いってらっしゃい 後編
日差しはさっきよりも大分傾き穏やかになっていたけど、空はまだ青かった。
どこに行くか慶子に訊こうかとも思ったけど、止めた。無目的にフラフラするのは嫌いじゃないし、どうせ明確な目的地なんて、お互いに持ち合わせていないんだから。
多分、知り合ったあの日からずっと。
なんとなく、郊外へ向かう道を並んで歩く。
今度は手を繋がなかった。
手を繋いで歩いた時間と今の並んで歩いている時間、心の距離はどちらの方が近かったのかと、考えてしまったけど、らしくないと首を振って結論を出す前に問題を頭の外に弾き出す。
今更、誰かを好きになったって、どうしようもないじゃないか。
美術館や、博物館が並ぶ通りに差し掛かり、――ちょうど歩く先に入り口があったという理由で、その中の一軒を指差して俺は尋ねた。
「入ってみる?」
一拍だけ悩んだ慶子が、複雑そうな笑顔で訊き返してきた。
「司はどうです?」
「ちょっと敷居が高いな」
芸術なのか、むしろそれを行き過ぎた悪ふざけみたいな絵が前面に描かれたポスターを見て、俺は苦笑いで答える。
「私も」
同意するように微笑を返した慶子。
じゃあもう少し歩こうか、と、視線で告げると、はい、と、答える変わりに、慶子は右手を俺の目の前に差し出した。
再び起きてすぐの時間には、あんなに簡単に繋げたのに、今は少し迷ってしまい、すぐにその手を取れなかった。
微かに戸惑う俺に向かって、全くぶれずに手を差し出し続けている慶子。
慶子の強気な態度を免罪符に、俺は再び彼女の手に自分の手を重ねた。
解釈の難しい絵を収蔵しているわりに厳かな、――古代ギリシアっぽい? 支柱と細かな彫刻の施された梁のある美術館の壁を横目で眺めながらぶらぶらと歩く。重なった手に、肩がぶつかるような……恋人の距離? で。
難しいよな、と、痛感している。
どうしたらいいのか、とか、どこまでの距離にいて良いのかに悩んでしまう。
見ないふりをしていても、心の奥で芽生え始めた感情が、迷いを助長していく。言葉を交わしていなくても、胸の奥が少し暖かく感じてしまう。
愛おしいと思える、隣にある優しい慶子の気配が。だから、少し……いや、とても、辛い気がする。
博物館街の外れに、ひっそりとそれはあった。
兵器・戦史博物館。
入り口横に野晒しで展示されている野戦砲に反射的に少し足を止めてしまい、何事も無かったふりで足を進めようとした瞬間、答え難いと思っていたことを慶子に訊かれてしまった。
「こういうのに興味はあったりしますか?」
立ち止まり、上目遣いに俺を見た慶子。
「半々」
訊かれて短く即答した俺に、続く言葉を待つような慶子の顔が向けられてしまう、渋々ではあったけど、俺は再び口を開いた。
「目指していた仕事上、多少は知っておくようにしていたけど、普通の子供みたいにカッコイイとかそういう感想は抱けなかったなぁ」
普通の子供が、銃の玩具を振り回している頃は、多少はましな人生にするには、そっち方面の進路しかないって悟っていた。
だから、憧れは抱けなかったし、かといって嫌悪感も抱けなかった。
……いや、好き嫌いでは説明出来ないんだよな。武器は必要なもので、持っている時の心強さはあるけど、敵に使われる分には嫌で嫌で堪らないわけだし。
俺が難しい顔をしているのに気付いた慶子が、答え難い部分を話しやすいようにしようとしたのか、余計困る質問をしてきた。
「司はどういう任務についていたんですか?」
自然な話の流れの中で、出た台詞だと思う。
でも、訊かれて無意識に身構えてしまった。
瞬発的に鼓動が――いや、心臓はもうないはずなんだけど、緊張感が全身を駆け巡る。
「言えないんですよね」
俺が言葉に詰まったことから察した慶子が、ほんの少し拗ねたように口を尖らせてみせる。
深呼吸を間に挟み、気を落ち着けてから俺は返事した。
「軍機だからな」
