いってらっしゃい 中編

 正面の自動ドアを抜けると、パッと見た感じ普通の街並みが広がっていた。栄えている駅前と大差ない作りで、正面にタクシー乗り場があって、林立するビルは百貨店だったり大型の書店だったり、他には――ビジネスホテルっぽいのもあった。

 起こした死者を相手に、ホテルを使う用事があるのか? と、思ったけど、二人っきりで時間を過ごしたいって人もいるんだろう。くだらない詮索はする必要が無い。ただ、見た感じかなりごちゃごちゃした街並みだし、喫茶店を探すのも大変かもなって思って隣を見るけど、仲村さんは迷い無くすいすい歩いていた。

 言っちゃあ悪いけど、ちょっと鈍そうなイメージがあったから、意外だった。

 いや、多分、俺が起きて来るまでにかなり待たされたんだろうな。しかも、親族でも恋人でもないんだから、余計に手間が掛かったはずだ。何度も訪れる内に詳しくなったとか、そんな理由な気がする。

 そして、そういう面倒な手続きを経てまで俺に会おうとしてくれたんだと思うと……嬉しいと言うよりは、少し……悪いなって感じてしまった。会うまでにかなりの手間が掛ったはずなのに、俺の方は仲村さんのことをよく解っていないんだから――。


 十五分ほど歩いて辿り着いた喫茶店は、良く言えば落ち着いた、悪く言えば少し寂れた雰囲気の店だった。マスターやウェイトレスもカウンターや入り口前できちんとしているんだけど、客入りはほとんど無いみたいだし、ごく低い音量で流れているBGMも店には合っているけど他の場所で聞いたことのないメロディーだった。邦楽なのか洋楽なのかさえも定かじゃない。

 入り口が狭く奥行きが広い店内で、作りは地下のバーにも似ている。店内装飾はほとんど――絵もアンティークも、観葉植物さえ無いけど、ほぼ全てが木製製品で統一されているからか、それ自体を一つの装いに感じた。

 入口が、打ちっぱなしのコンクリートに違和感の強い真っ白なドアが付いていて、更にそのドアに木製のプレートが掛かっているだけだったから、中に入ってからのギャップがかなり激しい。一度目の入店が出来るか否かが全ての店だと思う。……利益とか出るんだろうか?

 アンドロイドのような綺麗だけど無愛想なウェイトレスに、奥の四人掛けの席に案内されたから、俺達は向かい合って座ることにした。椅子には座れるのか突き抜けるのかな? と、微かに不安に思って、警戒しながら腰を落としていく。でも、普通の木製の椅子は俺をしっかりと俺を支えた。床と同じ扱い? なのかも。なんの変哲もない椅子に特殊な仕掛けは無さそうだし、この身体を構成している粒子とかエネルギーの流れは、重力の影響だけを反映できる……のかもしれない。俺の学力じゃ、詳しい理屈までは思いつかなかったけど。

 案内した後、そのまま注文を待っているウェイトレスに、俺はいい、とやんわりと首を横に振って仲村さんに視線を向ける。俺の視線に合わせるようにして、ウェイトレスも仲村さんに顔を向けたから、二人分の視線が集中した仲村さんは、恥ずかしそうに縮こまってメニューに大急ぎで目を通し、コーヒーだけを注文した。

 ウェイトレスの背中が充分離れてから、俺は切り出した。

「まずは――、自己紹介からした方がいいんだろうね?」

 俺の事を知っているらしい仲村さんには不要かな? とも思ったけど、一応尋ねてみると大きく頷かれた。

 確か生前に見た番組では、残された人のために『生き返った場合には、悔いや不満を述べるのではなく感謝の言葉を伝えましょう』とかなんとか、偉い坊さんが言っていた気がするけど……生き返った僅かな時間で、自己紹介から始めるなんてのは、前例がないんじゃないだろうか?

