いってらっしゃい 前編

 意識はぼんやりとしている。

 とても深く眠った朝に、眼が開いてもなにも考えられないような、そんな充足感と安息感のあるまどろみ。

 起きようとしても、眼はうっすらとしか開けられなかった。眩し過ぎて。

 軽い酩酊感も感じるし……昨夜は深酒したんだっけ?

 眠気を振り払うように頭を振ってみる。次第に頭がはっきりとしてきて、ある一定以上に覚醒した瞬間、全部思い出した。

 昨夜は飲むはずがない。今日という日にとっての昨日と、俺の感じている昨夜は確実に一致しないはずだけど、俺にとっての昨夜は作戦決行前夜だ。


 そっか……俺は――。


 行政区の長である日本州知事旧称内閣総理大臣のサインの入った作戦命令書が届いたのが、俺の感覚にとっての今日から三日前で、作戦自体はそれより一週間以上前に決まっていた。それは、自分にとってそれは国防軍特殊部隊に入って三度目の任務で、これまでの二つよりもかなり困難な任務だった。自国の関与は一切秘さねばならず、火力支援はおろか情報漏洩の対策として無線・情報端末に至るまで所持不可。旧大戦初期に戻ったようなアナログ装備の三個小隊で敵の山岳基地を破壊し、レーダー・防空システムを沈黙させ、その後、麓の村で監禁状態に置かれている独立運動の指導者を救出し、ステルスヘリで洋上へ脱出させる。

 そういう計画だった。


 そうだな、今更別にそれに対して思うことは――なにも無い。

 困難な任務に対する不満は無かったし、緊張や……ヒーローになろうって期待や興奮さえ無かった。国に対する忠誠と言われても、いまいちピンとこない。

 だって、そういうものだろ? 仕事なんて。

 背景や状況がどうあれ、黙々とこなすだけだ。

 ま、多分、そういう風に命の問題を割り切れる人間だから、こういう仕事に就けたんだろうけどな。

 そして、その任務で俺は……死んだ。山岳基地の攻略中に、敵からの長距離狙撃によって。胸に二発命中弾を貰って、心臓と肺がやられた。

 ほんの数十秒の余裕だけど、即死じゃなかったから死んだ感覚は憶えている。痛みはもちろんあったが、野戦服から鎮痛剤も自動投与されたようで、普通の怪我とのそこまでの違いもなかったし、気が狂うこともなかった。

 想像したよりも、あっさりと死ぬことを受け入れられている自分に、自嘲気味に苦笑いしたのが最後の行動だったはずだ。


 意識が完全にはっきりとすると、今度はしっかりと瞼を開けることが出来た。

 病室みたいな真っ白い部屋で、目の前に誰かが背中を向けて立っている。窓は右側に一つ、ドアは左側に一つ、自分の背後には幾何学的に結びついた円筒状の機械やら、大型のデスクトップPCのような機械、巻き付いた太いコードが、低く唸るようにして動いていた。

「おはよう」

 背中を向けていた中肉中背の男が、振り返って言った。

 一瞬、目が会って――反射的に直立し、敬礼した。視線はすぐに天井近くまで上げて、重ならないようにする。たとえ死んでる身とはいえ、上官と目を合わせるのは憚られる。

 武人然とした顔をこちらに向けたのは、部隊の司令官だった。記憶よりも幾分頭髪が薄く――白髪も混じっているのが、変わらない短い頭髪と相まってまさににゴマ塩頭と言う感じだが――、胴回りは太くなっていたが、さっきチラッと見えた襟の桜から察するに、まだ現役らしい。

「楽にしたまえ」

 低く重い声で言った司令官。

「ハッ!」

 敬礼を解いて、休めの姿勢を取る。

「分かっていると思うが、これから貴官には五時間の自由が与えられる。だが、申請したのは一般人である。軍務に関する情報は、一切話してはならない」

 仕事柄なのか特に感慨はなさそうに、だけど、嫌味にならない程度の厳かさで司令官は話している。慣れているのかもしれない。若くして死ぬことの多い軍人は、この制度を申請される率も高いってどこかで聞いた気がするし。

 いや、逆か。

 第二次世界大戦が終わり、戦後と呼ばれていた時代が、戦前と呼ばれるようになったせいで、こうした宗教ではない死を受け入れる社会システムが必要になったんだろう。

「了解いたしました」

 姿勢を正し、敬礼しながら答えた。

 司令官は俺の返事を聞いて、うむ、ともっともらしく頷き、用事はすんだとばかりにドアへと向かい――。だが、ノブに手を掛けた瞬間、なにかを思い出したのか、視線はそのままだったけど僅かに顔を上げて、呟くように語り始めた。

