Track.5-9「すみませんでした」

「じゃあね」

「おう、いてら」


 病院のエントランスまで森瀬を見送った後で、オレはスマートフォンの時計を確認した。

 14時21分。あと1時間30分ほどで用事の時間だ。


 移動にかかる時間は大体1時間弱。だから、あと30分は暇だ。

 出かける前に、ゲン担ぎの意も込めて、オレは東館の屋上へと向かう。


「やあ、いらっしゃい」

「お疲れ様です」


 アトリエの中でカンバスに絵筆を走らせていた小早川春徒コバルトさんは、実に眠たそうな目でにこりと微笑む。


「今日はどうしたの?」

「いや、30分ほど時間を持て余してまして」

「ふぅん――じゃあ、やる?」

「いいっすか?」


 微笑みを深めてコバルトさんは絵筆と調色板パレットとを置いた。両腕のストレッチをしながらアトリエから出ると、上体を左右に捻って身体の調子を確かめている。

 オレもその後に続き、いつもの場所に上着と鞄とを置いて表に出る。

 11月の空気は冷たく、昼下がりの日差しも柔らかい。でも、この身体は数分後には熱くなっているだろう。


「今日は、どうする?」

「ちょっと試したいことがあるんで――アリで、いいですか?」

「ふぅん――怪我させると、怒られるんだけど?」

「いやまぁそこは、いい感じに」


 ふふ、と笑ったコバルトさんは、ポケットから取り出したコバルトブルーの絵の具のチューブからコバルト成分を摂取した後で、いつもの膝を抜いた自然体の構えを見せる。

 応じるように、オレもまたいつもの左構えオーソドックススタイルへと推移シフトする。


「じゃあ行くよ?」

「よろしくお願いしますっ」

「――“朽ちぬ蒼の番兵コボルド”」


 長身痩躯が、滲み出た蒼色に包まれて甲冑を着込んだ無手の番兵へと変貌する。無手とは言っても、その双腕の先端の五指は太く鋭い鉤爪だ。

 重厚な防御力は折り紙付き。物理的な攻撃はおろか、霊銀ミスリル合金として存在するコバルトブルーの甲冑は魔術への耐性も半端じゃない。


 だからこそ、試し甲斐がある。

 あの甲冑を貫いてコバルトさんに損傷ダメージを与えられるのなら、実戦でも有用だと言うことだ。


 左構えの握り込んだ拳を緩め、前羽の構えを取る。


「へぇ――新技?」

「すみません、コバルトさん。実験台になってもらいます――“空の王アクロリクス封殺者セレナイト”」



   ◆



「――え?」


 目を覚ました愛詩は、自らが保健室のベッドの上に寝かされていることに先ず驚いた。

 着ていた道義は袴の帯が緩められており、時計を確認すると30分近くも気を失っていたらしい。


「先輩?起きましたか?」


 ベッドを取り囲むカーテン越しに投げられた声を受け取って、愛詩はまたも驚いてしまう。その声は、つい先程まで技を競っていた相手――絲士だったのだから。

 慌ててベッドから降りようと身体を捻ると、その瞬間に灼けるような痛みが身体の各所から現れた。痛みに悶絶していると、カーテンをシャアと引いて、沈鬱そうな表情で絲士が愛詩の苦悶を見下ろした。


「やっぱり、急性の霊銀ミスリル中毒のようですね。まだ横になっていた方がいいです」


 その声は、愛詩がこれまでに聞いたどの声とも違っていた。抑揚があり、くぐもっておらず、何より柔らかかった。

 自分のことも然ることながら、愛詩は絲士の変わりようにも驚いていた。

 その表情に目を細めた絲士は、ベッドの傍の丸椅子に腰掛けると、愛詩に向かって頭を下げる。


「すみませんでした」

「え?」


 頭を上げた絲士の表情もまた、これまでに見て来た礼を欠くものではなかった。相手を慮る温かな光が、その双眸には宿っている。

 不躾にめつける、あの妬ましいような視線では無い。


「これまでの非礼、無礼をお詫びします。先輩、本当にすみませんでした」

「ええっと――べ、別にいいよぉ、……ちょっと、変わりすぎで吃驚だけど」

「それと、……試合の結果は覚えていますか?」

「試合?――あ」


 思い出し、愛詩は涙をぽろりと流した。

 弦を切らしたことによる、しつでの敗北。そして試合前に、自分は確かこう――“私は弓を二度と取らないことを選ぶよ”と言っていたと。


 もう自分は二度と弓を取れないんだと思い知ると、遅れて嗚咽が込み上げてくる。


「あの、それなんですけど――俺の、反則負けなんですよ、実際」

「はぇ?」


 込み上げてきた嗚咽が引っ込んだ愛詩は、円らな目を丸くして絲士の言葉に耳をそばだてる。


「第一ですね、用もないのにボウアローも持ち歩くはず無いじゃないですか。あれは、魔術で編み上げたものなんです。だから、普通に使っていれば壊れないですし、弦も切れません」


