Track.7-15「……本当に着替え終わりました?」

 あっと言う間に7月も終わり、夏休みがやってきた。

 茹だるような暑さの下でも日課と化した自己の鍛錬は欠かさない。


 掌ではなく拳を床に着いて行う腕立て伏せ。

 上半身と下半身とで逆向きに捻る腹筋。

 肩幅以上に足を開き、膝の高さまで腰を落とす腰割。


 基本のセットを終えたら給水して大鏡の前で型を一通り。

 それから隅の方に移動して、巻き藁に中段正拳を叩き込み、サンドバッグ相手に蹴り、蹴り、蹴り――――


 ピンポーンとチャイムが鳴り来訪者の存在を告げたのは、薄手の道着が汗でずしりと重くなった頃だ。

 途端にオレはしまったと、今日は家にオレ以外いなかったことを思い出した。

 葵は高校受験に向けて塾に詰めているし、櫻も今日は友達と遊びに出ている。親父は仕事だしこの時間はまだ帰って来ない。


 こんなに汗に塗れた道着で迎え入れて大丈夫か、という懸念と。

 着替える間相手を待たせてもいいものか、という懸念に板挟みになったオレは、結局着替えることを諦めて道着のままで玄関へと向かった。


 うちにインターホンがあればいいんだけど。この家も古いからなぁ。


「お待たせしました――って、あれ?」

「やぁ、元気?」


 ドアを開けてみればそこにいたのは小早川春徒――コバルトさんだ。タイトなシルエットのカットソーにジーンズ。薄手のサマーニットを羽織っているのは今日が休日だということだろう。


「どうしたんすか?」

「別にどうもしないよ。いつもみたくぶらりと身体をほぐしに来ただけだけど……お邪魔だったかな?」

「いえ、そんなことは無いですけど……」


 コバルトさんが来る時はいつも、こんな風に前触れも無くいきなりやって来る。にしても今日は早すぎだ。まだお昼を少し回ったくらいだし、そもそも今日は道場の開いている日じゃない――うちの道場が営業オープンしているのは火木土の18時からだ。


 見ると、コバルトさんは手に白い箱を下げていた。表面には主張しない感じにそれを販売している店舗のロゴが入っていて、それは予約しないと買えないことで有名なスイーツショップだ。つまり、箱の中身は十中八九ケーキ、ってことになる。


「前から予約してたんだ。でも1人で食べるにはちょっと多すぎると思うし、だからお裾分け」

「え、いいんですか?」

「勿論。ほら、前に言っただろ?僕はシンさんにお世話になってるし――」


 シン、というのはうちの親父の名だ。コバルトさんから何度もそう聞いているけど、具体的に何をどうお世話になったのかは知らないし、親父もその辺りは全く喋らない――まぁ、昔から自分語りをしない寡黙な人だから。


 迎え入れ、板張りの廊下を居間の方へと進むコバルトさん。

 ケーキの入った箱を受け取ったオレはそれをキッチンの冷蔵庫に仕舞い、居間をちらりと振り返る。


 安芸家の居間には仏壇がある。誰の、と問われれば、それは安芸ハル――うちの母親の、と答えるしかない。


 母親が亡くなったのはオレと葵がまだ小学校に上がったばかりの頃で、ちょうど10年くらい前になる。

 それは今日くらいの茹だるような夏の日で、オレと葵、そして櫻は親父から、母親は交通事故で亡くなったと聞かされた。

 駆け付けた病院のベッドに横たわる母親の遺体は綺麗なもので、とても事故に遭ったとは思えなかったことを覚えている。

 だからだろうか、当時は全然実感なんか湧かなくて――親父の慣れない上に美味しくも無い手料理が続いたことで漸く、もう母親の料理は食べられないのだと、母親はもういないんだと思い知らされた。