「……一応、伝えておくとするなら、あの作戦は成功した。貴官の奮戦に感謝している」

 まるでとってつけたような言い草に、思わず苦笑いしそうになった。作戦前は、御国の危機だとか、戦後の現代における新冷戦を平和的に解決する最高の手段だとか、監禁下にある民主化指導者の救出という人道的で崇高な任務だとか檄を飛ばしていたのに、終わってしまえば数ある仕事のうちのひとつぐらいの認識に変わっているんだから。

 皮肉を言ってやろうかとも思ったけど止めた。別に自分は司令官の記憶に残るような人物じゃないし、それなら没個性的な模範的特殊部隊員として大人しくこのロスタイムをこなして消えていく方が自分らしいと思って。

 一度手を戻して、もう一度敬礼をする。

 俺の仕草に納得がいったのか、司令官はドアを開けて出て行った。

 司令官がいなくなってから、肩の力を抜いて誰にも気付かれないレベルで溜息を吐いく。与えられた時間が中途半端すぎて、めんどくさいな、なんて思ってしまう。

 一応、自分の身体を改めてみると……ふむ、悪くはなさそうだ。特殊部隊が設置されている海軍陸戦隊の士官用の礼服仕様の真っ白な軍服を着ている以外は、顔も身体も――……。服が脱げないな。襟をはだけて、死ぬ原因になった傷がどうなっているのかを確認したかったんだけど、服に指が引っ掛からない。ズボンも、ベルトの隙間に指を入れられるんだけど、Yシャツの裾を出そうとすると、指がすりぬける。

 ……なるほど。

 おそらく外見を基の身体データで再現したってだけで、下手に干渉出来ないように設定されているんだろう。どういう原理かは分らないけど。それに、そもそも触感自体が出鱈目だし。手にしても、他のパーツにしても触れているって感覚があるような無いような……疑い始めれば、足が地面を踏んでいるという実感さえおぼろげになってくる。

 生きてる時の感覚じゃ、幽霊は務まらないってことなんだろう、きっと。

 真っ白な――学生時代に着た学ランと少し似た形状の詰襟の服を見て、もう一度微かに溜息をついて部屋から出ることにした。

 司令が開けっ放しにしたままだったドアから出て、後ろ手で閉めようとして……手がドアをすり抜けた。思わずつんのめりながら、自分の掌を見つめてしまう。

 ……なるほど。

 開けっぱなしだったのは、不精したのではなくて俺に気を使ってくれたらしい。

 とりあえずドアはそのままにして、辺りを見渡してみる。

 俺がいるのは、百メートルぐらいある廊下で、同じようなドアは無数に並んでいる。今し方、出て来た部屋は中央よりやや右寄りぐらいの位置にあったようだ。左右の両端はどちらもエレベーターになっているらしい。特に理由があったわけではなかったが、近い方の右側の廊下の突き当たりを目指して歩き始めることにした。

 踏み出すたびに、病院と似ているようで違った建物の景色が流れていく。リノリウム張りの廊下に、真っ白な壁と天井。右手側は全面が窓のようで、眩い光が入って来ているが、目の前に広がる首都のビル群からは今がどの季節なのかは分らなかった。

 ここにいるのは病気や怪我を直すための患者じゃないから、景観を気にする必要はないからなんだろうな、と、勝手に納得して歩を進める。

 エレベーターにはボタンが無かったけど、前に立つとカチッと何かのスイッチが入った音がしてドアが開いた。押しボタン式だとさっきのドアみたいにすり抜けるんだろうし、幽霊然としてあちこちすり抜けられるのも迷惑なんだろう。乗り込んだのもセンサーで感知したのか、ドアの【閉】ボタンを押してもいないのに、即座にブゥンと低い唸りを上げて勝手に降下していく。


 起きたのが上の方の階ではなかったのか、エレベーターはすぐに止まった。もっとも、止まった瞬間の振動は視界の中のエレベーターが揺れるから気付いただけで、身体の実感としては感じられなかったけど。

 やっぱりこの身体は、五感がかなり制限されるらしい。

 なんか本当に死んでるんだな、と、妙なところで感心してしまう。

 開いたエレベーターから出ると、そこは窓の無い八畳くらいの部屋で、エレベーターの右側に小さなカウンターが設けられていて、ちょこんと二十代後半ぐらいの女性が座っていた。

 受付の白衣の女性は、ニッコリと笑って俺を見た。

「萩原 司です」

 敬礼したものかどうか悩んだけど、ここは軍の施設ってわけでもないんだと思い出して、名前だけを短く告げた。

「はい!」

 元気いっぱいの声で言った彼女は、そのままマイクに向かって呼びかけている。

「仲村 慶子さま、仲村 慶子さま、三番案内所までおこしください」

 仲村 慶子というのが俺を起こした人物らしいけど、その名前に心当たりは全く無かった。

 最後の最後に妙な事に巻き込まれたな、と、ぼんやりと天井を眺める。染み一つないクリーム色の天井は、明るく蛍光灯の光を反射しているだけだった。

 そんな時、ふと蛍光灯の近くにあるプレートが目に入った。運命を表す、鎖のように重なった二つの輪の意匠。エントロピー収束型精神復元システムのシンボルマークだ。

 エントロピー収束型精神復元システム……か。死んでいる自分が、今ここにいることを可能としたモノで――量子コンピューターが出来て、一番最初にそのコンピューターに入れられたプログラムがそれだと聞いている。