「わかってます」
とか言いながらも、さっきよりもツンとした態度でそっぽ向いた慶子。
現実は、カッコいい活躍とは無縁なんだけどな、と、皮肉っぽい笑みを浮かべ、慶子のご機嫌を取るように、そっぽ向いた側に移動し、目の前で両手を合わせてみる。
ごめん、それだけは言えないんだ、と、態度で示す俺がちょっと意外だったのか、クスッと笑った慶子は、もう普段の表情になっていた。
言えない話題が多い場所に長居はしたくなかったので、機嫌を直した慶子のてに自分の手を重ね――急かす俺のペースと、慶子の手の動きが上手く合わずに、かなりすり抜け気味だったけど――、俺達は再び歩き始めた。
だけど、歩きながら、武器を意識した時に生じた別の疑問が頭に引っかかっていて――。
「軍人、嫌だったりしない?」
今更かとも思ったけど、歩きながら改めて俺は慶子に訊いてみた。
当たり前すぎて自分では意識できていなかったけど、普通の人は――そう、最初のあの受付の女性のように、職業軍人に対し、ある種、犯罪者を見るような目を向けてくる場合が往々にしてある。自分達が謳歌している自由が、なにによって保障されているのか考えもせずに。
慶子は、俺が軍人と分かっていた上で起こしたんだから、そういう部分は織り込み済みだったのかもしれないけど、子供の頃の友人としての部分にしか注意を払っていなかった可能性もある。
「どうしてですか?」
本当に不思議そうな顔で問い返してきた慶子。
「俺みたいな実動部隊は……なんていうか、その」
直接的に人を殺している、とは言えなくて、でも、婉曲的に……オブラートにそれを伝えられる言葉も知らなかったから、俺は少し言葉に詰まってしまい――。
「普通の人は抵抗があるんじゃないかと思って」
最終的に、核心を除いた台詞で濁してみた。
だけど、俺が言いたい事は充分に慶子にも伝わってしまっていたみたいで、僅かに悲しそうな目をした慶子が、尋ねてきた。
「司は、どうやってそれを納得したんですか?」
「物心ついた時には覚悟してたさ。家庭の事情でね」
重くなり過ぎないように、肩を竦めて冗談めかせて答える俺。
社会の仕組みは複雑だけど単純だ。誰かのなにかを奪わなければ、今以上になれることなんて無い。無限にあるものなんて無い。あらゆる資源は偏在している。
それを知っていたから、だから戦うことにも抵抗はなかったし、その結果が、自分か相手の死だとしても、仕方がないって思ってた。
うん……仕方がない。
だって、稼ぎが無かったら――食っていけなくなったら、結局は死ぬわけだし。
「そうですか」
案の定、少し寂しそうな顔で肩を落とした慶子。
「……そういう人間は、怖いとか、嫌だとか思わない?」
改めて問い直してみると、慶子は一瞬だけ困った顔になり、でも、すぐに不貞た顔で言い切った。
「私は、司を信じてるんです。司個人を。職業とか、経歴とか、そういうのじゃなくて」
「そっか……。まあ、ただ――」
一部、慶子が自分自身に言い聞かせているような色もあったけど、それでも、はっきりとそう言って貰えたから、口が滑りかけた。
そこから続く、あまり言わないほうが良い台詞に気付いて口を噤む俺だったけど、ここまで言いかけて止めるのもどうかと思い、可能な限り耳に残らないような声の大きさと調子で、早口で流した。
「好きな人に対してだけは、誰よりも優しくするつもりだけどな」
その優しくしている相手までは明言しなかったけど、慶子も気付いたと思う。
言い終えた後、かなり心臓がバクバクしているような感覚がある。意識は確かに脳に宿るものだけど、こうして死後も緊張を如実に伝える辺り、胸にも感情をつかさどるなにかが宿っているのかもしれない。
少しは心が落ち着いた後、慶子がどう受け取ったのかが気になり、横目で様子を窺ってみる。