 自分の時間の価値を誰かと比較するわけでもないし、別にいいけどさ。

「名前は――知ってると思うけど萩原 司。誕生日は九月十一日で、享年二十九歳、独身。仕事は、特殊部隊の……中尉だった。殉職したし、二階級特進してたとしたら少佐かな?」

 死んだ事実を重く受け取られないように、悪戯っぽく笑い掛けてみる。これは俺の人生なんだ。可哀想なんて思われたくないし、同情されるのもまっぴらだ。

 俺の問いかけに、ちょっと複雑そうな顔で頷く仲村さん。彼女の表情の微かな影は、苦過ぎるコーヒーを口に含んだくらいのレベルだったから、俺もそれを見ないふりすることが出来た。

 そういえば、頷かれたってことは、どうやら本当に二階級特進したんだよな。……しかし俺が佐官、ねえ。なんかピンとこない。最後まで現場にいるつもりだったし。

 ま、幸か不幸か実際そうなったんだけど。

「趣味は読書で、特技は軍隊格闘、好きな動物は猫で、嫌いな動物は軍用犬。あー……他に何か聞きたいことはある?」

 考えてみても他に付け足すべき項目が見つからないから、仲村さんが知りたいことを尋ねてみた。

 でも、仲村さんもすぐには訊きたいことなんて思いつかないみたいで、中途半端な間が開いてしまう。

 内容、素っ気無さ過ぎたかな? でも、ウケを狙えるようなエピソードなんて持ち合わせていないし、トークセンスが無いのも自覚している。昔っから、自己紹介はどうにも苦手だ。

 なにか話さなきゃって焦燥感と、起こしたんだから責任を持ってもっとしっかり計画立てといてくれよって責任転嫁で、気持ちがちょっとささくれ立ちそうになりかけた時、仲村さんが無理に見つけてきた感たっぷりに口を開いた。

「好きな食べ物とか――」

 言いかけて、しまった、と、口を押さえ、バツが悪そうに俺を上目遣いで窺う仲村さん。

 もしかしなくても、死者と会うのは初めてなのかも。若いんだし、多分そうだろう。まあ、こういう場所なんだし、ふと口を衝く話題としてはありきたりなんだろうけど、ね。

「好きなのはケーキ全般で、特にティラミスとか好きかな。コンビニやスーパーのじゃなくて、専門店のなら、尚よろしい」

 仲村さんの態度に気付かないふりして、ロビーでからかった時と同じニヤニヤ笑いで俺は言った。

 驚いた顔をした仲村さん。

 俺の好物が意外だったのか、それともなにも指摘せずに普通に答えた態度が意外だったのか。……むしろ、両方か。

 でも、軍の食事なんて官給品だから、栄養バランスは良いものの、味付けはシンプルだし凝った嗜好品は滅多にメニューに並ばない。日本のレーションは味が良いとかも聞くが、毎日食べて飽きない食事なんてないだろ? 基地の売店もあるにはあるけど、扱ってる品目はかなり偏っている。

 だから、ちゃんとした店のケーキとかが無性に欲しくなる時があるんだよな。

「すみません」

「気にすんな」

 しょげた声の余韻が残らないように、すぐ、そしてわざとざっくばらんに、砕けた口調で答える。

 その時、仲村さんが注文したコーヒーが来た。失礼します、と、微かに言って、仲村さんの前に真っ白なカップを置くウェイトレス。

「砂糖とクリームは、テーブルの端に備え付けてあります」

 促された手の先には、伝票やナプキン、細々した調味料のあるところに、角砂糖の入ったガラス瓶と、小さなゼリーの容器みたいなのに入ったクリームが盛られた小籠があった。

「注文は以上でよろしいですか?」

「はい」

 仲村さんが答えると、小さく一礼してウェイトレスは下がった。

 カップを前に少し悩んだ顔をしている仲村さん。

 喫茶店に誘ったのは俺なんだから、気にしなくても良いって言ってるのにな。

 苦笑いで、どうぞ、と、掌を向けて勧めると、仲村さんはコクンと頷いて、クリームをたっぷり四つ入れ、小さなスプーンでかなり色むらのあるコーヒーの水面をひと混ぜし、静かに口を湿らす程度口をつけた。

 仕草は上品なんだけど――。あの、クリームの個数は無いと思う。素直にカフェオレとか頼めばよかったんじゃないだろうか? 緊張のせいなのかもしれないけど、ネタだったのかもしれない。はたまたいつもそうなのか……。

 そんな風に慄く俺の様子に全く気付かずに、仲村さんは微笑を浮かべゆっくりと話し始めた。

「私は仲村 慶子です。二十九歳ですから、今は同い年で――本当は二つ下ですね。電機メーカーの事務やってます」

 ……意外だった。一番に年齢が。学生じゃないんだ……この容姿で。

 俺の失礼な感想に気付いていないのか、うん? と、いった様子で首を傾げ不思議そうな目を向けてくる仲村さん。

 最初、なんでもない、と、言おうとしたんだけど、つい、悪戯心が疼いてしまった。

「恋人は?」

 口の端に笑みを浮かべて、からかうように問い掛ける。

 でも、この質問は予想していたのか、仲村さんはちょっと得意そうな顔をしてから――唇だけをもごもごさせたり、手をペンギンみたいに振ったり、自分の前髪に触れたり、そんな物凄い挙動不審をした後、意を決した顔をして――でも、やっぱり途中でヘタレたのか「……目の前に」と、かすれた声で言った。

