随行

三崎伸太郎

第1話

朝が来た

「じゃ、おっ母あ、ちょっといってくらァ」

梅吉は、土間の竃(かまど) を覗き込み、頬を膨らませて火吹竹(ひふきたけ)で風を送っている母親に声をかけた。

母親は煙で目をしょぼつかせながら、上がりくちに座って草鞍(わらじ)をはいている息子の梅吉を仰ぎ見た。煙が、あばら屋に射し込む朝日の中でくるくる回っている。

「飯、食ってけ」母親が言った。

「飯?」

竃(かまど)にかけてあるお釜から飯の沸き汁がこぼれたところである。これが釜の表面で乾き、汁がこぼれなくなると飯が炊けたと言う合図になる。

「おらァ、アメリカに行くんだぜ。早く村垣様の御屋敷に行かなきゃあならねえ・・・」

梅吉は言いながら、ふと母親の背の小ささを目で捕らえた。

「飯、食うか」彼は思い直して草鞍を足からはずした。漁師だった父親は三年前になくなっている。母一人子一人の生活である。

母親が椀によそおったのは白い飯である。湯気がゆらゆらと上がっている。焼いた干し魚に、漬物と味噌汁が膳の上に置かれていた。

「おっ母あ・・・」膳は一つしか出ていない。

「梅吉。 早よう食え」 箸を取り上げない息子に母親が言った。

「・・・」親と子である 梅吉は、母親の気持ちを思い箸を取り上げた。

このように白米が多く入った飯を食べたことは、一度もなかった。お奉行様でも、こんなに白い飯は食っていねえだろうと梅吉は思った。梅吉がアメリカに行くことになって以来、母親が油紙を貼った篭の中で選り分けていたものは、米粒であったのだろう。

漬物をかじると少しすっぱい味がする。彼が一番好む漬物の味である。

椀の飯が終わると、母親が手を差し出した。

「腹一杯、食って行け」と言う。

梅吉は、熱々の飯を口に運ぶ。運びながら、ふと入り口の障子戸を見ると、破れ目が乾いた風にひらひら動いている。彼は噛んだ飯を口にして台の上から半紙を取上げると、障子戸に近寄り、口の飯で半紙を破れ目に貼り付けた。

「おっ母あ、風邪ひくな。おらァ、無事帰ってェ来る。心配いらねェ」梅吉は、板の間に敷いた小さいゴザの上で、息子の動きを見ている母親を振返って言った。

母親は無言である。梅吉は再び膳に向かうと、干物の半分を母親に残しガツガツと椀に盛られた飯を食べ漬物をかじった。

「こんなにウメェ(美味い)飯を食ったこたァねえや。 村垣様だって、こんなウメェ飯を食えねえだろう。いや、将軍様だってだ。おっ母あ、これは、ウメェ」

後は言葉にならなかった。

「煙たくて、いけねえ。 煙が目にしみる・・・」梅吉だけがしゃべった。

母親が土間に降りて竃(かまど)に行き、煙っている薪を手で引き出した。薪の煙が羽衣のようになびきながら薄暗い土聞の向こうに流れてゆく。 梅吉は、漬物を皿から手でつまみ上げた。口にポイとほうばるとコリコリ音を出して噛み、母親に視線を当てた。

「おっ母あ。腹一杯だ。おらァ、温けえ飯が腹にあるうちに行くぜ。今日はさむそうだからよォ 」

梅吉は草鞍をはいた。昨夜、母親が銭を持って行けと、コツコツ貯めていたらしい銭を彼の手に握らせた。 アメリカは、江戸の銭が使えねェと村垣様が言っておいでだよ。銭はいらん。食い物も全部、幕府もちだからよ。おっ母あ、心配しねェでくれ。おらァ、もう、行くぜ。



梅吉が、ひょんな事から外国奉行の村垣淡路守範正の屋敷に奉公し始めたのは十五才の頃で、範正が蝦夷奉行〈北海道 )で赴任する時に同伴し、数年間アメリカ人の抑留者であるレイナルド・マクドナルドから英語を教わった。七年前のことだ。

淡路守の屋敷で築山を手入れしている時に、たまたま範正が招待した外国人が梅吉に英語で話しかけ、梅吉がたどたどしいながらも英語で受答えできたことが範正の耳に届いた。

「その方、英語ができると聞くが、本当かい?」気さくな範正が梅吉を呼んで聞いた。

「へい。殿様と蝦夷にめえりました折、ほんの少しですがあ、教わる機会がごぜえまして」

「ほう、驚いたのう 」

「そう、難しいものでもございやせん」

「さようか・・・」と範正は答えて、少し考えていたが手元に合った英語の本を取上げて梅吉に差し出した。

「読めるか? 」

本を押し頂いて手にとり中を開いたが、かなり難しい。

「殿様。こりゃあ、難しい。 分かりませんでございます 」

「ぜんぜん分からぬと申すのか?」

「へい。半分は分かりません 」

「半分とな?」と範正は言い、軽く声高に笑った。

「半分で、十分じゃ。 余がアメリカ行きに随行せい」と言うことで、梅吉はアメリカへ行くことになったのである。



千八百六十年二月十三日、万延元年正月、江戸幕府はアメリカ合衆国に使節を送ることになった。新見豊前守正興を正使とし、副使に村垣淡路守範正、立会に小栗豊後守忠順の三人の使節を始めとして総勢七十七人の随行員である。

彼達が蒸気船であるアメリカの軍艦ポーハタン号で品川沖を離れた日は、空の一部に雪雲が残り、風に吹かれて来た雪が蒼い空からちらついていた。

「梅!」誰かが梅吉に声をかけた。振り返って見ると通詞の名村である。

「名村様 」

「梅。名村様じゃなかとぞ。 名村と呼んでくれんか。おまんは、レイナルド先生門下では兄弟子じゃあなかか。おまんに、名村様などと呼ばれると、わしゃあ恥ずかしかあ 」

「へい。しかし、あっしは・・・」と梅吉が頭を掻くと、名村は、では名村さんと呼んでくれと言った。

梅吉は、抑留されていたレイナルド ・マクドナルドに蝦夷で英語を教わっていた。名村はレイナルドが長崎に送られた時の生徒である。

「名村さんもアメリカ行きでございますか? 」

「うん。わしは、殿様達の通詞を仰せつかっての 」

「そりゃあ、良かった。 名村さんが一緒だと、心強い」

「わしは、船がにがてばい」名村は、心持ち顔があおい。

白い雪が軽く海のほうから吹き上がって来て、再び落ちて来る。木の甲板に当ると瞬時に消えた。

名村がゆらゆらと揺られながら去って行った後、梅吉は江戸湾の方に目を向けた。 陸地は、水平線と平行に線を引いたようになって見える。 厚い雲の上に雪をかぶった富士山が光っていた。

三日前には、江戸幕府がオランダに建造させた蒸気内車船カンリン丸(ヤパン号 )が日本人乗組員の航海でアメリカに向かった。 勝海舟を艦長に、軍艦奉行木村摂樟守ら九十六名の日本人が乗り込んでいたが、ほどんどはアメリカの捕鯨船に乗っていたジョン・万次郎の航海術に頼っている。

梅吉の乗っているポーハタン号は、ジョサイア・タトナル提督とジョージ・F・ピアソン艦長以下ベテランのアメリカ人乗組員達である。

「梅!」再び誰かが梅吉を呼んだ。 今日は皆、背後から声をかけやがると思いながら振り向くと、与一と言う料理人頭である。

「蒸気船てェのは、うるさくてかなわねえ」と彼は言った。梅吉は、料理人や使節に随行している足軽、仲間ちゆうげんの身分にある連中の通詞である。上級の武士や医師の通訳は、名村のような幕府の通調が行う。

「ヨイさん。ここ辺りは船の先だから、まだマシじゃあねえのか。水車のあたりは、ひでェもんだ 」

「おメェ、行ったのか?」

「ああ、見てみた 」

「水車は、いってえ誰が回してるんだい。 アメリカ人てェのは力がある・・・」

「ありゃあ、アメリカ人が回してるんじゃあねえよ。おらァ聞いたんだがよ。エンジンと言うカラクリでうごくらしいや」

「カラクリか・・・」

「燃える石(石炭)で湯を沸かして、蒸気を・・・なんだ、その、筒の中に入れて、蒸気が蓋を押し出して・・・分かんねえ。 おらァ、詳しくは分かんねえが、とにかく蒸気で動かしているらしいぜ 」

「へえ、こりゃ、てェしたもんだ。メシ炊く時、釜から噴き出る蒸気はァ毎日見てるが、あれが船を動かしているたァ、思いもよらなかったぜ。まったく、てェしたもんだ。源三など、あのバカ、牛で動かしてるんじゃあねえかなぞと言ってやがった 」

「牛か。そりゃ、名案だ 」二人は笑った。

「源三の野郎、後でとっちめてやる」

「ところで、ヨイさん。 釜の準備はできたのかい?」

「いけねえ。 肝心な事をを、忘れていたぜ。梅、一つ頼みがある」

「何でェ、そりゃあ 」

「釜の位置が良くねえ 」

「釜の位置?」

「ああ、そうよ。 木賃で料理するのはいいが・・・」与一は、木賃宿のキチンといったが、キッチン(調理場}である。。

「キチンじゃあねえよ。キッチンだろう? 」

「それだ。そこにはアメリカ人がいる」

「あたりめえだよ、ヨイさん。アメリカ人だってえ、飯を食わァな 」

「いや、そうだがヨ、料理は別の部屋でつくりてェや 」

「別の部屋でか・・・」梅吉は言いながら、ふと海の方に目をやった。海の色が黒である。

ポーハタン号は黒潮(日本海流 )を横切っていた。

白い波が黒いうねりに散らばって見える。 大きな波涛がうねっているが、船が大きいせいか揺れは少ない。 丸みのある雲が彼方にある。

「分かった。話してみらァ。それよか、見なよ。黒い色の海だ。この海の流れに入ったらお陀仏だと聞いていたが、アメリカ人はてェしたもんだぜ。平気で往来する 」

「まったくだ。 それで、どうなったんでェ? カンリン丸はヨォ」

「うまく行ってるのじゃねえかい? 」

「日本人だけで、この海を渡るたァ、見上げたもんだ 」

「いや、ジョン・ブロークてェアメリカ人が一人、乗っているらしい」

「へえ? 何を食うんだ? 」与一は料理人らしくアメリカ人の食事に関心を持った。

「ブレッドと言う物を、持って乗ったと聞いたが・・・」

「何だい? 」

「バテレンのパンと同じだと聞いた 」

「へッ? あんなもんじゃ下っ腹にカが入らねえ 」

「腹減りゃ米の飯だって食うだろうヨ。ところで、殿様達の召し上がる物は全部積んだのかい? 」

「あっ、いけねえ。積んだこたァ積んだが、整理していねえや。とにかく、調理場をくんねい」

梅吉は話して見らァと言い、与一と別れて船尾のほうに歩き出した。船尾は艦長とか仕官など上級乗組員の部屋がある。もちろん三人の使節の部屋も船尾に設けられている。船の中辺りにある筒(煙突 )から煙がもうもうと出ている。梅吉の聞き慣れない蒸気エンジンの音と外輸の回る音が騒々しい。船には三本のマストが立っている帆は張っていない。

蒸気船の両側に付いている大きい水車のような輪で、海水を掻いて進むのである。ポーハタン号には、通常水夫と海兵隊員が二百から三百人乗り込んでいるわけだが、七十七人の日本人が乗船しているので百五十名ほどに減らされていた。 甲板を歩いていると乗組員達が忙しそうに働いているのが目につく。軍艦らしく、あちこちに大筒(大砲 )が置かれている。今までに見たこともない大きさだ。大筒は、歯止めしてある小さな車輸の付いた台の上に置かれていてロープでくくられ、船の揺れで動かないようにしてある。 梅吉が与一に頼まれた件で担当仕官の部屋に行くと、名村が来ていた。

「梅、丁度よいとこに来たバイ」と名村が言った。

仕官も梅吉を見て「ちょうどよい時に来ました」と名村と同じ事を言った。

「どうしました? ジョンストン中尉 」

「いま、此の方に話したのですが、日本人の方達は船のルールが分かっていない。この航海に先だって艦長から船内規則が出ていたでしょう?」

ピアソン艦長は、船上となる日本人達に十二の規則を課している。

航海上における喫煙、トイレ、飲料水、酒などに関するルールだったが、特に火の取り扱いには注意をするようにと指示していた。

「ああ、聞いております」

「船を安全に航海するためには、船のルールに従ってもらわなければならない」

「特にどういった点で、ございますか?」

「まず、火です。 日本人の方達は、紙で出来たランタン(行灯)を部屋のあちこちに立てている。 これを止めていただきたい。それに、火は総て甲板で使うようにしてください」

当時、船の火災は深刻であった。まだ鉄板で区切られた場所が少なかったからである。

「料理もでございますか?」

「そうです 」

「甲板にある船の調理場が小さいので、他に部屋をくれと日本人の料理人が言っています・・・」

「部屋?」

「日本人の食事を料理するところです 」

「それは、難しい」

「では、船の調理場を時間で割当てていただけるでしょうか?」

「それなら、多分よいでしょう。しかし、船の料理長はプライドを持っています。 彼に話しては見ますが、駄目な場合は、別の部屋を考えてみますよ 」

「ありがとうございます 」と梅吉が頭を下げると名村がジョンストン中尉に話しかけた。

「日本の布団を床に敷けないと言う事は、どうなりますか?」

「名村さん。船室には箱型のベットがこしらえてある。確かにフトン(布団)と呼ばれる日本のブランケットを敷くには狭いかもしれないが、床に敷くと非常時に困る事になりますよ」

「どういった場合にでしょうか?」

「船が嵐に遭った時に怪我をする」

梅吉達のベットは二段になっていて狭かった。使節の部屋は個人部屋であるが、やはりベットは小さい。殿様の布団は特に大きいので床に敷いていた。名村は、何とか殿様達だけも床に布団が敷けるようにジョンストン中尉に頼み込んだ。彼は例外としてこれを見とめたが、行灯あんどんを立てる事は禁じた。 部屋に取り付けてある船内用カンテラのみを使うようにと名村に指示した。

名村は殿様達にこの事を説明に行き、梅吉は船首の方にある従者達の方に向かった。



船首にある従者達の船室には、所狭しと荷物が置かれている。荷物の間から仲間(ちゅうげん)や足軽の身体が見えている。

「荷物は船底に置くんじゃあなかったのですかい? 」近くにいた仲間に聞いた。

「オイラ達は小栗豊後守様の者だが、殿様の物を他人の倉庫なんぞにはおけねェ」

「じゃあ、どこで寝ますんで? 」

「寝る?アメリカなんぞには、直ぐ着かァ」

「直ぐ着く?とんでもねェ。 あっしの聞いたとこでは、一月から-月半」仲間はキョトンとした顔で荷物に手を回した。 梅吉は、寝台に腰をかけて煙草を吸っている連中に目を向けた。

「煙草を船室で吸うこたァ知らねえが、火の元に気を付けろとのお達しですぜ 」

「あたりめえよ。こちとら江戸っ子だ。火の元ぐれェ 気を付けてらァ」荷物の影から、誰かが言った。

「行灯と蝋燭も使えねえ。カンテラと言う物だけで」梅吉は天井から鎖でつら下げであるカンテラを指差した。

「へッ、行灯のどこがいけねえ 」と言う声に、数人が同意した。そこに名村が目付格の武士と一緒に入って来た。

「お達しである 」と武士は前口上し「ピアソン艦長の十二のルール」を繰り返した。次に名村が荷物を船底の倉庫に運び入れるように指示した。 名村と一緒に与一のいる船底の倉庫に行くと、彼達は食料を整理していた。米の俵やカマスと呼ばれる藁で作った袋に入った魚の塩漬け、樽に入った沢庵や梅干、味噌が置かれている。

「よう、梅。部屋は貰えたかい?」与一は梅吉に聞き、名村に気付くと深く会釈した。

「ああ、よか。 挨拶はいらんばい。オイと梅吉がアメリカ人から注意を受けたんじゃが、 おまんら七輪とかを船内で使わんようにしにゃあならんぞ。船には船の旋があるゆうてェの、特に火を使うのは注意せにゃあならん 」

「名村様。では、あっし達はどこで料理を作るんですかい? まさかあ煮炊き出来ねェわけじゃあ・・・」

「いや、梅吉が船の偉さんと話ちょった。煮炊きはできるが甲板でしてくれんかとの仰せじゃった。後は梅吉に聞いてくれんか 」

名村はこれだけ言うと、火の用心ぞと料理人頭の与一に念を押し、何かあったら梅吉に相談するようにと言って、あたふたと船底の倉庫から出て行った。 船底にいると船酔いしそうになるのであろう。

ここにいる与一や料理人達は幕府の御用船の料理人なので、船には慣れている。彼達は、嵐で船がゆれた時、荷物が動かないように樽や俵をうまく整理している。

「ヨイさん。聞いた通りだ。煮炊きの場所はしばらく待ってくれねえか?」

「梅、今日は大丈夫でェ。ほら、見ろ 」与一の指差したところには干した笹の皮でくるんだおにぎりが積まれている。

「食うか?」与一が一包を取り上げて梅吉に渡した。

「いいのかい? これりゃあ、御武家様の物じゃねェのかい?」

「おめえ、知らねえな? 御武家さんたちゃあ、既に船酔いさ 」

「船酔い?」

「そうってことよ。 船に乗った経験のあるお武家さんや仲間、足軽は少ねえ。料理の手聞がはぶけらァな 」与一は言いながら首を手でさすった。 彼の言った事はどうやら本当のようだ。侍たちは甲板に姿を見せなくなっている。おにぎりの包を懐に入れ、甲板に上がって海を見ると少し波が高い。それでも、蝦夷の海に比べるとまだ良いほうだと梅吉は思った。蝦夷の海は普段でも波が荒い。カモメが船首の先でギャアギャアわめいている。昼近くだ。

「もし・・・」誰かが梅吉に声をかけた

梅吉が握飯を食べよとして大筒大砲の近くに腰をおろした時だった。

日本人のようなアメリカ人が立っている。梅吉が座ったまま相手を仰ぎ見ると、相手は、少し微笑して恥ずかしそうな顔をした。

「へい、何でしょ?」と梅吉が訝しげに答えると相手は片手をズボンのポケットに入れ、 片方の手で梅吉を指差すと「あなた、梅吉、さん?」と、歯切れの悪い日本語で聞いた。

「へい。さいですが・・・」

「レイナルド、知ってる?」

梅吉は、ポーハタン号に日本語を話せるアメリカ人が乗っているとは知らなかった。

「へい。 知っておりやす 」

「レイナルド、今、どこ? 」

「あっしは、蝦夷で会っただけでさア」

「じゃあ、もうアメリカに帰ったかなあ」英語だった。

「通調の名村様は、レイナルド先生に長崎で英語を教わったらしいですよ」梅吉も英語で答えた。

相手は、梅吉をじっと見て「武士?」と聞いた。

「いや、漁師ですよ」

「ほんとう? 」

「そうです 」

「なぜ、漁師が殿様に付いてきているのだろう? 」

「さあ・・・」くだらない質問に梅吉は少し苛立った。

「あっしは、飯食いますんで」日本語で言うと「こりゃあ、すまんことです」と相手も日本語で言い、お握りですなと梅吉の手元を見た。

「一つ、食いますか? 」

相手は、お握りをじっと見て梅吉を見「いいでっしゃろか?」と、聞いた。

「遠慮いらねえですよ。さ、どうぞ 」笹の包を差し出した。男はお握りを取り上げると梅吉の横に腰を落とし、白い飯を眺めた。

「懐かしいでんなあ・・・」感慨深そうに言う。

梅吉はお握りをかじりながら海に目をやっている。

「わて、音吉。アメリカ名ではサム・パッチと呼ばれてますんや」

「へえ・・・日本名が・・・」

「はいな。もと漁師で・・・」

「もと?」

「時化(しけ) でェ流されてェ、アメリカに着いたちゅうわけですわ」音吉は、お握りを口にした。

「やはり、飯は美味いですなあ 」と片手のお握りを揺さぶって言った。

「レイナルド先生とは、どこで会われたんですかい? 」

「遭難したところを、レイナルドさん達に、助けてもろおたんですわ」音吉は、お握りの飯粒が口の端に付いたのを手で押し込んで、感慨深そうに言った。

「この、黒い海・・・」音吉はあごで海を指して「ひどうおました・・・」と、おにぎりを噛み締めるようにしてつぶやいた。

墨絵のような海である。 梅吉と音吉は無言で梅を見ていた。

「生きててよかったじゃあねえですかい」

「ま・・・」梅吉の同情に音吉は短く答えた。

「黒船が江戸に着いた時、故郷(くに)には帰えったんですかい? 」

「役人に捕らえられるとこでしたんや。アメリカ側が、自分たちの国の人間であるからと幕府の役人に申し付けていただきましてな、それで、ちょっと伊勢の方には帰りましたんやが、もうあきまへんでした。 住めんかったですわ。墓立ってましてな、女房は他の男に嫁いでましたんや。子供もいて・・・そいで・・・」