慶子の方は、発言が不意打ち過ぎたのか、それとも優しくされている認識が無かったのか、ちょっとポケッとした顔をしていたけど、視線に気付いたのか顔を俺の方に向けた。
その瞬間、少し照れた俺の視線に気付いたみたいで、更にその一拍後、意味を概ね正確に理解してしまった慶子は、顔を真っ赤にした。
「え? 司、今、なんて言いました?」
詰め寄ってくる嬉しそうな表情は、明らかに聞こえていたことを証明している。
この表情は、もっと直接的な台詞をねだっているんだと思う。
でも、流石にそこまでは……。
「駄目だ。これ以上は言ってやらない」
この話はお仕舞い、と、薄く目を閉じてちょっと早足で歩く俺。
「ねえ、司。私が、高卒でバイトで生計立てるような生活で良いから、ずっと一緒に居たいって言ったら、そうしてくれました?」
さっきの話題に未練たっぷりの様子で、慶子は俺の横に並び、見上げるようにして俺の顔を覗きこんできた。正面から向き合おうと、ちょっと顎を引いて斜め上から慶子の顔を見れば、視線がぶつかった一瞬後で、不貞たように顔を背けられてしまったけど。
多分、本人的には、質問にさりげなさを装ったつもりなんだろうけど、バレバレなのがちょっと可愛い。言わせたい台詞までが、透けて見えるようで。
確かに、将来を消去法で決めたのは間違いないし、さっき言った言葉も嘘じゃないけど、ちょっとそれはあまり愉快な未来には思えなかった。両親が新型コロナ世代で、低収入に起因する喧嘩が絶えなかったからそう思うのかもしれない。
……そうだな、なんていうか、慶子にはもっと満ち足りた場所で幸せに生きて欲しいと思ってしまう。子供扱い、というかお姫様扱いというものなのか、上手く説明できない感覚だけど。
「それは無い」
俺が断言すると、プクッと頬を膨らませて不満をアピールした慶子。
非難してくる目には、さっき、好きな人には優しくするって言ったくせに、という慶子の心の声がはっきりと描かれており、その現金な反応が可笑しくて俺は少し笑った。
「自分らしく生きれなきゃ、きっとどっかで壊れるよ」
喫茶店の時とは違い、優しく、掌を添えるように、ゆっくりと慶子の髪を撫でる。
表情は随分と懐柔されてきたので、そろそろ良いかな? と、思い、目を覗き込むと――。
「……私は、司さえいればそれでよかった気がします。司も、こだわりがないなら、それで我慢してくれれば良いのに」
全然納得していない様子で、分かりやすく拗ねた声で呟く慶子。
期待通りに進まない展開に、自然と意地悪な質問が口から出てしまった。
「俺に惹かれたの? 誰かを求めている時にたまたま俺を見つけただけだったりはしない?」
それは、慶子に惹かれ始めた今、心の奥に引っ掛かっていた最大の疑問であり、でも、ここでは深く考えて言った台詞じゃなかった。良い終えてからしまったと思った。
慶子は、確かにこの問い掛けを否定するだろう。でも、状況だけ見るなら、全くそれを否定できないとも思う。そして、その事実に慶子は苦しむだろう。
恐る恐る様子を窺えば、心を抉る一言に、慶子は想像以上に深い傷を受けたみたいで、真っ白な顔をしていた。
「ごめん、聞き流してくれ」
そう告げても、慶子は首をフルフルと横に振って、無理して声を出した。
「本当に好きです」
かなり気落ちした様子で、トーンダウンした声で……慶子は、まるで彼女自身に向けて言い聞かせるように言った。
俺が返事を躊躇っていると、もう一度、さっきよりも細い声で。
「好きです」
「わかってる。そうじゃなきゃ、こんなに執着しないもんな。俺が間違っていた。少し、俺にも不安はあったんだ。だから、ごめん。……ありがとう」
抱きしめるような格好で、からかう色を見せつつも、持てる全ての愛情も込めて慶子の小さな耳に口を近付け囁いた。
「……もう!」
怒ったような短い叫びで気分を切り替えた慶子は、分かってくれたなら許してあげます、とでも言うように、勝気な笑みでベーっと舌を出し、若干は引き摺った顔をしていたけど、それでも良い顔になった。