 身を乗り出し、力尽き果ててテーブルに突っ伏した仲村さんの耳に口を寄せて、そっと囁く。

「そういうのは、もっと堂々と言ってくれ」

 仲村さんは、期待通りに弾かれたように飛び起き、しばし俺の言葉を吟味してから、顔色を一刷け赤くして大きな声で返事した。

「! ……はい!」

「そういえば、俺と仲村さんは――」

「司は、どうして軍隊にいったんですか?」

 いつ知り合ったのを訊こうとしたんだけど、言い終える前に声を被せて問い掛けてきた仲村さん。

 なにか訊かれたくない事情でもあるんだろうか? ……言い難いような接点、なのかなぁ?

 でも、その反応を見て、言いたくないなら無理に訊かなくても良いか、とも思った。二十九年も生きていればそれなりに色んなことはあるものだし、今こうして二人でいることに悪い気はしていないので、薮を突いて蛇を出したくはない。

 ――と、今は俺が質問されているんだっけな。

 ……軍隊に行った理由、ねえ。

 腕組みしてもっともらしく考えるふりをするけど、進路に強い希望があったわけじゃない。大多数の普通の人が、進学する大学を自分の成績と親の経済状況で消極的に絞っていくのと同じように、いける大学の中――とは言っても、親が資金援助しない以上、防衛大学一択で、精々本科の教育が終わった後に、陸海空のどれを選ぶか程度の違いしか俺には無かったけど。防衛大学の卒業後は、雰囲気で海軍の幹部候補学校へ進んで、本当に、いつの間にか特殊部隊に入っていた。

 消去法の結果? なのかも……。

「なんとなく、かな」

 腕組みを解きながら、愛想笑いを浮かべる。

「なんとなくって、そんな」

 仲村さんは、苦笑いで困っているのを隠さずに言葉を濁した。

 確かに絡みづらい言い方だったか、と、ちょっと反省。

 それが分かっても、情熱も希望もなく選んだ進路を熱く語れはしないんだけど、ね。

「まあ、食ってくには働かないといけないし、進路もそんなに選択肢が広くなかったし、特に深く考えたことってなかったよ」

 たいした感慨もなく答えていた俺を、戸惑ったような仲村さんの顔がシリアスにさせた。

 仲村さんの顔に映っているのは、期待や信頼を裏切られた最初に見せる、信じたくないって思いと、なぜ? って疑問からくる表情だ。

 どうして仲村さんがそんな顔をするのか、俺には分からなかった。

 仲村さんって、愛国心が旺盛なんだろうか? 旧大戦後の長期間、国が好きっていう人間に対して変な差別が続いてた日本じゃ珍しいタイプかもしれない。俺は、というか日本国民の大部分が未だにそうだけど、自国に対しても他国に対しても無関心だし。だからこそ、一部の偏屈で人間の主張する自虐論が主流になってしまっていた時代もあったんだし。

「新冷戦のこともありますし、国を守りたかったんじゃ?」

 さっきの表情の上に、平静を装った表情を上塗りした仲村さんが、問い掛けて来たけど、同意して欲しいって思いが言葉に滲んでいた。

「俺にそういう高尚さを求められると困るな」

 返事の方向性を制限する意図のある質問と、急変した仲村さんの様子との二つに困惑しながら、言葉を濁して視線を逸らした。


 確かに、領海でいざこざを起こしてくる海を隔てた隣国の馬鹿共は大嫌いだけど、だから自国が好きかって訊かれれば、それにも――少し迷ってから違うと答えると思う。

 軍隊そのものは……好きだったのかな?

 軍隊に入ってから、様々な任務に就いた。でも、それが国益になるかと訊かれれば、首を捻るものも多い。お偉いさんの大体は、先入観が強く思考に柔軟性はなくて、効率の悪いことを押しつけてくるから。それに、例え杜撰な計画の無茶な任務で失敗して人が死のうが、上は杓子定規の恩給を出す指示をするだけで責任を取ったことになるんだから、反省や学習することもない。

 こういうのは、一般企業でもどこでも一緒なんじゃないかな?