後は聞かなくても分かった。梅吉はうなずいて、音吉に水の入った竹筒を渡そうとした。

「いや、飯の味がなくなりますよってに」と音吉は断り、ポケットから一枚の金貨を取り出して梅吉に渡した。

「これ、お礼ですわ 」

「とんでもねェ。 おにぎり-個くらいで、もらえねェ 」

音吉はニコリと微笑むと「おにぎり一個の値打は、この金の何倍もあますよって 」と言い、金貨を梅吉に押し付けた。

梅吉は手を広げて見た。金貨が光っている。 一八五四年に、ペリーが日米和新条約を締結させると、神奈川の下田にアメリカ総領事が設けられた。初代アメリカ総領事には、タウンぜント・ハリスが赴任して来た。ハリスは、幕府当局者の目を世界情勢に向けさせ、日本が世界的な後れを取る焦りを植え付けることによりアメリカ有利の通商条約の調印に成功する。使節や随行の武士達は、このハリスからアメリカの文化状勢をさんざん聞かされていたので、出港前にアメリカの通貨を個人の財政の許す限り購入していた。カンリン丸に乗込んだ木村摂津守などは、オランダ人から購入したメキシコ銀貨を箱に詰め込んで持ち運んでいるらしい。メキシコ・ドルは「貿易ドル」として、世界各国の貿易や東洋貿易に用いられていた。

梅吉は、銭を持っていなかった。アメリカの通貨を買うだけの余裕が無かったのである。音吉に渡された手の平に乗っている金貨は、彼にとって初めてのアメリカの通貨であり、アメリカで使える金銭であった。

「一ドルですわ」音吉が言った。

「一ドル?」

梅吉は、一分金は見たことがある。万延〈1 8 6 0 )に造られた一分金はかなり小さめだった。淡路守に仕えて月に一分と二百文の給金をもらっている。四分が一両である。職人の手間賃が一日約三百文から五百文で、千文が一分なので梅吉の給金を「文」と言う江戸の貨幣に直すと千二百文である。 梅吉は下田で、三分が一ドルであると聞かされていた。 梅吉の手にある一ドル金貨は二ヶ月分程の給金に当るが、音吉はアメリカでは昼飯が食べられる程度だと言う。すると彼の手の中で光っている一ドルは、アメリカでは数百文ほどの価値しかないのであろうか。

「わて、仕事ありますよって」とサム・パッチこと音吉は言い、船尾の方に歩いて行った。サム・パッチの後ろ姿を目で追いながら、ふと、梅吉はアメリカの銭を江戸に持って帰れば金持ちになれると思った。 梅吉は竹筒の水をゴクゴクと飲むと手の甲で口をぬぐった。

さて、どうやってアメリカのの銭を稼ぐかであるが、彼は村垣の殿様に随行している。 迂闘なことはできない。梅吉はは首から下げたお守り袋の中に一ドル金貨をしまった。



夕方近く、風が出て来た。

夕食の膳を村垣淡路守範正に持ってゆくと、範正は一人悠々と酒を飲んでいた。

「おお、梅か。大儀じゃ」と範正は言い、他の者達は案じないかと聞いた。

「へい。手前の方の御用船に乗っていた連中は案じございやせんが、他のお侍やお供の方たちは船酔いで」

「そうか。 船酔いのう」と範正は軽く笑った。梅吉が範正の部屋を去ろうとすると、範正は梅吉を止め「その方、アメリカの銭を持ってはいないであろう」と言い、メキシコ金貨を三ドル手元の箱から取り出して梅吉に渡した。

「殿様、もったいのう御座います」梅吉は、銭を押し頂いて平伏した。

「ああ、これこれ、その作法は良くない。アメリカでは、その作法は良くないとハリスが申しておった。 以後は、座ったままでよいぞ 」

梅吉は、この言葉にへへッと再び平伏し、何度も頭を下げて範正の部屋を退いた。

三個のメキシコ・ドルが手の中にあった。サム・パッチに貰った一ドルを入れて四ドルが彼の手持ちである。

船首のほうに向かうため甲板に上がると、船員達があわただしく働いていた。 空全体を黒い雲が覆っている。まだ夜ではないので海が見えるが灰色である。

波が短く巻き込んではこきざみに白い波を立てている。近くにいた船員に聞いてみると、嵐になるかもしれないと言った。

今でさえ船酔いに苦しんでいる侍達は、一体どうなることやらと考えると少し愉快でもある。

船室に戻ると与一が梅吉を探していた。

「梅、てェへんだ」と彼は言った。

「何でえィ?」

「アメリカ人が来て、何かしゃべっているが誰もわからねえ」

「通詞は?」

「いねえ」

梅吉が与一の後を追って別の船室に行くと、アメリカ人水兵が三人いた。

「どうしました?」と梅吉が聞くと、中の一人が整理していない荷物の一つ一つを指差して、倉庫に移せと指示した。水兵によると、荷物が危険だと言うのである。それに、たばこを船室で吸うのを止めさせろと言った。

「分かりました。直ぐにかたづけさせます。ところで日本人通訳者は?」と梅吉が聞くと水兵は「船酔いで倒れている」と答えた。荷物を抱え込んでいる連中を説得し荷物を船底に移させた後、梅吉は名村達の船室に向かった。

通詞達の船室は、やはり船尾に設けられている。甲板に上がるのが面倒なので、船室の外側にある狭い通路を船尾のほうに歩いた。海が荒れてきているせいか両足を踏ん張った状態で歩かないと転びそうになる。梅吉は荒れた海に慣れていたが、片方の手を壁に当てて身体を支えなければならなかった。

船の中央部に来ると、水車のまわる音が大きく聞こえる。小窓から除くと、外輸が潮を 掻き上げている。ザザザザと言う音と共にシュシュシュなどど梅吉が今までに聞 いたことも無いような不思議なカラクリ(機械 )の音がした。 本当にこの水車はカラクリで回しているのであろうか。 料理人の源三が言ったように、牛で回しているのかも知れない。

梅吉は、カラクリの部屋に降りて行ける階段の方を覗いて見た。すると、階下に歩いているサム・パ ツチの姿がチラリと視野に入った。

「音吉さん」と軽く声をかけてみたが、周囲がうるさいので相手には聞こえなかったようだ。サム・パッチの姿は直ぐに梅吉の視野から消えた。

俺だって、江戸ッ子だ。この程度のカラクリに驚いてたまるかってんだ、などど梅吉は独りごとを言いながら、階段に足をかけた。 船体がゆれるので手すりにすがって下の階に降り立った。カラクリの音が大きく聞こえるが階下からである。

カラクリは船底にあるようである。

そろそろ牛の鳴声などが聞こえるだろうと思ったが、聞こえるのはやはり単調な響きのカラクリの音だけである。

梅吉がよろけながら歩いていると窓のあるドアが見えた。彼はドアに近付くと窓から中を覗き見た。大きなカラクリが動いていた。金属で出来た輸や筒や棒がゆっくりと動いている。数人の船員が中の通路を歩いていた。すごい仕掛けである。梅吉が見ているのは、蒸気で動くピストンや歯車であるが一つ一つが大きく出来ている。石炭で炊くボイラーの蒸気でピストンを動かし、円運動に代えて外輸が回る仕組みだ。

梅吉達のように日本の江戸時代の人聞は、大きな騒音を余り経験していない。火事や災害の時に叩かれる鐘楼の音や台風の音、日常では喧嘩騒ぎぐらいのものであろう。

だから、彼の目の前にある機械の動きや音に、梅吉は肝を抜かれたように呆然と見つめるばかりである。 船の揺れなどは、お呼びも寄らない驚きであった。

梅吉は恐ろしくなって甲板に上がった。船がゆれている。風が強く吹いている。顔を風とともに煙が打ち当った。煙は煙突からもうもうと立ち昇り風に流されている。 閣のためか黒い物が立ち昇っているとしか見えない。

「おい。そこはあぶないから船室に入れ」船員が梅吉に声をかけた。

「はい。しかし、通訳者の部屋に用事が・・・」

「駄目だ。自分の部屋に戻って甲板には出るな」船員の強い言葉に、梅吉は船内に入り船首の方に引き返した。

随行の仲間(ちゅうげん)や足軽達は完全に船酔いのようだ。 皆、箱型のベットに横たわっている。もう一階下に降りて料理人の与一達がいる船室に行くと彼達は酒盛りをやっていた。

「よお、梅。いっぱいどうでィ」既に出来上がっている。

「酒はどうしたい?」

「へッ。 木賃(キッチン)で見つけた 」源三が言った。彼の手にしているのは、今で言うワインである。

「キッチンで? 」

「いっぺい、あらァ」

「おいおい、源さん。そりゃ、泥棒じゃあねえかい」

「梅、人聞きの悪りィこと言ってくれるじゃあねえか。ちゃんと最後まで聞きやがれ」

「ああ、聞かせてもらいてェ。後で、なんやかんやで問題になりたくねえからよォ 」

「あたぼうよ。こんちくしょう 」

「分かったから、話してくれねェか 」

「味噌と引き換えた」

「味噌? アメリカ人は味噌の臭いが嫌いときいているぜ。それは、本当の話かい? 」

「おうよ」源三は茶碗に注いだワインをグビリと飲み干した。

「味噌壷に油紙で蓋をするようにさえ言われたじゃあねえか 」

与一が笑いながら、アメリカ人が味噌汁を飲んで気に入ったとさと言い、梅吉に茶碗に注いだワインを差し出した。 船の揺れで茶碗のワインが床にこぼれた。 梅吉は受け取ると匂いをかいで口にした。

彼達の目の前には沢庵が酒のつまみに盛り上げてあった。

「夕食は、既に終わったのかい?」

「皆、船酔いで飯はくわねえ。 暇だから酒盛りをしている」と与一が答えた。梅吉はまだ残っている笹にくるんだお握りと沢庵を肴に、料理人達とワインを飲んだ。



翌朝、嵐は治まっていた。

まだ波は荒いが天気は快晴である。蒼い海原が果てしなく広がっている。

「黒船ってェのは、すげえもんだぜ 」足軽達が話し合っている。船酔いから少し開放された連中は、与一達が作った味噌汁を飲んだ。朝、十一時頃である。普段であれば、彼達は服装を整えると自分の殻様のところに出向くわけであるが、船の中である。しかも殿様達は船尾にいて、足軽達は船首にいた。

「梅。殿様の食事の用意ができたか見てきてくれねえか?」仲間の食事係が梅吉に聞いた。

梅吉の殿様である淡路守は、梅吉に食事の世話をさせている。

「ついでだ。 見て来やす」と答え、与一達のところに行った。

甲板に設けられている調理場には、アメリカ人のコックたちが忙しそうに朝食の支度に追われている。 横に備えてある倉庫の中に与一達かいた。七輪にかけられた鍋には味噌汁が湯気をあげている。

「よッ、梅。なんでェ? 」言葉の悪い源三が顔を覗かせた梅吉に訪ねた。

「仲間に、殿様たちの朝飯をきかれてョ」

「できてらァ」

「どこに?」

「頭(かしら)が、毒味中だ。 生きているか見てみろ・・・」と源三があごを指したほうをみると、別部屋の戸が聞いていて中に与一の姿が見えた。

「お毒味? 」

「冗談でェ。 盛り付け中ってことよ 」

「豪華なのかい? 」

「味噌汁に漬物、それに飯とくりゃあ、豪華版じゃあねえのか? 」

「龍神丸と同じか・・・」源三や与一は、幕府の御用船「龍神丸」の乗組員である。彼達は蝦夷と江戸、長崎と行来している。 梅吉も範正の従者として、しばらく龍神丸に乗っていた。朝飯は昼飯と同じで、夕食を入れて日に二食が定番である。 村垣淡路守は、外国奉行として龍神丸に度々乗込んでいたので質素な食事にも慣れているが、他の殿様達はどうであろうか。

「ヨイさん。飯の準備はどうだい? 」梅吉が与一に尋ねると、上々だ、うめェ(美味い)味噌汁だと与一が笑った。

「新見様と小栗様も同じかい? 」

「村垣様は、ピンピンらしいが、後のお二人は駄目だとさ。それでヨ、せめて味噌汁だけでもと思ってヨ」

「ああ、そうかい。 天気は良いが、この揺れじゃあ仕方ねえか・・・」

「おおい、梅!」源三が声をかけて来た。

「何だい? 」返事を返すと、異人が来たと答えがあった。源三達のところに引き返すと、船の料理長である。

「どうしました?」と梅吉が英語で欄くと、源三の持っている包丁を指差して、あれが欲しいのだが譲ってもらえないか聞いてくれないかと料理長は言った。

「源三。彼は包丁が欲しいと言っておいでだ。譲れねえか?」

「なに?こんちき野郎メ。 包丁は料理人の命じゃあねえかい。命、くれってかい」

「いや、そうじゃあねえが・・・おめェ、それ 余分には持ってねえか?」源三は首を振った。

「包丁やるなら、命やらァ」源三は言葉が悪い。

「梅。俺が持ってらァ。 一本なら譲るぜ 」と与一が顔を覗かせて言った。

「一本なら、あります 」と梅吉が料理長に言うと「幾らか聞いてくれ」と彼は言った。

「ヨイさん。いってェ、幾らで売るつもりだい? 」

「ただで、進ぜるよ 」

「金は要らないそうです」梅吉の言葉に料理長は喜んだ。与一が包みから包丁を取り出して彼に渡すと、被は一ドル金貨を三枚よこした。お金は 要らないと持主が言っていると伝えても、彼は金貨を引っ込めようとしなかった。与一は梅吉から一ドルの値打ちを聞いてから、三枚の金貨の一枚を梅吉に報酬だと言って手渡した。



ポーハタン号は数日順調に航海を続けていたが、再び天気が怪しくなったのは航海後五日目の事だった。 今までに無いような嵐に巻き込まれる危険性を予期したジョンストン中尉が、日本人達に厳しく注意を促した。まだ船酔いから開放されていない随行員達は、死ぬような面持ちで自分のベットに身を置いた。中には般若心経を唱えている者もいる。

「う、うるせい! やめねえか、そのブツブツ言うのはヨ」蒼い顔をして口元を押さえ、吐き気を我慢している足軽が言った。

「いいじゃあねえか。 唱えさせてやりゃあ 」別の男が言った。

「おお、上等じゃあねえか。 おらァ、念仏でやりかえしてやらァ」と本人は言い、ゲーと手拭で口を押さえている。 何も食べていないので胃から戻す物はないようであるが、苦しそうである。それでも手拭で口を押さえながら念仏を唱えはじめた。

「や、やめろ・・・」などと、弱々しい声も上がったが効き目はない。

あちこちで般若心経、念仏、そしてゲー!ゲー!と吐く音が入り交じった。

船も波に抵抗するためか、外輸をフル回転で回しはじめたようである。慣れて来ていた水車のまわる音に力が加わっている。

「梅さん。 日本人に甲板に出ないように伝えて下さい」ジョンストン中尉が梅吉に指図した。

梅吉は随行員の船室を回りながら、甲板には出ないようにとのお達しがあったと告げた。しかし、誰も甲板に出たいような者はいないようである。ベットにしがみついているのがやっとのようだ。

ポーハタン号は三層に別れている。 一番上は仲間違の船室で、二番目は足軽と料理人達が使っている。 一番下の船底は倉庫になっていた。たくましいのは龍神丸の乗組員達で、嬉々としている。

「梅、牛は見たか?」彼達の部屋に顔を覗かせた梅吉に、与一が源三を意識しながら聞いた。

「でっけい牛だ。ありゃあ、この世のものじゃあねえ。大きさがこの部屋の三倍ぐれェあらァな 」

「モー!と鳴くのかい?」

「シュッ! シュッ!と鳴いてらァ」

源三がシュンと鼻を拭いて「あ、あたりめェだ。おめェ、外で回っているんざァ、でけえ水車じゃあねえか。でけェ牛じゃあねェと、ありゃあ回せねえ。ペ、べらぼうメ。いやに船が揺れやがる」源三のつまずいた言葉のように、かなりの揺れである。大嵐に違いない。

「なあに、一晩も吹きゃあ、おさまらアな」与一は言ったが、予想は外れて数日間も船は嵐にもまれた。

波はポーハタンの甲板を洗うほどの大きさである。使節も船に慣れている村垣淡路守範 正を除いて、ベットに伏したっきりである。使節の殿様遣に使える侍達もほとんどが駄目で、範正の命を受けた梅吉がお世話をしている始末だ。歳の若い小栗豊後守忠順は、家来のほかに犬猫まで連れてきていたが、殿様も犬猫も船酔いである。 ポーハタンが大波をもろに受けた後、梅吉が忠順の部屋に入ると、メキシコ金貨が床にぎっしりとこぼれており犬猫の頭が金貨の上に出ていた。

「殿様。大事ございませんか?」梅吉は、忠順の安全を確認すると、犬猫を金貨の中から掘り出した。

「すごい金貨でございますが、如何いたしやしょうか? 」

「ま、まこことに、すまんの・・・」忠順はよわよわしく答え、猫を懐に入れた。

「箱が、落ちたようでございますなあ・・・。この揺れでは、仕方ありますまい。怪我が無くてよござんした 」梅吉の言葉に忠順は何も答えない。 梅吉は忠順に水を軽く飲ませ、金貨を箱に戻しはじめた。 時々金貨が手の間からこぼれて梅吉の着物の胸元から腹に落ちて帯で止る。 被は、それを其のままにしておいた。

忠順は、梅吉に背中を見せて丸くなっている。

「殿様。 かたずけやした。 何か、用はごぜえやせんか? 」忠順は無いと言い、懐の猫がミーと鳴いた。

梅吉が自分の部屋に戻って箱のベッドに横たわり懐を押すと、メキシコ金貨が感じられた。 嵐は三日ほど荒れ狂った後、うそのように治まった。

荒れ狂っていた海も次第に緩やかになってきている。 全天を覆っていた厚い雲もきれ始め、やがて頭上に日が射して来た。海鳥達がどことも無く飛来してきて、マストの上に止まっては鳴いている。

誰の顔にも安堵の色がよみがえったが、船は予想以上に石炭を使いすぎていた。 この事を機関担当の仕官から連絡を受けた艦長は、急遽(きゅうきょ)航路を変更し、石炭と水を補給する為にハワイに向かうことを決断した。

航路の変更を聞いた村垣淡路守は、ポーハタン号の針路変更に侍ったをかけた。 ハワイに寄港することは、初めてのアメリカ使節としてアメリカに着く前に他国に寄ることになるので遺憾であると申し立てたのである。

しかし、ポーハタンにはアメリカまで行き着ける石炭がないと聞かされて同調せざるを得なかった。他の二人の使節は船酔いから開放されたばかりで、反論などする気力はなくまだ床に臥している。

料理頭の与一によると、今朝になって、やっと二人とも味噌汁を飲み粥を食べれるようになったらしい。



当時 ハワイはカメカメ ハ四世の統治する共和国である。

船が ハワイのオハフ島にあるホノルルと言う港に近付くにつれ、日本人が今までに見たことの無いような楽園が眼前に迫って来た。午後であるが太陽はまだ高い。 コバルトの内海に白い波が豊である。白い砂浜の後ろに緑の大地がある。大嵐を経験した後だけに、この島が本当の楽園に見えた。 洋式の家々の背後に、なだらかな縁の山が幾層にも交差して連なっている。