表情が再び鮮やかになった慶子の髪を、アスファルトを吹き抜ける風がなびかせる。その風を視線で追えば、夕焼けにはまだ少し早かったけど、傾き始めた太陽に気付き、その柔らかな日差しが、今が春だったということを再び俺に気付かせた。
そういえば、春といえばやっぱり桜だよな、と、今更思い、残り少ない最後の時間の行き先として、提案してみた。
「せっかくの春だし、桜でも見に行く?」
「はい」
はっきりとした声で返事した慶子は、桜のある場所に心当たりがあるのか、半歩前を歩き始め、顔だけをこちらに向けて話し始めた。
「あ! そういえば、司は知ってます? この街の外周って公園になっているんですよ」
「へえ……やっぱり混んでたりするかな?」
都内の桜の名所の込み具合を思い出し、微妙な顔になった俺に、ゆるゆると首を横に振って答える慶子。
「そういうのはちゃんと配慮されていますよ」
配慮と言われて、一瞬首を傾げてしまったけど同時に起こす人数に上限を設けているとか、そういうことなんだと分かって、慌てて姿勢を直した。墓地が少なく――手狭になってきて、低価格の蜂の巣型の立体墓地が多い昨今、幽霊で顕現している間ぐらいは窮屈な思いをさせないように、という配慮だろう。
「成程」
もっともらしい顔で俺が頷くと、絡み難い話題を遠ざけようとしたのか、さっきよりも随分と饒舌に慶子が話し始めた。
「東西南北に春夏秋冬が再現されているんですよ。いつ起きた人も、好きな季節をみられるようにって。実は、私の会社が手掛けた事業だったりします」
「エリート企業?」
えへんと胸を張って誇らしげに説明する慶子に、それこそ本当に見た目の印象とのギャップが大き過ぎる、と、思いながらも、それを口には出さずに短く尋ねた。
「人が多いんで、ピンキリです。それに、私の部署は経費の計算とか備品の発注とか、そういうのですから」
ちょっと照れ臭そうに、慶子は頬を掻きながら言った。
しかし、大したこと無いと言っている慶子に「ふーん」と、素っ気無い返事を返すと、ちょっと拗ねたような顔で睨まれてしまったが。
とはいってもな……気のない返事になってしまったのは許して欲しい。いまいち一般企業のシステムは理解し難いんだから。
輜重兵みたいな仕事……なのかな? いや、むしろ、国防省の主計課みたいなものか。となると、背広組のお偉いさんって感じになるけど――。
まじまじと慶子を見てみる。
じっと見つめていると、さっきの不満そうな態度からは打って変わって、急にオロオロしだし、前髪とか耳の周りの髪を――どこも乱れていないのに直すように手櫛で梳いたりして、居心地が悪そうに頬を赤くしている。
なんか、重要な役職ってのは……ありえないな。
とりあえず、普通の事務職というものなんだと思うことにした。
そう結論付けた時、逆襲に転じた慶子が、上目遣いに俺の顔を覗きこみながら訊いて来た。
「司の好きな季節は――」
「冬だな」
訊こうとしていることが容易に想像できたから、最後まで言わせずに俺は答える。
「そんな気がしてました」
やっぱりね、と、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、からかうように言った慶子。
「どうしてだ?」
好きな季節についてなんて話したことあったっけな、と、考えながら――でも、ま、使いやすい話題ではあるし、いつかどこかで話したかもしれないと思い、軽い調子で訊き返した。
そもそもこういう話題は、会話を目的とした会話じゃないし。
お互いの雰囲気や、心のリズムを重ねるためのBGMみたいなものだろう。
案の定、慶子も弾んだ声で答え始めた。
「イメージ通りじゃないですか。冷たいのと優しいのが、解釈が難しいバランスで混じっているとこなんて特に」
そうなんだろうか?
