくれば、逃げると思っていたからという理由もあります。襲われるとは思いませんでした。声を出せば、運動部の男子もそのコーチをしている先生も、すぐに来てくれるような場所でしたから。

 ちなみに、敬語だったのは、私よりも背の高いその男子が先輩だと思ったからでした。ですが夏なのに日に焼けていない白い顔は少し幼くて、同級生かも、と、思ったのは声を掛けた後のことでした。

 その男の人は小首を傾げ、しばし思案げな顔をした後、くしゃりと笑って答えてくれました。

「冥土の土産を探しております」

 その瞬間、炭酸の細やかな泡のような爽快ななにかが私の中を駆け抜けた気がしました。

 なんと素晴らしいことなのでしょう!

 私は、今だかつてこのような興味の惹かれることに出会ったことはありません。不思議体験に憧れつつも、そんなものはもっと、こう、選ばれた人だけが体験出来るモノだと半ば諦め、だからこそ二次元に学業以上の情熱を傾けておりましたのに。


「お供させていただきます」

 気付いた時には、そんな申し出を口にしておりました。

 ピョンと、腰を九十度ぐらいのつもりで折ったら、視線の先にはこの人の足があります。今時の幽霊は、足は透けないんですね。量子コンピューターの悪戯なのでしょうか?

「よろしいのですか?」

「もちろんです」

 即答する私が手を差し出すと、彼は躊躇いながら――。

 やはり、私と彼は触れ合うことは出来ませんでした。握手はお互いをすり抜け、空気と同じ温度しか手の中にはありません。

 幽霊は冷たくなんてありませんでした。

 苦笑いする彼を他所に、面白いことになってきた、等と、馬鹿だった子供の私はウキウキとしておりました。なぜならば、当時の私は死んだ後の事に並々ならぬ関心があり、なんとかして死後の世界というモノを起きた方に伺う機会は無いか、と、悪知恵を日頃から働かせていたのですから。

 ただ、そんな誰もが思うありふれた質問は、大人達によっていつも邪魔されるのです。

 そんな失礼なことを聞くものじゃない、と。

 じゃあ、貴方は疑問に思わないのですか? と、何度言い返そうと思ったことか。


「制服、変わったんだ?」

 両の拳に力を入れて決意を新たにする私に、不意に彼が尋ねてきました。

「はい? あ、そうですね。最初、私、てっきりアナタが他校の人なのかなって」

 慌ててパタパタと自分の格好を確認します。変なところもないと思うのですけど……。はい、まあ、多分十人並みにちょっと届かないぐらいの容姿の女子が、きっと彼の目には写っていると思います。より正確には、十人並みと表してしまうと、その半分以上が私の頬を抓りそうな顔の男子の目に。

 スッと彼の視線が上に向けられます。その先を私も慌てて目で追えば、赤い煉瓦で大学のようにも見える校舎の天辺が見えました。

「校舎が建て替えられたのって――」

「確か、二十五年前だったはずです」

 校長先生という、なにもしていないけど偉そうな先生の長い話を懸命に思い出して答えます。

 ふ、と、彼の口元が優しくなりました。

「僕が死んですぐの頃、か」

 その時、おや? と、私は彼の話に少し引っ掛かりを覚えました。

 量子コンピューターで起きられるのは、衛星によって地球のエネルギーの異動の全てを観測されることになった後にお亡くなりになった人だけのはずです。でも、全ての衛星が打ちあがったのは、およそ十年前の話のはずなのに……。

 まじまじと彼を見つめると、照れたようにそっぽを向かれてしまいました。

 それに構わずに私は彼に一歩近付きます。

 若作りのお兄さん? とはいまひとつ呼べそうに無い肌の張りと、女の私よりも艶やかな睫に眉毛。短い髪は猫ッ毛なのか、ちょっとペタンとしておりますが、そんなに年上には見えません。

 はてさて?


「嘘は言ってないよ」

 投げ掛けられた、心の中を読まれたようなお返事に、慌ててブンブンと首を横に振ります。

 ここまできて機嫌を損ねるわけにはいきませんし、なにより、実際にすり抜けられるのですから、幽霊であることは疑うべくも無い事実です。

 例え真昼の幽霊という古典的法則の外側にあるとしても!

「あの! 三駅先の【墓所】の【塔】からいらっしゃったのですよね?」

 質問する私の顔を真っ直ぐに彼は見て――、本当に分かっていない様子で小首を傾げられました。

「うん?」

 …………。

 ええと。

 いえ、じゃあ、彼はもしかして機械のおかげじゃなく、純粋な……本物の……幽霊⁉

 なんということでしょう! なんという僥倖!