ホノルルの港には、多くの船が錨をおろしていた。この港は、捕鯨船の補給基地として、フランスやイギリスなどの船も寄港している。

「梅、お供の連中の具合はどげんぞ? 」通詞の名村が、甲板でホノルルの港を眺めている梅吉の近くに来ると、手摺りに両手をかけて言った。

「へい。 現金なもんで。 皆、飯を食い漁っているようなしだいで 」

「そうかあ、そち達は強いのう」名村が感嘆して言った。

「で、お侍様達は?」

「まだじゃ。まァだ、まだじゃ」

「使節様達もでございますか?」

「村垣様だけが元気ばい」

「村垣の殿様だけ 」

「ま、よかよか。それより、ホノルル言うとこは奇麗じゃあなあ・・・」

「名村さんは、通詞で島に上がりなさるのでございましょう? 」

「そう願いたいもんじゃ」

「初めての日本人じゃあねえですか」

「いや、万次郎達もここに来た事があるげな」

「 万次郎様がですか?」

「世界は、狭かあ 」

「世界?」

「全部の国のこったい、梅吉。これが、毬のようなまるぅか上に乗っちょるらしいぞ」

「毬? あのテンテン手毬でございますか? 」

「そうじゃ・・・真っ直ぐ行くと又元んとこに戻るう言われちょるが、わしゃ知らん」

「じゃあ、あっしらはアメリカに真つ直ぐ向かっておりやすが、アメリカを通り越して行くと、江戸に帰れるのでございますか?」

「そう、言われちょる 」

「へえ・・・こりゃ、すげえもんでございますねえ・・・」

「ところで、おまんもホノルルに上がれるとよいがのう 」

「あっしは、足軽でごぜえやすから」と梅吉が言った時、船が動きを止めた。外輪の回る音が止まると、急に周囲の物音が聞こえ始めた。波の音や水夫の掛け声などが忙しく聞こえて来る。

つい最近出来たと言われる船着き場は、船が横着け出来るようになっている。船からロープが岸に投げられてくくられ、ポーハタンは錨を降ろした。江戸湾を出発して二十三日目の三月五日の事であった。



上陸は副使である村垣淡路守範正がする事になった。これはカメカメハ四世の招きによるものである。 正使の新見豊前守正興は、日本からアメリカ合衆国に対する正使であるので他国に上陸する事は控える事にした。 小栗豊後守忠順は、まだ船酔いからも開放されていない。身体が回復してから、上陸することになった。

上陸の人事は、侍の間で行なわれた。仲間や足軽には荷物運びの仕事が課せられ、梅吉も荷物運びの役で揺れる橋桁を渡った。

ホノルルの土の上に立つと、大きく息を吸い込んでみた。 船の上で味わう空気と陸の上ではかなりの違いがある。 新しく履き替えた草鞍の足元に目を当てながら背中の荷物を運んでゆくと、汗が滴り落ちて来る。 暑い。

「夏のようじゃあねえか」小箱を運んでいた足軽が持つ手を変えながら言った。足軽達は脚枠に股引で、着物の裾をはしよって帯に挟み込んでいる。

「羽織袴(はおりはかま)のお侍さんより、楽じゃねえかい?」誰かがポソリと小声で言った。前方には村垣淡路守範正を中心に上級の武士達が集団で歩いていたが、皆黒の紋付に袴はかまである。

日本人達一行は、アメリカ人士官の案内でフランスのホテルに入った。絨毯が敷き詰めてあるロビーでは、二本差しの侍達も緊張を隠せなかった。シャンデリヤがキラキラと輝いている。

「こりゃあ、下っ腹に力がはいるのう 」村垣が一行を振り返って言うと、初めて皆の顔に安堵の色が浮かび、いざとなったら死を覚悟する気持ちがよみがえるのだった。

一方、足軽達は能天気に見える。玄関先に腰を落しているが少しは緊張しているのか、自分の運んでいる荷物をしっかり両手で掴んで、額に汗を浮べている。

ホテル側の気配りは大変なもので、日本を統治している[侍]階級の使節一行を最大限のもてなしで迎えた。

「女が奇麗ばい・・・」名村がこそりと梅吉にささやいた。

「お、女? 」

名村がにやりと笑 った。

「吉原の女ほど・・・」梅吉の言葉の終わらないうちに「あそこは、あそこのよさがあるじゃろうが、ここの女子こつ色白じゃなかぞ」と名村は言ったが、他は茶色ですぜと言う梅吉の言葉に目線を代えた。

「ありゃ、よう日焼けしちょる」

太りぎみのハワイアン女性達がテーブルの支度を整えている。名村は通詞の仕事に呼ばれた。梅吉は殿様達の多量の荷物が馬車で届いたので、部屋に運び入れる仕事に取り掛かった。その日の夜、副使の村垣とお供の武士達、そして通詞の名村はカメカメハ四世の晩餐会に招かれて行った。

翌日、梅吉達足軽がホテルに行くと、侍達が話をしていた。彼達は、カメカメハ四世の宮殿の豪華さに度肝をぬいたらしい。日本人達は最初、カメカメハ四世を単なる部族の首長だと思い込んでいたから、その驚きは大変だったようである。

「ワシは、まったく驚いた 」と、腕組みをして自分でうなずきながら一人の武士が話をしていた。

「土人じゃあないのか? 」

「いや、とんでもござらん。 驚きもうした」と武士は答えたが暖味である。

「どういった人間でござろうか、その、亀と申す御仁は」

「いや、亀ではない。亀、亀、歯と申される 」

「何と? 亀が二匹で歯があるのでござるか?」

「さよう・・・」

などと、武士達は意味不明な事を話し合っている。近くで聞き耳を立てている足軽には、カメカメハと言うハワイの酋長が怪物のように思えたり又、もしかしたら竜宮の亀とは、このハワイの酋長であったのかなどど考えた。

「亀の妻は絵馬と言うそうでござる 」実際はクイーン・エマである。

「神社などにつら下げてある絵馬でござるか? 」

「いや、拙者の聞き違いかも御座らんが・・・とにか美しい奥方であった」

「ほう 」この声は三人の武士が同時に出した。

話手は、再び竜宮城の話を持ち出し乙姫の姿と比べた。 日本人達はキセルを加えて煙草の煙を吐きながら、カメカメハ四世と王妃エマについて話をしていた。

「ありゃあ、魚売りじゃあねえか?」誰かがポツリつぶやくように言った。 魚と言う言葉のした方に皆顔を向けた。言葉を発した男が窓から外を見ている。 誰もが窓に近寄った。刀の柄が前の者の背を突く。

「御無礼」などと肱きながら顔を窓の外に向ける者あり又、無表情を装って窓のガラスに顔を御押し付けている者もいる。 朝の十時頃だったがホテルの前の道を上半身は裸で、 腰布を巻いただけのハワイ人が魚の入った篭(かご)を背負って歩いていた。篭の中の魚が白く光って見える。漁が終わったばかりのようである。

「あれを買うバイ 」と、通詞の名村が声を上げると表に駆け出した。梅吉もポーハタンから朝早くホテルに来ていた。 殿様達の御用を受けるためである。

「梅、おいに付いてこんか」と名村が梅吉に言った。

「名村さん。急いで、どうなすったんで?」梅吉は、名村の後を追いながら声をかけたが名村の足は早い。一目散に次の建物の角を曲がると、少し下りになった道のほうに行き、前方を歩いていたハワイ人の漁師を呼び止めた。

「魚屋!」と日本語で言い相手が声にふりむくと英語で呼びかけた。

「魚売らんか?」と言う名村の問いに漁師は白い歯を見せた。

「魚、売るか?」漁師がうなずいた。

名村が引き止めた漁師の魚篭の中には新鮮な鱈や鯛が混ざっていた。 値段を聞くと一匹が二十セント程らしい。

「銭か・・・」名村は懐の巾着を開けて片手で銭をつかみ出したが江戸貨幣のみが出て来た。

「梅吉。アメリカの銭もっとらんか? 」

「へい。 いかほど?」

「持っとるとか?」

「へい。 少し 」

「かさんか? 」

「へい」と梅吉は言い、懐からメキシコ金貨を二枚取り出した。金貨を手にした名村は、メキシコ金貨を漁師に差し出して、何匹買えるかと聞くと全部だと漁師は手で合図した。どうやらハワイではメキシコの貨幣も通用しているようである。漁師にホテルまで魚を運んでもらい、与一と源三が魚を刺し身にした。

「殿様達に酒の用意をしてくれ。久しぶりの刺し身は、うまかぞ」名村が料理人達に注文した。

もちろんその通りだったようだ。名村は殿様から褒美と称して金貨を十ドル拝領した。

「梅。 半分はお主のもんじゃ」と言って梅吉に五ドルをくれた。メキシコ金貨も返してもらったので、梅吉の懐にはまあまあの金が重なりあっている。



数日経つと、如何に使節のお供と言っても女性に興味がでて来る。船酔いからも開放されて、行き着くとかァ、女でありんすとお供の一人が口にした。 ハワイ人は、色浅黒く身につけている物は腰巻だけである。 江戸の人間は女の裸には慣れていた。 大衆浴場は男女混裕で、別に女の裸を目の前にしても当り前のことで格別驚くほどの事でもない。浦賀に来たアメリカ人が銭湯に行き、男女混裕なのに驚いて、日本人は未開人だと報告じた記録がある。

梅吉の住む長屋などでは、夏になると女は腰巻一つで洗濯などをしている。 年老いた老婆の乳房が長く垂れて、ゆさゆさ揺れているのはあちこちで目にすることだ。 老若を問わず、夏場に平たい水桶で水浴する姿などは日常茶飯事に目に出来る。夕刻、若い足軽達はハワイの海岸にいた。程よい温かさの風が吹いている。波の音を 聞いていると郷愁を覚える。

彼達の目の前をハワイ人達が思い思いに歩いている。水瓶や野菜などの入った桶を頭の上に置いて運んでいるのは腰巻姿の女達だ。

「尻が太いのう 」一人が言った。

「腰巻の下、何もねえな 」もう一人が推測した。

「ひらひら一枚か・・・」

「ひらひら・・・」

女達は横目で日本人を見ながら通り過ぎてゆく。

「竹造は見たらしい」

皆、言った足軽のほうに目を向けた。

「いや、竹が言うには、 ハワイ人の交合は立ってやるらしいや 」

「ほんとか? 」皆驚いた。

「あいつ、昨夜海岸で見たらしいぜ。 女が木にしがみつき男が後ろからまさぐった 」

「まさぐった?」

「いや、ちらりと見えたらしい」

聞いていた連中は頭を振って納得した。 身に覚えがあるのである。

「他の国の女とまさぐると、打ち首かのう?」一人が首をさすりながら残念そうにつぶやいた。

「見つからなきゃ良いじゃあねえか 」

この言葉に、再び皆うなずいた。うなずいた後、沈黙した。言葉が通じない事に気が付いたのである。

波が絶え間なく音を立てて寄せていた。 誰もが殿様に随行してアメリカに行く事になった時、自分の人生における最大の難局を迎えたと感じた。 中には別れの杯を親族一同と行なった者もいるくらいである。

「おらァ、カカアが浮気しねえように、八幡様のお守りをカカアの物に貼り付けてきた」などと卑狼な、いや滑稽な事を口走る足軽もいた。

「八幡様のお守り? オメエ、どこに貼り付けたんでェ? 」

「あたりきしゃりき、馬のしょんべんだ 」言った本人は上方落語のような言い草をして鼻をすすった。

「カカアの陰(ホト)よ」

「へェ・・・てえしたもんだ。 俺もやってくりゃあよかった」と、後悔する者も出た。

「で、八幡様のお守りカカアの浮気封じに効くのかい?」少し冷静な者がたずねた。

「それは、知らねえ。 知らねえが、ちょうど八幡様の神社が近くにあった 」

「小便するときゃあ、どうするんで? 」

「?」

八幡様のお守りの足軽はもじもじしていたが「えれェことしちまった。それ、忘れてた」と言い、再び鼻をすすった。

古今東西を問わず、緊張感から開放された庶民的な男子達の話はこの程度であるが、自然こういった浮ついた感情は集団を管理する管理者の耳にも入る事になる。淡路守は、使節の随行員達が他国において問題を起こさないよう御触れをだした。



三月十八日、約二週間ほどハワイに停泊していたポーハタンは錨を上げた。めっぽう天気の良い日である。 使節一行は鳥が電線にずらりと並んでとまっているように、ポーハタンの甲板の手摺に手をかけて並び、次第に離れてゆく南国の島を眺めた。

「良い天気じゃのう 」使節の一人が言った。

「まったくでござる 」他の使節が同意した。

少し離れたとこで「良い天気じゃあねえか 」と声が上がった。お供の仲間か足軽であろう。

「こんちきしよう。めっぽうな天気じゃねえか。かかァ、よ。おらァ、死んでねえぞ 」

小声だが、こちらのほうが足軽だろう。皆、ブツブツと小言を言うように隣同士で話したりつぶやいている。

「言葉習いたいモンは、おらんとか?」突然、後ろのほうから声がかかって来た。 通詞の名村だ。

「ことばとは、アメリカの言葉でございますか?」 誰かが聞いた。

「さよう。 実はのう、ああ、ぼ、牧師が英語を教えると言っておるばい。よか機会じゃから、誰か習ろうてみんか?」

誰も申し出る者はいないようである。

「せわしかのう。よか。ワシが選ぶ」名村は適当に仲間と足軽から二十名ほど選び上げた。 梅吉にも同席するように言った。 色白の柔和な牧師は、チョンマゲ姿で裸足でいる日本人相手に言葉を教え始めたのである。 牧師は教えはじめて驚いた。 皆、物覚えが良い。しかし、言葉よりも数字に興味を示し、蒸気エンジンとか電信などについて話す時は、目を輝かせて聞いていた。

「日本人は、他のアジア諸国の人種とと少しちがうようです。彼達は、友好的な人種ですが、我々に遅れを取っているとは考えていない」と牧師はタトナル提督との会食の場で、アメリカ海軍士官を目の前にして話した。

タトナル提督は個人的にも日本人に有効的だった。

「私もそのように思っておりましたよ、ウーズ牧師。 日本人は、優秀な人種です。開国後、直ぐに先進諸国と並ぶでしょう 」

「我々アメリカにとって危険な国になると言う意味でしょうか? 」他の士官が質問した。

「いや、ペリー提督の日本訪問に同行した心理学者達の話によると、日本人は好戦的人種ではないと報告されている 」

「しかし、提督。 日本人は軍の行進を見るのが好きですよ 」

「まったく、君の言う通りだ。それは当っている 私は思うのだが、彼達は美の追求者であるようだ。繊細なのかもしれない」

「繊細?」

「要するに、些細なミスを許さないようなところがある」

「物事を大きく捉えられないと言う事でしょうか?」

「それは分からない。開国後、人々の心理は変わるだろうからね」

「どのように変わるとお考えですか? 」

「蓋を取ってみないと分からないが、鍋の中はジャガイモではないはずだ」

「アメリカにとって、日本は重要な国になると言う意味でしょうか?」

「その通りだよ。 非常に重要な国になることは間違いない」質問した士官は会食の後、侍達のいる甲板に出てみた。

良い天気だった。船に慣れている士官にとって、海は仕事場として位置付けてある。 甲板に立つと、風の向きや風に含まれる湿度、四方の海にある雲の状態が気圧を計測する鈍い銀色の水銀計と重なる。

「当分は天気のようだ・・・」士官はゆっくりと歩いた。 直ぐに、ちょんまげ姿の侍達の姿が日に留まった。 ペンギンのようである。 彼は、北洋や南洋の海でペンギンを見ていた。

羽織と呼ばれる黒い服を来た侍達が並んでいる。 髭剃り後の頭の上が青っぽい。 侍達は お茶を飲んだり煙草を吸ったり、将棋と呼ばれるチェスの様なものを楽しんでいた。 ふと、士官が見た先に木刀を振っている侍達がいた。

「エイ! エイ! 」と言う力強い声に合わせて振り下ろされる木刀がヒュ!、ヒュ!とうなる。見事である。 一方では刀と言われる物を鞘から抜き出して又元に戻す動作を繰返している者もいた。これも又見事である。

士官は西洋流剣術であるフェンシングが得意である。 日本人の剣術が優れた物である事は直ぐに見て取れた。

軍艦ポーハタンには、つわものの水兵も多く乗っている。彼達が日本人の棒振りに興味を持たないはずがない。数人の水夫が遠巻きに侍の剣術を見ていたが、どうやら腕に自信のある水夫が仲間と賭けをしたようである。どこからか棒を持ってくると侍にはなしかけた。侍は言葉に窮したらしく通詞がやってきた。

「どうかされたのですか? 」と通詞が水夫達に聞いた。

「ちょっと、お手合わせ願いたいと思ってね」棒を握っている水夫は大男である。仕官は興味深く次の成行きを侍った。

「松本様。アメリカ人が御手合わせ願いたいと申しておりますが? 」

「ああ、わしゃかまわん。 暇つぶしで良い」松本三ノ丞と呼ばれた侍は平然としている。士官は面白くなってきたと思った。しかし、腕には格段の差があろう。 一瞬のうちに勝敗は決まると士官は思った。

大男の水夫が棒をブンブン振って見せニヤリと笑った。 威嚇のつもりであろう。 両者は向かい合った。 松本は木刀を軽く正眼の構えだ。水夫は、ゆっくりと右に回りながら攻撃の機会を狙っている。水夫は本気で降りかかるつもりであろう。一方、侍はどうだろう? 士官は侍の動きに目を置いた。侍の木刀は相 手のほうに向けて動いている。

苛立った水夫が大きな棒を振ったと思った時、棒は跳ね上げられ空中に浮かんでいて、侍の木刀は水夫の眉間の上で制止していた。 跳ね上げられた木刀がコン!と音を立てて甲板に落ちた。 目に見えない速さで松本の木刀は動いた。木刀は、最も適当な位置を正確単純に動いた。 剣術に必要な力学に適応した実に鮮やかな動きである。 おそらく修練によって養われた技量であろう。

「御興味がおありで・・・」日本人が士官に声をかけた。 梅吉である。

「いや、なに。 すばらしい動きだと思ったんだ。 君は英語がしゃべれるようだな 」

「はい。 少しですが 」

「そうか。 君も、ああいった事が出来るのかね?」

「いえ。私は、足軽と言う身分ですから 」

「足軽?」

「そうです。侍の階級でも、一番下です 」

「ふむ?それで、剣術はどの階級がやるのだろうか? 」

「階級?いや、誰でも出来ますよ。しかし、侍の・・・説明しにくいですが、上中下がありましてね、上が侍ですが武士ともよばれます。 彼達は刀を二本腰に差しています。中が仲間(ちゅうげん)で刀は一本、そして下が私のように足軽です。 足軽は小刀を一本腰に差したりささなかったり。 私は差しておりませんよ。 重いですから。 それで、特に剣術の稽古をするのは上の武士階級です 」

「なるほど・・・」

「で、アメリカではどうなんです?」

「?」

「剣術は?」

「ああ、フェンシングといってね。突く事を主体にした剣術がある。これはヨーロッパ の伝統的な剣術だ」

「ヨーロッパ?」

士官は足軽がヨー ロッパを知らない事に少し驚いたが、日本人はオランダを知っていると聞いていたのでオランダの辺りだと答えた。 足軽が納得したように頭を振った。 士官と話した梅吉が、士官と別れて甲板を水車のほうに歩いていると、サム・パッチこと音吉が日当たりの良い甲板で、船室の壁を背にぼんやりと座っているのが目に入った。

「音吉さん」梅吉が声をかけると、音吉がゆっくりと顔を向けた。辺りに外輸の音が響いてうるさいせいか、他に人影はない。

「どうされやしたんで? 」

「ひなたぼっこですわ 」

「場所がよくねえんじゃないですかい?」

「この音、聞いておますと田舎思い出しますよって・・・」

「ああ、水車の音 」

「はいな。ええ音でっしゃろ? 」

「あっしには、うるさく思えてならねえですが 」

音吉は、ホツホツホと愉快そうに笑った。 顔が石炭で少し汚れている。 服のあちこちが黒くなっていた。

「音吉さんは、この船で何やってなさるので? 」

「わてですか? わては、ボイラーと呼ばれている竃(かまど)にコール(石炭 )を投げ込んで燃やしておるとこで動いてますわ。 要するに、風呂屋の釜焚きのようでんな」

「凍る?」梅吉はコール(石炭)を凍る(コウル)と聞いた。

「はいな。コールゆうて燃える石のことですう」梅吉はこの燃える石を蝦夷で見たことがあるが、詳しくは知らない。

「結構、重労働でおますな。 あまり皆がやりたがらないよって、大変だっせ 」

「あのカラクリのところで?」ホッホツホと音吉は鳩のように再び笑った。

「カラクリは、エンジンゆうてます。 蒸気でピストン言うもん押して、それが回るようになってまんのや。 すごいもんですわ。 ほんまにすごいモン、アメリカ人は作ったなァお もいますわ」