冷たいとか言われるのは自覚があるけど、優しさが人を殺す仕事をしている自分にあるとは思っていなかった。
他人が自分に抱く印象って不思議だな。
ちなみに、そう言う慶子は、春っぽいイメージだと俺は思う。夏と冬みたいな激しさは無いけど、秋ほどの落ち着きはないし。
自分の考えに、自分でクスリと笑ってしまい、はい? と、小首を傾げた慶子に、それを悟られまいとしてなんでもない、と、首を横に振ってから口を開く。
「そうでもないさ」
俺の口から出た否定的な言葉に、慶子はきょとんとした目を向けた。
「部隊じゃ、暇なときに寝てばっかりいるから春っぽいって言われたこともあったし」
「えー? それ、本当ですか? 司の無防備なところって、想像出来ないですよ」
じゃれるみたいに俺の腕に慶子が取り付く。だけど、やっぱり実体を伴っていない俺を慶子は突き抜けてしまい……、でも、それでも近くに居れれば良いと思えるようになったのか、ぴったりとくっついたまま真っ直ぐに俺の顔を見つめている。
一直線に向けられる慶子の好意がくすぐったくて、つい、からかいが口から出てしまった。
「俺は、慶子の無防備な顔、もう何回も見たけどな」
ん? と、意地悪く問い詰める顔を鼻がぶつかるぐらいの距離まで近づけると、目を白黒させた慶子が、一拍後に我を取り戻し、ちょっと拗ねた目で俺を睨んだ。
「……もう!」
可愛らしい慶子の拗ねた顔に俺は少し笑いかけ、詰めすぎた距離を調整し、改めて顔を正面に向けなおす。
目の前には、予想よりも遥かに広い公園があった。
とはいえ、目の前の公園の気候は、春というよりは冬に近い部分であったらしく、残雪と黒土が半々と言った景色で、木々は芽吹く前の冬枯れの状態だった。
でも、左右の景色を見比べると、右側の方が緑が多い気がする。外周が公園で、季節を再現するって、こういうことか。
「福寿草に……向こうの雪解けの黒土にはカタクリの花も咲いてるな」
足元の雪を割って黄色い花を咲かせている花を見、それから、黒土に目立つ紫色の花を眺めて俺は言った。
「博識ですね」
感心したように言った慶子。
軍で教わる内容には、そうした自然科学に関するものも多いし、このぐらいは楽勝だ。最新兵器以外にも、こうしたサバイバル知識も案外役に立つ。
ただ、褒められて悪い気がしないのも事実で、つい調子に乗ってしまい――。
「向こうが春に繋がってるのかな?」
言いながら身体ごと横を向いた瞬間、強烈な光を感じて目が眩んだ。意識が揺さぶられ、強く引っ張られる。足が地面についている気がしない。光の一点が自分を吸い上げていくような、知覚している世界から引き剥がされていく。
激しい眩暈が収まると、目の前には、冬と春の境目の公園の景色が、何事も無かったかのように広がっていた。
今、気付いた。もう時間は残り少ないって。
五時間は目安、なんだよな。
楽しい時間はあっという間に過ぎるって言うけど、そもそも手持ちの時間からして長くなかったんだ。
終わるまでなんか、ほんの一瞬だ。
振り返れば、急に黙った俺を慶子が心配そうに見ている。
大丈夫だ、と、返事をし、意識を確かめるように軽く数回頭を振る。
まだ、まだ持つ、と、思う。
今の慶子の表情から、消える瞬間を絶対に慶子に見せないようにしようと、心に誓った。
慶子は、多分、きっと、強くない。
「スプリング・エフェメラル」
感動していたとか、思い出すのに時間が掛ったというような調子で、冬と春との境界の短い時間にだけ現れる動植物の総称を口にする。
「はい?」
予想通り――というか、期待通りに、分かっていない表情を返した慶子。
慶子の不安を消そうとして、ちょっと得意な顔をして俺は語った。
「春の儚いものとか、春の短い命とか、そういう意味」
映画か何かの影響で、一時期そういう呼び方が流行った時もあったように思うけど、結局は定着しなかったんだろう。慶子の反応を見ている限り、人口に膾炙した言葉では無いように思う。
「儚いもの?」
まだよく分からないといった顔で、訊き返してきた慶子にもう少し噛み砕いて説明してみる。
「本格的に春が来る前に花をつけて、暖かくなって来た頃には、枯れたり、葉だけになったり、死んじゃったりする生物の総称? みたいなものかな」
「ふーん」
含みのある声でそう言って、意味ありげな目で俺を見た慶子。
分かってるよ、慶子が言いたいことなんて。
「命の在り様はそれぞれさ。色んな選択肢があるように見えても、そういう風にしか生きられない人間だっていっぱい居る」
知らないことなんて何一つないと嘯く教師のように、余裕たっぷりに俺は答えた。
「む」
