Track.5-8「……嘘だろ」

『おーし、そんじゃ現地でな』

「ちょっ――あぁ、もうっ!」


 通話の切れたスマートフォンの画面を忌々しく睨み付けても、この胸に去来した苛立ちが収まる筈もない。

 いや、――苛立ちと言うよりは、不安感か。

 “やる”と言った手前、やらなければいけないのは解ってる。だけれど、もう一度あのメンバーの前に立つことはとても怖い。


 勝手にいなくなって。

 勝手に辞めて。

 勝手に再び現れるのに、一体どんな顔をすればいいと言うのだろうか。


「四方月さん、何だって?」

「うん――RUBYルビの魔術警護、やるんだって」

「はっ?」


 常盤さんの研究室の中の応接室のソファで寛いでいた安芸も、その言葉には驚きを隠せなかったみたいだ。


「それで、15時半に青山一丁目駅集合だって。打合せだって」

「いやっ、えっ、……オレ、この後用事あんだけど……」

「用事って?何?」


 ソファのひじ掛けに載った右腕の掌は、大きく開かれて安芸の額を覆うように掴んでいる。俗に言う“頭を抱える”の片手版ワンハンドスタイルだ。

 そして開いた指と指の隙間から何とも申し訳なさそうにあたしを覗き、安芸は告げた。


「――な、ないしょのやつ」


 苛っ。



   ◆



 そして再び現れた絲士の左手には、ゆがけではなく弦を取りかけるための“タブ”と呼ばれるフィンガープロテクターと、前腕部を弦から守るアームガードが備わり。

 右手には様々な部位が複合したボウが握られ、ボウスリングによって右手首と連結されている。

 胸部のチェストガードも右側を護っている――つまり、弓削絲士は左利きレフティだ。


洋弓アーチェリーって、もっとごちゃごちゃしてなかった?」

「これはベアボウと呼ばれる――照準サイト安定装置スタビライザーなどのついていない最も単純シンプルな弓です。リカーブボウやコンポジットボウも取り扱いはありますが、俺はこのボウが一番慣れていますし――和弓との勝負ですから」


 素材や形状に多少の違いはあるものの、確かにベアボウは“矢を番えて射出する”だけの機能をしか持たない。和弓も勿論それだけだ。


 並び立つ二人は、互いの身体が正対する射位に着く。愛詩は左手に、絲士は右手に的を見ている。

 それぞれの後方には、部長を務める上級生が絲士の、彼女を弓道部に誘った同級生が愛詩の介添えとして待機スタンバイしており、愛詩と絲士から一歩離れたところでは、対峙する二人を見比べる顧問が、この“異種射撃戦”とも言える試合の立会人・兼・審判として、勝負の判定についてを説明していた。


「弓削君の申し出の通り、この試合はあくまで弓の技巧のみを判定するものとします。勝負は10分間の間にあの的により多く中てた者を勝ちとします。また、しつについてもその時点でその者の負けということにします」


 失とは、弓の弦が切れる、または弓を手から落としてしまうことを意味する。


「先生。洋弓アーチェリーでは通常、矢を射た瞬間に弓を手放すのですが、それについては?」

「ええ、地面に落ちなければ不問とします」

「解りました」


 アーチェリーでは、射たその瞬間に選手・競技者は弓を手放す。これは弓を自然の位置に戻すためだ。だから弓がそのまま落下しないよう、弓を握る手首にボウスリングが巻かれ弓を落とさないようになっている。


「いいんですか?いちいち弓を手放したら、連続で射ることは出来ないと思うんですけど」

「ハンデだと思ってくださいよ、先輩」

「やめなさい。この試合では礼の有り無しは判定しませんが、まだ試合の前ですよ」


 ひりつく空気に夏の西日が落ちて弓道場には熱が篭っている。

 諫められた二人は静寂に満たされながらも交差する視線に負けない熱を込めている。


 審判を務める顧問は首から下げたストップウォッチを持ち上げ目を落とす。


「それでは――始め!」


 絲士に向かい礼をする愛詩。しかし絲士はそうせず、早々とボウを構え、矢を番える。

 頭を上げた愛詩が目にしたのは、矢の先端から真っ直線に伸びる弦だ。淡く虹色の輝きを放つ弦が的に突き刺さった瞬間、風を切って矢が放たれ、的を貫くザンという音が響き渡る。