「円陣ですかい? あの周りを取り囲むような 」

「いや、同じような言い方でんが、ちごうおます。物、動かすモンですよって」

「へえェ、カラクリが、いや、その、なんですか、その エンジンとかは、黒い燃える石で動くのでェござんすか・・・いやあ、てえしたもんだ。 黒い石でねえ・・・」梅吉があごをさすりながら感心していると「見とうおませんか? 」と、梅吉がたずねた。

「そりゃあ、見てえもんですが・・・」一度、間違って エンジンのところに入って行ったとは言わなかった。

「ほなら、見に行きましよか? 後一日ほどでサン・フランシスコに着きますよって」

「後、一日・・・よく、お分かりで 」

「コール(石炭 )のなくなり具合で、ま、だいたい分かりまんのや 」

音吉がヨイショと言って立ち上がりかけると、彼の少し白髪の混ざった頭がくらくらゆれるように持ち上がって来た。



音吉の開けたドアの下方には、梅吉の記憶にある巨大なエンジンと呼ばれる機械が動いていた。 金属の歯車のかみ合う音や、シュ!と蒸気の噴き出る音が響いている。すべてが 巨大である。

「これがエンジンでおます」音吉が梅吉を振り返って言った。

梅吉は、こんなに大きなカラクリを見たことがないと再び思った。前回は窓の外からチラリと眺めただけであったが、今回は音吉と一緒にカラクリ仕掛けの部屋に入っており、金属で出来た網目の床に立っている。 梅吉は機械仕掛けといえば水車小屋の水車、臼をつく杵の動きを見た程度である。この部屋のカラクリは金貸しの和泉屋が持っている大きい倉ほどもある。 巨大な筒から出ている棒がのびちぢみすると、水車の大きさほどもある曲がった物(クランク)が回った。 梅吉には、棒は駕籠屋の駕籠舁き(かごかき)が肩に背負う長柄(ながえ)に見える。 要するに往復運動を回転運動に変えているのである。こういった金属の輪や歯車が縦横斜めに動いている。

エンジンど呼ばれるカラクリを固定している枠や柱も金属で出来ていた。

エンジンを操作する為の金属の棒や輪もあちこちにある。船員が梯子を上ったり下ったりして、絶え間なく操作のための棒を動かしていた。

「わてのは、こっちでんのや」と音吉は別の方角に歩き始めた。 金属で出来た階段を一つ降りて別のドアを聞けると、中から温かい空気が洩れて来た。ゴウゴワと音がする。

「あそこですわ」音吉の指差したところには、金属で出来た丸い溝状の中の石炭を、色の黒い船員がスコップで突ついて竃(かまど) の近くの箱にずらし込んでいるのが見えた。彼は、竃(かまど) の蓋を開けると燃える炎の中にスコップですくった石炭を数度ほどほうり込み蓋を閉めた。 汗が彼の顔から滴れている。 着ているシャツも汗で所々湿っていた。

「あの人は黒い石で黒くなったんではありまへん。 黒人さんですわ。 もともと色が黒い人ですう」音吉が言った。

黒人は身体が大きく筋肉が盛り上がっている。

「音吉さんも、あんな仕事を・・・」

「あ、いや、何。 わては、あのような重労働はようしませんよって、ま、時々しますが、 わては算術でコール〈石炭)を調整してまんのや」

「算術で・・・」

「はいな。 昔、漁師になる前に丁稚奉公してましてん。 そこで見様見真似に算盤を覚えましたんやが、これが役に立ちましたですわ。 ほら・・・」と、音吉は近くの台のところから算盤を取り出し「手作りですう」と言い、照れくさそうに顔をくずした。

「てェしたもんじゃあねえですかい」

「まあ、まあですわなあ・・・」

石炭がカラカラと音を立てて、貯蔵庫からずり落ちてきている。 音吉は黒人船員に短く話し、梅吉を振り返ると軽く笑った。

「この仕事、金になりよりますワ。 誰もやりたがらないよって、特別な報酬をもらえるんでっせ」

梅吉も、そうだろうなど思った。 自分は風呂屋の釜焚きだって辛抱できないだろう。

「ところで、何ですかい。ここで火を燃やして、どうやって水車が動くんでやんしょう?」

「そりゃあ、ええ質問ですわ」音吉は近くの椅子に座ると梅吉にも空いた椅子をすすめた。

「これ、ボイラー言いまんのや」音吉は顎で竃(かまど)をしめすと、 エンジンと呼ばれているカラクリを紙に描いて簡単に説明した。梅吉には半分ほどしか理解できなかったが エンジンと言う仕組が世の中を変えてきている事は察知出来た。

「いろんなもんが エンジンのおかげでゴツウ良くなってまんのやが、えろう

忙(せわ)しい感じでおますなあ 」

音吉のノンビリとした口調のなかに、エンジンの動く音が単調に響いていた。



数日後、時間かどのように経ったのか戸惑いを覚えるほど早く、軍艦ポーハタンはサン・フランシスコの沖合い三十キロメートル程に来ていた。

「陸地じゃあ!」目の良い足軽が指差した方角に、天日に干されてカサカサになったスルメイカのような陸地が蒼い広大な海原に貼り付いているように見えている。

「なんと! 陸地とな?」侍が目の上に手をかざして陸地を探したが何も見えない。 隣にいた同僚がお主、眼鏡を忘れておると注意した。 彼は慌てて着物の袂から眼鏡を取り出して目にかけた。

「ああ、あれでござるか? 眼鏡の武士が声を上げたが誰もなにも答えない。 皆、食い入るように陸地の影を追っていた。

ポーハタンは船首を少し北に変えた。 甲板に立っている侍達の顔に冷たい風が吹き付けているが降り注ぐ太陽の光は強い。 朝の九時近くであった。 ぶるぶる寒さに震えながら陸地を眺めている足軽の一人は、懐の巾着から一文銭を取り出し、一文銭の真ん中に空いている四角い穴から陸地を覗き見た。まじないだと言う。

横にいた足軽が何のまじないかと聞いた。

「なんだ? おめえ、しらねえのか。 こりゃあ縁起もんでよ”四角に収まり万事良し”とくりゃあ分かるかい? 」 聞かれた足軽は目に一文銭を当てたまま言ったが「良く見えらァ」と付け加えた。周りにいた足軽と仲間はこれに習って一文銭を目に当てて陸地を眺めた。

しばらくすると陸地にある建物らしきものが四角い穴の中から見えてきた。 サン・フランシスコである。 当時のサン・フランシスコはゴールド・ラッシュも収まり、人口が定着して十万人近くになっていた。

「こりゃ、驚いたもんだ! 良く見えらァ。人の顔まで見えらアな」足軽が言った。

「オメエの見ているのは、彦一の顔じゃあねえのか? 」

「ありや、驚いた。どうしたもんだ。 彦一がサン・フランシスコにいらァ?」

「おらァ、ここだ。オメエの顔の前だ 」彦一と言う足軽が答えた。

「ああ、どうりでハツキリ見えると思ったぜ」などど、足軽達は冗談の言い合いをしながら無事アメリカ大陸に着いた事を喜んでいたが、喜んでいたのは足軽達だけではない。 三人の使節や上級の武士達も顔に笑みを浮かべている。 陸地が近くなって来ると海鳥が多く目に付き始めた。 遠くの波間に鯨が潮を吹いている。 遠くを見ようとして視線を上げると、ポーハタンのマストに掲げられた日の丸が見えた。

日の丸の旗は国旗ではなく、日本の印として掲げられている物である。 当時の日本人は、日の丸を国旗としてではなく船の旗印として考えていた。 外国船と日本船を区別するために船の旗印として使っていた薩摩の島津藩に習ったのである。しかし、外国にいる自分達が仰ぎ見た日の丸は、太陽神を崇めた日本民族の象徴にも思えて、日本人の心を打った。

「あの旗も、いいじゃあねえか」誰かが言った。

「あたぼうよ。 天照大神の旗だ」

「なんだいそれは。 那須与一が射た扇の的じゃねえのか?」

「罰当たりな事をいっちゃあいけねえよ。そもそも・・・」などと、足軽達の立っている甲板は少々うるさかった。

梅吉にも日の丸の旗は美しく見えた。「南無八幡大菩薩」と書いたのぼりを立てているよりも似合っていると思った。ここは異国の地である。

船は次第に陸地に近付いている。 山の緑やサン・フランシスコの市街が肉眼にはっきりと映り始めた。

軍艦ポーハタンはサン・プランシスコ湾の入口の手前で砲を鳴らした。これは、パイロ ットと呼ばれる水先案内人を呼ぶ為の物である。 水先案内人が到着すると、ポーハタンは、 蝦夷の海のように波の荒い海を湾に入って行った。

入り組んだ三崎の突端や小さな島には櫓(やぐら)が立っている。ポーハタンの水兵に聞くと、船に陸地である事を知らせるための灯台で、霧の日や夜になると明りを点すと言う。とにかく、ここは霧の多いところだと水兵は言った。

ポーハタンは速度を落とした。 風が強い。 海流が速いためか船は慎重に湾を進んだ。 左手の方には高くない丸みのある山が北のほうに向かって連なっている。 右手の方は低い平たい陸地だ。 海岸には、点々と家が点在しているが木々の緑は少ない。 白い波が見える。 梅吉はふと、船の煙を吐いている煙突を見上げた。 音吉達が焚いているボイラーから立ち上る煙である。太平洋ではもうもうと上がっていた煙も、今は小さくしぼんでいた。 輪がカシャカシャと音を上げて海水を掻いている。

「家並じゃあ」 誰かが声を上げた。 丸みを帯びた小山の影から、サン・フランシスコの市街が現れてきた。 三階建や四階建の建物がなだらかな斜面に連なっている。

「すべてが城のようじゃのう」侍がつぶやいた。 一方では港に停泊する大きな船が並んで見える。

突然、陸地や停泊中の船々から大砲の音が次々に起こった。これが礼砲であろう事は、日本人達にも察する事が出来た。 彼達は以前に礼砲の儀礼を経験していたからだ。

ポーハタンも砲を鳴らして答えた。 甲板には火薬の煙が流れ、きな臭い硝煙のにおいが鼻を突いた。 やがて甲板に立ち込めた黒色火薬の煙が風に流され、硝煙のにおいのみが鼻を突いている間に、軍艦ポー ハタンは埠頭に船体を預けた。 外輸の動きが止まり、錨が降ろされた。

軍艦ポーハタンの軍楽隊の演奏が始まった。陸のほうからも音楽が聞こえている。

なだらかな丘の斜面に幅の広い道が幾重にも走っていた。市街の道は、砂地に両手の指をかけて掻き下ろしたような按配である。

「すげえ都だ 」誰かがうなるような言い方をした。まったくだと、言葉を耳にした日本人の誰しもが思った。 京都を見た事のある人間は、企画された都の配列が似ているようではあるが、こちらは荒く力強く見えると思った。江戸の木造建築しか知らない人聞は、慌てた。煉瓦造りの建物の大きさと家屋の並びに驚異を感じたのである。

武士は日頃の修練から、腰に差している愛刀につぶやきかけて身を引き締めた。 彼達は、物質的には負けているかもしれないが精神的には優っていると堅苦しく考えているようだ。

そんなこたァ、どうでもいいやと考えて鼻の頭を掻いたりしているのは足軽だ。

鼻くそだけは掘るな、偉人に恥ずかしいと同僚が忠告したが相手はまったく気にしてはいない。煙草を平然とふかしている者もいる。彼達は手摺から出迎えのサン・フランシスコ市民を眺めているのだが、実際は眺められていた。

チヨンマゲと言う頭で変な着物を身にまとい、刀と呼ばれる芸術品のような長いサーベルを腰のベルトにさしているジャパンと言う不思議な国を統治している侍階級。使節一行もサン・フランシスコ市民も、お互いに興味津々(しんしん) であった。使節と上級の侍達は、インターナショナル・ホテルと言う宿舎に泊まる事になった。もちろん従者達はポーハタンの船室で寝泊まりする。 梅吉達は、荷物を持って使節の後にしたがった。 足軽達はサン・フランシスコ市民の歓迎の側で、使節の荷物を船から波止場まで降ろしたり運んだりした。

「おらァ、正直ぶったまげたな」足軽が言った。

「どうしたんでェ?」

「異人の国ってェのは、化物のような人聞が住んでいるってこたァ聞いていたが、ありゃ、 嘘だったな 」

「化物? 」

「おおよ。 長屋の大家がえれェ物知りでよォ。 異人のこたァ何でも聞きやがれってんで、 聞いたんだが、アメリカ人ツーのは一つ目でよ。 毛が体中を覆った化物だとさ」

「そりゃあ、おいらの聞いたのより増しじゃあねえか 」右隣にいた足軽が話に割り込んだ。

「おめェのは、もっとひでえのかい?」

「ひでえってえもんじゃあねえ」男はごくりとつぼを飲み込んだ。 周りの足軽が彼の言葉に注意した。

「なんせ、隣長屋の爺様の話だ・・・あの爺様、鼻水垂らしてたな」全然関係のない話のようだ。

「は、鼻水?」

「鼻水垂らしながら話したな。これが又、オイラ信じたもんな 」訳が分からないような話が続いている。

「異人が、どうしたんでェ」痺れを切らした左側の足軽が聞いた。

「爺様の異人は、腹に穴が空いていた。この穴に棒を挿し込んで駕籠屋がかつぐんだとよ 」

「穴?」

「おい、誰か異人の裸を見たかい? 」この間いには誰も答えなかった。

「女の陰じゃアあるめいし。あちこちに穴があってたまるかってんだ。それより、そっちの荷物をかたずけようじゃあねえか」冷静な足軽が使節の荷物を馬車の端のほうに積み込みはじめた。

梅吉も別の馬車に荷物を積み込んでいた。 荷物を背にして橋桁を歩きながら、首にかけている金貨の入った袋を意識した。彼の思考の中には母親の顔が浮かんでいる。

お母アを楽させるのだと、荷を背負って歩きながら自分の足先の動きを数えている。 一歩一歩あるいてゆくと必ず目的地に到着できる。首に下げた巾着は、梅吉の問いかけに答えるように時々ゆれて彼の腹を打つのである。



使節達は、箱型の馬車に乗るとサン ・フランシスコ市内の宿舎のほうに向かった。ニ台の荷馬車に乗せた荷物は、数時間遅れてのろのろと動きはじめた。梅吉達数人の足軽が荷物運びのために使節の宿舎に向かう事になり、荷馬車の空いたところに立ったり腰掛けてしがみついている。

見物人の大半は既に引き上げていたが、それでも路上周辺にはかなりのアメリカ人が見られた。 彼達は、揺られながら進んでいる日本人使節の荷馬車をものめずらしげに眺めていた。

通りにいる大半のアメリカ人の男は頭に黒く高い帽子(山高帽)をかぶり、長い羽織フロック・コートに股引ズボンといういでたちである。 足は昔の武将がはいたといわれる牛の皮で出来た綱貫(つなぬき)のような物で、シューズ(靴)と呼ばれている。 女性のいでたちを表現するのは難しい。 彼女たちの衣服は日本女性が着る小袖や振袖のようではない。 巫女が着るような貫頭衣と同じように、全体がスポリと身体に入る衣服で腰のほうから下は外に広がって足元までおよんでいる。 女性の中には袴のような衣服を身にまとい、頭には花や鳥の羽の飾りをつけた平たい帽子を被っている者もいる。

通りの両側には石や煉瓦で出来た建物が並んでいて二階から四、五階程の高さである。江戸の通りと似ているところは、どこにも看板らしき物がある事だ。「バンク(銀行)」と書いてあるのは多分両替屋のことであろう。これは、梅吉が英語を教わ ったレイナルド先生から聞いた事がある。人を乗せた馬車や馬が石で出来た道を慌ただしく行き交っている。

使節の宿泊先である「インターナショナル・ホテル」と呼ばれる宿屋までは港からそう遠くはなかった。 半時ほどで緩やかな傾斜に建っている五階建ての宿屋に到着した。馬車が止まって御者が降りたので、多分ここが 「ホテル」と呼ばれる宿屋である。 足軽達は荷馬車から降りて荷物に手をかけながら誰かの指示を待った。 ホテルの前は人を乗せた馬車が出たり入ったりしている。ホテルの横の建物は酒屋であろうか。 ガラス窓の向こうは、酒瓶らしい物が立ち並んでいる。 店の前には山のように樽を積んだ荷馬車が二台ほど止まっていた。 やがて通詞の名村と会計役の武士がホテルから出て来ると、梅吉達足軽に荷物を中に運び 込むように指示した。 荷物を背負ってホテルに入ると、 ハワイのホテルよりも豪華な広間(ロビー)が足軽達を驚かせた。 足軽達は慌てて荷物を降ろし、草桂(わらじ)を脱ごうとした。

「あ、こりゃ、おまんら。 脱がんでよかとぞ」名村が慌てて足軽達の動作を手で制しながら言った。

既に草鞍を脱ぎ懐に入れた足軽もいる。 脱ぎ掛けの者は、再び慌てて履き直した。

「あわてんで、よか。 お化け屋敷じゃあないばい」

「ふかふかじゃ」などと、絨毯を踏みしめながら、厚さを計測している者もいる。とにかく、荷物を一部屋に持ち込んだ。

梅吉達は、帰りは荷馬車ではなく人の乗る馬車でポーハタンまで送られた。 馬車は箱のような形をしている。 箱の中は八人から十人ほど腰をかける事が出来る広さで、御者が一人箱の前で馬を走らせる。

港には流石に一般人の人影が少なくなっていた。 船員の姿が所々に見えるだけである。 馬車から降りると、潮の香りがした。 ポーハタンの船体が船着き場にある。 足軽達は、船着き場の隅に座り込むと、皆キセルと取り出して煙草を詰め込んだが火種がない事に気付いた。

「おい、梅。 火種を偉人さんに借りてくれねェかい?」足軽が言った。 要するに言葉がしゃべれるのは梅吉しかいないからである。 梅吉は煙草を吸わない。 吸わないが、腰を上げると近くで煙草を吸っている水夫のほうに歩んで火種を貸してくれないかと頼んだ。

「サムライ!」と水夫は言い、梅吉を見た。

「私の同僚が煙草を吸いたいと言うのですが、火がない。 貸してくれませんか? 」

「火?」かれは、パイプの先を梅吉に見せた。

「そうです 」水夫は、ズボンのポケットから小さな箱を取り出して中から一本の小さな爪楊枝のような物を取り出すと、梅吉に渡した。 梅吉は、これがマッチと呼ばれるものである事を知っていた。 彼はお礼を言ってマッチを持ち、足軽達のところに戻った。

「梅、そりゃあなんでェ? 火がついてねえもの持ってきたって、役にたたねえじゃあねェか」足軽の一人が言 った。

「ま、黙ってみてろい。これは、火をつける道具だ 」

「なに、ぬかしやがる。そりゃ爪楊枝じゃあねえか。火打石じゃねえやい」

「アメリカ人は、これで簡単に火をつける 」足軽達が梅吉の手にもつマッチと呼ばれる物を見上げた。

「こりゃあ、便利なもんなんだぜ。この棒の先にゃあ火薬がついているだろうが、よくみやがれ 」

「火薬?」

「おおよ。これを壁でこすると、火が棒に燃え移るってェ仕掛けだ」

「おらあ、船で見た」一人の足軽が言った。 船の上で水夫が煙草に火をつけているのを見たと言うのである。

「火を付けたら、直ぐにキセルを差し出しな。火は直ぐにきえるからよ 」足軽達は皆、いっせいにキセルの先を梅吉に差し出した。 梅吉は近くに置いてある箱の上にマッチを置き擦った。 ポツと火が燃えた。 火が消えないようにしながら近くのキセルに火を移してやると、足軽達はすぱすぱとキセルを吸って煙草に火を付けた。 二三度美味そうに煙草を吸うと、辺りには煙草の煙が流れた。 港の向こう岩石がむき出しの小高い山がある。上の方には人家が点々と連なっていた。千八百六十年、アメリカのサン・フランシスコである。




夕方近くになると、夕焼けが見えた。

足軽や、身分の低い仲間違はポーハタンの甲板で、手摺に手をかけ夕焼けを見ている。 梅吉は、音吉が未だ船に残っているかもしれないと音吉が好きだと言う外輸の方に歩いたが音吉はいなかった。 多分、久し振りのアメリカであるから上陸したのであろう。船の煙突から煙は出ていない。

