本題

■深川、北森下町長屋■


どじょう売り〈どォじょおォ~~。どォどじょォお~~。どおじょおォ~~〉

老翁    〈(かなたから怒号のように)どじょう屋ァ、どじょう屋ァ。南無阿弥陀あ仏〉

どじょう売り〈何だ何だ?ビックリさせるなぁ。一体どなたが呼んだんだろう?おお、こわい。危うきには近付かんことが一番だ、さっさと過ぎてしまおう。どおじょおォ~~〉

行人    〈おっ、どじょうか。いいねぇ。どこで獲れた奴でえ?〉

どじょう売り〈へえ、大横川と小名木川、さらには近くの水田で獲れた、新鮮そのもののどじょうでごぜえやす。いかがですか?今日も、まだこんな時間でありながら、こうも暑うございますゆえ、これから昼にかけては、灼熱のようになりましょう。こんな夏の日には、まさにもってこいじゃありませんか?〉

行人    〈イヤ、欲しいのは山々なんだがね、あいにく、今はびた一文持っちゃいねぇよ。ちょいと・・・ねぇ・・・ナンダ・・・鉄火場で散々ばら負けて、家にけえるところなんだ〉

どじょう売り〈そうですか。では、またの機会にぜひ。まだこの辺を、伊勢﨑町から材木町辺りまででも回っていますんで、もしお見掛けになりましたら、ご贔屓に〉

行人    〈あいよ〉

どじょう売り〈どォォどォどォじょおォ~~。どォどじょォお~~。どおじょおォ~~〉

長屋の娘  〈どじょう屋さん、どじょう屋さん。買いますよ(ト姿は見えないが遠くより呼び掛ける)〉


【長屋のどんつまりから聞こえて来ます若い娘さんの麗しい声に、どじょう売りはすっかり浮かれ心になりまして】


どじょう売り〈ハァイ、ただいま参ります。ちょいとお待ちを〉


【どじょう売りが意気揚々と、長屋のどんつまりまであと一軒というところまで到りますと、突然手前の戸、つまり娘さんの声がした戸の隣より、激高した夫婦のマァ騒がしい喧嘩が聞こえて参ります。どじょう売りは、しばし心配そうな顔でたたずんでおります】


夫     〈おい、いい加減白状しやがれ。俺というものがありながら、俺の目を盗んでは間男しやがって。一体相手はどこのどいつなんだ?〉

妻     〈何を根も葉もないような、下らないことを言ってるんだね。あたしが何をしたってんだい?余計なことを疑ってないで、少しは働いてお金を持って来てちょうだいよ〉

夫     〈うるせえ、俺が甲斐性無しだから女房に間男されるって言いてえんだろう。エェ、相手は大体目星がついてるんだ。どうせ、豆腐屋の新吉の野郎だろ〉

妻     〈だから、何度言わせれば気が済むんだね。やましいことは何も無いとさっきから言ってるじゃないか〉

夫     〈誰がそんなことを信用するかってんだ〉


【口論の挙げ句、ここで夫が非道にも、妻をうちつけてしまいます】


妻     〈あっ、痛。何するんだね?〉

夫     〈いいから、酒を持ってこい〉


【どじょう売りが茫然として成り行きを見守っておりますと、先程どじょう売りを呼び止めた娘さんが、待ちくたびれたと見え、戸より出て来て周囲を見渡します】


長屋の娘  〈あっ、いらっしゃった、いらっしゃった。どじょう屋さん、こちらですよォ。どうかしましたか?〉

どじょう売り〈エ、イヤァ、ちょっとお隣が立て込んでらっしゃるようで〉

長屋の娘  〈(近付いて来て)ああ、お隣のご夫婦ですか。また喧嘩ですかね〉

どじょう売り〈奥様が打擲されましたようで、いささか心配でございますなぁ〉

長屋の娘  〈お幸さんが殴られてしまったんですか・・・。ここのご亭主は、元はどこかのお侍様だったようなのですが、お国取り潰しの憂き目に遭って、牢人と相成りまして久しいのです・・・。その間に、口振りからヒトトナリまで、まるで別人のようにお変わりになられ・・・。お酒が入ると、より暴虐になってしまいますの。お幸さんが賃仕事をして、何とか生活していらっしゃるのですが、ご亭主と来ましたら、そのお金を酒手に費やす一方で・・・〉

