五万回のキスをしよう

宮内ぱむ

五万回のキスをしよう


 私は隣の席の奴が大嫌いだ。



 チャイムが鳴るのと同時にバタバタと慌ただしい足音を立てて彼はやって来た。


「おっす、おはよー!」


 クラス全員に無邪気な笑顔を向けて、彼が教室にはいるだけで教室の雰囲気が明るくなる。彼には人を引き付ける力が備わっている。

 そして、席に着くまで二分半。席にたどり着く前に、彼はクラスメイトに捕まっては談笑を繰り返す。呆れるほどの人気者。担任が教室が入ってくると、やべ、とつぶやいた彼が、私の隣の席の椅子を引きずる。


「おはよー」


 私にも向けられる変わらない無邪気な笑顔。だけど私はクラスメイト達とは違うから、簡単に惹かれたりなんてしない。だから無言のまま、わずかに頭だけ下げる。


「ちょっとさー、なんでおまえ、そんなに冷たいワケ?」


 私は彼を一瞥するけれど、何も言わない。何も言えない。

 だって。

 私はあんたと正反対だってこと知っているでしょう?

 出かけた言葉を慌てて飲み込む。

 ホームルームが始まり、担任が教壇の上で連絡事項を伝え始めているというのに、彼の視線は常に私を向いている。だから嫌いなのよ。友達もろくにいない私がそんなに珍しいというの?


「おい、そこー! 仲良く喋るのは休憩時間にしてくれや」


 はっとなって担任を見ると、ばっちりと担任と目が合ってしまった。私たちのことだと思ってぞっとした。彼はヘイヘイと悪びれることもなく頭を掻く。私が一方的に話しかけられていただけで、仲良くしているはずなんてないのに。

 こんなクラス中が注目するなかでそんなことを言うのはやめてよ先生。ため息をつきながら私は咳き込んだ。



 友達がいないわけではない。

 だけど私の酷い人見知りのせいで、親しすぎる友人は居ないほうが楽だったし、彼のように多くの人間に囲まれるなんて無縁だった。だから、ずっと別の世界の人だと思っていた。

 なのに、十日前の席替えで偶然隣の席になった。


 ――喋るの初めてだよな? なんでいつも一人でつまんなそうな顔してんの?


 笑顔で無神経に言い放つ彼を、私は心から嫌いだと思った。

 簡単に人を引き寄せるような人間には、私の事なんて理解できるはずがないのだ。一人はそんなに嫌じゃない。裏切ったり裏切られたり、偽ったり偽られたり、人間社会の中で生きてくことに向いていない私は自分で選んでいるだけで、どうしてさも正しいという顔で彼に笑われなきゃならないのか。

 思い出すだけで腹の底が熱くなる。頭が痛い。移動教室で廊下を歩いていた私は、両手で持っていた教科書を持ち直すように握り締めた。

 背後から私の苗字を呼ぶ声がする。私はあんたに呼び捨てされる筋合いはない。子供みたいな意地を張って無視をすると肩を掴まれた。思わず正面から見てしまった彼の顔。彼が人気者である理由のひとつにこのルックスがあるんだと今頃気付く。以前私も彼の笑顔を好きだったように。


「おい、無視すんなって」


 彼の手は思いのほか強くて、声はいつもよりおちゃらけてなくて、それでも私は怯まずに彼を睨んだ。


「……何の用」

「次、実験室だろ? こっちじゃなくてあっちだよ」

「…………」


 私は周りを見渡して自分が歩いてきた廊下を思い出す。あまりにぼんやりしていて、自分がどこを歩いているのか分からなくなるなんて。しかも彼に指摘されるなんて失態だ。舌打ちをして私は踵を返し、今度こそ実験室に向かう。

 なぜか彼は私に歩幅を合わせて歩く。鬱陶しくて仕方がない。私は横にいる彼を見上げた。決してお洒落とはいえない学校の制服すら格好よく着こなしているのだから、皮肉にも思えてしまう。


「どうしてなの」

「え?」

「どうして私に構うの。私のことなんて放っておいていいでしょ? もっとあんたを待っている人たちがたくさんいるでしょ?」


 今までになかったくらい呼吸も忘れて一気にまくし立てると、彼は不思議そうな顔をして笑った。


「そんなの、俺の自由だろ」


 勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼は言う。私は何かを言い返そうとしたけれど、言葉が浮かばない。彼に対して突き付けたい言葉は溢れるほどあったというのに。