「梅!」料理人頭の与一である。

「どうしたんでェ? 」

「いや、何。せっかくアメリカの銭があるんでよォ。 飲みに行かねえか?おごるぜ 」

「ヨイさん。ここはアメリカだぜ。 江戸のような居酒屋があるたァ限らねえ 」

「あたぼうよ。分かってらァ。しかし、俺は見たぜ。買い出しに出かけたんだが酒場は至るとこにあった」

「買い出しに? 」

「ああ、包丁をゆずったポーハタンの料理長が連れて行ってくれてよ。 中国人の店で豆腐を仕入れた。 魚もだ」

「豆腐?そりゃあすげえや 」

「俺は、正直ビックリだ」

「?」

「中国人は既にアメリカに住んでいやがった。いや、まったく驚き、桃の木、山椒の木だ 」

「並べるね 」

「言葉だけじゃねえぜ、梅。 店にャあ中国の品物がわんさとあった 」

「中国の物が・・・か 」与一は言葉に出さず領いた。 そして続けた。

「俺は、料理が仕事だからよ。 少しは中国の食材を知っているんだがよ。ここでは、みな高けェ」

「高けェ? 」

「ああ、そうよ 」

「どんなものがだい?」

「ほとんどだ、な 」与一は具体的な品物を言わなかったが梅吉には分かるような気がした。

外国との商いが儲かるカラクリはどうやらこの辺にあるようである。梅吉は少しつづ自分の将来を左右するヒントに近付いているような気がしている。

「ヨイさん。じゃあ、飲屋に行ってみるかい?」

「そう来なくっちゃあ、いけねえや」与一は両手で自分の顔をポンポン叩きながら言った。

「源さんは、どうするんでェ?」梅吉の聞いに与一は腕組みをしてしばし考えた。

「源三か・・・あいつァ、酒癖かわりい(悪い)からなあ・・・」

「じゃ、誘わないで二人で行くかと言いおわらないうちに源三が二人の前に現れた。

「飲みてェ」と言う。

「源さん。 最近飲みすぎだぜ」と梅吉が言うと、源三は怒った顔になり「てやんでェ。飲んで、どこがわりィ」などと声を上げた。 梅吉と与一は、源三が侍達の酒を盗み飲みしているのを知っている。

「源三。実は、俺達もいっぱいグイとひっかけてこようじゃあねえかと、話をしていたんだ・・・」与一は少し考えるように間をおいて「・・・おまえも、行くかい?」と源三に言った。

「行くも行かねえも、銭はねえぞ」

「ああ、いいよ。俺のおごりだ」与一が答えた。

「そいつァ、ありがてェ。 頭(かしら)のおごりか。早速でかけようじゃあねえか 」

「まァ、待ちな。 俺達じゃあ、言葉がつうじねえ。梅、どうする? 」与一が梅吉を見た。 梅吉はサン・フランシスコ湾に揺れる波に目をやっていた。まだ午後の太陽が背後の街の上にある。波は穏やかに寄せている。梅吉は与一の言葉に日の暮れる前ならよいだろうとぼんやり考えていた。

「梅!」源三が声を上げた。

「ま、少しなら良いだろうよ。しかし、日の落ちる前までだぜ 」与一と源三が肯いた。

チョンマゲ姿で草桂を履いた足軽三人は、ポーハタンから埠頭にかけてある木の橋を渡った。彼達は脚絆に股引、着物のすそをはしょって帯に挟み込んでいる。 典型的な江戸時代の旅姿である。

梅吉は、軍艦ポーハタンの停泊している場所から出来るだけ近い飲屋を探した。

彼達が酒場に顔を覗かせると、さぞやアメリカ人が驚くであろうと予想したが、誰も余り関心を示さなかった。 どうやら、アメリカ人は変な人種に慣れているようである。 カウンターで酒を注文すると、無愛想な男がウイスキーと呼ばれる酒瓶とコップを置いた。

「ケッ、色気のねェ酒場じゃあねェか」源三が周囲を見渡しながら言った。

「梅、台の方に行こうぜ 」与一が酒ビンを取り上げて梅吉につぶやくように言うと、テープルをあごで示した。 丸いテーブルが数個並んで置いてある。

「丸い台か・・・」梅吉も、与一も源三も江戸の飲み屋や飯屋では四角い台しか見たことがない。

テーブルに就くと、ウイスキーをコップにそそいだ。 直ぐ源三の手がコップに届いて彼はワイスキーを一気にあおってむせた。 源三の普段でも赤い顔が真っ赤になった。

「の、喉が・・・」源三は喉を両手で押さえた。

「げ、源三!どうしてェ?」与一が慌てて源三の背中をたたいた。

「た、た、た・・・たたくな 」源三がかすり声で言った。

「でも、おめえ・・・」

「う、うめえ! 」

「うめえ(美味い)? どうしたい? 」

源三は着物の袖で口元をぬぐうと「うめェ、酒だ」と目をギョロつかせた。

「梅。なんてェ酒だい?」

「初(うい)好き(ウイスキー )」

「『初物』好きか? こりゃあ、参った!」源三が掌で自分の額をピシャリと叩き、二杯目を要求した。

梅吉は、この酒を飲んだ事がある。 蝦夷で偉人の持物検査に携わった時である。 かなり強い酒で、アルコール濃度の低い酒を飲んでいる日本人にとって、これが飲み物であるとは判断しかねた。 異人に聞くと酒だと言う。 飲ませてみると異人は美味そうに喉を鳴らした。 梅吉が飲んでみると強い酒であった。

とにかく強い酒だ。源三が酔って面倒を起こさなきゃあ良いがと思いながら梅吉は源三のコップにウイスキーを注いだ。

「酒の肴はねえのかい?」源三が梅吉に聞いた。

「肴?ゲンさん。 ここはアメリカだぜ 」

「なんか、つまむ物ぐれェあるだろう? 」梅吉がアメリカ人達の方を見てみると、確かに豆のような物を酒の間に口にしている。 注文するのは面倒だ。「どうでェ。この酒を持って船に戻ろうじゃあねえか」 梅吉は与一と源三に提案した。 店の中に水夫達か増えてきて風変わりな日本人をジロジロ見始めたからである。 ここで、 面倒な事でも起こると打ち首になるかも知れない、と考えるのは江戸時代の民衆心理である。

日本人達は酒場を出た。まだ外は明るい。

「ヒャ! 」源三が変な声を上げてひっくり返った。 酔いが回ったようである。

「げ、源三! でェじようぶかッ!」与一が駆け寄った。 倒れた本人は路上に仰向けになりノンキそうに空を見上げ「おらァ、帰りてェ・・・」顔に似合わない弱々しい声を出した。

帰りたい? 江戸に・・・梅吉は、あばら屋に住んでいる母親を思い出した。この歳になるまで、親孝行らしき事もした覚えがない。 父親は、蝦夷から江戸に戻ったら亡くなっていた。 梅吉がアメリカに発つ日、なけなしの銭を息子に渡そうとした母親の手、白い飯を梅 吉によそった母親の手を思い出した。 あの手が、赤子であった俺の尻を拭き体を洗い、飯を食わせた。 体内から俺を産み出した後も、自分の乳房から己の滋養を犠牲にして作る乳を飲ませて育ててくれた。

酔っ払って仰向けになっている源三。 彼も母親がいて、母親の手で赤子から育てられたのだ。 俺達は、自分だけのために生きているのではない。

母親の手は、誰にも、どこの国の人聞にでも公平である。使節にも侍にも、足軽にも、日本人、アメリカ入、中国人、どんな国に生まれ、どのような人間でも母の手の中で生きているのである。 俺は、必ず日本に帰って母親に孝行をしよう。 あの、障子の破れた隙間風の入るあばら屋より、もっとましなとこにおっ母ァを住まわすのだ。梅吉は源三を起こしながら、源三の母親をも、思った。

三人は船に戻ると、与一が中国人の店から買って来た豆腐で日本酒を飲みはじめた。

「やはり、なんだな、おらァ『初好き』(ウイスキー )よりゃあ、酒が良いな 」与一が豆腐を口にしながら言った。

梅吉は、与一の前の血から沢庵を一切れ取り上げて口にした。 親しみのある味が舌にまとわりつく。 ウイスキーを口に運んだ。 しかし、余り飲まれない。料理人の与一や源三は船が港に停泊中は暇だが梅吉は、明日も使節や上級武士達が宿泊しているインターナショナル・ホテルに出向かなければならない。 梅吉は適当に与一達と別れて自分の寝場所に戻った。床の上に仰向けになると、手で身体の横に垂れた金貨の入った袋を腹の上に載せ代えた。 重みが伝わる。 彼は一つ一つ頭の中で金貨を数えた。この金を元手にして商いをし、おっ母あを楽させてやるのだと考えながら、いつしか眠っていた。



朝、湯気のある味憎汁を飲んだ。豆腐が入っていた。昨日、与-がサン・フランシスコの中国人の店から仕入れてきた物である。船の外に出ると一面の霧である。街並も停泊している船も、まるで見えない。

甲板に立っていると、霧が顔に当って来る。

「梅吉はん」突然と声が聞こえた。 声のしたほうに顔を向けて霧の中の人物を探した。 声は音吉である。 甲板に靴音がして音吉の姿が次第に霧の中から現れて来た。

「驚きやした。 音吉さんは陸だと思っておりやしたもので」

「はいな。 昨日は陸でおました 」

「息抜きで?」

「女、おりまして・・・売られてきた女いましてな・・・」

「・・・」

「あんさん。それが、支那人でっせ 」

「支那人?」

「身請けしましたんや。 銭払ろうて、自由にさせましたんですわ 」

「昨日?」

「あ、いやいや 」と音吉は自分の顔の前で手を振り、一年前のことですゥ・・・」と言 い、梅吉の側に来て手摺に両手をかけた。

「もう、歳やさかい、船乗はリタイア(定年 )ですわ。 身ィかためて、商いしょうと思うて、女と二人で店やってますんや 」

「サン・フランシスコで?」

梅吉の言葉に、音吉はホツホと笑い、頭を振って答えた。

「どんな商で?」

「支那のモン(物 )売ってますゥ 」音吉は軽く答えたようだが梅吉には、この言葉が大きく聞こえた。音吉は既に、この広い海を隔てて商いをしているのである。 梅吉がぼんやりと考えていた事が、この商いの事であったのかと気付かせるに十二分の言葉であった。

「音吉さん。幕府は、アメリカと仲良くなったようじゃあねえですかい。これからは、 日本とも商が出来るんでござんしよう?」音吉は手摺から両手を放してぶらぶらと意味のなさない振り方をした。

「侍さんには、気の毒でんが幕府は潰れますやろな」

「えっ?」

「ここは、ヒヤイ(冷たい)おまっすから、わてらの仕事場にゆきまひョ」と音吉は再び ホッホホと笑い梅吉に背を見せた。 確かに寒い。 霧は濃く、既に昇っている太陽は、まだらな霧の薄い部分に時々位置を分からせる。 船の甲板は霧で湿っていた。音吉の後に付いてボイラー室に行くと、外とは打って変って温かい。

「こんな時は、ええですわな。 ここは・・・」音吉が言いながら笑った。

「へい・・・」

梅吉の気の抜けたような返事に音吉は、まあ、気楽にやることですゥと言い、椅子を勧めた。

「お茶でも、飲みまひョか」音吉が茶を入れて、湯飲みを梅吉に差し出した。

梅吉は両手で押し頂くように湯飲カップ をうけとり、手に温かい茶の温もりを感じながら口に持っていった。 茶だって、江戸ではなかなか飲めたもんじゃねえと思っていると「この茶 」と音吉が言った。

「ああ、これ、中国の茶ですわ。 アメリカではよう売れよります」

「アメリカ人も茶を飲むんでェ?」

「はいな。 ぎょうさん、中国から仕入れてますよって、ええ(良い)商いですなあ 」

音吉の手にする湯飲から茶の湯気が忙しく昇っている。

「音吉さんも、茶の商いを?」

「ま、ほんのチョツピリですけどな 」

「どうやって、支那から仕入れますんで?」

「ああ、わてが支那に行った時、もちろんアメリカの軍艦でおますが、支那人と仲ようなりまして、ほいでそん人に茶、送ってもろてますのや 」

「さいで・・・」

「あんさんも、商いをやろうとしてますのか?」 音吉が聞いた。

「へい。 おっ母あを、楽させるには商いしかないと考えておりやすが、いかんせん、あっしにャ、商いの覚えが無いもんで・・・」

音吉は、軽く首をかしげ「そう、難しくはあらしませんよって・・・」と言い、手の中の湯飲を口に持っていった。

「あっしみたいな者でも、出来るんでござんしょか?」

「もちろんですわ。 商いは自由ですよって」

「幕府が取り締まっているんじゃないですかい?」

「それは、あんさん。 日本の話ですわ。アメリカは自由ですゥ。しかし、日本も直ぐにアメリカのようになりますやろな 」

「自由になるという事で?」

「ま、なりますな 」音吉は、梅吉に何かアメリカに輸出する事が出来るような良い物があったら、引き受けると約束した。インターナショナル・ホテルに行かなければならないので音吉に礼を言ってポーハタンの甲板に出ると、霧は少し晴れてサン・フランシスコの市街が見られた。海のほうは反対方向の陸地を霧の層が隠している。梅吉は足軽達を連れて埠頭に降りてゆき辻馬車をひろった。



インターナショナル・ホテルには、カンリン丸で海を渡った木村摂津守や船長の勝海舟などが使節に挨拶に来ていた。

梅吉達足軽が使節達の荷物を整理していると、中浜万次郎が入って来た。

「梅! 久し振りじゃあないか」万次郎が梅吉に気さくに声をかけて来た。万次郎は若い頃、乗っていた漁船が漂流してアメリカに着き、アメリカで教育を受けた後アメリカの捕鯨船に乗っていた人物である。 アメリカ名をジョン万次郎と言い「ジョンマン」と呼ばれていた。

「やあ、万次郎さん」梅吉は、手を休めて挨拶をした。万次郎とは、日本からの知り合いである。

通詞の名村の紹介で知り合った。

「元気そうじゃのう。 名村さんから、お前さんがここにいると聞いたもんでの。どうじゃあ、アメリカは?」

「へい。もう、必死でございますよ 」

「必死か? 相変わらず、愉快なことを言うなあ」と、万次郎は言って笑った。 彼の背後に若い武士がいた。 本を小脇に抱えている。 梅吉が万次郎の後ろの人物に目を移したので、万次郎は気付いたように「梅。この方は、 福沢諭吉殿じゃ。 英語が良く出来る。 一緒にブック・ストア(本屋 )に行って、ウエブス ターの辞典を買って来た 」

若い聡明そうな武士は梅吉に頭を軽く下げると「お名前は万次郎さんから聞いています 」と言った。

「もったいない。 恐縮でござんすよ。 辞典をお買いになったんで?」

「はい。 有り金をはたいて買いました。もぅ、一銭も残っていませんよ」辞典は日本人からすると高価であろう。

「聡明な判断じゃあねえですか 」

「アメリカに、この辞典を買いに来たようなものです」福沢は白い歯を見せて笑った。福沢は、若いせいかまだ歯が奇麗である。 村垣の殿様は顔に威厳があるが歯が良くなかった。サン・フランシスコの新聞が、使節の姿について書いた記事に村垣淡路守は聡明な顔を持ちながら歯が悪い、サン・フランシスコ市内に住んでいるのであれば歯医者通いを余儀なくされるであろうと書いていた。

「歯・・・」

梅吉は、日本人の歯に比べてアメリカ人の歯が奇麗である事を思い出した。

一体、アメリカ人は何を使って歯の手入れをしているのであろうか。 梅吉は、調べてみようと思った。

「梅。 福沢殿は写真館に行きたいらしい。悪いがお供をやってくれんかのう?」万次郎が言った。

「万次郎様は?」

「あいにく、わしはこれから木村摂津守殿や勝海舟殿とカンリン丸の修理の事で打ち合わせがある。 福沢殿は英語が出来るのじゃが、慣れてないので一緒に行ってくれないかと言われていたのじゃ」

「へい・・・」

「かたじけない。 実は後数人参ります。アメリカに来た記念に、写真を撮ってもらおうと思いまして」福沢が言った。 万次郎は福沢にちょっと梅吉に話があると断り、梅吉を連れてホテルの人影のない場所に 誘った。

「梅。 お前さんは英語に優れているが侍には気をつけろ」と自分の足元に視線を落とした。

「どうかされたんで・・・」

「いや、何、ワシは多分江戸に戻ったら罰せられるかもしれんでのう。お前さんにもあえなくなるかも知れんから、一言忠告しておきたかっただけじゃ。気にするな」

「へい・・・何か、ありやしたか? カンリン丸で・・・」

「大した事ではないが、船を無事にアメリカにつけるためにミスター・ブロークの言う事を聞いただけだ。それが、まっ・・・つまらんことに、幕府の奉行が五人ほど一緒での、わしがミスター・ブロークの命令に服従し過ぎだと意見されたのじゃ・・・あの場合、ミスター・ブロークの手助けがなかったら船はよその国に行ったであろうよ。木村様や勝様には庇ってもろうたが多勢に無勢じゃ、仕方ない・・・お主は、気をつけるんじゃな 」万次郎は寂しそうに梅吉を見た。 後は聞かなくても分かる。 侍達は幕府を背後にして物を言うからである。万次郎と別れた後、梅吉は福沢と数人の若い武士達の後についてホテルを出た。梅吉は、 足軽の身分であるから彼達の背後を従うように歩かなければならない。若い武士達は皆裕福そうである。 大名の子息達であろう。 屈託のない表情で街を歩いてゆく。彼達の腰に差す刀がサン・フランシスコの街では滑稽に見える。すれ違うアメリカ人達が珍しそうに彼達を見ている。 突然福沢が立ち止まり梅吉のほうにスタスタと歩いて来ると写真館はどこでしょう? と聞いた。

「調べていらっしゃらなかったんですかい?」

「はい。 誰かが、どこにでもあると言っていたもので」福沢の言葉に若者達が首を振って同意した。

「どこにでも? 写真館がですかい?」梅吉があきれたように聞いた。

「アメリカですから 」

「ソバ屋じゃござんせんよ。とにかく、誰かにききやしよう 」 梅吉は、近くを通り掛かった婦人に写真館を聞いた。 婦人は最初驚いたような顔をしたが、梅吉の英語に軽く微笑んで、次の角を右に曲がると直ぐに写真館があると教えてくれた。

外国の言葉は、実際に使い慣れていないとなかなか難しい物である。福沢は、後に慶応義塾をつくるほどの人物であるが、写真屋との交渉は梅吉に頼った。 写真屋には、若い年頃の娘がいた。 若い武士達にとっては、外国女性の可憐さが眩しかった。 福沢は、次の日にもこの写真館に来て、娘と一緒の写真を撮っている。 梅吉は若い武士達をホテルまで送った後、 ホテルから少し離れたところにある店に立ち寄った。「ユニオン・グロサリイ」(食品雑貨店 )と看板には書いてあるが梅吉にも分からない。

店に入ると江戸の店先には見られないような品々が目に付いた。 江戸の「何でも屋 」のようだ。 天井のほうには箒や、鍋や鍬、ソーセージと呼ばれるような物がつら下がっている。 壁のほうには立てられた箱の区切りに、瓶に入れられた食べものがあった。 乾物類もあるが何か分からない。 梅吉は、自分が探している歯を磨く物がここには無い事を悟った。 店主が変な格好をしているアジア人を見て、何を探しているのだと聞いた。

「歯・・・」と梅吉は言い、頭の中で英語を探した。「手酢、栗ン」(テス、クリン)本人は英語の先生であったレイナルドから身体についての言葉は何度も習 っていたが、やはり総てを日本語で覚えている。 手酢は「ティース」で歯、栗ンは「クリーン」で磨くことを 伝えたかったが、これでは通じない。梅吉は口を聞け自分の歯を見せて磨くそぶりをした。

「ああ・・・」と店主は言い、ドラッグ ・ストア(薬屋 )に行けと言った。どこにあるのか と聞いたら、店主は店先まで出て反対方向の通りを指差し、ツー・ブロック(二区画 )ほど北だと言う。

梅吉は店主に頭を下げて歩きはじめた。

「薬屋 」と江戸の町を考えると、漢方薬の店先が思い出された。独特の香いを持つ店内。 梅吉は江戸の薬屋を思い出しながら石で固めてある歩道を草鞋履で歩いている。 広い通りの両側は煉瓦や木造で出来た二層三層、高い物では五層の家々だ。 もちろん江戸の街ように店先には看板や文字が書いてある。荷馬車が頻繁に行来している。 梅吉の草鞋は音を立てない。藁の厚みが路面を軽く擦るだけである。