 右手首の下でだらりと揺れるボウ。静まり返った場内が、一拍の間を置いて騒めく。


 はやい――しかし愛詩は焦らずに、足踏みから丁寧に射法八節に則って引分けまでを行い、会へと至る。

 乱れ・淀むことなく成された会は美麗であり、先程まで絲士の弓技にどよめいていた部員たちにも同じ集中を強いるようだった。

 当然、会の成立と同時に矢と的との間には霊銀ミスリルの弦が張られ、矢は的の中心を射た。


 残心の間に第二射を放った絲士の矢も的を射抜く。すでに中心には第一の矢が居座っているため、右にややずれた位置だ。


 次の矢を準備した愛詩は、このままの速度スピードでは負けると考えた。ただし自分の弦は正しく会を成さなければ紡げない。

 ならば正しい会までを、早めてみよう。そう思い立った愛詩は、足踏みから胴造り、弓構えから打起しまでを流れるように進めてみた。

 集中力は持続している。間隔テンポの問題で、動作のひとつひとつは相変わらず丁寧で美しい。

 掲げた弓を下ろしながら引分けると、番えた矢の先端と的の間には弦。もっと早く出来そうだと心の中で呟き、第二射を的の中心からやや上に逸れた所に放った愛詩は、残心も早々に次の矢を受け取って準備する。


 隣では絲士が第三射を、的の中心からやや左にずれた所に突き刺していた。


 第三射を終えた愛詩は、そう言えばすでに足踏みと胴造りは完了しているのだから、それらを崩さないように注意しながら弓構えからやったらどうだ、と新しく湧き出たアイデアを試してみる。

 それが功を奏し、第四射以降の愛詩と絲士の矢を放つ間隔はほぼ一緒となった。


 矢は的を外れる予兆を一切見せず、両者ともに十数秒に一射という驚異的どころか最早弓道では見ることの無い悍ましくもある速度ペースで矢を射る。

 折り返し、残り時間はあと5分。すでに的にはいくつもの矢が突き刺さり、射るための空間スペースは埋まっていく。


(――まずい)


 気付いたのは絲士だ。

 二人の射撃速度が同じなら、後は弦を張るという行為の速度が重要となる。

 弦を伸ばす絲士と、弦を創り上げる愛詩――二人の弦の張りは一瞬ではあるが、それでも弦を伸ばしていくために絲士の方がやや遅い。

 試合開始の礼を省略したことによる一射分の優位性アドバンテージは、もはや無いも同然だ。


 そして驚くべきは、愛詩の成長速度だ。

 あれだけの集中を持続させながら、一射ごとに自らの弓技を改善リファインさせている。この試合のためだけの技に昇華するために、礼を欠かない程度に無駄を省き、速射性を向上させ続けている。


(――負けたくない)


 奥歯を噛んだ絲士は、目を瞑って体全体に弦を通した。それは筋肉のように関節と関節を繋ぎ、絲士の意思の通りに伸縮する。

 その【死の舞踏】ダンス・マカブルと呼ばれる弦術は本来、対象の身体に張り巡らせて意のままに操る傀儡の術だが、それを応用して骨折した腕を動かしたり、筋量の少ない者でも一時的に強い膂力を手に入れることが出来るのだ。


 弦術により、より疾い動作が可能となった絲士は速度を一段階高めた速射を見せる。

 また、矢を放った際に弓を手放す動作を棄てた。


 しかし愛詩もまた、徐々にではあるがその速度に追い付いて行く。もはや彼女は絲士の動きなど見ていなければ、気にも留めていない。ただ、自らの技工を切磋琢磨しているだけだ。


 だから苦肉の策を弄しても尚追随する愛詩の弓技に、絲士はそれでも負けるかと意地を見せる。

 残り時間が3分となったところで再び両者の射撃速度が並び、残り2分となったところで愛詩の速射が上回った。

 残り1分。的に突き刺さった矢は同数。この60秒を制した者が勝利者となる。

 誰もが声を上げることも出来ずに固唾を飲んで見守る――その瞬間。


 ッシ――バン――ッ


 からん、と矢が落ちて音を立てた。静かに、手を挙げたのは愛詩だ。


「――すみません。しつです」


 左手に握る弓の両端から、途切れた弦がぷらりと垂れ下がっていた。

 愛詩のどんどんと向上していく速射に、耐えられなかったのは弓の方だったのだ。


「……嘘だろ」


 失は負けとする。それがこの試合のルールだった。

 だが、勝敗は誰の目にも明らかじゃないかと、絲士は奥歯を強く噛み締めた。


「失により、弓削の勝利とする」


 集中の途切れた愛詩は肩で息をしながら、弱々しい声とともに絲士に向かって頭を下げた。うまく聞き取れなかったが、それはきっと「ありがとうございました」だっただろう。

 そして愛詩が頭を上げることは無かった。気絶してしまったのだ。前のめりに倒れこむ愛詩を、すんでのところでキャッチした絲士は、悔しさの合間に垣間見える不思議な感覚に戸惑っていた。


 そして彼女を保健室に搬送し、意識を取り戻すまで傍に居続けたのだった。

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