 考えがまとまる前に、私は叫んでいました。

「死後の世界について教えてください!」

 彼は短くない時間、答えてくれませんでした。質問を急ぎ過ぎたかな、とか、気を悪くしてしまったのかな、なんて考えが頭の中をぐるぐる回り始めた頃、同級生なんかと比べ物にならないぐらい落ち着いた声が聞こえてきました。

「いいよ……でも、条件がある」

「なんなりと!」

 ずい、と、顔を突き出しますと、負けじと彼も顔を突き出し、お互いの鼻が重なる距離――比喩表現ではなく、実際に幽霊の中に私の鼻が潜り込んでいます! ――で私達は見つめ合いました。

 あとほんの少しでキスされてしまう距離でしたが、私は慌てられませんでした。だって、そうじゃないですか? 触れられないのに、キスをした、だなんて思えませんよね。

 案の定、照れに負けたのは彼の方でした。

「デート、しよう」

 一歩分、後ろに下がった彼が、ひと刷け紅くなった顔で呟くように言いました。

「……でぇと?」

 声の小ささもそうですが、馴染みの無い言葉に、思わずオウム返しで答えてしまいます。

 いえ、意味は分かるのですけど……。

「うん。最後に今の母校を見ておきたいんだ。学校デート」

 米印みたいな口になってしまう私に向かって、彼は悪戯っぽく笑いながら邪気たっぷりの無邪気な仕草で先に校舎へと向かって歩き始めました。


 昇降口に入ると、途端に涼しくなります。外壁のトリョウがニッコウとハンノウしてカベのヨゴレをタテモノガワのネツでブンカイしつつソトのネツをダンネツするからです。ええ、受け売りなので科学の苦手な私にはいまひとつピンときておりませんが。

 そういえば、幽霊は暑さ寒さを感じるのでしょうか?

 彼を何気なく観察しますが、あまりそういうのには頓着しなさそうです。夏場でも長袖で汗ひとつかいておりませんし。

 ――と、私の視線に気付いた彼が、どうしたの? とでも尋ねるように小首を傾げました。

「どこに行きたいんですか?」

「どこにでも。キミが行きたい場所へ」

 無責任な一言に、むふう、と、頬を膨らませます。

「それって、デートで男の人が言う一番駄目な台詞のはずですけど?」

 私の雰囲気に圧されたのか、彼は少し驚いたような顔をした後、ニッと笑って答えました。

「……そうかもね」

 ですけど、どうだ、と、胸を張った私に向かって彼は冗談にしては随分と性質の悪いコトを満面の笑みで言い放ちました。

「でも、僕がキミを案内できる場所が現世にあるのかなぁ」

 一瞬空気が凍りつき――。

「教室とかで良いですよね」

「うん」

 何事も無かったかのように提案する私を、彼は余裕ぶった顔で見ておりました。


 しかたありませんよね。

 だって、オカルトに興味はありますけど、今この瞬間にあの世に案内されてしまいたくなんてありませんもの。誰だってそうです。

 ありきたりではありますが屋上を最終目標にした後、私達はぶらぶらと歩き始めました。


「変わったような、変わってないような、変な感じ」

「どっちですか?」

 廊下の展示物なんかを見ながら、しみじみと変なことをいう彼に向かって、半笑いで尋ねます。

「まあ、学校組織なんて保守的で風通しが悪いのは相変わらずってとこなのかな」

「はい?」

 彼は、随分と難しいことを言いました。

 昔の学生って、皆こうだったのかな、とか、それだったらなんだかちょっと理屈っぽ過ぎて、あと、皮肉が過ぎて嫌だな、なんて心の中だけで考えながら私は彼の隣を歩き続けます。


 そういえば、今考えると不思議なことですが、彼を案内している時には他の誰にも会いませんでした。不思議ですよね。夏休みとはいえ、部活に来る人も多いのに。


 目標は決めておりましたが、元々急ぐ旅ではありませんでしたので、近くの教室をのぞいたり、図書室や美術室なんかもひやかしつつ、の~んびりと私達は歩きました。

 なにを話したのかは、あんまり覚えておりません。

 多分、本当に他愛のない話だったと思います。

 教科書に、この作家のこの小説、まだ載ってるんだ、とか。石膏像のポーズ、もっと斬新にすればいいのに、とか。プリントとかも、未だに廃止されないんだな、とか。

 他にも、美術室にあった上手い作品と下手な作品に勝手な感想を言い合って、私の頭がいいのか悪いのか質問され、逆に訊き返したり、多分、そんな所でしょうね。

 ただ、なんというか――。

 恋愛に興味がある他の普通の女子生徒じゃなくて、恋愛に興味の無いどちらかといえば変人の私が、こんな風に男の人と一緒に歩いているという現実に、不思議な可笑しさを感じていたような気がします。