薬屋は、煉瓦の建物の一階にあった。ガラス窓から店内が見られた。明るい店内には色々な小箱や江戸では貴重なガラスの小瓶が棚に所狭しと並べられている。

梅吉は自分の姿とアメリカ人の姿を咄嗟に見比べた。 着物の端を帯にはしょり込み、股引である。

梅吉は店内に入る勇気を失いかけそうになったが、母親の姿を思い浮かべた。あばら屋でゴザの上に座っている母親。 竃(かまど)の中を覗き見ている母親。

サム・パッチこと音吉は、梅吉に、侍の世はなくなる、商いをしなはれと薦めた。

梅吉は歯を磨く道具を手に入れなければ目的がなくなると考えた。

彼は思 い切って店の中に入った。 微かな薬品の香いが鼻についたが、漢方薬ほどではない。 窓の外から見た奇麗な色の小箱が目に付いた。 一方では色とりどりの小瓶が並んでいる。梅吉は歯を磨く道具を探したが、どれがどれやら分からない。 おずおずと店員らしき男 に近付いて、声をかけた。

「もし・・・」

「なんでしょう? 」相手が振り向いた。 振り向いた相手は、梅吉を見て少し驚いたようであったが、彼は新聞で「七十七人の侍 」のことを読んでチヨンマゲ姿も知っていた。

「なんでしょう? 」店員は興味を持って梅吉に話し掛けた。

「テ ・イース・・・クリーン」これは立派に相手に通じたようだ。 店員は直ぐに行動に出て数本のブラシと小さな器に入った物を数個持ってきた。

「どうぞ・・・」と、店員は梅吉の前の台に品物を置いた。梅吉は、しばし視線を歯ブラシに当てていたが、やがて、恐る恐る一本の歯ブラシの柄をつまみ持ち上げてみた。

なるほど、これでアメリカ人は歯を磨いているのかと思った。小さい棒の先に口に丁度入るくらいの長さの何かの毛を植え、途中から切ってそろえてある。指先で軽く触るとごわごわとした感じだ。 思わず歯ブラシを口に持ってゆこうとした梅吉を店員が慌てて止めた。当たり前だろう。 侍の使節と言っても、まだ買ってもいない新品の歯ブラシを口にくわえさせるわけには行かない。よだれまでも出そうである。

梅吉は「ごめんなすって・・・」と日本語で言い、頭を下げて英語で言い直した。店員はチョンマゲの先が目の前に来た物だから、少しうろたえた。

「いくらでしょう?」梅吉の聞いに、店員は一本の指を立てた。

「一ドル?」

「いえ、十セント。 一本が十セントで・・・」 店員の言葉は途中で切れた。彼は梅吉のチョンマゲに視線を当てている。

「で、こちらの物は何でしょう?」梅吉はピンを指差した。

「ああ、これで御座いますか。これは、粉です。 歯ブラシにつけて歯を磨く物で御座います」店員は、いやに丁寧な物の言い方をした。 江戸では焼いて粉状になった焼塩を、柳の小枝の端を叩いて砕き、総にした総楊枝(ふさようじ) の先につけて歯を磨く。梅吉は、アメリカの歯を磨くための粉にも興味を持った。 多分大道香具師が江戸で売り歩いている歯磨粉と同じ物であろう。 歯を磨くためにブラシにつける粉は五十セントである。 梅吉は五本の歯ブラシと一瓶の粉を一ドルで買った。 要するに自分の一ヶ月分の給金と同じ程の買物をしたわけである。 梅吉はこれらを懐に入れると店を出た。 草桂が歩道に軽く擦れる。

「おっ母ァ。今に、これで金儲けして楽させてやるからよォ・・・ 」梅吉は小さく言葉に出した。 脳裏にワエブスターの辞書を買ったという若い武士、福沢諭吉の顔が浮かんだ。

(辞書を買ったって、あっしには何の役にもたたねえ。 学問なぞする時間はねえんだ。 江戸で商いをするには、アメリカ人のやり方や話方を真似するほうが早道だ)梅吉の懐の品物が歩くたびに腹の皮に触れる。 彼は、早く一人でこれらの物を眺めたかった。 江戸では平均の給金が約三千文、約三分でアメリカのドルに変えれば一ドル程度である。 歯ブラシ一個は江戸の通貨で約三百文。 腕の良い職人の一日の手間賃だ。 良い奴であれば一日に十本は作るであろう。 なんとなく、かなり儲けられそうだ。 梅吉は嬉しくなってきた。



ホテルに戻ると、名村の同僚である通調が梅吉を探していた。

「なんでござんしよう?」梅吉の聞いに通詞は、戸惑いを顔に浮かべながら梅吉をホテルの部屋に招きいれた。

「お主に、頼みがあるのじゃが・・・」と、通詞は言った。

「へい・・・」梅吉は腰を低くして答えた。

「いや、その、まあ、お主も分かっておろうが、男には女が必要なものじゃ」

「へい・・・」通詞はコホンと咳払いなどをして、天井のほうを見上げて言い出し抜くそうに口を歪めている。

「あっしに、出来る事でしたら、何だってお申しつけくだせえ」

「じつはの・・・」通詞は声を潜めて我が殿の夜伽(よとぎ)をさがしてくれと言った。

「夜伽? 」要するに夜の相手をする女性の事である。

「こ、これ。 声が、ちと、高い」

「へい。 申し訳ござんせん 」

「見つけられるか?」

「へい・・・」梅吉は意識して言葉を濁した。

「いや、何。その方ならと思っての。もちろん銭は幾らでもよい。お主にも報酬をとらす」

梅吉はサム・パッチならそういった場所やアメリカの吉原の仕組みを知っているだろうと考えた。

「・・・わかりやした。 やりやしょう 」

「そうか。やってくれるか。すまんのう」武士は途端に顔をほころばせて足軽の梅吉に頭を下げた。

「今夜でござんすか?」

「左様。他言無用じゃ。使節の殿様達からは、異国の女に手を出す事を固く禁じられておるからの・・・ところで、如何ほどかかるかのう?」

「まあ、百ドルから二百ドル・・・」

「ふーむ。 大金じゃのう・・・」通調は腕を組んでいたが、資金は後で用意するので、良いように取り計らってくれと言った。どうやら、結構身分の高いスケベ殿様の頼みのようである。

梅吉は一旦船に戻ると、歯磨きの道具を自分の袋に仕舞い込み床の中に隠してから甲板に戻った。サム・パッチを探さなければならない。

サム・パッチこと音吉は、梅吉の言葉に「夜伽でっか? 幾らでもおりますう。金しだいですなあ」と言った。

「資金は、百から二百ドルでござんすが・・・」

「ま、そんなもんでひョ。お侍さんは、えろう大変ですなあ。アメリカくんだりまで来て、女郎買いですか・・・」

「へい。おっしゃる通りで・・・」

梅吉の言葉に音吉は軽くホッホと笑った。梅吉は、音吉に歯ブラシの事を話した。

「それは、ええ考えですわ。 歯ブラシでっか・・・ええ(良い)ですなあ 」と音吉は頭を前後に振りながら言った。

「それで、江戸で作った物をアメリカに売りたいんでござんす 」

「ええですなあ。 それは、ええです。ええ考えですが、大変でしょうなあ 」

「商いがでござんすか? 」

「あ、いやいや。 あんさん、ご存知でっか? アメリカに来ている歯ブラシは中国から来てますのや。そやから、あんさんが買うたのは中国人が作ったもんですわ 」梅吉は、自分の考えが甘かったのかと思った。

しかし、値段が上がってきてますよって、上手く作れば行けますな 」

「上手く?」

「はいな。 日本の職人の技術です。 中国人より良いもん作れるでっしゃろ?」

「やってみなはれ。 出来 へんかったら、別のモンで商いすればよろしおます」

「わかりやした。ところで、ブラシは何の毛で出来ているのでござんしよう?」

「あれば、イノシシでっせ 」

「猪?」

「考えたもんですわ。猪の毛なら、あんさん、あれはゴワイ〈強い)ですよって」

「もし、良い物が出来たら、音吉さん、取り扱っていただけねえでしょうか?」

「もちろん、喜んでやらしてもらいますわ。 日本もアメリカと商いが出来るようになったんで、わて (私 )も何かやろうかなあと考えておりましたんや。ええ機会ですわ。お互い組んでやりまひョ」

「あっしがブラシを作って、こちらに送ります」

「ブラシにつける粉はどうしますのや? 」

「へい。まだ、考えておりやせん 」

「あんさん、あれ、面白いのがありまっせ」

「 ? 」

「わても、日本では塩でしか磨いた事がおまへんが、今は糊(のり)のようなもん、出てますよってに 」

「糊でござんすか? 」

「はいな。ええ考えですなあ。アメリカ人は上手に考えますわ。 糊状の歯磨粉でっせ 」

「あっしは、粉のを買ってめえりやしたが・・・」音吉は立ち上がると、隣の船室に行き歯磨き粉の瓶を持って来た。

「これですわ 」音吉は瓶の蓋をとって梅吉に差し出した。 幽かにミントとアメリカ人が呼称する薄荷(はっか) の香いが鼻を突いた。瓶には糊状の物が詰まっている。

チューブ式の練歯磨が市場に出るのは後十年程も先である。

「ちょっと手ですくって歯に付けてみなはれ」音吉に言われた通り、梅吉はピンの中の練り歯磨を指ですくい上げると自分の歯に擦り付けた。


歯茎に薄荷(はっか)の心地よい刺激を受ける。

「これ、優れモン(物)ですわ。これで磨くと、虫歯になりぬくいらしいですなあ 」

「虫歯に・・・で、ござんすか」

「はいな。アメリカ人は結構歯がきれいでっしゃろ。 歯、大切にしますよって」

「へい。その通りで 」

「新聞が淡路守様は、顔は良いが歯が悪いと書いていましたなあ。若し、淡路守様がサン・フランシスコに住んだら、さぞかし歯医者通いが必要だろうと」

「左様でござんすか・・・」

「さて、夜伽でも探しに行きまひョ」音吉が椅子から立ち上って、手にした練り歯磨のビンに蓋をした。

「それじゃあ、あっしは銭を貰ってめえりやす」

「出来るだけ、ようけ貰って来なはれや。浮いた銭を商いの資金にするんだす」音吉はニコリと微笑んで梅吉に言った。

梅吉は二百ドルの資金を預かり音吉の元に戻った。音吉は既に売笑婦と百ドルで商談しており、百ドルが手元に残る事になる。 音吉は梅吉が薦める百ドルを受け取らず、梅吉に手元に残しておきなはれと言った。 二人がインターナショナル・ホテルまで来ると、既にホテルの横にある建物の煙突から煙が立ち昇っていた。

ガスランプの為に石炭を加熱してガスを作っているのである。夕刻が近付きつつあった。



再び軍艇ポーハタンが錨を上げてパナマに出発したのは、サン・フランシスコに着いてから八日経った四月七日のことである。

梅吉はサン・フランシスコにいる間、多忙であった。どこかの馬鹿殿様の夜伽の世話や、 自分の将来のために商いの計画を音吉と持ったりした。その間に料理人の源三が酒場で荒び、彼はカンリン丸で日本に帰国させられる事になってしまった。異国での生活は、案外と強情な者には不向きなのである。その都度その都度、上手く自分をコントロールしないと精神的に破滅する。

源三は、異国に不向きな日本人なのだ。 彼は江戸の街で、威勢良く生きていくだけで良い人間であった。 カンリン丸で、日本に返される事を聞いた源三は、喜んでいた。

「いってェ、なんで相手をドヤしたんでェ」与一がどうして相手を殴ったのかと源三に聞くと「イ・・・異人が、オ、俺を見てサルの真似をしゃがったァ」と、源三は吃りながらつぶやいた。

「なあ、梅。 おらァ、源三の気持ちが良く分かるぜ 」ポーハタンの甲板で、サン・フラン シスコを離れる日、与一が梅吉に言った。

「・・・」梅吉は、次第に離れてゆく波止場に目を当てていた。

「梅、おれたちゃあサルに似ているのじゃあねえかい?」

「サル・・・か 」音吉は頭のチョンマゲに手を持って行った。

「アメリカ人は、何のために俺達をこんなに歓待するんでェ?」与一の言葉に梅吉は、言葉に詰まった。 余りにも違う文化の水準を否応無しに見せ付けられている。初めての使節であるから、と言うのか。カリフォルニアの議会は、七十七人の侍を歓待するために、二千ドルという当時では莫大な予算を用意した。使節を運ばないカンリン丸は四百ドルだった。これは日本が開国した後、カリフォルニアにもたらす貿易利益を考慮した結果であった。梅吉は漠然とだが、音吉の言うように侍の時代が長くない事を感じていた。



軍艦ポーハタンは南に向かっている。

一週間も過ぎると、船の甲板でセンスを使う者が出てきた。 次第に暑くなってきた。

「江戸を出るときゃあ、冷えェ風が吹いていたのによォ。まるで、夏だぜ」足軽達は船の甲板の影で固まって座ると、茶を啜(すす)りながらブツブツ言っている。

「おめェ、殿様の側で風送りをしたらどうでェ」

「風送りたァ、なんでェ、おッ!」一人が腕まくりをして啖呵を切った。熱くなってきたので皆、苛々してきたようである。

「まあまあ、よしなよ 」などと他の足軽達が止めている。

「別に、怒るほどのことじゃあねえや・・・」最初に言った足軽が顔を海のほうに背けてポツリと言ったのがいけなかった。

相手の足軽は、さっと立って相手の着物の襟をつかむと「てやんでェ、この俺様に、女の様な事をやれってのかッ!」声を荒げた。

「ち、ちがう」 胸元を捉まれた男は、顔の前で手を振って弁明した。

「じゃ、なんでェ」

「暑いので、つい・・・その、殿様を思って言っただけじゃないか・・・」

「そ、そうかい・・・」

長旅の疲れも伴ってか、お供の者達にも疲れが見えてきているようだ。しかし、さすがに武士は武士。二本差しの侍達は、扇子で顔を仰ぎながらも苛立つ事はない。いつものように木刀の素振りをし、身体を水でぬらしたタオルで擦る。梅吉は、侍の世ではなくなると思いながらも、商人だけでは国を動かせないことを悟った。

武士の一人がポーハタンの会席の場で、国を動かすのはどういった人物達でしょうかとタトナール提督に聞いた事がある。彼は、人々に選ばれた人物であると答えた。 世襲制ではなく、大衆からの選抜であると言う。世の体制に反発する人物は首を切られる江戸幕府の統治においては、信じられないような事だ。

パナマへの航海は天気には恵まれていたが海は荒い。船の外輸は打ち寄せる大波を力強く掻いて順調に進んだ。侍達も船の揺れに慣れて、誰も船酔いに苦しんでいる者はいない。料理頭の与一は、料理場で忙しく働いている。 誰もが食欲をなくさないので、料理に忙しいのと源三がいない分、人手不足である。

「梅、パナマはまだか? 」与一が梅吉に聞いたのはサン・フランシスコを出港してから十 日ほど経っていた。

「あと五六日かかるらしいぜ」

「五六日かい・・・」

「どうかしたのか? ヨイさん」

「ん? いや、何。こう暑くては作り置きができねえ」

「そうだろうな。 源さんもいねェしな」梅吉が与-に話を合わせると、与一は「誰か弓の達人はいねェのかい?」と梅吉に聞いた。

「弓の?」

「そうってことよ 」

「弓でどうするつもりだい? ヨイさん」

「海を見てみな」と、与一は梅吉を連れて甲板の手摺のほうに行った。

「見てみな」と与一は海面を指さした。梅吉は船の外に打ち寄せる大型の波の面に目をやった。魚だ。 良く見ると、カツオの群れが時々波間に飛び跳ねている。

「カツオじゃあねェか」

「なッ!」与一が短く念をおした。

「あれを弓で射るのかい?」

「そうよ。 カツオの刺身をいただけるわけだ」

「矢でカツオを射た後、どうやって船に引き上げるんだい?」

「矢に糸をつけてらァ」

「糸を? 」

「おおよ。 凧を持ってきている。糸もだ。この糸を矢につけてカツオを射れば、後は引受けた」

「なるほど・・・それは、名案じゃあねえか。よし、おらァ、名村様にきいてみらァ」 梅吉から話を聞いた名村は、弓の名人といわれる侍達に声をかけたが誰も首を縦に振らない。

「拙者の弓は、魚を射るものではござらん」と言うのである。本心は、揺れている船の甲板からカツオの大きさのものを海に向かって射る事の難しさを知っているからであろう。侍達は恥をかきたくないのである。

「けッ。侍は優柔じゃあねえなあ 」梅吉から話を聞いた与一がブツブツ言っていると、一人の武士が弓と矢を持って申板に現れた。名村と-緒である。

「梅。一人見つけた 」と名村が言った。

「ヨイさん。糸だ 」梅吉は与一に凧の糸を持って来るように話した。

「ハワイの刺身が効いたばい。殿様に食べてもらうもんじゃ言うと、名人を探してもろうた。この栗島殿は弓の名手じゃそうな」

栗島は弓糸を張った。糸を張った後、空弓を引いて弓糸の状態を確認した。栗島が弓の素振りをするたびに弓糸がピ ーンピ ーンと甲板に響いた。

与一が糸を持って来た。栗島は無言で矢に糸を結び付けた。 彼は準備が整うと甲板に弓を射る体勢を取った。

青い波聞にカツオの群れが見える。どこに矢を打ち込んでも当りそうだが、それは素人の見解であろう。 栗島は着物をずらして肩身を開けると、弓の弦に矢を当てて引き絞り矢先を海面に向けた。 彼の青白い端正な顔が、静止している。 一匹のカツオが海面に飛び跳ねた瞬間矢が放たれた。キラッと白いものが青い海面上で光って回転したように見えた。

与一の足元の糸がするすると動いて海に向かっている。 与一が慌てて糸を止めた。止めて彼は糸に物体の手応えを感じた。 間違いなく栗島の矢はカツオを射たのである。それも無闇矢鱈(むやみやたら)に射たのではない。 カツオが海面に跳ねた一瞬を狙って放たれた矢である。 梅吉は、侍の人間業を超えた武術に驚かされると同時に、このように優れた武術を持つ侍の世ではなくなると言う戸惑いに、悪夢を見ているような気分だった。 栗島は見事に十匹のカツオを射た。 後は、糸の先に木片を括り付けて海に投げ込んだだけでカツオが食らいつく事を知った与一が二十匹ほどもつり上げたので、十分なカツオが甲板に並んだ。

ポーハタンの船員達は網で多量のカツオを捕ったが、直ぐに塩漬けにされ保存された。日本人達は刺身にしたり煮て食べた。

皆が数日ほどカツオを食べている間に、ポーハタン号はパナマ湾の近くまで来ていた。霧の深い朝、ポーハタンの担当仕官にパナマに着いた事を知らされた日本人達は甲板に出てみた。周囲は一面の霧で島影はどこにも見えない。 空も海も総ての視界は霧に遮られていた。皆があきらめて船室に引き返そうとすると、ポーハタンから空砲が放たれた。直ぐに遠くで返答らしい空砲の音が聞こえた。 あの辺りにパナマの港があるのであろう。 室に戻ろうとしていた日本人達は腫を返して甲板に出て行くと手すりに手をかけ、空砲の返礼があったほうに目をやった。 霧が海面を早い速度で動いてゆく。 直ぐに切れ間ができ、ぼんやりと黒い物体が見え始め次第に色の付いた景色が薄く霧の中に現れてきた。

パナマである。 余り大きくない港が見えてきた。

霧が晴れてポーハタンが湾の中に入港して錨を下ろすと、多くの小船が湾の中に現れてポーハタンの方に漕ぎ寄せてきた。ハワイで経験していたので、日本人の誰しもが物売りの船であろうと推測した。間違いなく土人達の物売りの船で、バナナやオレンジなど色々な ものが小船に積まれていた。土人達は器用にポーハタンの船体に船を漕ぎ寄せて来ると、銘々の品物を手で掲げて甲板の者達に見せた。梅吉は、足軽達の買物の通訳にあちこちから声がかかった。

足軽達は「それは、なんじゃあ? 」と、日本語で土人達に声をかける。 不思議と言葉は通じて「バナナ! バナナ! 」とバナナ売りの土人が言い、一つをもぎりとると美味そうに 食べて見せ購買欲を誘ったりする。しかし「いくらかのう? 」と聞いても相手は「バナナ! 」と答えるだけなので、梅吉の出番となるのである。

「ハウ・マッチ(幾らだ )?」と聞くと二十セントだという。 足軽が懐から巾着を取り出して梅吉に見せる。 被は十セントを二つ掴み上げて足軽に渡した。 銭を甲板で相手に掲げると、竿の端に小さな篭が付いだ物でバ ナナを入れて下から突き出して来た。 支払う金銭はかごの中に入れてくれと言う。 なかのアイデアである。 オレンジは九個で十二セントらしい。 梅吉は日本の青いミカンのような物を買った。 食べてみると甘い。 与一にも与えた。


