Track.7-8「君、一回死んだよ?」
毎日がザラザラしていた。
気分が良いなんて日は在りはしなかったし、周囲の雑音ですら酷く癇に障った。
その頃のオレが出す声は溜息くらいだったし、鏡で見る自分の表情は最悪だった。何かを見る目付きは睨みそのもので、口角が持ち上がることもそのやり方を忘れたかのように無くなっていた。
ただその苛立ちは、痛みこそが応酬する闘いの中でのみ、忘れることが出来た。
だから喧嘩を買って、買って、買って。ほぼ毎日のように誰かを殴って、誰かを蹴った。
ただ学校にはちゃんと通っていたし、授業にもちゃんと出た。
相変わらず教師の話を聞く時は右手で、板書する時は左手でハンドグリップをギチギチと開いては閉じ。
左右の手首と足首にそれぞれ巻きつけた
ゴールデンウィークが終わる頃には、誰もオレに話しかけようなんて同級生はいなくなった。
不良の被害に遭っていた者たちからすらも声がかからなくなったということは、オレの働きによって不良どもが反省したとかそういうんじゃない――ヒョロガリたちもまた、オレを恐るようになったんだ。
そうなってしまったからこそさらにオレは暴走した。
地元の中学生にはもう相手になる奴はいなかったし、高校生連中も殆ど
ただただこの体中を覆うヒリヒリとした疼痛を、この世界に蔓延するザラザラとした空気感を忘れさせてくれる痛みだけを探し続けた。
夏休み。
オレはそこまでの人生で最大と言っていいほどの過ちを犯す。
悪を生業としている方々に手を出してしまったのだ。
きっかけは何だったか――夜の街を息を潜めて歩いていたら、ちょうどいい感じに揉めてる男女がいた。どちらも夜の街にひどく馴染む、毛羽毛羽しくてギラギラしている感じの。
そいつらがどういう間柄で、何を揉めているのかは知らない。いや、別に知りたくもない。
ただ、男が太い腕で女の細い手首をぎゅっと握った。
それが機だ。
駆け寄り、右足で踏み切って右膝をそいつの鼻っ柱に叩き込んだ。これまでの100戦を越える喧嘩で培った当て勘は見事と言わざるを得ない爽快感を齎し、スーツ姿の男は顔を赤く染めて両膝を着く。
その拍子に女は何か喚きながら何処かへと去っていったけど、何処に行ったかは定かじゃない――だってオレは、ここに喧嘩をしに来ているんだから。
「てめぇ――何してくれてんだ、ああ!?」
騒ぎを聞きつけ、ぞろぞろとそっち系の人が集まってくる。
夜の街の細くてやたら明るい路地、オレは周囲を取り囲まれ逃げ場を失った。
――どうでもいい。元より退路なんか求めちゃいない。
ただ、ただただこのひりひりとした疼痛を、苛々を解消できるより強い痛みが欲しい。
だから殴って、蹴って、殴られて、蹴られた。
5人ほど、その戦意を鼻っ柱やら鎖骨やらとともに圧し折った頃だろうか。
ソイツは現れた。
「君、強いんだね」
それまで立ちはだかった相手とは丸っきり毛色の違う――深い蒼色の緩く波打った髪が夜風に揺れ、どこか物憂げで儚さを孕む美麗な顔、長身だが細身の体はタイトなシルエットのスーツに包まれ――“ホスト”、という言葉がよく似合った。実際そうなのだろう。
ただ、その立ち振る舞いはただのホストじゃない――拳法家。たぶん空手ではなく、
ソイツが現れた途端、周囲を取り囲んで意気込んでいた男たちは面食らって
「……あんた誰だよ」
「あ、これから負ける相手の素性とか知りたい系の人?いいよ、教えてあげる――そうだね、ここいらではよく“コバルトさん”なんて呼ばれてるよ」
「……
「それ、本名?いい名前だね――」
「あんたのは、源氏名っていうの?」
「
どうしてだろうか――
だからだろうか――オレは、これから喧嘩をするっていうのに、
殴り合いの痛み以外に見つけた、ひりひりとした疼痛を抑えられるものだった。
「コバさんっ!」
「いいよ、僕に預けてよ――こういう時の、こういう僕だろ?」
周囲から入る言及を制止し、目の前の青いホストはネクタイをぐいぐいと緩めて取った。それを放り投げるようにギャラリーと化した筋肉質な
身体は半身どころか完全に横を向いており、半身なのは寧ろ顔だ。
正中線上の急所を全て隠した、後ろ重心の横身――前に出した左足は爪先だけがほんのりと接地しており、同じく前に出した左腕――肘にほんのりと撓みを載せた――は手刀を先端に備えており、それはまるで手招きをしているようにも見える。
奥側の右手は上段受けのように高く掲げられ、やはり掌がこちらを向いた手刀が額を護るように位置している。
多分、それは、中国憲法だ。ただしオレはそれを、漫画くらいでしか見たことが無い。
その一部は“唐手”という形で日本に伝わり、それはやがて“空手”へと変わっていった。だからオレが知る空手の原理にも、勿論中国拳法を原点とするものはあるし――ただ、空手として伝わっているそれは極々僅かだ。
中国拳法を大海とするなら。
空手は精々、雨上がりの軒先に出来た水溜まりだろう。
ただし――歴史の深みが、矛先の尖鋭さに直結しているとは限らない。
大海原を泳ぎ切る者も、軒先の水溜まりに足を滑らせて死することもあるんだ。
だからオレは
「――――え?」
オレと
互いに大きく一歩踏み出せば手の届く、オレにとっては都合のいい
しかしそこに出来た間合いという名の境界線を、気が付けば
オレの喉にはそいつの手刀が突き出されていた。
「君、一回死んだよ?」
先ほどまで目に捉えていた構えが、左右逆になっている。付け加えるなら、軸足の踵に載っていた重心が今は踏み出した右足が踏み締めている。
にんまりと微笑むその表情は、やっぱりどこか儚げで、物憂げで。
突き出された中指の爪の先がオレの喉の柔らかい皮膚に触れて、少しだけ切ってひりりとした痛みにも満たない感触の奥から赤い血が垂れた。
「な――っ!」
途端に顔が紅潮するのが分かる――だってオレは、構えも間に合っていなかった。
術理はどうかはさておき、おそらく意識の一瞬の隙を衝かれた。さて、やるか、の、さてとやるかの間を縫われた、ってところだろう。
そして気が付くと、
出と戻りが異様に早い。
でもそんなの、知ったこっちゃない。
オレは改めて、オレが最も得意とする
両手は脱力して意識だけを通わせた手刀の形、それを左を前に胸の高さに突き出し、両脚は膝は落とすもののこれもまた脱力し柔軟に移動できるように。
そこからリズムを刻むようにゆさゆさと上下に細かく縦揺れし、攻め手の息を狂わせる――多分この目論見は上手くいかないだろう。相手はきっと、今のオレなんかよりもずっと格上だろうから。
「準備、出来たみたいだね」
「すんません、お待たせしました」
多分オレは笑っていただろう。
漸く。
漸く、このザラついた世界の終わりが見えたのだから。
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