出来の悪いけど可愛い生徒のように、頬を膨らませ反抗的な目を向けた慶子。
無言での視線での攻防戦は暫く続き――、降参? というわけではなさそうだけど、ちょっと落ち込んだ顔になった慶子が膨らませていた頬を萎ませ、まるで独り言みたいに話し始めた。
「なんか……酷い話ですよね。ほんの三十年前までは日本は正式な軍隊が持てなかったっていうのに、あの
それは、俺達が生まれる少し昔の話で、散発的に発生していた金融危機が落ち着いたように感じた正にその時、新型コロナが世界中に蔓延しだした。封じ込めにかかった時間と金は膨大で、新興国を中心にデフォルトが広がり大恐慌が訪れた。
大恐慌後になにが起こるかなんて、誰の目にも明らかだった。あの感染症が、敵味方をはっきりと色分けしていたんだから。
その最中に、日本でも様々な既得権益の切り崩しや、法令・憲法の矛盾を見直す動きが始まり、最終的に――連邦というとかなり語弊があるけど、EUとは若干違う結び付き方で、自由貿易協定を協議していた環太平洋諸国が、貧困によるテロへの不安からより深い結びつきを望んだことで、米国を中心とした国家連合体となった。
そういう出来方を鑑みれば、大昔のドイツの成立の仕方と似ているのかな? 確か、あの場合も、元は貿易の――関税に関する協定から始まっていた気がする。
「ん?」
歴史の解釈はともかくとして、その事実から慶子が言わんとしている意味が分からずに、小首を傾げた俺。
慶子は、分かっていない顔をした俺をそのままに話し続けた。
「知ってますよね? ずっと昔の話ですけど、国防軍が自衛隊だった頃って武装していても戦闘のための作戦行動って、ほとんど無かったんですよ?」
そのことは俺も知っている。というか、歴史の授業でよく出る話だし、日本人なら誰でも知っている。
原因は、憲法解釈と国際法の常識との矛盾、そして、軍隊イコール悪のイメージを流布したマスメディアのせいだ。だから、島嶼部に攻め込まれるまで、守るために戦う必要があるという世界の常識が浸透しなかった。初動の遅れによる民間人の多大なる犠牲と、敵を押し返すために流れた血の量を、当時のリベラル面して軍隊がなければ戦争に巻き込まれないなんて吹いていた知識人は、なんと思うんだろうな。まあ、そう言って回るだけの仕事だった、って感覚で、後悔や反省をするだけの頭も無いだろうが。
そういえば、その頃の名残として、未だに軍学校の制度が他国と比べて独特だったりするんだよな。陸海空の共通の教育課程があるし、そもそもが国防大学を卒業後にも士官となるために幹部候補学校へと進学するんだし。しかも、幹部候補学校への進学も強制ではない。
しかし、今更それがどうしたんだろうと、首を傾げていると、慶子は唐突にポツリと呟いた。
「どうして、なんでしょうね」
誰かに問い掛けるような言葉を、疑問形ではなく、平坦に言い切った慶子。それは、取りも直さず、誰かの意見を聞く必要もなく、彼女なりの答えが出ていることを証明している。
案の定、俺が黙ったままでいると、慶子は続く台詞をゆっくりと口にした。
「もう少し昔に生まれていたら、私達ってもっと違った形で出会えたのかもしれませんよ?」
「今までにあったなにが欠けても、今日ここで会えなかったと思うな、俺は」
あまり良い人生だったとは言えないかも知れないけど、それでも、俺は俺だ。俺と言う意識が今この瞬間に成立しているためには、乗り越えてきた全部が必要だと信じている。
生まれて生きてきた以上、そこに意味をはっきりと認めていたい。
転移も転生も必要ない。
俺はこの世界に生まれ、生き抜き、最後まで自分自身であった。
それでいい。
「例えどんなことがあっても、私達は出会ったと思いますよ、私は」
しれっとした顔で言い返してきた慶子。
この意地っ張りめ。
そう目で告げながら俺が笑いかけると――。
慶子が真剣な表情をしていたから、俺も顔を引き締め、改めて向かい合った。
「人は、いつか死そのものを克服します。それまでの短い充電期間です! だから――!」
言葉を区切った慶子は、強い眼差しで真っ直ぐに俺を見つめている。
瞳の奥を覗き込むように視線を重ねる俺。
「いつか、きっと、私と司は結ばれます!」
はっきりと告げる慶子は、とても綺麗だった。
もう、最初に感じた幼さや危うさは感じなかった。
凛とした……優しくて、強い大人の女性が、目の前にいた。
きっと、もう、慶子は大丈夫だと思った。
挫けても、切っ掛けとしての俺を呼ばずに、きちんと立ち上がることが出来る。
「本当にそうしたいなら止めない。でも、応援もしない」