変わったところでは鳥売りがいた。 見るとオウムと呼ばれて江戸で高く取り引きされている鳥に似ている。 価格は三十セント。 江戸の貨幣に直すと一分ほどで、足軽達の一月分の給金に近い。 誰もこの高価な鳥売りに声をかけようとはしなかったが、使節の耳に届いてお供のものが 買い入れた。 江戸の殿様達の問では鳥を飼う事が流行っていたのである。

鳥籠に入っている鳥は殿様の家来の手にわたると、変な言葉を繰り返して言った。 土人の言葉であろうと思ったが、良く聞いてみると「ハロ、 ハロ」と言っているので「ハロー」(今日は )という英語であろう。 アメリカ人に売り込むために仕込まれた言葉のようだ。 使節の家来は、鳥が「ハル(春)、春と言っておる。 これは、誠に縁起が良い」と、喜んでいた。

昼過ぎになると船から陸へ使節の荷物降しが始まった。 当時はまだパナマ運河が出来ていなかったので、とこから大西洋まで汽車で行き、大西洋側で待つ船に乗り継ぐのである。 若しポーハタンが南米のチリまで行きぐるりとまわって北上すると、サン・フランシスコからニュヨークまで千八百マイル(約 2 9 、0 0 0 キロ・メーター )と言う膨大な距離を航海しなければならず、かなりの日数がついやされる事になる。 使節の荷物は八十トンもの量だったので、降ろす作業には時聞がかかった。 荷物を船から下ろし汽車の駅まで運んで積み込んだ。

日本人達は、汽車を見た時は当然驚いた。 侍の中には、ペリーが浦賀に上陸した時に小さな汽車のモデルを走らせたのを見た者もいたが、実際の汽車は思っていた以上に大きい。

「鉄の固まりのようでござるな・・・」腰の刀を気にしながら侍が言っている。

「大筒(大砲 )のような煙突じゃのう・・・」

「二本の鉄で出来た道を走るんじゃと・・・」 色々話しているが、彼達の話の語尾が総て「・・・」となった。レールに触って、考えながら顎をさすっている者もいる。

「なるほどのう・・・」一人が言った。

「いや、まったくでござる・・・」

「いやはや、なんとも、拙者は驚き申した・・・」

侍達の会話は非常に抽象的で、よく意味が通じることだと感心せざるをえない。

足軽達は膨大な使節の荷物を汽車に積み込む仕事に追われていた。

「てやんでェ。たかが蒸気で走る釜と箱じゃあねえか。 おどろくこたアねえや」鼻をすすりながら足軽が言っている。

それでも、汽車が動きはじめると皆黙った。汽車がスピードを上げると 、口をぽかりと開けたまま窓の外に流れる景色に目を取られていた。 生まれて初めて経験する速さなのである。 侍達の中には馬を走らせた者もたくさんいたが、馬の速さのごときではない。かなり速い。

侍達は早馬の速さと比較し、足軽達は飛脚の走る速さと比較した。

「速いのう。 黒田様の馬より速い」と侍は考えた。

「裏の長屋に住んでいる、飛脚の豆吉も走るのがはェが、こりゃあ百倍もはええや(速い)」と、足軽は考えている。

しばらくすると「ジュース」という蜜柑の搾り汁が日本人に配られた。 飲んでみると、冷たくて実に美味い。コップの中には氷が入っていた。

「こんな暑いところで、氷があるとは、いや、実に驚きでござるなあ・・・」サン・フランシスコで歓迎の宴に参加できなかった仲間や足軽達には、氷の入った飲物は初めての経験である。例の感心した言葉が誰からともなしに洩れる。

コップを口に持ってゆきジュースを飲もうとすると、中の氷が口に触れて驚いて声を上げる者もあり又、口に含んだ氷を慌てて吐き出す者もありで少々騒々しい。 氷を指で掴んで持ち上げると誰しもが「氷だ」と感心したように言い、ジュースを飲み干した後、コップに残った氷をなめた。

窓の外に広がる景色に目を向けると、貧しそうな土人の家屋が時々山の裾野に点在していた。粗末な家屋の前では、牛や羊が囲いの中で飼われている。土人達は、墨のように黒い肌を持ち、頭の毛は短く縮んでいる。 唇は厚く、ほとんどの土人は裸足であった。

侍達は、鉄道を動かしている支配者の国と未開の国との比較を余儀なくされた。うかつな事をしていると、自分達の国までこのようになると思った。



汽車は午前十一時頃、大西洋沿岸の駅に着いた。 四十八マイル(約七十七キロメーター)の距離を汽車は三時間ほどで走ったのである。

大西洋の港には、使節を乗せるため軍艦ロアノークが錨をおろしていた。 ロアノークは五年前の1855年に造られた最新鋭の軍艦で、スクリ ューで推進した。もちろん 帆柱もついているので、一見すると昔ながらの帆船のように見えないでもない。

「水車がついてね ェや・・・」

「しかしよォ。あれ、みろい」一人の足軽が指をさしたのを、彼達の話を小耳にしていた者達全員が指の示した方角に視線を向けた。

帆柱の向こうに、煙突が立っている。 煙が微かに立ち昇っていた。

「なッ」足軽が念を押したように言った。

「ほんとだ。ありゃあ間違いねェ。 煙突じゃあねェか。するってえと、この船も蒸気で走るッてェ事じゃあねェかい」

「カンリン丸とおなじように内輪じゃあねェのかい?」

「内輪?」

「外側に、水車があるってェことよ 」

「なるほど、なッ」

幕府海軍がオランダから購入した咸臨丸は、日本で初のスクリュー装備船だった。

足軽や仲間、上級武士の推測はまるで違っていた。スクリューによる推進を「内輪」で動いていると思っていた。

汽車で運ばれた使節の荷物がロアノークに積込まれ、船が錨を上げて動きはじめたが水車の水を掻く音は聞とえない。 侍達は皆珍しそうに甲板で船の動く海と船体を見比べた。 彼達は直ぐに船尾のほうに何やら仕掛けがあるらしい事を、海面に出来る泡で知った。

「何やら、この下に仕掛けがあるはずじゃ 」侍が船尾の手摺から下方のほうを覗き込みながら言った。

これを見ていたロアノークの水夫が 「アブナイ 」と日本語で言った。この水夫は現在ロアノークのマックルニイ提督がペリー提督の軍艦ポーハタンの艦長として日本に行った時、水夫として日本に行き浦賀に上陸した事がある。簡単な日本語が出来た。

「アブナイ」水夫が再び言った。

「いや、これはこれは、失礼つかまつッた。拙者、この船がどのようなカラクリで動いておるのか、いささか興味を覚えましての、あッ、いやいや、海の中に飛び込むつもりではござらん 」侍は、アメリカ人が日本語で注意した事に、すっかり慌てていた。

「ダイジョゥ、ピ? 」(大丈夫 )アメリカ人が聞いた。

「いや、御心労、かたじけない」侍は頭を下げた。

「ヨイ、ヨイ」多分、アメリカ人はこの言葉で気にしなくていいですよと表現したと思われる。

「ところで、どうやってこの船は動いているのでござるか? 水車が見当たらぬでござるが・・・」この侍の質問はアメリカ人の水夫にはわからなかった。彼は首をかしげた。日本語が通じなかったのである。

運良く通調の名村が通りかかった。

「名村殿 」侍が声をかけた。

名村がやってきて水夫に聞くと「スクリュー」と言う物で動いているらしい。

「スク・・・竜 」侍や周りにいた者達は、当然「竜 」を想像した。 竜が船を動かしているのかと、本気で思った。 名村が水夫にどういった物かと聞くと、彼はかがみ込み、甲板の上に指で図を描いた。

「ふむ・・・風車(かざぐるま) のようでござるなあ・・・竜ではござらん」顎に手を当てて侍が推測した。

「風車・・・・・・か。 誰の紋じゃったかのう? 」

「たしか、拙者の覚えている限りでは、村上殿」

「いや、村上殿の紋は、風車じゃござらん」と家紋の話になってしまった。 水夫は、名村に一言二言声をかけると忙しそうに立ち去った。

「三ツ矢の家紋にも似ておる」

「左様。あれは、風に当るとかなり良く回る」

「しかし、水のなかでござるよ。 矢ではなかろう」

「それでは、やはり風車でござろうの」

「風車が水の中で回ると、船が進むとは、名案 」他の侍が納得したように腕を組み、頭を振って言った。

要するに子供がもって遊ぶ玩具のような物が船を動かしているらしい。 侍の中には、懐から旅様の筆と巻き紙を取り出し図を描いている者もいる。 後世におい て、日本は鉄道や造船にかけては世界一になるのであるが、出発点はこの辺りだ。



ロアノークが鉄道の駅の港から出港した日は四月二十六日で、船は直ぐにポルトベロに入港した。 給水のためである。 ポルトベロは豊な湧水に恵まれていたので、海賊的な冒険者であるフランシス・デュークやヘンリー・モーガンの船団基地として歴史に名を残した非常に美しい港である。

岩の間から滾々(こんこん)と湧き出る清水は、パイプで船のタンクに送られる。 給水施設はニュヨークの会社が所有していて、アメリカ人夫婦が管理していた。 日本人達は、船が給水をしている問、海岸に上陸する事が許された。 侍達は名村の通訳を通してロアノークのテイラー艦長からポルトベロの歴史を聞いて興味を示し、遺跡の跡などを熱心に見てまわった。 自分達が東西に分かれて争っている頃、既にここには砦が出来ていて、世界を航海する冒険家達がざわめいていたのである。 崩れた砦の一つ一つが、歴史の動きを語りかけて来た。

やがて給水の終わった軍艦 ロアノークはアメリカの東海岸へ向けて出港した。煙突から石炭の煙が黙々と立ち昇り、スクリューの泡は船の後尾の海に長く尾を引いている。

外輪船よりも速度がかなり速い。 南大西洋の航海は天気にも恵まれていたが、日本人達にとって衝撃的な事件があった。

病気であった水夫が死に、水葬にされたのである。布でくるまれた水夫の遺体が海に放たれた。葬儀には艦長以下全員が出て祈りをささげた。 日本では上級の武士が下級武士の葬儀に参加する習慣はない。

水葬はアメリカ海軍のしきたりで、艦長と提督のみが特別に取扱われる。 艦長や提督が 航海中に死ぬと艦長は近くの港に埋葬され、提督の場合はガラスの棺に入れられて故郷に送られる。 他は、仕官以下皆水葬にされるのである。 侍達は侍であるが故に死に関しての身近な固定観念をもってはいた。しかし、海に流される遺体を見る事は憂欝であった。 死に方はどのようであれ、侍達は土の中に埋葬されたいと考えていたからである。

軍艦ロアノークは二週間後の五月九日、ニュヨークの手前にある突起のように突き出た岬にあるサンディ・フックに着いて錨を下ろした。

そして、アメリカ政府から予定地変更の知らせが届いた。 寄港予定地だったニュヨークからワシントンに変更し、日本人使節をホワイト・ハウスに案内せよと言うのでおる。 乗組員達は、ほとんどがニュヨーク出身者で日本人使節をパナマで三ヶ月も待つ間に病人もかなり出ていたが政府の命令である。 軍艦ポーハタンは錨を上げてワシントンに向かった。



ワシントンDCは、チェサピーク湾に流れ込むポトマック川の大きな川幅が次第に閉じて行き、普通の川幅になるあたりにつくられた都市である。 ワシントンには、アメリカ合衆国の象徴であるホワイト・ハウスがあり、大統領が住んでいる。

「ここは、どこだい?」ポーハタンが軍港に錨を下ろすと、与一が梅吉にたずねた。

「ワシントンに向かう入口らしい」

「ワシントン? 」

「江戸見てェなとこだとよ」

「へツ?」与一が首をかしげた。

「この辺りは、日本で言ャあ、浦賀だろうな」

「じゃ、ここから歩きかい?」

「いや、名村様から聞いたんだが、別の船に乗り換えらしいぜ」

「なに? 又か?」

「仕方ねェよ、ヨイさん。お勤めだぜ」

「いや、ちがいねえ。ちがいねえが、いささか疲れるぜ」

甲板で手摺に手をかけ海を見ながら話していた彼達の目に、軍港に入って来る一隻の船が見え始めた。

「なんでェ? ありゃあ・・・」長細い箱の両側にでっかい輸が付いていて、箱の真中にある高い煙突から煙がそクモクと噴き出ている。 船が方向を変えると輸が水車である事が分かった。

「外輪船じゃあねえか。 変な船だ」

船に帆はない。 近づくにつれ、箱の中ほどのあたりに玩具の「弥次郎兵衛」のような物が動いているのが見えた。

「なんでェ? ありゃあ・・・」与一が同じ言葉を繰り返した。 彼は、まだ船のエンジンと言う物を見たことがない。

「ヨイさん。 ありゃあ船を動かしているカラクリの一部だよ」

「あれがか・・・どうやって、動いているんでェ?」

「蒸気で、動く・・・」 梅吉は音吉達のいた船のエンジンの部屋を思い起こした。 次第にパシヤパシヤと言う大きな音が聞こえ始めた。 外輸が掻き上げる海水が白い粉末(ふんまつ)のような飛沫(ひまつ)を上げている。

ポーハタンの甲板にはポーハタンの水兵や仕官、日本人使節の従者達が集まってきた。 皆、近付いて来る船を見ている。 船首には日本の旗とアメリカ人が思っている白地に赤の丸が描かれている旗ポールに上げられ、船尾にはアメリカの旗がなびいていた。

「あの船に乗り換えらしいぜ」足軽の一人が通詞に聞いたと付け加えた。 船はアメリカ政府が日本人使節をワシントンに迎えるために借入れた客船フィラデルフィヤであった。 船体に大きく船名が書かれている。フィラデルフィヤは外海を航行しない。

もっぱら湾内と河川を行き交い、各都市間を結ぶ客船であるが船内は豪華につくられている。

使節一行がフィラデルフィヤに乗り移ると、船内は音楽隊の演奏を始め豪華な食事や部屋が使節達に用意されていた。

船がワシントンに向けて動き始めた。 揺れが少なく快適である。

「与-。 食事の支度はせずともよいぞ」侍の一人が与一に告げた。

「へい・・・足軽達の分もでござりますか?」

「むろんじゃ 」

「すると、今夜はアメリカの食事で?」

「さよう・・・翌日にはワシントン言う都に着くと言う事じゃ」

「へい・・・」与一が頭を下げて了承すると、侍はセンスで顔を扇ぎながら立ち去った。

「アメリカ人の食事か・・・」梅吉の言葉に与一は、握飯はつくってあらァ」と答え、片手で自分の腹をポンポンとたたいて見せた。

「そりゃあ、いいや。アメリカの食事では腹がもたねえ」

「飯にかぎらァな 」

「ヨイさん。味噌あるかい?」

「ああ、匂いがでねえェように油紙でしっかり蓋して、手元に置いてある。 あれは他の荷物とは一緒にできねェよ 」

「ありがてェ。いや、なに。無性に飯と味噌が食いてェんだ。食えるかい、ヨイさん」

「梅の頼みだ。後で俺の部屋に来な。 腹-杯食わしてやらア」

「頼むぜィ」

「あたぼうヨ。干し魚も焼いてやってもいいが、今日は止しておくぜ。 匂いがでらァ。 首が飛ぶのはごめんだからよ」

梅吉と与一は幕府の軍艦「竜神丸」に乗り組んでいた仲である。 使節の従者達は、地位の高い武士達を除いて、食事が終わると早々と自分達に割当てられた船室に退き上げた。これは「お達し」である。 船室に引きこもると皆、適当に雑談をしたり煙草を吸ったりしながら船内の饗宴の音に耳を傾けた。

梅吉や与一などは、握飯を食べながら酒を飲んだ。

「おめえ、江戸に戻ったら何をするだ?」与一が梅吉にたずねた。梅吉は手に付いた飯粒を口で拾い上げ、一呼吸おいて与一を見ると「おらァ、商人になるぜ」と告げた。

「足軽の勤めはどうするんでェ?」

「暇をもらう・・・」

「そうか・・・商いをなあ・・・」与一が感慨深そうにつぶやいた。

「ヨイさん。ここだけの話だが、侍の時代は余りながくねェ気がする 」

「梅。 おめェもそう思うか・・・」

「アメリカの一番の偉さん(大統領 )は、民から選ばれるらしいじゃあねえかい」

「ああ、将軍様のように世継ぎじゃあねえらしいな」

「そこよ。 侍も世継ぎだが、おらァ、面白くねえ。少しゃあ、楽な暮らしがしてェもんだぜ 」

「あばら屋から出てェわけか?」

「その通りさ。おらァ、必ず出て見せる 」梅吉は湯飲みの酒をがぶりと口にした。 梅吉は、父親が残した小さなあばら家に住んでいるが、与一やほとんどの足軽や仲間は長屋か、武家屋敷につながる小さな家に住んでいる。 今まで見たアメリカ人の生活様式などに比べると、生活水準はかなり低い。 異人を未開人として下げずんで来た自分達の文化が、反対に劣っているのである。 客船フィラデルフィヤは、夜の海のように広いポトマック川を上っている。時々、船室 の窓ガラスを通して対岸の明りが小さくポツポツと見えたりするが船内に点るガス燈の明るさに打ち消された。

誰かがいびきをかいている。 船内の音楽は未だ聞こえているが、お供の者には寝る事が一番の船旅であった。 外輪の動きの音がサム・パッチの言うように懐かしい水車の音のように聞こえている。



翌朝、目覚めるとだれしもが窓より対岸を眺めた。 緑の陸地が船に近い。

「梅・・・」誰かが梅吉に声をかけた。床から起き上がってみると、数人が声をかけた男の背後にたたずんでいる。

「なんでェ?」目を擦りながら梅吉はつぶやくように聞いた。

「すまねえ」相手は頭を下げた。

「どうしたい? 」

「いや、何、小便してえのだが、どこでしていいか分からねェ」足軽の松助が言った。

「おめェ、昨晩小便に行ったじゃあねェか?」

「ああ、行った 」

「なら、分かるだろう 」

「いや、分からねえ 」

「・・・」梅吉は相手を見た。 後の連中もそジモジと落ち着きがない。

「昨晩、さがすこたァさがしたのだがよォ・・・」

「見つけられなかったのか? 」

「ああ、そう言うこった 」

「おいおい、じゃあ、小便しなかったって分けかい? 」

「いや、やった 」

「どこで? 」

「しかたねェから、暗い船縁から梅に向けて・・・だ」

「松、そりゃあ内緒にしとけ。 首が飛ぶぜ」

「わ、わかってらァ、だれが好き好んで小便を船縁なんぞからするかい。 我慢ができなかっただけじゃあねェか 」

「すまねえ。 言い過ぎた 」

「言いって事よ。それより、早くおしえてくれねェか。どこで小便できるんだい? 昼間は甲板から小便できねェ」

梅吉は足軽達をトイレと呼ばれる便所に案内した。足軽達は小便を済ませると再び口数が多くなり、好奇心を船のあちこちに示した。甲板に上がると対岸の街が間近に見えている。 片方の陸地を眺めた足軽達は、反対の甲板にも歩き陸地を眺め、再び元の甲板から過ぎ去っていく陸地の風景を目にすると言った按配である。 元来日本人は他人種に比べて物事に対する好奇心が旺盛である。日本を開国に導いたペリー提督などは、心理学者を連れて来て日本人を調べらせている。日本人種は他国の人種に比べて好戦的ではないが、軍隊の行進を見たりするのが好きな事と、総ての事に興味を示す人種であると結論付けている。要するに好戦的であれば軍事的にも警戒をしながら開国を迫る必要があったわけだが日本人は体裁を重んじるだけで、友好的な国民性を 持っていた。この国は将来、アメリカ合衆国に取ってアジア地域の友好国として期待できると判断したのである。



1860年5月14日、七十七人の侍達はワシントンに着いた。江戸湾を出発したのが二月十三日であるので、片道が丁度三ヶ月かかった事になる。アメリカ政府が借入れた客船フィラデルフィアがワシントンの軍港に到着すると、波止場には大観衆が待ち受けていた。 長い間「鎖国 」政策を取っているなぞの多い東洋の国から来訪した侍の使節を一目見ようとする群集と軍人達だった。