 社長や重役の機嫌を取る中間管理職と、その下で給料のために無駄なことをさせられる平社員、そしてその下で更に無理を言われるパートとバイト。上の馬鹿な判断で経営状況が悪化したところで、真っ先に給料が減らされるのは実働の下の方ってね。

 まあ、俺達は給料が減らない分、戦友や自分の命が消えていくんだけどな。

 ともかく、そんな多少ブラック入った……日本にありがちな雇用主と労働者の関係なのに、所属先への誇りを持って忠誠心を原動力に動く人間っているんだろうか? 戦友について思い返してみても、国の為にという理由で戦っている人間は――少なくとも前線では一人も思い当たらない。自分の出来ることをして生計を立てようと足掻き、いつの間にか軍に来たってのばかりだったし。

 職責を全うしようとする責任感はあったけど、任務を命じる人間への尊敬は全く無かった。

 仲間との連帯意識はあっても、国への帰属欲みたいなのは希薄だったと思う。


「国を護るって立派なご職業なのに、謙遜すること無いですよ」

 俺の考えていることを知ってか知らずか、仲村さんは――おだてるって程じゃないかもしれないけど、持ち上げることで、俺に同意をしやすく……いや、俺から同意を引き出そうとしているように見えた。

 そして、それに気付いてしまった瞬間、気持ちがかなり冷めてしまった。

「ん――」

 何をどう言えば良いのか考え込んで唸る俺を他所に、仲村さんが環太平洋連合国の発表する国防軍の国際貢献のめぼしい成果を列挙している。

 聞こえの良い戦果は、その元にある犠牲を軽く思わせがちだって、仲村さんは気付いているんだろうか。そして、その軽んじられつつある犠牲者の一人が俺だってことを。

 もう死んでいるからか、自分の死に意味や意義を求めてはいなかったけど、紋切り型の理解をされていることにほんの少しの寂しさを覚えた。


 放っておくといつまでも話し続けそうな気がしたから、俺は仲村さんを真顔で見つめて、口を挟むタイミングを作る。

 俺の表情に気付いて、切りの良い所で言葉を飲み込んだ仲村さんは、辛そうな表情で俯いた。

「別に、愛国心に溢れていたわけじゃないよ」

 微かに短く息を吐いてから、仲村さんが最も聞きたくないであろう言葉を――、俺の本心を告げた。

「……え?」

 絶望した顔で聞き返す仲村さん。

 聞き逃したわけじゃないことは、その表情が如実に示していた。

 仲村さんの態度に、話し続けるべきか否か迷ったけど、途中まで話して止めることの方がお互いにしこりが残ると思って、最後まで口にした。

「他にやれることが無かったんだ。消去法の結果だよ」

「特殊部隊に入れるぐらいの人が――」

「なんの職業に潰しが利く?」

 ムキになった顔で捲くし立てようとした仲村さんの言葉を遮って、口元にだけは冗談っぽい笑みを浮かべ射抜くように見つめた。

 仲村さんが、たじろいだのが分かった。

 でも、一瞬で立て直して、小さく叫んだ仲村さん。

「それだけの勇気と体力と学力があれば、なんにだってなれます!」

「そういう風にしか生きれない人もいるんだよ」

 俺は肯定も否定もせずに薄い笑みを口の端に乗せ、年の離れた妹に言い聞かせるように――実際には自分に兄妹はいないんだけど、あくまでイメージとしてそういう口調で、俺は言った。

 それでもまだなにか言いたそうな顔をしている仲村さんに、微かに嘆息してから、今度は憮然とした顔で告げる。

「日本は確かに国民のほとんどが中流階級だけど、底辺が無いわけじゃない」

 仲村さんは、なにも答えなかった。聞こえていたのは確かだと思うけど、明確な反応を返してくれなかった。言いたいことを呑み込んだ顔のまま、下を向く仲村さん。

 もしかしなくても、俺への興味を無くしたのかも、な。

 居心地の悪い沈黙が、辺りを満たしていく。

 時間は精神をやすり掛けるように、重く鈍い痛みになって秒針を動かす。

 ……なんか、嫌だな。

 こういうのめんどくさいから人付き合いって嫌いだったりする。ご機嫌取りはまっぴらだけど、ぶつかって紆余曲折を経て理解し合うっていうのも柄じゃない。

 仲村さんを見ていられなくて、視線を店の奥に逃す。

 物の見え方は気分の影響を受けるせいか、さっきと違った雰囲気を店内に感じた。

 木材の色が黒に近いせいか、暗く重い印象で、店をより古風に見せている。だからなのか、誰もいないテーブルに、もういなくなった誰かの精神の残滓が漂っているような気にさせた。

