Track.7-7「オレからは以上、お疲れさん――」

 一端、状況を整理しよう。


 オレは両腕が殆ど上がらない状態で、蹴りは繰り出せるものの大技は正直しんどい。

 両腕を犠牲にしたおかげで被弾していないから怪我も無いけれど、その分体力と精神力の消耗がでかい。


 一方のアフロは、両脚をしこたま蹴ってやったから足運びは重くなったものの、全体から見れば損傷ダメージは殆ど無いと言っていい。

 若干の疲れが見られるものの、オレ程ではない――さすがに図体に見合った体力は持ち合わせているようだ。


 さぁ――ここでオレが狙う起死回生が、鳩尾みぞおちに叩き込む足尖蹴りだ。

 武道用語では“水月”とも呼ばれる人体の急所である鳩尾は、的確に打撃を与えることで横隔膜を痙攣させ急性インスタントの呼吸困難を引き起こす。

 また、頭部を狙う蹴りではないため大きく振り上げることも無ければ、その動作モーションは小さく鋭いから、突っ込んできたアフロの巨躯に迎撃カウンターを叩き込むにもちょうどいい。


 ただそれでも――おそらく、万全の状態で打てるのは一度限いちどきりだ。


「うをぉあああぁぁぁぁああああああ!!」


 消耗や披露に愚痴る気持ちを切り捨て、闘争本能スイッチを入れ直す。

 一発限りの大博打だ――全身の皮膚がひりひりと情けない疼痛で緊張を警告している。


「――――っ!」


 研ぎ澄まされた集中力は時流に対する分解能を引き上げ、それまで60FPSフレーム・パー・セコンズだった世界は180FPS程に緩慢になった。

 ゆっくりと流れる時の中で、狙い通りにオレは軸の左足で踏み固められた地面の土を噛み、太腿をやや内側から胸に引き付けるように。

 右脚の親指と人差し指をぐっと固め、膝から先を繰り出すと同時に軸足を回転させて半歩前進する。

 再び大地を噛み締めた軸足から伝わる力を、腰の回転と膝の回転で足先に流して――そこで漸く、オレはオレの間違いに気付いた。


「っりゃああああああああああ――――」


 低くて、遅い。

 引き上げた太腿も、膝から先の蹴り足も――緩慢になった世界の中でも更に緩慢で。

 ごくごく単純な中段足尖蹴りすらろくに繰り出せないほど、オレは消耗していた。


「――――ああああああ!!」


 大振りな拳テレフォンパンチ鉤突きフックの軌道を描いて襲来する。

 それを阻む筈の左腕は、どうにか胸の高さには上がっているもののそこから更に上、横っ面を護るようには動けない。


 どうする。

 どうする。

 どうする。

 どうする――いや、どうにも出来やしない。


 今更オレは足尖蹴りを引っ込めることは出来ないし、出来たとしてもそこからアフロの突きパンチを躱すことはおろか、防御態勢に移行することすら出来ないだろう。

 消耗した今のオレじゃ、そんな素早い反応は多分出来ない。

 しかしこの低い足尖蹴りは狙いを定めた鳩尾にまで届かない――アフロは呼吸困難に陥らず、そうならばオレは当然ボコボコにされるだろう。


 そうしてオレが絶望的な未来を予測しながらそれでもどうにか繰り出した蹴り足を伸ばすと――オレの足尖は、アフロの股間を撃ち抜いた。


「ごっ」

「あっ」


 足尖は滑るように鼠径部の中心にある何かぶら下がったふにゃりとした物体を貫き、その下部にさらにぶら下がったコツリとした感触のモノを穿つと、その衝撃で途端に身体を“く”の字に折り曲げたアフロは、一瞬にして表情を悶絶させて白目を剥いた。


 つまりは。


 鳩尾まで持ち上がらなかったオレの蹴り足は、ものの見事にアフロの金的を撃ち抜いたのだ。


「――、はぁ、はぁ、はぁ――」


 正直、勝った気がしなかった。

 オレは大会では当然女子としか試合をしたことが無いけど、金的それが反則行為であることは勿論知っているし、生体的に対応する外部器官を持っていないから自分自身はそれがどれほどの衝撃と痛みかは解りっこないけれど、道場で稀にそうなってしまっている男連中を見てきたことで、それがえげつない衝撃と痛みを誘発するものだとは何となく理解したつもりではいる。


 卑怯――周囲からは不思議とそんな声は上がらなかったものの、オレは自分のこの勝利の一撃フィニッシュブローをそう認識した。だから勝鬨かちどきなんて上げられなかったし、どうすればいいのか判らなくなってただただ倒れたアフロを呆然と見下ろしていた。


「……お、鬼山オニヤマさんっ!」


 周囲の取り巻き連中も恐らくオレと同じ気持ちだったんじゃないかな。それでも誰か1人が忘我を乗り越えて声を上げると、それに誘発されて自失していたそいつらは口々にその鬼山というアフロの名前を呼び――そしてその声に意識を現実に引き戻された鬼山アフロは、弱弱しく呻きながら目を覚ましては非常にゆっくりと倒れた身体を反転させて頻りに腹部を抑えていた。