「サムライ 」とは、民主主義的な背景を持つ国に住んでいるアメリカ人達には不思議な身分に思えるのである。 サムライの容姿は先ず「チヨンマゲ姿 」で見事な造りの「刀 」と言う物を腰のベルトに差し込んでいる。 法を犯す物は刀で「打ち首」になったり、侍は自ら「切腹」と言い、腹を切るらしい。 群集達は侍達を清潔で賢そうな国民であると感じたり又、その-方ではサルのような連中ではないかと影であざける者もいた。

ともかく日米修交条約の批准書の入った箱は使節一行(使節と従者)とともに、群集の中をポリスに警備されてウイラード・ホテルまで運ばれた。 梅吉達足軽や仲間の-部は、使節の荷物の整理に追われた。 ほとんどの荷物は軍艦ロアノークに残されて届いていなかったが、それでもかなりの量の荷物が客船フィラデルフィアに持込まれていた。

「味噌はどうする?」梅吉が与一にたずねると、彼は命より大事だと言って自分の手元に引き寄せた。

「味噌も、江戸を離れてアメリカまで来ると小判よりてェせつだ(大切だ)」と与一は額の汗を袖でぬぐった。

「頭(かしら)、殿様たちゃあ、アメリカの汁(スープ)を飲んでいるんじゃあ?」と、手下の者が与一に言った。

「馬鹿野郎! なんてェ事をぬかすんだ。いいか、村垣様などはワシの作った味噌汁を毎日飲んでおいでになる。竹造、そこの味噌にもう一枚油紙をかぶせろ。アメリカ人に変な匂いだと言われると腹がたたァ」

やがてアメリカ人も味噌が好きになる事は分かっている。軍艦ポーハタンの料理長は味噌が好きだった。 彼は、味噌汁を飲むことを好んだと与一は話した。 味噌もアメリカに売れるかもしれないと梅吉は考えた。 荷物を担いで客船フィラデルフイアから外に出ると、波止場いっぱいに群集がざわめいていて、音楽隊が何かの曲を演奏していた。 大きな日の丸やアメリカの旗が高い竿ポール掲げられてあちこちに見える。着飾った男や女のアメリカ人が珍しそうに使節の行列を見物していた。

足軽達は荷物を背にして、呆然と使節一行の後ろ姿を見た。このままの姿で後を追っていいものかどうか躊躇したのである。 侍や仲間は着物に袴姿であるが足軽達は股引姿である。

「おらァ、ワラジ代えた 」足軽が片足を上げている。 草鞋(わらじ)を代えても関係がないであろうが、そうでもしないと心細い。

「て・・・でやんでェ・・・」と小さくつぶやいた者もいる。 船は、停泊しているにもかかわらず高い煙突から黒い煙を上げていた。 風は陸から吹いていて、煙は川下に流れている。

「ともかく、行こうじゃあねェか」梅吉の言葉に皆領いて歩きはじめた。 使節の最後の列まで少し早足で歩いた。人々の囲いはまっすぐに宿泊先まで繋がっていて、行列を挟んでいる。人々の囲いの中を歩いていると、被達の話し声が谷川で鳴くカジカように聞こえるのである。

梅吉の前を歩いている与一は味噌の壷を大切に抱えている。まるで、小判の入った壷のようだ。後ろの竹造は米を背負っている。 皆思い思いに自分達の歩く爪先を見ながら使節の行列に続いた。

ウイラード・ホテルは巨大な建物であった。

「梅・・・」ホテルの大広間で荷物を整理しながら与一が梅吉に話し掛けてきた。

「なんでェ?」

「アメリカ人は、おら達を歓待し過ぎじゃあねえか・・・」

「?」

「身震いすらァ」 荷物の紐を解きながら与一が言った。 身震いするとは、的を得ていると梅吉は可笑しくなった。

「いや、ちがいねェ・・・ありがてェことじゃねえかい」

「ヘッ? おめェ、ありがてェってか?」

「歓待してもらわないよりもらったほど、ありがてェと思うだけさ 」梅吉は、片方に重ねてあった木箱を抱えて動かしながら与-を見て言った。荷物の整理が一段落付くと、足軽達に部屋が割当てられた。 四人が一部屋である。 ベットと呼ばれる寝台が部屋には置かれている。 部屋の割当ても、使節の誰に仕えているかによって決められたが、村垣淡路守に仕えている梅吉や与一はいつも一緒である。

「梅、飯はどこで炊けるんだい?」部屋に入るなり与一が聞いた。

「ヨイさん。 飯は、ここじゃあ炊けねエだろうよ 」

「飯が炊けねェ?」

「この宿が、飯は用意するらしい」

「じゃ、おれ達は味噌汁もつくれねェのか?」

「多分な 」

「そりゃ、ねえよ、梅。殿様たちゃあ、毎日味噌汁をご賞味されているんだぜ」

「しかし・・・」

「おめェ、言葉ができるんだ。すまねェが、一つ異人にきいてみてくれねェか? 」

「後でな・・・」

梅吉は与一の頼みに適当な返事をし、寝台の上に大の字になった。天井を見上げると、江戸の自分のあばら屋が思い出された。 竃(かまど)から立ち昇る煙が渦を巻きながら天井のない空間を屋根のほうに上ってゆく。炊事場で丸くなり火を見つめている母親が思い起こされた。

(すげェ違いだ・・・)と梅吉は思った。江戸の暮らしとアメリカ人の暮らしには、かなりの開きがある。細かく相違点を指摘すればきりがないくらいだ。 アメリカが豊である事は日本人使節の誰しもが思っている事である。目を閉じると、江戸の町並みが浮かんで来る。

金持ちは商人か大名である。庶民は大半がその日暮らしだ。米は米問屋から、味噌は味噌屋から、魚は魚屋から買ってこなくてはならない。足軽の手間賃では、母親と父の残したあばら屋で生活してゆくだけが精一杯であった。米 は時々、淡路守から授かっているが余裕らしい余裕はない。 年老いた母親は、漁師から仕入れた魚を干物にして売り歩きささやかな小銭を稼いでいる。

梅吉は、白い飯を食べる夢を、生れた時から持っていたような気がする。アメリカに向けて旅立つ日、母親の用意してくれた白い飯は彼の夢であった。 夢を現実にしてくれた母親の気持ちを考えると、一生足軽の身分で通すわけには行かないと考える。梅吉は、ふらりと寝台から立ち上がった。

「大広間のほうに行ってくらァ」寝台に横になっている足軽達に声をかけると部屋から出た。 梅吉は、通りに出てアメリカ人の商いの状況を見てみたいと思った。

高価な絨毯を敷き詰めてある廊下を歩く。どこを見ても豪華な造りである。絨毯の上を歩い ていると、江戸城に上がる侍のような気持ちになって来る。 階下に降りてゆくと、次第に人々の姿が多く目に付く様になった。このホテルの泊まり客であろう。端正な身なりの老若男女が行き交っている。

ホテルのロビーと呼ばれる場所は、流石に梅吉を不安にさせた。 天井からはガラスで出来たシャンデリアと呼ばれる物がキラキラと光っているし、あたりに置かれている調度品など諸々の物が梅吉を場違いな人間として捕らえて来る。

(ごめんなすって)姿勢を折り曲げてロビーと呼ばれる大広間を通り過ぎた。行き交う人々が梅吉の婆をものめずらしそうに見る。 玄関にたどり着き、入口に立つ門番のドア・ボーイ がドアを開けて待っている時、ふとロビーを振り返ると-人の侍が真ん中を堂々とゆっくり歩いて来る。長めの刀を腰に差している侍である。

(松本様・・・)間違いない、剣の使い手の松本三之丞である。 梅吉は、軍艦ポーハタンの船上で、松本がアメリカ人の水夫と手合わせした時の事を思い出した。

物静かな剣客が、なぜ使節の随行として加わったのか不思議な思いがしたものだ。用心棒のような役割かもしれない。

松本は、まるで江戸の街を歩いているようなそぶりで、ロビーを真っ直ぐ梅吉の方に歩いてきた。 梅吉が頭を下げてお辞儀をすると、相手はチラリと梅吉に目をやり、開いているドアか ら外に出た。梅吉も彼の後からホテルの外に出た。 松本はホテルの出入口から少し離れた所で立ち止まると、懐手をして大きな通りを眺め始めた。 剣客の持つ独特の威厳は、雑多な街の持つエネルギーに引けを取らない。 松本は様になっている。(てェしたもんだ・・・)と、梅吉は思った。 彼は自分が足軽である身分から、松本に声をかけるのをためらったが、アメリカと言う土地にいることで思い切って声をかけてみる事にした。

「松本様」梅吉の言葉に松本が振り向いた。 梅吉が頭を下げると「どうした?」と松本が言った。

「へい。いや、お侍様が一人でホテルから出て行かれましたので・・・」

「わしは、部屋の中だけに居るのは好かんでのう・・・」松本は懐から手を出すと顎に伸ばし、数度摩った。

「さようで御座いますか 」

「お主は、どうした? 」

「へい。 あっしも同じでごぜえます。ちょっと街を見たいと思いやして・・・」

「名は何と申す?」

「梅吉と申しやす 」

「拙者は、松本三之丞じゃ」

「存じておりやす。ポーハタンの船で松本様の剣さばきを見る機会がござりまして」

「ああ、あれか。 他愛のない事じゃった」

「しかし、相手は異人の大男でございましたから」

「その方、刀は使えるのか? 」

「使えません」

「そうじやろうのう。 相手の武術の技量は面と向かうと取れる」

「取れる?」

「そうじゃ。 程度が分かると言う事だ」

「はあ・・・」

「しかし・・・」と松本は言い、再び雑踏に目を向けると言葉を切った。

「たいそうな人通りでございますなあ 」梅吉の言葉に、松本は両手を腰に差した刀の柄のほうに軽く置くと「今に、江戸もこのようになるかもしれぬのう・・・」と低くつぶやくように言った。

「へい・・・」梅吉は言葉を持たなかった。ただ相槌をうつのみである。

「刀も必要なくなるな」と、松本は言って軽く笑った。

「見てみろ。 アメリカ人の一人として腰の物をさげではおるまいに」

「へい。 その代わり、ピストルと言う短筒を持っておると聞いておりますが・・・」

「短筒か・・・」

「へい・・・」

「わしゃ、いい時代に生まれたもんだ。 まだ好きな剣で飯が食えるんじゃから」と松本は言い、わしは戻るぞとホテルのほうに腫を返した。

梅吉は通りを眺めた。 目の前には、数階建ての煉瓦造りの建物が通りの両側に立ちはだかっているのだ。今までに見たことも考えた事も、夢にさえ見たことのない豊な人間の街である。しかし、松本三之丞の表情にはアメリカを豊な国として捉えているような素振りはなかった。 剣の達人としての眼力が、このアメリカの文化に潜む悪い面を彼に読み取らせたのかもしれない。 梅吉も通りを眺めてみた。豊かな文化の側面しか感じ取れない。彼は、江戸の街と比較していた。



数日後、軍艦ロアノークから残っていた使節の荷物がホテルに届いた。足軽達は荷物の整理に追われた。アメリカ人のもてなしは、使節と上級武士にのみである。 足軽や仲間は、ほとんどが荷物の整理や殿様達の炊事洗濯、着替えの手伝い、それに重要な事は月代〈さかやき)を剃り「ちょんまげ」 を手入れする事である。 七十七人の頭の月代を剃り、後ろの髪を束ねて鬢付け油(びんつけあぶら)で固めて載せる。 面倒な髪の手入れや洗濯を足軽や仲間がホテルの中で行うのである。

特に洗濯は足軽にとって重労働であった。通調がホテル側と交渉して借りた洗濯場で、船上で山のように溜まった衣服を洗濯しなければならない。江戸から持参した灰汁で衣服を洗っていると、ホテルの従業員が江戸では貴重品であるあるシャボン(石鹸)を提供してくれた。しかし、石鹸の香いが衣服に付く事を恐れた足軽達は、殿様達の衣服には灰汁を使い一つ一つ丁寧に洗濯した。

「新見様の洗濯物は、今日じゃ」目付が足軽に指示を与える。

江戸の街と違い便利なのは水道と言う物があり、レバーと言う物を回せば幾らでも水が出た。 足軽達は、殿様の衣服に平伏して洗濯に取り掛かる。洗濯の女達が不思議そうに彼達の行動を眺めていた。 ある日、一人の女がどうしてまとめて洗躍をしないのか又、どうしていちいち衣服に頭を下げてから洗濯をするのかとたずねた事があった。梅吉にも上手く説明できなかった。

洗濯が終わると干場にはられた綱にかけて干すのであるが、見張りをつけた。 若し、殿様の物がなくなったら大変だ。ここでは打ち首などにはならないだろうが江戸に帰った後、どのような裁きが待っているかもしれない。 足軽達は殿様達の衣服を、まるで真剣勝負をするような気持ちで洗濯し、干場で衣服が乾燥するまで交代で見張りを続けた。

足軽達が自由なのは夜のみである。 使節と上級武士達がアメリカ側のもてなしに預かっている間、彼達は自分達の部屋で思い思いに時間を過ごした。 炊事係達は、アメリカの食材で日本食を料理した。これらは皆足軽や仲間の食事だったがアメリカの食事に飽きた侍達も次第に、与一達のこしらえる料理を心待ちにするようになった。

同じ日課が繰り返され、使節達はブカナン大統領に謁見すると日米修好通商条約の批准書交換を無事に済ませた。大統領との謁見では、日本人達は古式にのっとった服装で望んだ。 冠烏帽子(かんえぼし)を頭にくくり付け、徳川幕府の将軍に謁見する時と同じような服装で、アメリカの大統領に謁見したのである。

アメリカでは、礼として頭のかぶり物を取るが、日本の冠烏帽 子は取る物ではない。 地位を現す象徴であるからだ。 日本人達は公の大切な場所において、アメリカ人の背広にチョッキの服装を股引に筒袖、腹掛と呼称し、大統領から一般人までほとんど同じ服装で刀も持ち歩いていない事を不思議に思った。 議会を見学しても、物静かに意見を述べる日本の政所の討議と違い、身振り手振りで意見を交換するアメリカの議会は江戸の町中のように騒々しい。その後七十七人の使節一行は、慌ただしくパルチモア、フィラデルフィア、 ニュヨークと移り、各都市のガス燈や水道、消防施設の完備に感銘し、造幣局や製鉄所、紡績工場、機関車の工場などを見学する機会を持った。

気球や蒸気エンジンなど最新の技術にも触れることが出来、使節一行はやがて来る新しい世代の科学文化をおぼろげながら予想したのである。



6月29日、使節一行は軍艦ナイアガラで帰途についた。今度は、大西洋を横切りアフリカの希望峰を通ってインド洋、南シナ海と北上し香港に寄港したのは十月の上旬である。

香港まで来ると、日本は間近い。 日本の最新情報も聞こえてきた。

開国に理解を示していた大老の井伊直弼が桜田門外で、水戸、薩摩浪士によって殺害されたと言う。

「梅・・・」ある日、通詞の名村が梅吉を呼び止めた。香港では通詞の仕事は余り忙しくないようだ。 彼は、手に何か包みをぶら提げていた。

「名村さん・・・」 梅吉は頭を下げた。

「元気か?」と名村は言い、食わんかと包みを広げた。饅頭のような物が入っている。梅吉は一つ取り上げた。

「まあ、座れ 」と名村は言い、ホテルの広間の端にあった長椅子を手で示した。 彼も鰻頭を取り上げるとロにした。 二噛りほどした名村は、日本は変わりはじめているぞと声を落として言うと、井伊大老が殺害された事を手短に話した後「おまんも知っている 万次郎が投獄されたいうぞ 」と言った。

梅吉は何のことか意味が分かりかねた。 日本がどう変わって来ているのであろう。 開国に踏み切った井伊大老が殺害され、幕府の軍艦カンリン丸が太平洋を往復する事に貢献した中浜万次郎が、日本に帰るやいなや投獄された。

「わからねえ? 何があったんでござんすか?」梅吉は、名村に問い返した。

「ああ、万次郎か? 」

「へい、まあ・・・」日本がどう変わったのかも知りたかったのだが、言葉をにごした。

「万次郎がアメリカ人に肩入れしすぎたと言うての。多分、濡衣(ぬれぎぬ)じゃろう」

「アメリカ人にですかい?」

「幕府の役人には石頭がようけ居る 」

「梅、アメリカのもン(物 )もっとりやせんか? 」名村が顔を向けて聞いた。

「へい、少し」

「まあ、土産はいいかもしれんばい。 何を持っとるんじゃ?」

「へい、歯を磨くもので」

「歯をか?」

「へい・・・」

「おまんは、相変わらず面白い男じゃのう。 皆、ごちゃごちゃとつまらんモン(物 )を買うて来ておるが、歯を磨くモンかあ・・・なるほどのう。そりゃ、大丈夫じやろう」

「何か、お咎めでも?」

「いや、何。侍の中には桜田門の事を知ってアメリカのモンを持っておると、危険だとぬかしての、海の中に投げ捨てたり支那の品物と交換している者もおる。アメリカにいる時きゃあアメリカの恩義をあれこれ言っておった者がこの始末じゃ」

「ドルはどうですかい? 」

「ぎょうさん(たくさん)持っておるのか?」

「まあまあでござんすが・・・・・・」

「フム・・・船が江戸に戻ったら直ぐ日本の銭に替えたほどええ」

「へい・・・」

「レイナルド先生の言った通り、日本は直ぐにアメリカと近くなるじやろう」

名村はホテルの空間を見つめながらここまで言うと、食べかけの饅頭を口にした。

梅吉は名村と別れた後、中浜万次郎が投獄された本当の理由は、漁船が漂流して外国に居た万次郎が井伊大老の恩義に預かって、再び鎖国政策を取っている日本に帰れたのを好ましくないと思っていた幕府用人達の仕業に違いないと考えた。




10月29日、ナイアガラは香港を出港して江戸に向かった。 11月7日、伊勢志摩の沖を進み11月8日の朝十時、七十七人の日本人使節一行を乗せたアメリカの軍艦ナイアガラは無事横浜に到着した。 日本である。 長い航海と異国の 生活にも耐え、使節一行は世界を一周して日本に帰ってきたのである。 彼達は、遠方に輝く富士を感慨深く眺め、手を合わせて無事の帰還を祈った。



「おっ母あ、今帰った 」梅吉は、破れ戸を開けると薄暗いあばら屋の中に向かって声をかけた。 昨年の二月に出かけた時と同じように、家の中には幽かな煙が渦を巻いて天井の無い屋根のほうに上っている。

母親は同じようにゴザの上にいて微笑んでいた。

「おっ母あ、ほら、米だ 」梅吉は一つの米俵を土間に置いた。彼の後ろには、米俵を積んだ荷車が停まっている。

「降ろしてくんねい」米屋の丁稚は、米をあばら屋の軒先に積み上げた。

軍艦ナイアガラから江戸の町に上陸すると、簡単な外国奉行所の検査があり、使節一行の足軽や仲間達は、直ぐに自由になった。 彼達は英語が読めないのでアメリカの文化を伝える物を持って帰ってはいない。 持っていたアメリカやメキシコの金貨や銀貨は、幕府が買い上げたが、梅吉を除いて、ほとんどの者が文無しだった。 梅吉は上手く稼いだので、予想外の大金が転がり込んでいた。

「おっ母あ、白い飯だぞ。オラが炊いてやらァ」

「梅吉、飯ならできている」母親はゴザから立ち上がると、土間の竃(かまど)に行き、 飯の蓋を取り上げた。

白い湯気が、ゆらゆらと立ち昇る。

「はよ、上がれ」 母親が板の間のゴザを手で示す。梅吉はゴザの上に胡座をかいた。漬物と魚の煮込みがだされ、母親の手から湯気の出ている白い飯の入った椀を受け取った。アメリカに出発する時と同じようである。

「早ょう、食え」母親が竃(かまど)の前から声をかける。梅吉は、声にならない声を立て泣きながら飯に食らいついた。

母親は、毎日のように海辺に出て息子が帰って来るのを待っていたのである。 梅吉には、そのことが良く分かった。 軍艦ナイアガラが港に入って来ると、母親は長旅から帰って来 る息子のために飯の用意をした。

「う、うめえ・・・」どんな豪華な食事よりも、母親の飯が一番美味いと梅吉は感じた。 初冬の風が、破れた障子の隙間から吹き込んで来る。 梅吉の背は、風を受け止めた。これから先は、冷たい風が母親を打たないようにするのだと自分に言い聞かせていた。 梅吉の腹には、母親の温かい飯が湯気を立てている。



完。

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随行 三崎伸太郎 @ss55

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