 それは数時間後の自分を暗示させているようで……。そう感じてしまったからか、強い不安と恐怖が胸の中心にブラックホールみたいな、負の感情の塊になって俺を飲み込もうとしだす。

 何度も向きあった、死を司る心の形だ。

 最悪だ。

 こんな時にこんな感情になりたくないのに。

 誰かの前で弱くなんてなりたくないのに。

 潰れそうになる心を、軽く目を閉じて自分の内側に抑え込む。


 夜が来て眠りに就くのが当たり前なのに、命の終わりが来て永遠の眠りに就くのを恐れる理由がどこにある?


 いつもと同じ言葉を心の中で呟いて、死の輪郭を心の中でぼかしていく。見ない振りをするわけでもなく、その淵を覗きこむわけでもなく、ただ心の一部としてそこにあることを受け入れるように。

 気持ちが落ち着くと、せっかく仲良くなりかけたのに壊れてしまった絆に対する、後悔や憤りも消えていた。

 残り時間はまだかなりあったけど、ここいらでお開きにして、後は各自自由ってのもいいのかもしれない。有意義な時間とは言えないかもしれないけど、生きてる時の時間の使い方なんて大半が無駄遣いなんだし、今更無理に人生の実りを水増しする必要は無いはずだ。

 そもそも俺は、なにもすることが無い時にボーっと無心に過ごすのは嫌いじゃないし。

 そう結論付けた瞬間、不意にぽつりと仲村さんが呟いた。

「ずっと昔に、私の背中を押してくれた一言、憶えていますか?」

 声に導かれるようにして視線を向ければ、目の前の仲村さんは祈るように手を組んで、そこに顎というか、唇を軽く乗せ、目を伏せて……肩を微かに震わせていた。

 急に変わった話題に戸惑いながら、さっきまでは言おうとしていた言葉を飲み込んで、訊かれたことについて考えてみる。だけど、そもそもどこで会ったのかさえも俺はまだ分かっていないんだから、掛けた言葉を思い出せるはずもなかった。

「いや……」

 わからない、と、首を横に振る俺。

「電話で……電話で、だけしか、話したことのない女の子に、心当たりってありますか?」

 さっきまでよりも僅かに深く俯いて表情を俺の視界から隠した仲村さんが、訥々と語り続ける。

 震える声に、緊張と不安が見えた。

「電話で……だけ?」

 訝しく思ってつい口に出してしまったら、律儀にも仲村さんは小さく頭を縦に振った。

 だけど、肯定されたことで、俺は余計に彼女を不審に感じた。

 俺に限らずに、特殊部隊やそれに準ずるような部署にいる人間は、神経質なぐらいに警戒心が高い場合が多い。それに、誰かと繋がっていなくても不安を感じない。……というよりも、他者との比較を必要としない、孤独をなんとも思わないような形で自己同一性を持っているのが普通だ。

 大きくなっていく疑念に、自分のこれまでの行動を検証していく。けれど、社会に出てからそんな隙を見せたことなんて、やっぱり思い当たらない。国防大入学以降、俺は殆んどスマホを使っていなかったし、それ以前の交友でも、特に執着されるほどの距離にいた相手は思い浮かばない。仲村さんの勘違いじゃないのかなって仮説と、なにかの陰謀に巻き込まれたんじゃないかって疑惑と、自分の精神に問題があって復活した時に記憶が一部飛んだんじゃないかって不安の間を、思考が巡る。

 でも、そんな風に考え込む俺を見て、なぜか少しだけ緊張を解いた仲村さんが、クスリと笑って言った。

「ネットで知り合って、いつの間にか連絡が途切れた女の子……。もしかして、そういう女の子の心当たりって、いっぱいあったりするんですか?」

 最後は悪戯っぽく笑い、でも、もし本当にそういうことがあったら許さないって視線で告げる仲村さん。今、この瞬間に初めて見せた、これまでよりはちょっと気の強そうな色を出した態度が、ずっと昔に知り合えた女の子の影と重なった。

「――ああ、あの時の」

 っていうか、憶えてる方がどうかしてないか?