どじょう売り〈でも、奥様が不貞を働いたとか何とか聞こえて参りましたが〉

長屋の娘  〈お幸さんに限って、そんなこと絶対にありません。ご亭主がまた酔っ払って、デタラメな言い掛かりをなさっているのですよ。可哀相に・・・〉

どじょう売り〈(干渉しすぎたことを反省しながら)おっと、どじょうをお買い 上げ下さるということでしたね?ではここで〉

長屋の娘  〈はい。今、桶とお代を持って来ますので〉


【娘を待つ間も、どじょう売りは夫婦喧嘩を心配している様子】


長屋の娘  〈お待たせしました〉

どじょう売り〈では、いかほどに致しましょうか?〉

長屋の娘  〈そうですねえ、父と兄に食べさせてあげたいので〉

どじょう売り〈それはそれは、孝行ですねェ。じゃあ、これくらいですかな?(トどじょうを移し替える身振り)〉

夫     〈しゃら臭エ、これでもか〉

妻     〈キャアァァ〉


【どじょう売りが、売り終えて長屋を去ろうとした時、今までで一番大きな怒号と、それに続く喚き声が夫婦の長屋より聞こえて参ります。これに業を煮やした娘が、ズカズカと夫婦の長屋へ入ってゆきます】


長屋の娘  〈ちょっと、もうこれ以上はよいじゃありませんか。お幸さん、大丈夫ですか?〉

妻     〈アァ・・・。お花さん、みっともないところをお見せして・・・〉

夫     〈隣の小娘、お前には関係の無いことだろうが〉

長屋の娘  〈関係無いなんてことがありますか。お幸さんは、疑われるようなことは天地神明に誓って、なさってはおりません。全然家に居ないあなたより、いつも隣に暮らしてるアタシが一番よく知ってます〉

妻     〈すまないねぇ、ありがとうねぇ〉

夫     〈ふん、寄って集って人をたばかりやがって。我慢ならねェ〉


【そういうと夫の方が、夫婦喧嘩の仲裁に入った隣家の娘を突き飛ばしまして、娘はと言うと、床におります妻にぶつかるようにして倒れ込みます。どじょう売りは、この顛末をつぶさに見ておりましたが、怖じ気付いて踏み込めないでいる様子。そぉっと場から立ち去ろうと致します。そこへ、助けを求めて娘が追いすがって言いますことには】


長屋の娘  〈どじょうさん、どじょうさん。何とかお助け下さいまし・・・〉

どじょう売り〈あたしあ、どじょうは売っておりますが、人の子でして。決して「どぢやう」じゃないですんで(ト去ろうとする)〉

長屋の娘  〈(男に蹴られ)キャァ〉

どじょう売り〈(見かねて)アァ、もう、しょうがない(ト言って長屋へ踏み込む)

マァマァ、旦那さん。落ち着きなすって下さいな、正気の沙汰とは思えませんで・・・。マァ、このしがないどじょう売りの顔に免じて何とか・・・〉

夫     〈何だ、貴様は?隣の小娘に続いて、お節介な野郎だ。黙ってろ〉

どじょう売り〈イヤァ、あっしもできることなら、お節介なんかしたくありませんでしたよ・・・。ここは一つ、堪忍してやって下さいな〉

夫     〈うるせえ、これ以上やるなら、容赦はせんぞ〉

どじょう売り〈ヒャァ〉


【夫はどじょう売りに掴み掛かります。どじょう売りも、伊達に毎日棒手振りのなりわいをしてはいないと見えて、体付きは屈強、しばらく組んずほぐれつの様。しかし、今は牢人とは言え、元は一廉の侍であった夫には敵いませんで、しまいには、どじょう売りは突き飛ばされてしまいます。突き飛ばされた先の床には、先程までの夫婦喧嘩で床に落ちて割れました徳利から流れ出た酒が一面に拡がっております】


どじょう売り〈(着物の袖を払って)アア、体中酒でびっしょりだ(ト再び立ち上がる)〉


【依然、向かってくる夫に対して、どじょう売りの背後から二人の女性が、近くにあった物を投げて加勢をします】


妻    〈えい(ト砂糖の盛られた枡を投げつける)〉

長屋の娘 〈えいっ(ト醤油の入った瓶を投げつける)〉


【ところが、どじょう売りの武運つたなく、無情にも、イヤ噺家には都合よく、投げつけたそれらは皆、夫の前に立ちはだかっていたどじょう売りの後ろ姿に命中してしまいます】


どじょう売り〈アッ、痛、痛〉

妻・長屋の娘〈アラ、どじょうさん・・・〉


【酒に続いて、どじょう売りは砂糖と醤油をも身にかぶってしまう始末】


長屋の娘  〈どじょうさん、ごめんなさいねェ。大丈夫ですか?〉

どじょう売り〈マァ、いささか痛かったですが、それより何よりも、酒から醤油から砂糖から、着物に染みついちまって、たまりません〉

妻     〈どじょうさん、こっちを向いてないで。後ろ、後ろ〉

どじょう売り〈エッ〉


【言われてどじょう売りが夫の方へ向き直りますと、怒れる夫は、地袋へ歩み寄って、今はおちぶれたといえども守り続けたる伝家の宝刀、かの妖刀・村正の一振りとやらを取りいだします。次いで目が据わったままツカツカと近寄って来まして】