 頭がまわらない。


「ちょっと……、おい?」

 すぐ目の前にいる彼の声が遠くに聴こえる。と思ったら全身の力が抜けた。




 ふと気付くとベッドの上にいた。消毒液の香りがする。ここは保健室のようだ。

 ぼんやりと天井を見つめる。私何をしていたんだったっけ? 記憶が曖昧だ。まだ頭が起きていないみたいで。そして体中が軋みを立てるように痛かった。頭痛もする。


「大丈夫か?」


 聞き覚えのある声にぎょっとして頭を上げようとしたけれど、頭痛に負けて再び身体ごとベッドへと沈み込んでいく。


「ど……して、ここに?」

「おまえ、ひどい熱だぞ。実験室に行く途中に倒れた」


 パイプ椅子に座る彼の手には、私の教科書が彼のものと重なっていた。


「保健室のセンセイは出張中らしくて。担任がおまえの家に電話したけれど誰も出なかったから、立ち上がれるようになるまでここで寝てろよ」

「…………」


 変だな、と思った。熱で倒れたのは私なのに、彼はとても真っ青な顔をしていた。私は震える手を彼に伸ばした。何を勘違いしたのか、彼は無理に笑う。


「俺が傍にいてやるからさ」


 すでに授業は始まっている時間だというのに、どうして。身に覚えのない優しさに惑わされそうになるけれど、それも嫌じゃないと思ってしまうのは熱のせいだろうか。

 汗ばんだその手のひらが、大きくて少し骨ばった手に包まれたと気付いたのが少し遅れた。


「……びっくりした」


 教室では見ないような顔をして、震えた声で彼はつぶやいた。


「俺の前で、おまえが倒れて、このまま居なくなってしまったらどうしようって思った……」


 消毒液の香りが鼻につんとしみて、痛い。


「……いなくならないよ」


 私はそう答えて、その手を握り返す。

 言ってやりたいことは積もるほどあるのに。

 その正反対の言葉が私の心を支配する。

 だけど、それを押し切るように私はつぶやいた。


「あんたなんて嫌いだよ」


 その言葉に反応したかのように、手にこもる力が強くなる。


「大嫌いだよ……」


 ずっと別世界の人間だと思っていた。手の届かない存在で、正反対の彼をずっと憧れていた。

 だけど、隣の席になって同じ世界の人だと知って、その瞬間私の中で嫉妬心が生まれてしまった。どうして同じなのにこんなに違うのか。

 私もこの人みたいになりたかった。


「俺は、ずっとおまえを見ていたよ」


 苦しそうに顔を歪めて、彼は言った。

 ……そんなこと、思ってもいなかった。だって彼はクラスのカリスマ的な存在で、誰もに侵すことのできない領域の人気者は、私なんかに目を向けることもないと思っていたから。同じ世界だとしてもそれだけは変わらないと思っていたから。

 私はもう片方の手を伸ばして、私の手を握る彼の手を包み込むようにした。こんな汗ばんだ手じゃなければもっとよかったけれど、そんなことを考えている余裕はなかった。


「……馬鹿」


 やっとそれだけを言えた私を見て、彼は安堵のようなため息を漏らした後、柔らかく微笑んだ。


「おまえが笑ったところ、初めて見た」


 この人は、私をどう思っているのかな。ほぐれた心の中で迷いが生じる。人は貪欲で汚い。でも、もっと、もっと私は彼に近づきたい。

 嫌いと好きの感情が同じ場所にあることを、私は誰よりも知っていたから。


「なあ、風邪の治し方って知ってるか?」

「え?」

「人に移すと治るって言うよな」


 それは教室でよく見せるようなイタズラっぽい笑い方で彼は言って、私の唇に自分のそれを重ねた。

 病人相手に抵抗できないと知ってのことか。呆れてしまうけれど、そんなところがとても。……とても。


「やっぱりおまえの唇熱い」


 一瞬の間の後で私の唇を指でなぞる彼を私は睨んだ。


「……馬鹿」


 彼をとても好きだと思った。


「まずは一回目、クリアだ」

「一回目?」

「生きているうちに、五万回キスをしよう」


 私の両手を包み込んで、彼は笑う。


「おまえが俺のことを見ているのも、知っていたよ」

「……馬鹿」


 本日何度目かになる言葉しか言えずにいるけれど、それを熱のせいにしてみる。

 そして、ベッドの横にある窓から差し込む光の中に溶け込むように、彼は私に二回目のキスを落とした。


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