 それは、高校を卒業する年の冬の終わりから、春の最後までのことだった。

 軍の大学へ入れば、外部との連絡も休日の外出もしばらくは不自由になると聞いて、他のクラスメイトに誘われるまま、SNSサイトというものを初めて利用した。初日で――三桁にはいかないと思うけど、それに近い数の人数と交流して、でも、翌日も続けてショートメッセージやアバターを使って交流したのはたった数人で、三日目には初日に知り合った人との交流は、ほぼ全て途絶えていた。

 繋がるのも切れるのも早い関係の何が楽しいのか分らなくて、結局、一週間も経たないうちに飽きて消してそのままだ。

 でも、その時、一人の子とだけ退会後もしばらくメールの遣り取りが続いて、知り合って一ヶ月が過ぎたころには電話をするようになった。

 しかしそれさえも、年度が変わるまでの話で、お互いに新しい場所でスタートを切るのと同時に、か細い縁の糸は切れた……んだと思ってた。まあ、確かに最後に話したのは、記憶にない辺り普通の世間話で、そこに別れの言葉は無かったんだと思うし、それに当時は適当に時間を見つけてまた電話するんだ、と、考えていたのも事実だ。

 そう、ただなんとなく、次の機会を見つけられないまま、今日に至るだけ。

 だから、縁が切れたとも繋がっているとも言い難い。


 色々と思い出して懐かしさに浸っていると、目の前の女性の姿が、一度も会ったことが無い思い出の女の子と重なって見えた。

 さっきまでのネガティブな雰囲気を全部吹き飛ばすように、大きな瞳にたくさんの気持ちを込めて真っ直ぐに俺を見つめている、思い出の女の子の十数年後の未来。

 それは、当時メールの文面から想像していた彼女の容姿とはやっぱり違っていたけど、自然と上書きされる――と言うとまた違った表現になってしまう気がするけど、想像上の女の子と、目の前にいる仲村さんは、違和感なく統合されていった。

「ケイ、か。本名を短くしてハンドルネームにしてたんだな」

 ぶつかった視線を逸らして、呟くように言った俺。

「声で気付いてくださいよぅ」

 拗ねたような甘えた声を出した、ケイこと仲村 慶子。

「片手で数えるくらいしか電話しなかったのに、無茶言うな」

 軽いノリで叱るように俺が言うと、慶子はおどけてちょっと舌を出して見せた。


 あの頃の俺は、まだ少しだけ幼かった。

 自分だけは特別だって信じていて、クズみたいな親のせいで家庭環境が最悪なのも、学費に生活費と金に苦労させられるのも、そうした諸々の理由で周囲の人間と馴染めずにいるのも、将来に大きく報われるための――そう、千年語られるような英雄になるための必要な代償だって思うようにしていた。

 だからケイとも、打ち解けあったというよりは、言いたいことを言ってただけのように思う。

 多分、子供時代特有の――、そう、一過性の幼い自尊心と自意識に振り回されていて、自分自身だけしか見ていなかった、お互いに。

 その癖、月並みのクサイ台詞で繋がっていると信じていたんだから始末が悪い。

 気遣うとか、思い遣るとか、言葉の響き以上の意味を理解していなかったし、そういう振る舞いは出来ていなかったと思う。それでも、お互いを理解して貰えているという相互的な錯覚が絆を強くしていったんだろう。


 恋が始まる予感、していただろうか?

 男女の関係を期待してたのかな?

 色褪せてしまったずっと昔の感情に、明確な結論を出すのは難しい。慶子だから惹かれたのか、ただ異性を求めていたのか、その境目が非常に曖昧で。

 ……でもそれは、慶子だって同じじゃないんだろうか?

 どうして今になって、ほんの短い時間だけを共有した――それも、二度と同じようには生きられない男に会いたがったんだ?

 今更、どんな奇跡を期待しているんだ?


「そういえば、よく俺を見つけられたな」

 言外に、そこまでして会いたかったのか? という疑問を挟み込んで感心して呆れているように言った俺。

「司、電話番号一度も変えなかったでしょ?」

 からかうように指摘した慶子。

 そういえばそうだったかもしれない。

 ただ、一つ言い訳をするなら、軍に入ってからは携帯をほとんど使っていないから――勤務中は持ち歩いていないし、休日にも大半が電池切れで適当にほっぽっといたから、自分が携帯を持っているということさえ忘れていた。