夫     〈(口調がにわかに町人風から武家風に変わって)手前、今は牢人に甘んじたるといえど、元は姫路新田藩酒井家に仕えし侍。かように、おのれの妻はおろか、隣家の小娘、果てはどじょう売りにまでも小馬鹿にされし恥辱は、げに堪えがたきものなり。しかれば、我が家に代々伝わりたるこの名刀、村正をもって、ここにまとめて無礼討ちに取ってくれるわ〉

どじょう売り〈アワワ、殺される・・・こんなとこで死ぬのかァ。南無阿弥・・・アッ、今朝聞こえて来た念仏は、もしかしてこのことを言ってたのかァ?〉

長屋の娘  〈キャァァ〉


【と言って長屋の娘は、窮余の一策、台所にございましたゴボウを男に向けて放ちます。ところが、この夫、元は侍と言うだけあって、藩士として勤番、江戸詰めの時分には、鏡新明智流の名士と鳴らした男でありまして、飛んでくるゴボウをば】


夫     〈エェイヤァァ〉


【と気合いと共に、一刀両断・・・するかと思えば、そこは手練れの剣客、そんな芸の無い技は致しませんで、目にもとまらぬ間に、刀を縦横無尽に振りさばき、ゴボウの飛んで落ちたものを見ますと、何と見事に笹掻きに切られているといった有様】


夫     〈覚悟ォ(ト刀を振り上げる)〉

どじょう売り〈ウワア、南無阿弥陀仏~(ト目をつむる)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(トしばしの沈黙の後、恐る恐る瞼を開く)

あれ?た、助かった〉


【あれほど怒髪天を衝く勢いだった夫はと言いますと、朝から呑み続けていた酒が完全に回ったようで、振り下ろした刀の重みに体ごと持って行かれ、どじょう売りの横を掠めて床にズドンと突っ伏し、今やグウスカと眠っておる次第で】


どじょう売り〈ふう、死ぬところだった。酔い潰れるのがあと一歩遅かったら・・・ゾオォっとする〉

長屋の娘  〈どじょうさん、早く刀をどっか他へ。早く、早く〉

どじょう売り〈そうだ、そうだ。もう斬られてたまりますか(ト刀を持つ)

アッ、これは・・・妖刀村正・・・た、た、祟られたア。お二人さん、早く逃げて下さい。見境無く斬りつけるやもしれませんぞ〉

妻     〈大丈夫です。夫はそう信じて言っとりますが、実のところは単なる鈍刀、祟りなんてもんはありゃしません〉

どじょう売り〈こりゃ、私はまたまた命拾いしましたようで〉

長屋の娘  〈お幸さん、これからどうしますか?ひとまず、この場はこのままにして、うちへ来て手当しましょうか?〉

妻     〈花ちゃん、本当にありがとうねぇ。この人は眠らせたままで、酔いが醒めて起きましたら、また一から説明しようかと思って〉

長屋の娘  〈でも、いくらお酒が抜けたからと言って、説明して分かって貰えるかしら・・・〉

妻     〈サァ、それは・・・・〉

長屋の娘  〈それに、また暴れ出しましたら・・・。うちの父と兄もまだ当分帰っては来ませんし〉

妻     〈・・・・・・・・・・・・・・・・〉


【一難去ってひと安心のどじょう売りは、二人の女性の会話を静かに見守っておりましたが、長屋の娘さんの器量の良さはもちろんのこと、改めて見ますと、元お侍の奥方の一際優れてお美しく、薄幸にうちしおれたる様子の可憐なこと。先程までの喧嘩で顔には少々生傷がございますが、イヤ、そんなものにも決して邪魔をされることのない艶やかな様であります。どじょう売りは呆けたように黙り込んで見ておりました】


長屋の娘  〈どじょうさん、どじょうさん。聞こえておりますか?〉

どじょう売り〈(正気に戻ったように)ハッ、はい、何でしょう?〉

長屋の娘  〈あなたのお蔭で何とか収めることができました。本当にありがとうございました。とんだご商売のお邪魔をしてしまって。いつの間にか、もう正午近くに〉

どじょう売り〈アッ、いえいえ、心配御無用です。一日くらい儲けが無くとも・・・(ト痩せ我慢)