 っていうか、その演算を実施するために量子コンピューターが必要だったって話らしいけど、どっちが先かの議論に興味はない。世の大多数がそうじゃないのかな? スマホなんかが良い例で、経緯はどうであれ、そういう機能を有したものがあるってことが重要なんだから。

 システムの概要は生前の職業柄、世間一般と比べて理解している方だと思う。

 人は生きているとエネルギーを消費する。食事っていう形で、エネルギー源を吸収して、さまざまな行動――運動に思考等で消費していく。そして、最後に死を迎え、ゼロになる。

 でも、身体に蓄積されたエネルギーは、死んだ瞬間にゼロになるわけじゃない。脳内の電気信号、体温、酵素による化学反応、そうした熱・電気エネルギーは緩やかに周囲の空間へと拡散して薄くなっていく。

 物理化学の基礎、エントロピー拡散の法則だ。

 その死んだ時の状況を、二百五十八機連動の地球観測衛星のデータを基に素粒子のレベルで計算し、死亡と同時に体から喪失した脳のエネルギーとその流れ方を完璧に演算・予測して再現する。それがエントロピー収束型精神復元システムだ。

 もっとも完全に復活出来るっていうわけじゃなくて、生き返れる機会はたったの一回で、チャージできるエネルギーも五時間前後が限度なんだから、たいしたことは出来ないんだけど。


 そういえば、犯罪捜査への利用に関する法案はどうなったんだろうな? 自分が死ぬ直前のホットなニュースで、証言を取るためだけに復活させるのは人権に反するとか、個人の意思に任せるべきだとか、身寄りがなければ起こされないんだし、犯人を裁くのが重要だとか議論されていた気がするけど。

 死刑は死ぬことが刑罰なんだから、死後は無罪だとか主張して炎上してるインテリぶったアナウンサーもいたっけな。あの常識の無さと、世間と自己評価のギャップの多いコメントは、多少は受けたな。ブラックジョークとして。

 ――待ち時間が手持無沙汰なせいか、どうでもいいことを色々と考えてしまう。世界がどうなっていようが、今の俺がこれ以上変化することは無いのに。

 どうでもいいついでだけど、自分を起こした物好きは一体何者なんだろうな?

 俺に家族はいない。不仲の両親の元、崩壊した家庭で育ったんだし、中学以降は顔を合わせたことが無い。そもそも、俺が死んだことを知っているかどうかさえ怪しいものだ。

 友人……の可能性は、もっとなさそうな気がする。

 全寮制の高校に推薦で入って、それから学費のかからない国防大学へ進んで、背広組に入るのが嫌で特殊部隊に志願した。軍学校でも特に親しくした相手はいないし、その前は――、ああ、家庭環境が最悪なせいで、誰からも距離を取られていたっけ。

 部隊に配属されても数年は訓練で消費され、本格的に現場に出始めたのは二年前から。存命中に参加した作戦は三回。それが多いのか少ないのかは分らないけど、まあ、充実はしていたかな。

 隊の仲間は嫌いでも好きでもなかったけど、信頼はしていた。だから、俺を起こすとしたらそのぐらいかと思っていたけど、全員男だったし、まさか俺が死んでるうちに性転換したりはしていないと思う、多分。


「久しぶりの現世はどうですか?」

 思索に耽っていたせいで、掛けられた声に反射するのがワンテンポ遅れた。

 慌てて顔を向けると、さっきアナウンスしていた受付の白衣の女性が人懐っこい笑みでこっちを見ている。そういえば、こういう場所で白衣ってなにか意味があるんだろうか? 治療とか実験とは無縁な場所だと思うけど……理系の様式美ってヤツなのかもしれない。

 いや、まあ、可愛い娘の白衣姿はグッとくるし、嬉しいから理由はどうでもいいけどさ。

「久しぶり、なのか?」

 そういえば、死んでからどのくらい時間が経ったのか訊いていなかったな、と、今更気付いた。

 パラパラと書類を捲りながら、その女性は答える。

「そうですね、今は西暦2052年ですので……萩原さまが亡くなってから、二年が経っていますから、久しぶりで合っているのではないでしょうか?」

 最後のその女性は、小首を傾げて逆に俺に訊いてきた。

 ……判断は、確かに難しいな。死んでいる時のことは――、なんていうか、普通に生きていた時間とは別物だと思う。意志をもって過ごしてたわけじゃないんだし。たゆたう? が、一番正確な形容詞のような気もするけど、それで言い表せているかと訊かれれば、返事に詰まる。