 全ての教室を覗き終え、最後の階段に足をかけます。

 学校の一番高い居場所へ向かう階段のせいか、横の空間の広がりがあまり感じられなくて、そう、まるで、天国に向かって進んでいるような、そんな気分になりました。

 きっと、隣に彼がいたから、そう感じたのでしょうね。

「屋上出られるんだ……。危なくないの?」

 ガラス戸の向こうの、柵で囲まれただけの殺風景な屋上の広場を見ながら、彼は訊いてきました。

「危ない、ですか?」

 一瞬、幽霊に危ないものなんてお札くらいじゃないかな? と、思ってしまいましたが、少し後で彼が私を心配しているのだと気付き、少し慌てて返事をしました。

「あ、絶対に落ちないような仕掛けが沢山ありますから。それに落ちても、衝撃を吸収するように舗装されているとかで」

「そうなんだ」

 と、彼は答え――。

 す、と、そのまま屋上のドアをすり抜けた彼の後を追って、私はドアを開けてからその場所へと歩み出ました。

 高い場所にも関わらず夏の風が弱く、でも、止むことが無く吹いておりました。

 彼は、ドアから数歩進んだ位置で身体ごと向き直って、真っ直ぐに私を見ておりました。


 風に揺れない髪と服の裾。

 陽の中にあるのに影の無い足元。

 光の加減かもしれませんが、その時、一瞬だけ彼が薄くなったように感じました。


 彼はおもむろに、私に向かって話し始めました。

「死後の世界はないよ。多分、だけど、この世界に魂の場所はあるんだ。量子論では、情報が消えることなんてないんだし。在り方が変わるだけ。お互いに認識できなくなってるだけじゃないのかな。死んじゃった人は生きている人が、生きている人は死んじゃった人が」

 ショックを受けた……とも言い切れないのですけど、彼の言葉に不思議な喪失感を感じました。意味さえきちんと理解出来ていないのに、です。

 で、でも、同じ場所にいるのに、見ることも触れることも出来ない、声も聞こえない、なんて俄かには信じられない話ではありませんか? ジョウホウがホゾンされるのなら、この世界を、なんの影響も与えられなくなった死後、どんな風に生きればいいのでしょう?

 どこかに……、今の彼と私がそうであるように、二つの世界が交わるためのナニかが存在していないと、色々と辻褄が、合わない、と、思います。強く。切実に。

 もう一言を待つ私に向かって、彼は申し訳なさそうに続けました。

「ごめんね、きちんと答えてあげられなかったみたいで」

「いえ……」

 とは言いつつも、がっかりしたような気持ちは誤魔化せませんでした。もっと、こう、不思議で壮大ななにかがそこにはあると、思っておりましたので。

 彼が悪いわけではありませんけど、肩透かしされたような気持ちで足元を見ます。半ば無意識に、右足がつま先で地面をコンコン、と、蹴ってしまい――。

 そんな私に、彼が囁きました。

「でも、ね? 中々に大変なんだよ」

「…………?」

「キミと同じ年で、キミが経験していない死という現実を受け入れるのは」

 穏やかに笑う彼の表情が変わったわけではありませんでした。その奥にある意味を、私はこの時まで気付けなかっただけ。

 覗きこんだ目の奥には、独特の静けさの中の凄みがあります。

 キュウっと心臓をきつく握られたような感覚がして、息が苦しくなってきます。


 怖い。

 痛い。

 不意に、その痛みの暗闇の中で、ある事実を思い出しました。

「――あ」

 いえ、なぜ思い出せなかったのでしょう? その方がおかしいのに。


 だって!

 二十五年前は、世界が大きく変わる切っ掛けがあった年で……。

 隣国の侵攻によって、第二次世界大戦後に初めて日本に戦禍が訪れた年で――。

 終戦までのたった数年間で、当時の若い男性の約十パーセントが、……戦死したのに。


「さよなら」

 それだけを残して消えようとする彼に向かって、ブンブンと私は首を横に振りながら叫びました。

「またね! また……!」

 空気と同じ色になっていく彼の唇が、始めは小さく動きました。声は聞こえませんでした。彼自身もそれが分かったのか、困ったような顔をしながらも口を大きく開けて叫んでくれました。

『うん、また――』

 それが最後でした。

 私が彼を認識出来たのは。

 その時、悲しいのか、なにが悲しかったのかも分からない涙が、私の中から溢れてきました。


 なぜ、魂は物質ではないのでしょうね?

 本当に、何事も無かったかのように、今日が昨日とまったく同じ日だったように、見慣れた風景だけが目の前にありました。


 涙は止め処なく溢れました。

 その日、どうやって家に帰ったのかも覚えてはいません。


 夏の日の白昼夢だったら、きっとそう思えていたら、その方が良かったのでしょうね。私ももう若くはありませんし。

 ただ――。

 おかしな話かもしれませんけど、いつかどこかでまた会える気がするんです。名前も知らないあの人と。

 ……いいえ、死んだ後の話なんかじゃありません。死んだ後のお話でしたら、今、誰とも恋愛をしないで生きている意味なんで無いでしょう?

 ふふ。

 だから、また会うその日まで待ちたいと思うのですよ。

 誰かを愛するということは。

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