それでは、私はこれで〉

妻     〈あっ、どじょうさん、ちょっと待って下さいまし・・・(ト蚊の鳴くような小声)〉

どじょう売り〈はい、何でしょう?〉

妻     〈・・・・・・・・・・・・(ト何か言いたげであるがためらう)〉

長屋の娘  〈アッ、そうだわ。どじょうさん、本当に迷惑かもしれませんけれど、もしよろしかったら、この御方が目を覚ましますまで、ここに居て下さらないですか?あなたの口からも、色々と巧く説明してあげて下さいな〉

どじょう売り〈(内心では一日の商売がパァになることにガッカリしているが表情には出さずに)えっ、アッ、はい。いいですよ。女人二人だけではまた何かと心配でござりましょうから・・・〉

妻     〈ありがとうございます(ト深々と礼をする)〉

どじょう売り〈いえいえ、頭を上げて下さい。わたしは大丈夫ですから〉


【どじょう売りは、気が進まなかったものの、仕方なく請け負いました。しかし、実はこれ、全て妻の思惑通りと言ったところでございまして、夫の寝覚めが不安で男手を必要としていた妻の、沈黙の一計に、この脳天気などじょう売りはマンマと乗せられたと言う訳であります。ところが、その時】


夫     〈フゥ、フワアァァア、ウゥン。ん、いかん、いかん、寝てしまったようだ。おおい〉

どじょう売り〈(血の気が引いて)ウワァ、アレェ、早いなぁ。まだ 酔っ払ってんじゃ・・・〉

妻・長屋の娘〈・・・・・・・・・・・・・・・(ト揃ってどじょう売りの背後へ隠れる)〉

夫     〈おい〉

どじょう売り〈ええと、これには事情がございまして・・・。話せば長くなりますが〉

夫     〈いや、よい〉

どじょう売り〈へ?(ト呆気に取られる)〉

夫     〈だから、よいと言うに〉

どじょう売り〈へ、イヤァ、聞いていただかないと、こっちが困っちゃうんで・・・〉

夫     〈実を言うと、恥ずかしながら、酔境での出来事とはいえども、事の顛末はすべて覚えておるのだ。拙者自身、大変に申し訳ないことをなしたと思っておる次第だ・・・〉

どじょう売り〈何ですか。それなら、正気であのようなことを?(ト怯えながら尋ねる)〉

夫     〈イヤ、拙者とて、正気であったはずもござらん。酔いの中で狼藉をしたのは決して正気の沙汰ではない。ただ、今になってみると、記憶だけは明確に残っておるのだ。だからこうして、大変申し訳なかったと謝っておる。もう二度と、あのような暴虐は致さぬ(ト妻の方へ居直って謝る)〉

どじょう売り〈ヘェ・・・。でも、マァ本当に傷付いたのは奥方様でございますから(ト妻に追及を促すような口振り)〉


【どじょう売りの思惑に反して、これが切っても切れぬ夫婦仲とやらでございましょうか、妻の方は夫へすがるようにして叫びますことには】


妻     〈分かって頂ければ、それでいいんですから〉


【仲直りした夫婦を前に、どじょう売りは飛んだ肩すかしを喰ったような様子で夫婦を見ていましたが、この二人のために今まで尽力してきたことが急にバカらしく思えて参りまして】


どじょう売り〈マァ、よかった、よかった。それじゃ、あたしはこれにて失礼します〉

長屋の娘  〈あっ、どじょうさん。色々とお世話になりまして〉

妻     〈そうですね。本当にありがとうございます〉

どじょう売り〈いえいえ〉

夫     〈そうじゃ、その酒まみれ、砂糖まみれ、醤油まみれのなりでは都合が悪かろう。着物までは、いかんせん貧なるがゆえに面倒は見れぬが、ちょっと湯屋へと行ってきてはどうだ?無論、代金は出す。深川は土地柄、湯屋も少ないが、ちょっと先の佐賀町にあるからな〉

どじょう売り〈(とっとと立ち去りたい様子で半ばふて腐れたように)へへへ、煮るのは結構なんですがね。よろしかったら、綴じるための玉子を一つおくんなせえ〉

夫     〈ん、湯屋に行くのに玉子とは、いかに?必要ござらんだろう?〉

どじょう売り〈イヤイヤ要りますよ。ご覧なさい、あなた様が斬ったゴボウの、マァ見事な笹掻きを。それに、この染みだらけの着物・・・〉

夫     〈ほう、それと玉子にいかなる由縁があるのだ?いいから早く、ここ深川の湯屋へ行って参れ。それでもまだ玉子が所望か?〉

どじょう売り〈ええ、もちろんでございます。どじょうは深川じゃなく、柳川に限りますから〉  


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【落語台本】どぢやう 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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