 長いような気もするし、一瞬だった気もする、な。

 難しい顔をした自分を、その女の人は、うっかりすると惚れてしまいそうになるぐらいの無防備な顔でまじまじと見つめてきた。

「今は何月?」

 照れた顔を隠すために壁の時計に視線を逃がして、ぶっきらぼうに訊いてみる。レトロな感じのアナログ時計は、午後一時ちょうどを指していた。

「四月一日ですよ」

 逃がした視線を追いかけるようにして投げられた声は楽しそうで、ちょっと面白くない。なんだか弄ばれているみたいで。

 だからなのかもしれない、いつもみたいな皮肉が口から出たのは。

「エイプリルフールか……ネタで起こされたみたいだな」

「そんな理由じゃ、書類審査は通りませんよ。ほら、素直になって! 彼女さんと素敵な一日を過ごさないともったいないですよ」

 メッと、小さい子を叱るようなしかめっ面が目の前にある。

 ――彼女、ねえ。

 確かに、自分を起こしたのは女性で名字も違うんだから、普通に考えればその可能性が一番高いんだろうけど、自分に恋人はおろか親しくしていた女性もいないんだけどな。

 ちょっと困って視線をぶつけたままでいると、彼女はしばらくふざけ半分で睨んでいたけど、訊いちゃいけないことだったのかな、と、瞳の奥が揺れ始めて、最後には小さなミスを誤魔化すみたいにペロッと舌を出しておどけてみせた。

 その仕草に、自然と笑ってしまう。

「……しかし君は、底抜けに明るいな」

「変ですか?」

 快活そうな朗らかな笑みを浮かべて、彼女は訊いてきた。墓所の番人には間違っても見えず、太陽の下で身体を動かしていそうな職業。そう、例えば、スポーツインストラクターとか体育教師とか、そんな雰囲気がある。

「ああ、イメージと違う。死んだ人と日常的に接する職業なんだから、もっと暗い人間を想像していた」

 彼女が人懐っこさを感じさせるせいもあったと思うけど、つい本音が口を吐いた。

 そして、言った瞬間、偏見とか差別の類の発言かもな、と、気付いて――謝罪を口にする前の少し苦い顔で彼女の様子を窺う。

 すると彼女は、特に気を悪くした様子もなく、俺の視線を受けて『さっきの彼女発言はちゃらですよ』って、強かでちょっと挑発的な眼差しを向けてきた。

「良く言われます。でも、亡くなった方って割とあっけらかんとされている方が多くて、自然とこうなっちゃったんですよね」

「……なるほど」

 それは、なんとなく分かる気がした。

 余命宣告されれば、なんとか助かろうって思考錯誤したり、自棄になって暴れたりするのかもしれないけど、確定的に死んでるって言われたら――そしてそれをはっきりと自覚出来るんだから、笑うしかない状況っていうモノの一種なんだと思う。

 それに、今はこうして死んだ後にも機会が与えられるんだからな。心とか魂とか、そういうモノの永遠を肯定的に信じられる、生死観の楽観論みたいなのが生まれやすいんだろう、きっと。

「死ぬってことと悟るってことは、イコールなんでしょうか?」

 若さが残る、なんて言い方は失礼かもしれないけど、ちょっと青臭い顔で、生きている人間にとっては切実で、今の自分にとっては最も軽い疑問をぶつけられた。

 返事に詰まって、少し俺は視線を上に逃がして考える。

 悟るとか言う以前の問題として、死後に自分の中でなにかが変わったとは思っていない。むしろ、なにも変わらずに死んでいけるということが一つの解のような気もしたけど、その感覚を上手く言葉で説明するのが難しい。

 当たり前の事が当たり前だと気付いた、なんて言葉遊びが過ぎる。

 それに……。

「どうかな? 自分の場合は、覚悟して生きてただけだと思う」

 多分、戦うことを前提としている以上、人よりも死ぬことについて考えていた気はする。死ぬことが身近にあった気がする。

 答えが出ることは無かったけど、ふとした瞬間に命と向き合うことは多かった。

「……軍人さんだからですか?」

 瞳の奥にこれまでと違う色を映しながら、声をひそめて彼女は訊いてきた。

 さっきまでの、一瞬で近付いた心の距離が急に遠くなるのを感じる。でも、そんなことで今更傷つきはしなかった。軍人である以上、この視線には慣れている。メディアの馬鹿げた世論操作が長く行われていた弊害だ。気にしたところでしょうがない。