 魔術で編み上げた、という辺りがよく解らなかったが、愛詩はこくこくと首を縦に振る。


「だから――弦が切れたら負けになる、というルールは、俺にとって都合が良かったんです。最初から、公平フェアな試合じゃ無かったんです」


 愛詩は何故彼がここまで変わったのか、そこが最も解らなかった。これまでの慇懃無礼さを誇示していれば、彼はその両肩に何のためか解らない重責を載せることも無かったのだ。


「あの――それでも、私はルールに則って負けたんだよ?普通だったら弓だって弦だって、手入れするし、速く射ようと思いすぎて、その辺まで気が回らなかった私がやっぱり悪いと思うんだ」

「でも同じ条件なら、きっと俺が負けてました」

「それは解らないじゃん。だって、私は弓道、君はアーチェリーだもん。同じ条件って何?」


 痛そうに頭を抱える絲士に、ふんすと鼻息荒く愛詩は顔を向けている。

 そもそも勝負に勝って弓を続けたかった筈が、敗北という勝負の結果が覆されることを拒んでいる。その果てに、自らが弓を辞さなければならないと知っていても尚だ。


「あの……先輩。それだと先輩が弓道を辞めなければいけないことになってしまうんですけど……」


 それを絲士が突っ込むと、またもや愛詩は大粒の涙をぽろぽろと零し始める。


「なので、俺の反則負けだってことに……」


 しかし泣きながら切々と負けは負けだと訴える愛詩に、絲士はどうしていいか解らずまたも項垂れてしまう。

 結局、話をする元気があるなら戻りなさいと保険教諭に言われ、結着の着かないままに二人は保健室を後にする。


「先輩、これを」

「え?何、これ?」


 ベッドから降りようとした際に絲士から手渡されたのは、透明な細い瓶に入った、紫色の液体だった。透き通っており、外部からの光を乱反射させるとそれはきらきらと輝き、その宝石のような煌めきに泣き腫らした目を愛詩は奪われる。


「先輩の身体に流れる霊銀ミスリルは今、活性化して飽和しています。たぶん先輩は霊銀ミスリル汚染に対する抵抗力が強いんだと思うんですが、そのまま放置していると霊銀ミスリル汚染が始まってしまうかもしれません。この霊薬は、体内の霊銀ミスリルを沈静化する作用があります。2,3日は魔術を行使できなくなりますが……先輩は魔術士ではありませんし」


 差し出されるがまま、瓶の中の液体を一思いに飲み干す。口腔、そして喉が俄かにひんやりとした感触で蔓延するも、飲んだ直後から筋肉や関節に降りかかっていた灼けるような痛みが薄れていく。


 その後弓道場に戻った二人――愛詩はそそくさと更衣室で道着から制服に着替え直し、そして絲士は事の経緯を“魔術士”や“霊銀ミスリル”という単語を除いて説明した。

 そしてこのような事態を招いたのは自分なのだから、と、愛詩を自ら送っていくことを提言し、他の者に有無を言わせなかった。

 愛詩の前では正して見せた姿勢や目付きも、愛詩がいないところでは猫背を、そして睨み付けるような視線を演じていた。


 そして愛詩がお辞儀をして早退することを詫びると、踵を帰して二人は弓道場を出て行く。

 部員たちは皆が手を止め、その背中を緊張した面持ちで眺めていた。顧問ですら、愛詩がこの先、本当に弓道部を辞めてしまうのか心配でいた。


 実際には、勝負に負けたら愛詩が弓道部を辞める、という言質は無い。彼女が言ったのは、“弓に対して礼を欠くくらいなら弓を辞める”だ。

 しかしその場にいた誰もが、愛詩の表情を見て“辞めるつもりか”と案じてしまうほどに、愛詩は偽りの笑顔を見せていた。彼女は嘘が下手だと言うことを、そこにいた誰しもが知っていた。

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