「一番シンプルな方法で探すのが一番早かった、なんてね。すごい皮肉」

 可笑しそうに話す慶子を見ていたら、なんだか少しばつが悪くなって、俺は視線を逸らして頭を掻いた。

 だけど、逸らした視線を慶子のクスクス笑いが追い打つ。

 からかわれて照れくさいのも手伝って、俺はよりはっきりとした言葉で慶子を問い詰めた。

「……普通は、相手が死んでたら諦めるんじゃないのか?」

「そうですね」

 まるで他人事のように言った慶子。

「……どうして俺に会いたかったんだ?」

「最初に言いましたよ。デートして下さい、って」

 慶子はあくまでしらを切るように、本心を、薄く被った笑顔で隠したまま、男心をくすぐった。

「今更、俺に縋りたくなるような、どんなことがあった?」

 微妙な腹の探り合いに嫌気がさし、嘆息して俺が冷めた目を向けると、慶子は観念したように口を開いた。

「特別なことはなんにも。でも、強いて言うなら、今の全部が……ちょっと、しんどい気がしてるんですよね」

 相槌を打つこともなく話を聞く俺に、慶子は弾ける直前のシャボン玉みたいな脆くて透明な表情を向けた。

 まるで、慶子がほんとうはこちら側にいるんじゃないかって、錯覚しそうな表情。次の瞬間、すっと消えていってしまいそうな。

「そして、どうして私がこんな分不相応な場所まで来れちゃったのかなって思ったら、ずっと昔の受験直前に貰った言葉に収束される気がしたんです」

 今もそこにその言葉が収まっているかのように、そっと胸に右手を当てた慶子。愛おしそうに、左手をその上に添え、最後に俺を見つめていた目をゆっくりと伏せる。

 一瞬感じた彼女の危うい儚さは、もう消えていた。


 慶子がなぞっている昔日を、俺も思い出してみる。

 あれは、慶子が二度目の高校受験に挑んだ日で、そう……確か、寮での朝食後だったから、朝の七時半頃の電話だったと思う。

 試験会場に着いたけど、ドキドキして足が竦みそう、とか……多分、そんなことを慶子は言って、緊張のし過ぎは良くない、ゆったり構えよう――とかなんとか、俺が答えて、それが出来れば苦労はしませんよ、なんて無限ループが続いていた。

 面倒だとか嫌だとは思わなかった。

 しょうがないなぁって……そう、俺には家族はいないからはっきりと断言出来ないけど、妹みたいっていうのかな? 多分、そんな感じのちょっと胸の奥が暖かくなるような時間だったような気がする。

 しばらくそうしている内に、試験会場へ入るような時間になって――急に押し黙ってしまった慶子を普段言わない言葉で励まそうとして、普段よりも意識して明るく俺は言った。

 でもそれは、決して特別なんかじゃない、普通の人なら当たり前に言っている言葉。

「いってらっしゃい、か」

 呟くように言うと、慶子は小さく頷いた。

 その言葉を、いつから言ってないんだろう? 国防大では、古い伝統に則ってその言葉を口にはしなかった。家にいる時もそれを告げるような家族は無かった。

 もしかすると、慶子に向かって言ったのが最初で最後だったのかもしれない。

 帰りを待つ人なんて俺にはいなかったし、俺が帰るような場所なんて最初から持ち合わせていないんだから。

「きっと、あの言葉が勇気をくれました」

 あの日の――、十六歳の少女のあどけなさを身にまとった慶子が、当時の純情をそのまま表情に映して俺を見つめた。

 小さな耳が覗くショートカットの髪も、大きな瞳も、小さな唇も、なにもかもが愛おしく見えて……流されてしまいそうになる。

 当時の俺は、そこまで深い気持ちを慶子に抱いていなかったっていうのに、ずっと前から好きだった、なんて口走ってしまいそうだ。

 そんなことを口にしたら、俺の正義が俺を許せなくなるのに。

 常に忠実であれ。

 軍でよく耳にしたあの言葉は、この状況を示すものではないとしても、この状況がまるっきり適応外ってわけでもない。

「言葉は言葉だ。どういう意味に取るかは、受け側の自由だけど、俺はあの時、そこまで強い責任を持って発してなかったよ」

 慶子の視線を真正面で受けてから、長い瞬きの後に俺は言った。

 慶子の期待を裏切ることになることは分かっていた、だけど、慶子が本気である以上、俺には真実を語る義務と責任がある。

「それでも……!」

 身を強張らせて、言葉を詰まらせた慶子だったけど、すぐに震えるほどきつく握った手をゆっくりと開いて、諦念にも似た儚げな笑みを浮かべた。

「私、あの日、本当はもうダメだって気分の方が強かったんですよ?」

 同意を求めるように、小首を傾げ尋ねるように言った慶子だったけど、俺はあの日の慶子をそこまで理解出来ていなかったから、同意するのは躊躇われた。そもそも、返事を期待しての質問では無いように思えたし。