「そんなとこ」

 一言で簡単にまとめられるものでは決して無いんだけど、俺と彼女が別の種類の人間である以上、百万言を尽くしたところで解ってくれる気がしなかったから適当に同意した。

 でも、そこで会話が途切れてしまって、微妙な気まずい沈黙が降りてくる。

 なにか言おうと思うんだけど、変わった距離感は適度な話題を見つけさせてはくれなかった。


 カチッと音を立てて時計の長針が動く。

 この沈黙はいつまで続くんだ? と、表情には出さずにうんざりした瞬間、コンコンと、控え目にドアを叩く音が聞こえて来た。

「どうぞ~!」

 彼女の方も助かったと感じたのか、テンションを上げた声で明るく叫んでいる。

 フン。

 最初は人懐こい笑顔を向けてきた女性のそんな様子を見て、俺はほんの少し自嘲的に鼻で笑った。女の、こういう所が嫌なんだ。

「し、失礼します」

 弱気なか細い声が聞こえてから、目の前のドアがおっかなびっくりといった様子でゆっくりと開けられて、耳が出るくらいのショートカットの女性が顔をのぞかせた。その女性は子供っぽい丸顔をしていて、好奇心旺盛な猫みたいな大きな瞳でぐるりと室内を見渡している。

「仲村 慶子さんですね」

「はい」

 受付から声をかけられて、弾かれるようにして背筋を正した仲村さん。受付に座っている女性を見て、それから俺を横目でちらりと見た。でも、俺と目が合うと、ちょっと慌てた様子で目を逸らしてしまう。

 ……ふむ?

「こちらの書類にサインを」

 促されて、ドアからトテトテと頼りなさげな足取りで受付に向かう仲村さん。

 背はちょっと低めで、胸も控えめで、学生っぽい? っていうのかな、なんかあんまり社会人って感じがしない。私服もボーイッシュな感じで、大学生ぐらいに見える。

 今、仲村さんは俺の方に全く注意を払わずに、上体を屈めて難しい顔でなにかを紙に書いているから、その姿をまじまじと見ることが出来た。右目の薄い泣き黒子や、小さい耳、ブランド物って雰囲気が無く、でも使い古された薄くて小さなバッグ。バッグの装飾品も少なく、景品っぽい作りの粗いバッジが数個付いているだけ。容姿に纏う雰囲気、服装や持ち物の嗜好さえも、これまで知り合った誰とも重ならない。

 本当に一体誰なんだろうな?

 俺の視線に気付いたのか、少しだけ顔を上げた仲村さんと目が合った。刹那、仲村さんの顔色が朱に染まったけど、ぶつかった視線を逸らされる前に俺は訊いた。

「貴女が自分を?」

「は、はいッ!」

 急に問いかけられたせいか、仲村さんはビクッと身を強張らせ、声を裏返らせている。

 なんか、少し……初々しいというか、慣れてないというか、今時珍しい感じの純粋さを持った子だなって思った。

 俺を起こした理由とか、もう少し詳しく聞きたいところだったけど、俺と仲村さん以外にも一人、居心地の悪そうな顔をしている美人がいたから、それ以上訊くのは止めた。

 ん、と、俺は微かに首を引いて頷き、その仕草を見て仲村さんは最初首を傾げたけど、慌てて再び書類に向き直った。

 ただ邪魔しただけになってしまった。

 少し反省。


 それから三分もしないうちに、仲村さんは書類を仕上げ、背筋を正すと……急に捨てられた子犬みたいな目で俺を見た。

 いきなりどうした? と、思ったものの、近くに来ていいのかどうか判断に困っているんだってことが表情から読み取れたから、苦笑いで手招きする。途端、パァッと明るい顔をして俺の横に並んだ仲村さん。顔のつくりや髪型から受ける印象は猫系なのに、態度が犬っぽくて、俺は少し笑った。

 仲村さんが横に並んだから、俺達は歩調を合わせてドアに向かう。

「それでは、良いお時間を」

 丁寧にお辞儀して、俺達を送り出す受付の女性。

 ドアを潜る前に俺達は一度短い礼をして、部屋を後にする。ドアを開けそのまま一歩前に出た仲村さんに続いて、俺もドアから出て肩越しに振り返り閉じていくドアを見る。その隙間から微かに見えた受付の女性は、まだ頭を下げていた。

 視界の端に捉えた彼女の最後の態度に、また、少しだけ印象が変わる。

 もう少しきちんと話すべきだったかな、と、ちょっと寂しいようなもったいない気持ちが去来した。そういえば、昔から誰かと真剣に関わるのは苦手だったよな、俺は。

 今更それを自覚してしまっても遅過ぎるのかもしれないけど……、これから仲村さんと過ごす五時間はきちんと向き合おうって気になれた。


 今までいた部屋を出ると、窓の無い短い廊下があって、正面には遮光の自動ドアがあった。赤外線センサーの自動ドアは俺に反応するのかちょっと疑問に思って、一人でも開くか試してみたくなったけど、仲村さんが横にぴったりとくっついて離れないから諦めた。

 静かにサッと自動ドアが開く。

 幽霊の自分を検出しているかもしれないセンサーを難しい顔で見上げてると、横からの訝しむ視線を感じたから、慌てて俺は自動ドアを潜り、そのまま歩調を速めて三歩前に出て辺りを見渡す。