 オレと葵が料理を頑張るようになったのはそのせいだ。おかげで――とは言葉が悪いけれど――オレも葵も、いつ一人暮らしを始めて自炊をしてもいいくらいのレベルには達している。


 手を合わせ黙禱するコバルトさん。それは、やはりうちの母親のことも知っているという証左に他ならない。

 10年前――コバルトさんもまた、10歳とまだ幼い頃だ。うちの母親とどんな風に知り合い、どんな風に接してきたのだろうか。


 コバルトさんは。


 オレたちの知らない親父と母親の記憶を持っている。

 それが少しだけ不思議で、少しだけ怖かった。


「――うん。じゃあ、道場へ行こうか」

「うぃっす」


 聞きたい。訊きたい。でも、怖い。

 その、知らない記憶を知ることが怖い。


 ――――オレは、掘り返せば掘り返すほど怖いものばかりだ。



   ◆



「うわっ、ちょ――っ!」


 これから行う手合わせのために、それまでのぞっぷりと汗に濡れた道着を着替えて道場に赴くと、伽藍がらんとした板張りの真ん中でコバルトさんは着替えているところだった。

 細くも引き締まった雄々しく美しい体躯ボディに、オレは思わず赤面して声を上擦らせる。


「更衣室!」

「え、別にいいでしょ?他に誰もいないんだし」

「オレがいるでしょうが!」


 慌てて後ろを向いて視界の外に追い遣っても、その裸は鮮明にオレの脳裏に居座った。


 ――――夥しく散在する、形の異なる様々な傷跡。


 それは確か、“人工的に魔術士になるための実験”だとコバルトさんは言っていた。それらがそのために刻まれたのだとしたら、それはどれほどの痛みと苦しみとを齎したのだろうか。

 そして。

 それほどまでに、魔術士になろうとしたコバルトさんの理由と目的は何なのだろうか。


「お待たせ」


 壁を向いて陰鬱な思考を巡らせていたところに声が掛かる。慌ててはいけない、コバルトさんはこの前、このオレを慌てさせるためだけにそう声を掛け、振り向いたところで全然着替え終わっていない、寧ろボクサーブリーフ一丁だった、等というドッキリをけしかけてきたこともある。


「……本当に着替え終わりました?」

「あはは、この前のこと根に持ってる?ごめんごめん。大丈夫だよ、ちゃんと着替え終わった」

「本当ですよ?嘘ついたら、マジ怒りますからね?」


 念を押し、ゆっくりと振り向く。一応、万が一また騙された時のために心を落ち着け、感情が跳ね上がらないように心に圧をかけながら。

 そうして振り向いたその板張りの上には――――空手の道着とは異なる拳法着に身を包んだコバルトさんが立っていた。

 拳法着と言っても、日本拳法のそれじゃない。紐の結び目をボタンとする七分袖のカンフーシャツに、すらりとストレートなシルエットのカンフーパンツはどちらも宵闇のような深い蒼色コバルトブルーをしている。


「――えっと、……え?」


 頭の天辺てっぺんから足先――流石にカンフーシューズは履いていなかった――までを見返しながら、オレは何とも間抜けな声を出した。その響きにコバルトさんは柔らかい笑みを深め、鼻で噴き出す。


「ぷっ――似合ってない?」

「いや、そんなこと無いっす、めっちゃかっこいい……」

「ふふ、ありがと」

「あ、いや、そんなことより――その格好、どうしたんですか?」


 これまで、道場に来て鍛錬する時はいつも空手着だった。そのカンフースタイルを見るのはオレも初めてで、でも拳法着に着られてる不慣れ感は一切無い――きっとそれが本来の姿なのだと、理屈じゃなく本能でオレは嗅ぎ取った。


「格闘技に関しては雑食なんだけど、一番馬が合うのが八極拳でさ」

「八極拳?」

「そ――――とは言っても、僕なんてまだまだの、素人に毛が生えた程度のものだけど……たまには、全力でぶつかってもいいでしょ?」

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