「い、痛ぇ……痛ぇ……てめぇ――覚えてやがれよ……」


 そう言われ、オレもまたはっとする。そして忘我ついでに忘れていた当初の目的を思い出し、息を整えながら告げた。


「別に忘れてくれて構わないんだけど……まぁいいや。ところで、カツアゲやらパシリやら、そういうみみっちいことはやめろよな。オレからは以上、お疲れさん――」




 何度も言うけど、オレはあれは勝っただなんて思えなかった。

 足尖蹴りが偶々――洒落じゃ無ぇぞ?――金的をいい感じにえぐっただけで。あんな結果を狙ったわけじゃないし、その偶然がよぎらなければあの剛腕による右鉤突きライトフックがオレの顎を砕いていたかもしれない。


 悔しい。悔しくて溜まらない。


 だからオレはこれまで以上に空手に打ち込んだ。

 これまで蹴り技に拘るあまり、自分の格闘スタイルに取り込んでいなかった手技も大いに修練を重ねた。


 そもそも、上地流の空手には“正拳突き”という概念は無い。いや、こう言うと語弊が出そうだな――もともとは無かった、と言った方が正しいか。

 琉球空手の三大流派――小林流は首里手スイディーの流れを汲み、剛柔流は那覇手ナーファディーの流れを汲むと言われているが、上地流が汲むのはではなく中国拳法のひとつ、“半硬軟”パンガヰヌーンだ。そのため腕による攻撃は拳ではなく指を主とし、蹴りもすねではなく爪先を主に使う。

 だから手技の基本は貫手だし、蹴りの基本は足尖になるわけだ。


 しかしいきなり貫手の練習なんかやると骨折と脱臼のオンパレードで日常生活にも支障が出るし、そもそも現代の上地流は普通に正拳で突く。

 ゆくゆくは貫手も修得マスターして、どぎつくてエグい貫手を“槍”とか呼ぶ、なんていう中2魂溢れる妄想をかましながら、拳骨――人差し指と中指の基節骨をこう呼ぶ――がすり減って平らになるまで巻き藁を突き続けた。

 慣れないうちは当て所が悪く、薬指と小指の拳骨の間に内出血が何度も現れたけれど、1ヶ月も休まず毎日百本以上ぶん殴っていたらいつの間にか出来上がっていた。――無論、出来上がっていたのはあくまで拳のことであって、オレの正拳突きは師である親父に言わせれば『全然まだまだ』とのことだ。でも伸びしろがある、ってことはいいことだ。


 そして正拳突きを鍛えながら、並行して指の肉と骨を鍛えにかかった。

 通学路や授業中もハンドグリップの開閉を繰り返し、筋トレで行う腕立て伏せは五指の先のみを床に接地させて掌を離して行った。

 虎爪こそう――所謂いわゆる『がお~』のポーズにした時の手の形のこと――や二本拳にほんけん――ドアなどをノックする時の、人差し指と中指の第二関節を少し飛び出させた拳の形状のこと――で指先や関節部を鉄板だとか石畳に打ち付けて皮膚や骨を固めたり、指先を引っかけてやる懸垂もトレーニングに取り入れた。

 ちょうど近所にボルダリングも出来るジムが開店オープンしたのもありがたかった。父親に頼み込んで、行ける日にはとことん行った。


 その間も不良たちはこぞって喧嘩を押し売ってきた。週に1度は必ずあった。ひどい時には3日連続でやってきた。

 帰り道で待ち伏せされたり、通っている中学校に乗り込んできたり、あの鬼山アフロは果たし状をこれでもかと送りつけてきた。


 ただ、オレにとってもそれはとても都合が良くて――自分の修練がどれほど実を結んでいるのかを知る、いい練習になったのだ。

 最も、買った喧嘩相手が必ずしもいい練習相手にならないことの方が多かったけど。そういう意味では、鬼山アフロからの果たし状は非常に向上心をそそられるワクワクものだった。


 オレの素行が所謂“荒れた”と揶揄されるようになるのは概ねその頃――中3になったくらいの頃だ。

 引き続き手技の修練に躍起になり、相変わらず売られた喧嘩を買い取り、空手と喧嘩の二足の草鞋わらじでどんどん道を踏み外していった。


 中学校3年生になっても中2魂を引き摺っているオレは正義を気持ちいいものだと思っていたし、ヒョロガリみたいな奴らからやれ誰それから金を巻き上げられただの、誰それから殴られただの苦情が舞い込むようになり、また不良たちも噂を聞きつけて遠方からもやってくるようになった。


 有頂天まっしぐらなオレは実に気持ちよくそれらの苦情を抱え込んでは敵討ちに出向いたり、不良たちからの挑戦に応じ続け――気が付けばオレは、毎日のように苛々としていた。


 最初は確かに気持ちよかった。


 弱くも清い奴らの代わりに強いが汚い奴らを打ちのめすのは快感で、正義は自分にあるという実感は非常に粘質的だった。

 また、“女の身でありながら男にも勝つことができる”という身分は、不良たちからの喧嘩に打ち勝つ度に報われた気持ちカタルシスをオレに齎した。


 でもそれも恒常化すれば何の感慨も沸かなくなるし、逆に刺激の無い日々に変化してオレの心は摩耗する。

 気が付いた時には、舞い込んでくる弱くて清い奴らの苦情も、ほぼ毎日のように現れる不良たちが売る喧嘩も――毎日どっかしら怪我をしているオレを心配する妹たちも、それを見て見ぬ振りを決め込んでいるんだか何も言わないし訊かない親父も――何もかもがうざったくて、ムカついて、腹が仁王立ちを決め込む程には憤慨していた。

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