 目の前に広がるロビーはサッカーコートを横に五つ並べたような広大で横に長い構造をしていて、所々に観葉植物やベンチ、大型テレビがあり、駅中のコンビニっぽい……というか、そのものの売店がいくつもあって、多様な人であふれていた。夫婦と子供と祖父母なんて絵に描いたような幸せそうな家族から、恋人の距離で歩く老夫婦とか、青春真っ只中の学生服の二人とか。

 なんか、空港のロビーとそっくりだ。

 だけど、この場所がそんな当たり前の風景に見えることが少し怖かった。ここにいる人達に違和感がないのが、違和感に感じる。

 生者と死者の境が、見た目には極めて薄い。


 背後の仲村さんが慌てて距離を詰めようとした気配に、回れ右で振り返って向き合う。さっきから常に左隣をキープしている仲村さんと、ようやく俺は正面から向き合えた。

 でも――。

「ええと……」

 なんて話し始めたらいいのか分らなくなって、俺は言葉を濁す。

「はい」

 仲村さんは、最初微かに俯きながら照れたような上目遣いで俺を見ていたけど、ゆっくりと顔を上げて真っ直ぐに俺を見た。緊張からなのか、向けられた表情はやや硬い。

 なんだか、少し、ドキドキする。

 したことが無いから分からないけど、お見合いの時ってこういう気持ちなのかもしれない。

 でもお見合いのように下準備していた訳じゃなかったから、妙齢の女性を相手に、フランクでかつ好印象を持たれるように話しかける最初の言葉が――……一つも思い浮かばなかった。

 俺は根っからの軍人なんだ、生憎とそういうスキルは持ち合わせてはいない。それに贈る言葉を吟味する時間が短すぎる。

 仕方がないから、気取った台詞を諦めて、素直に最初の疑問をぶつけてみた。

「自分で間違いない?」

「…………? 勿論ですよ?」

 どうしてそんなことを訊かれるのか分らないといった顔で、仲村さんは俺を見つめている。

「あー、その……なんていうか」

 言って良いものか、訊いて良いものか分らなかったけど、黙したままでは事態は変わらないので、率直に訊いてみることにした。

「どちらさま?」

 仲村さんは、キョトンとした顔になって、それから――ちょっと悲しそうに、困ったように笑った。

「あ、あはは、そうですよね。萩原さんは私のことをご存じなかったですよね」

「ん?」

 しょげた声で言っている言葉が引っ掛かって、鼻で訊き返してしまった。

 俺が仲村さんを知らないのを仲村さんは知っていて、しかも、俺のことを仲村さんはそれなりに知っていたという訳で……つまり、どういうことだろう? 仲村さんみたいな女性を助ける任務に就いた記憶って、ないんだけどな。それに、俺は有名人とかじゃないんだし、そんな男を一方的に知っている状態ってあるのか?

「い、いいんです。大丈夫です。……あ! 萩原さんは、あの、その」

 取り繕うように仲村さんは大きな声を出したけど、急になにかに気付いて口を重くしてしまった。

 なにが大丈夫なのかは全然分からなかったけど、言い難そうにもじもじとしているのから察するに、続く言葉は訊き難いことだろう。

「名前も――、名前を覚えていない相手に、たった一度の機会を使って良いのかということか?」

 名前も知らない、と、言い掛けて、慌てて訂正した。さっき『ご存じなかった』と、彼女は言ったので、知らないと言っても良いのかもしれないけど、記憶にしろ気持ちにしろ一方通行だったら、やっぱり悲しいだろうと思って。

 どの程度俺の意図するところが伝わったのかは分らなかったけど、仲村さんは俺が類推した質問を肯定するように無言でコクコクと頷いていた。

「構わないさ。どうせ呼ばれる予定もなかったし」

 わざとらしく肩を竦め、冗談っぽく言ってみる。重い空気にはしたくなくて。

「そうですよね」

 仲村さんは安心した顔でそう言って、言ってからハッとした顔になって「あ、いえ、あの、違います。そういう意味じゃなくてですね、決して貶そうとか、そういう意図で同意したわけじゃ」と、慌てて捲くし立てた。

 慌ててる仕草に、なんだか小動物っぽいコミカルさがあって、俺は思わず噴き出してしまった。

「変わった人だ」

「あ、あはは、良く言われます」

 俺の無遠慮な感想に愛想笑いを浮かべ、それから、なぜか、しょんぼりした仲村さん。

 なんだか、一生懸命だなって思えて、仕草の一つ一つが微笑ましく見える。

「それで――」

 笑みを表情から消して話し始めながら、真面目な顔を仲村さんに向けた。俺の声に反応した仲村さんと目が合う。深い夜の色をした瞳が俺を映している。

「どうしたい?」

 軽く小首を傾げて俺は問いかけた。

 話題の切り替えが急だったからか、仲村さんはポーっとした目を向けるだけで、最初たいした反応を返してくれなかった。だから、催促するように傾げた首の角度を少し急にすると、ハッとした様子で仲村さんは躊躇いがちに口を動かし始めた。