「じゃあ、期待だけはしていて下さい」
「絶対にこうしなきゃいけない、なんて自分を縛るなよ。恋が一途でなきゃいけないなんてこともなければ、人生最高の恋が一生に一度しか来ないなんてこともないさ」
言っていることは、確かに俺が思っていることだ。
でも、本心は別にある。
まったく、こんな短い時間なのに、随分と魅力的な女性になってくれたものだな、慶子は。
……チクショウ、やっぱり、惜しいな。
こんな良い娘が好きになってくれるんだったら、あの時、もっと違う選択をしていたらって後悔もしてしまう。
だけど……。
俺の命はもう終わっているんだ。
重荷にはなりたくない。
完全な復活の研究はされているんだろうけど、今日明日なんてスパンの話じゃないだろう。慶子が生きている時にそれが間に合う保証もない。
だから、次善の台詞を吐いている。
少しの虚しさを抱えながら。
「変化するってことは、生きてる人間の特権だ。どうしたって心も気持ちも変わるものだし、俺は別になにも咎めはしないよ。キミは自由だ」
俺の長い話を黙って聞いていた慶子は、少し俺が期待していた通り、否定的な言葉で話し始めてくれた。
「それでも……諦めきれずに、変えられないものもあります。そして、それは、今日、永遠よりも強くなりました」
断言したあと、それは、司もそうでしょう? と、確認する……というよりは、分かっていると告げるような表情をした慶子。
ああ、そうだな。
ほんの一瞬だけを共有した相手を、今になって必死で探して、思いを遂げたのが慶子だもんな。
気負うな、自由にしろとか、誰かに言われたところで、自分の意思と反する意見には素直に従うわけがないか。
どうしようもなく一途で、しつこくて、でも時々弱くて、その癖意地っ張りなところもある、本当に良い女だよ! ったく。
完全に心を奪われながらも、強がる俺は冷静に時間を確認する。
時計の長針と短針に、やっぱりな、と、思った。
「さて――、時間だ」
見上げた時計は、五時五十五分。五分前行動の語源は海軍にあるんだし、そもそも俺は最後の瞬間を誰かに見せるつもりはないんだから、丁度良いだろう。
うん、充分持ったと思う。
さっきから指先に痺れのような感覚がある。
もう、そろそろなんだろう。
「後は、俺に背中を向けて、振り返らずに真っ直ぐ走って行け。今のところ二度目のチャンスは無いんだ。……もう迷うなよ」
慶子にとっての奇跡は起きたんだろうか?
俺は慶子じゃないから確信はない。けれど、同じ気持ちを抱いていると感じていた。
この短い時間が、彼女が前に進むための、追い風に再びなれているといいな、と、思った。
けれど、そんな風に油断してしまっていたから、一気に距離を詰め、目の前に迫った慶子に反応するのが遅れた。
慶子がなにをするつもりなのかには、すぐに気付いた。
でも、俺はなにもしなかった。
いや、触れられないと分かっているのに、慶子の背中に手を回してしまった。
距離がゼロになっていく。
大きな瞳、泣き黒子、張りの良い頬、淡い色のルージュを塗った唇。
ほんの一瞬だけ、身体に感覚が戻ったような気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、愛しい相手との最初のキスの全てを、はっきりと感じていた。
たっぷりの余韻を持って離れた慶子の唇。
心の準備が全く出来ていなかった不満をちょっと込めつつ、でも、俺としても凄く嬉しかったので、その感情を織り交ぜながら俺は……やっぱりからかうように言ってしまった。
「いきなりだな」
慶子は慌てた様子で、でも、もう最後と開き直ったのか半ばキレ気味に叫んだ。
「お土産です! ちょっとだけの意地悪です!」
どっちだ?
茶化すような表情を向けても、慶子は後悔のない表情で俺を真っ直ぐに見て、次の要求をしてきた。
「いつか、みたいに、いってらっしゃいって言って下さい」
必死で泣くのを堪えている顔の慶子が目の前にある。
今日だけが特別じゃないことの証として、俺は、ほんとうにいつも通りの声で彼女に告げた。
「いってらっしゃい」
あの日と同じように。
この一言で、慶子の人生が拓けることを祈りながら。
涙を堪えた顔でコクンと頷き、慶子は、俺が言った通りに走って行った。
振り返らず、全力で。
桜の花弁が、ヒラリと身体の中を吹き抜けていく。
黄昏の色が薄くなり、夜の帳が緩やかに降りてくる。
慶子の背中が見えなくなった時、ぼやけていく思考に抗うのを止めて、ゆっくりと瞼を閉じた。
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