 案の定、戸惑う俺を一瞥した慶子は、今度は自嘲気味な笑みを浮かべてから再び話し始めた。

「高校受験で一浪するなんて今時珍しいのに、直前の模試の結果もD判定なんて取っちゃって……、私がそんなだからお父さんもお母さんもピリピリしてましたし、もう人生全部失敗するしかないんだって泣きそうな気分だったんです。だから、たった一言でそれを全部吹き飛ばしてくれた司に、すごく憧れました。今も大好きです。なのに……」

 訥々と話していた言葉を区切る――というよりは、感情に負けたように言葉を詰まらせ表情を歪めた慶子。

 負の色がじわりと彼女の顔を覆っていく。

「死んじゃうなんて、ずるいです!」

 それは、大きな声じゃなかった。

 だけど、深い絶望と悲しみを全て乗せた、そんな強い叫びだった。

 真っ直ぐにそんなことを言われたからか、言葉が詰まる。

 射抜くように俺を見据えた慶子の瞳には、悲しみも絶望もあったけど、一番強い感情は怒りのように感じた。

 その怒りが何に対してなのかまでは、俺には分からない。

 勝手に死んでいた想い人への非難なのか、上手くいかない優しくない世界に対する憤りなのか、あるいは……。

「しかも、自分の正義を貫いて、国に殉じたんだって必死に納得しようとしてたのに、そんなことを言うんですから……」

 拗ねるようにして非難の言葉をつらつらと述べ、意外なほどに鋭い眼差しで俺を見る慶子。

 慶子の理想に従った自分を演じれば、慶子はきっともっと傷つかなかったと思う。

 だけど、そのタイミングは永遠に逃してしまっていた。

「どうします? 貴方が一言分背中を押した女の子は、いつのまにか、来ちゃったんですよ?」

 悪戯っ子の顔をして、キスをするように顔を突き出した慶子だったけど、目だけは縋るように潤んでいることに気付いてしまった。

 気付いてしまったけど……、俺は慶子を突き放すべきなんだと思った。

 だって、俺はもう死んでいるんだから。

 慶子の人生に対してなんの責任も取ることが出来ないのに、当たり障りのない気休めを言うことや、無難な方向性を示して良い理由はない。

 明確な拒絶は、彼女の傷を広げると思う。

 でも、前に進むのに必要な痛みなら、それを与えるのを厭うつもりは一切無い。


 そのはずなのに――。

 慶子の頭に向かって手を伸ばし、触れられないまま、ぐしゃぐしゃと髪を乱暴に撫でるように手を動かす。慶子の方も、俺の手を感じられないはずなんだけど、反射的に軽く目を閉じて首を竦めていた。

 慶子が目を閉じている間だけ、俺は少し笑い、そして――。

「どうにも出来ない。これは、お前の人生だ。ま、強いて言うなら、自分の人生を自分の意思で選べないうちは半人前ということだ」

 微かにキザったらしく鼻で笑い、慶子が向けた強い気持ちに気付いていないフリをした。

 てっきり優しい言葉が降ってくるものだとばかり思っていたのか、くすぐったそうに縮こまっていた慶子は、弾かれたように顔を上げ……でも、少し前と同じように、それだけの動作で急速にヘタレてしまい、机に突っ伏していじけてしまった。

「お、女の子には優しくしてください」

 珈琲カップに顔を向け、口を尖らせている慶子。

 無神経な鈍い男の演技で、ハハッと不遜に笑うと、慶子はちょっと不満そうにコーヒーをグルグルとスプーンで混ぜ、もう湯気の立たないそれを一気に飲み干し、ぽつりと呟いた。

「やっぱり苦い」

 あれだけクリームを入れたくせに、なにを言うか。

 ふと、コーヒーに対しての意味だけじゃなかったのかもなって気付いたけど、コメントするタイミングは完全に逃してしまっていた。

 多少、消化不良な気持ちを抱えてしまったけど、それを上手く処理する話題も台詞も見つけられない俺は、場所を変えることで紛らわそうと、伝票を取ろうとして――、手が伝票をすり抜けた。

 なにも掴んでいない自分の手を見てから、気恥ずかしいのを誤魔化すようにして、尋ねる。

「出ようか?」

「はい」

 可笑しさの中に切なさが混じった顔で笑った慶子は、短くはっきりと答えた。

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