「あ、あの……。そうですね、もしよろしければ……」

 口を動かし始めたと言っても、香奈村さんの口からはあまり意味のある言葉が出てこない。途中の言葉に詰まった瞬間の声になる前の唇の動きが、迷いを如実に表している。

 ちょっと焦れ始めた時に、仲村さんの窺う瞳が俺を捉えたから、微かに頷いて見せる。

「なんでも言ってよ」

 ――叶えられるとは限らないけど、と、心の中でだけ付け足して、出来る限り優しい顔で仲村さんを見つめた。

 彼女の視線は、それでもまだ揺れている。迷いと不安と期待で、熱に侵されたように。心を静まらせようとしているのか、短く息を吸い込んで、それをゆっくりと吐いていた。

 呼吸三つ分の沈黙の後、胸に手を当てた仲村さんは、キッと覚悟を込めた眼差しを俺に向けて、小さく叫んだ。


「デート、して下さい!」


 驚いたのはほんの一瞬で、そのすぐ後に訪れた感情は喜びではなく戸惑いだった。

 まあ、確かに雰囲気からそういうことを言うんじゃないかなって察することは出来ていたけど、言葉にされると……なんか、なんか、すっごい違和感を感じる。だって、俺だぞ? 恋愛経験がゼロの。

 相手に間違いがないか確認するために、自分の顔を自分で指差してみる。

 ブンブンと音を立てて頭を縦に振った仲村さん。

「いいの?」

 念を押すように問い掛けると、またもや風を切る速さで頭を縦に振る仲村さん。

「ふむ」

 腕組みして考えてみる。

 敵国のスパイが自分を籠絡して機密情報を訊き出そうとしてる? タイミング的に遅過ぎるし、中尉じゃなれたとしても小隊長までなんだし、たいしたネタが無いのは周知の事実だ。

 二世紀ぐらい昔のノリで、物陰からそっとお慕い申し上げておりました系の子? どこで出会えたんだって話だよな。高校は軍学校じゃないけど、進路の関係上そういう雰囲気の強いところだったし、大学は国防大だから、こういうポヤポヤした雰囲気の子はいなかったと断言出来る。馴染みの飲み屋なんて、下戸の俺には無い。

 じゃあ、彼女はいったい?

「……若くして死んだ軍人に対して、ちょっと良い思い出を作らせて冥土の土産を持たせよう! とかいうサービスが始まったとか?」

 自嘲めいた笑みを薄く唇に乗せて、出来の悪いジョークで仲村さんの反応を探ってみる。雀の涙ほどとはいえ、俺にも遺産があったはずだ。それに目をつけた水商売初心者、という最後に思いついた仮説を検証するため。

「どうしてそんな卑屈になるんですかぁ」

 期待外れな反応を非難するというより、予想の斜め上の回答に脱力してしまったような調子で、情けない声を上げた仲村さん。

 ……水商売系の雰囲気は微塵も感じられない。どうやらこれも外れか。

 でも、一つ良いことに気付いた。仲村さんって、からかった時の反応が可愛い。悪いかな、と、思いつつも、もう少しだけ――。

「いや、なーんか」

 含みを持たせた顔で、仲村さんの顔に自分の顔を近付けて、まじまじと見つめる。

 綺麗な頬にはニキビ痕やシミなんて一つもなくて、右目の泣き黒子がどこか艶っぽい。そしてそれは幼い容姿とミスマッチで、背伸びしている感じがして、可愛らしさを強調している。

