Track.7-36「――――終わったから」

実果乃が小さく呟いた瞬間――虚ろに実果乃を見ていただけの化け物アキラの目は闇よりも暗い色の光を灯し、その嘴を大きく広げ天に咆哮を轟かせると、赤に塗れた全身の羽毛のその奥からその瞳の色と同じ黒い霧を生み出した。

 黒の霧は命をそうするかのように温度を奪い、着ていた衣服はまだ9月だと言うのに袖に霜を帯び始める。


「やめろよ」


 不意に出たその言葉は、果たして誰に対するものだったんだろう――化け物アキラへのものか?それとも、自分自身への――――


 頭蓋に鳴り響いた鮮明な声の奥で、脊髄に収められた配列が組み変わっていく。

 がちゃり。

 がちゃ、がちゃん。

 がち、がちゃがちゃ。

 ひどくゆっくりと聞こえたその音は、でも実際には一瞬よりも速かった。


 黒い霧はどんどん溢れ、化け物アキラが叫びあげるほどにその勢いを増し、竜巻のようにオレたちを取り囲む。


 がちん――組み上がり、今までえていた銀色線は見えなくなり。


 代わりに、化け物アキラの身体の輪郭の内側で荒れ狂う霊銀ミスリルの極彩色の奔流をた。

 激しく明滅しながら虹色に変化し続ける土石流のような流れは、巨大な身体の隅々に行き渡りながら循環し、そして胸部――心臓の反対側にある大きな塊に収束され、そしてまた全身へと爆ぜていく。

 塊は歪な形をしている――おそらく、それはきっと規則正しい形だったのだろう。でも誰かが打ち、殴り、踏みつけたから亀裂が入って表面が欠け、潰れては細かい破片を散らしたんだろう。


 小さな手がオレの服の袖をぎゅっと握った感触。

 それを強引に振り解くように突き飛ばして、オレは構えた。


 左足を前に出し、右足との間に肩幅と同じ程度の隔たりを作る。

 右の踵に体重を預け、膝を抜いて腰を落とす。


 突き出した左手は五指を開いて掌は地面を向ける。

 肘はたわませ、撃ち抜く的を定める照準スコープとして。


 右拳は腰――――ではなく、大胸筋の真横に。甲が胸に着くよう捩じり、捩じった傍から思い切り握りこむ。


 呼気――腹筋の操作で肺を圧し潰して空気を排出し。

 吸気――鼻から吸い上げた空気で全身を満たす。


「――“簒奪者”ランペイジ


 オレの家の空手道場では“にな突き”とばれるそのコークスクリューブローは、腰元から外旋させて打つ通常の中段正拳の180度回転の倍の、360度回転を生む。また大胸筋と脇の筋肉とでストッパーをかけることで中国拳法の“崩拳”のような破壊力をも生む。

 何度も繰り返して修練してきた運足は自重を100%の割合でその螺旋回転に載せ。

 幾度となく繰り返してきた組手と喧嘩で培われてきた当て勘もまた、これ以上無い程の衝突インパクトを成した。


 唯一違ったのは。

 その拳には、オレの霊銀ミスリルが込められていたこと。


「ご――――――――っ」


 鮮烈な破砕音を肉の奥から響かせた化け物アキラとともに、まるで世界中の時が止まったように一斉に静止した。

 黒い霧も。

 実果乃も。

 オレも。

 誰もが止まり――やがて、化け物アキラが血を吐きながら膝を着いた。


 手応えはあった。自分を殺したくなるほど、大事な何かをぶち壊した感触だった。


「……茜、くん?」


 突き飛ばされて地面に倒れ上体を起こした体勢のまま実果乃が呟くと、それがスイッチだったかのように化け物アキラが地面に崩れ、そしてびくんと身体を震わせた。


「っ!?」


 実果乃は運動場グラウンドの砂に尻を着けたまま後退あとずさり、オレはまたどこか他人事みたいにそれを眺めていた。

 化け物アキラは痙攣しながらどんどんと、どす黒いにも程のある血を吐いていく――いや、もしかしたらそれは、完全に破砕した霊珠オーブだったのかもしれない。いや、そんな風に吐き出されるものかは魔術士じゃないから知らないけれど。

 そしてその黒い液体を噴出させながら、だんだん小さくなっていき、全身を覆っていた羽毛も散らしていった。


 1分程度だったと思う――化け物アキラは、アキラに戻っていた。


「え……あ、あぅ、」

「大丈夫だ、実果乃。もう、大丈夫――」


 腰を抜かしたのかそのまま動けないでいる実果乃にではなく、それはきっと自分自身への言葉。


「――――終わったから」



   ◆



 問う。

 真実になれなかった全ては、すべからく嘘になってしまうのか。


 あの旅路はどうだ。彼があの少女とともに歩んだ、あの道程は。

 守りたいという気持ちは、それがせなかった今、守り気持ちへと成り下がった。

 届けたいという願いは、それが果たせなかった今、届け気持ちへと成り果てた。


 あの気持ちは。あの願いは。

 もう、どこにも無いと言うのだろうか。

 或いは始めから、そんなものは無かったと断ぜられるのか。


 ならば彼は。トリはどうだ。

 彼が愛のもとに生まれてきた存在だという事実はどうだ。

 父親は生まれてきた異形の児に悩み、信仰を選択した。

 末期の際まで彼を庇った母親は父親の手によって殺され、その父親も数年後自害した。

 彼を拾い育て上げた森の魔獣も、結局は人の手により命を奪われた。

 彼を産み、育て上げた者たちはもういない。彼が愛のもとに生まれてきたことを知る者の不在はやはり、その事実を亡き者に仕立て上げるのか。

 死人に口無し、という言葉のように――永遠に語られることなく噤まれた物語は、虚妄だと笑われるのか。


 しかし。


 しかし確かに、そこに在ったのだ。


 父親の愛も。

 母親の愛も。

 魔獣の愛も。


 そこに確かに存在し、強く息衝いていたのだ。

 それを語る者がいなかろうとも。

 少女を守り・届けようとしたトリの思いが、願いが、その証左に他ならない。

 それを成し遂げられなかったトリの慟哭が、懺悔が、その証明に他ならない。


 だから、トリは少女を愛していたという事実も。

 真実になれずとも、確かにそこに存在した物語なのだ。


 そして愛とは、喪失を経て果て無き憎悪へと変貌することがある――それもまた、覆せない事実。


 少女の亡失を知ったトリは、大聖堂を中心とする聖都を戦場へと塗り替えるため両の剣翼を広げ、はためかせる。

 その傍らには、姿形は違えど彼と志を共にする幾人の異形者の影。彼の告げた、“奇跡”信じ、或いはすがり、こいねがった――そして、その“奇跡”をもう享受することが出来ないと悟った者たち。


 いつしかトリはその名ではなく。


 “空の王”アクロリクスばれていた。

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