「な、なんですか」

 少し怯みながらも、子猫が威嚇する時みたいな目と、拗ねるように尖らせた唇で仲村さんは警戒心を露わにした。

「仲村さんみたいな可愛い子から、ご指名頂けるとは思わなかったんでね」

 こっそりと耳打ちした俺。しかも『ご指名』と、わざとそれっぽい表現と表情を使って、羞恥心を煽ってみる。

 ボッと火が点いたように頬を赤くさせた仲村さん。

「かわ、いい!」

 言葉を詰まらせながらも、そう大きな声で叫んで――、その声のせいで周囲の視線を集めてしまい、それが更に顔全体を赤くさせて、遂に仲村さんは俺の背後に隠れてしまった。

 集めてしまった視線に向かって、三方向に一度ずつ慇懃に頭を下げ、お許しの生暖かい視線を受け取る。

 それから背中で縮こまっている仲村さんを、肩越しにニヤニヤ笑いで見つめる。

「からかいましたね」

「いいや、本心さ」

 怨みがましい目で俺を見る仲村さんに、悪びれもせずに俺は言い切った。

 そんな俺を見て、拗ねて唇を尖らせた仲村さんがポツリと呟く。

「司、やっぱり、ちょっと、意地悪かも」

「ん?」

 微かな違和感を覚えて、鼻を鳴らしてしまった。考えるまでもなく、ああ、名前――と、気付いたけど、それに対して何か考えるより早く仲村さんが反応した。

「あ! いや! あの、これは!」

 また、しどろもどろになって弁明をしようとしだす仲村さんを手で制する。

「いいから……。呼びたいように呼んでよ」

 ――時間もないんだし、と、言外に滲ませながら柔らかく微笑みかける俺。

「……はい」

 真顔でほんの少し考えてから、頷いた仲村さん。それから少し考える仕草をして「行きたいところありますか?」と、俺に問い掛けてきた。

「え? 仲村さんが決めてくれるんじゃないのか?」

 まさかそれを訊かれるとは思わなかったから、驚いたのもあってちょっと嫌な顔で本音を口にしてしまっていた。

 さっきまで死んでいた人間に、突然、しかも知らない場所のデートプランを求めるのは酷だろう、とか、多分……いや絶対に、思ったことが顔に出ていた。

 そして、それを証明するように、仲村さんの申し訳なさそうな顔が目の前にある。

「いえ、なにか希望があればと思いまして」

 希望、か。

 腕を組んで少し考えてみる。確かに国内移動で五時間あればどこへでも行けるし、そういう意味では俺にも意見を求めるのは変じゃない。

 変じゃないけど――。

 今更、行きたい場所なんて言われても、何処も思い浮かばない。

「無い、な。自分の墓に参る気もないし、故郷に感慨があるわけでもない」

 素直な気持ちだったけど、言った後で少し後悔した。起こすような相手もいなくて、故郷が嫌いで、人知れず処分したい遺品もないってのは、人生としていかがなものなんだ?

 考え込む仲村さんの表情からは、俺の回答にどういう感情を抱いたのかは読み取れなかった。ん――、と、鼻で唸りながら難しい顔をしているし、行き先を悩むのでいっぱいいっぱいなんだろうな。

 ってか、ほんとにノープランで起こしたのか……。悪いとは言わないけど、豪快というか、大雑把というか。

 大人しく待っていた方が良いのかもしれないけど、正直なところ、そこまで親しくない相手との微妙な沈黙は気まずい。

「近くに喫茶店とかはあるかな?」

 俯いて必死で行き先を探している仲村さんに、助け船を出すつもりで提案してみる。

「あ、はい。でも……」

 頷きつつも、釈然としない顔の仲村さん。

 多分、俺が飲食出来ないのを気にしているんだろう。

「知ってる。でも、仲村さんは立ちっぱで五時間はきついでしょ? まずは座ってゆっくり話せたらなって」

 他になにか考えがあれば、それに便乗させてもらおうと思っていたから、あくまで控えめに提案してみる。

 仲村さんはほんの少しの間、さっきより軽い表情で悩んでから、ぺこりと頭を下げて言った。

「はい。ありがとうございます」

 顔を上げて笑顔を見せると同時に、おずおずといった様子で、右手の掌を差し出した仲村さん。

 その掌をまじまじと見つめてから、自分自身の掌に目を凝らしてみる。それから、徐に近くの壁に手で触れようとしたけど、壁に手が埋まってしまった。不自然に壁と融合している腕を見ながら、真っ白な壁の中で手を開いたり閉じたりしてみる。なにも掴めないし、壁にも変化は無かった。

 壁から手を引き抜いてから、俺はやんわりと首を振った。

「手は繋げない。便宜上見えているだけで、身体の方はホログラムみたいなものだから」

「知ってます。でも、気分的には、なんかこうしていた方が良いじゃないですか」

 ちょっとムッとしたような声。

 俺が手を差し出すまでは手を引っ込めない、と、ほんの少し膨れた顔に書いていある。気が強いのか弱いのか、なんとも判断に困る子だ。

 まあ、でも、女ってそういうものかもな。

 気を使ったつもりなのに、と、心の中で愚痴ってから、慎重に仲村さんの右手に自分の右手を重ねる。

 触れていない掌だけど、生前の感覚の名残なのか、微かに体温が伝わってくる気がした。

 仲村さんの表情が柔らかく……というか、フニャっとした感じに緩む。つられてほんの少し俺が笑うと、ゆっくりと仲村さんは歩き始めた。慎重に、俺と一ミリもずれないように、恐る恐る歩を進める仲村さん。

 でも、空気と手を繋ぐのはやっぱり難しいようで、俺の手を突き抜けたり、半分指が埋まっていたりして、その度にしょげた顔で手の角度を変えたり歩調を変えたりしている。その様子を、俺達って、なんだか、まるで、付き合ったばかりの……始めて手を繋ぐ初心なカップルみたいだなって思いながら、優しい目で見ていた。

 微笑ましさと、甘酸っぱさと、深い切なさを感じる。

 温かい気持ちと同じくらい、行き場の無い虚無感が胸にあった。


 もう、どうしようもない今になってこんな気持ちを知るなんて、な。

 なんか、色々、上手く言葉にならない複雑でたくさんの感情が去来していた。

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