げんとげん

Track.4-15「消えちゃってもいいくらい」

「エミ、見せたいものがあるんだ」

　図書室のいつものテーブルで、芽衣は咲と向かい合う。

「……どうしても、見ないと駄目？」

「どうしても、見て欲しいの」

　咲は何だか寂しそうだ。いつか夷の言った、お別れの時が近いのかもしれない、と芽衣は思ったが、その思考をすぐに振り払う。

　ただ芽衣は、笑えないけれど、咲や夷に逢えてこんなに幸せだってことを表現して伝えたかった。

　レッスンの先生はいつも、ダンスには力があると言っていた。その力に、芽衣は賭けた。

　咲の手を引いて中庭に移動し、咲が腰掛ける傍に置いたスマートフォンのスピーカーから軽快な音が流れ始める。

　咲はやっぱり、困ったような、怖いような、そんな表情で膝の上に手を置いている。

　様々な音色を伴い徐々に溢れ出る旋律（メロディ）に、緊張は湧き上がっていく。

　最初の立ち位置で立ち尽くしたまま、その体勢（ポーズ）のまま芽衣は目を閉ざし続ける。

　音を待つ。頭の中でカウントが始まり、――そして芽衣は、踊り出す。

　手を振り上げ、身体を捻り、跳躍（ジャンプ）し、回転（ターン）する。

　ロックとも、ポップとも、ハウスとも違った、しかしそれらを全て取り入れたような振りと。

　コンテンポラリーダンスのような、身体表現としか言いようの無い渾然とした動きで。

　時に可愛らしく。

　時に凄まじく。

　弱さを見せて、強さで魅せて。

　軽快なステップを踏み。

　重圧に負けたように地に手を着いて。

　自分自身を抱き締めるように身体を小さく屈めて。

　そして天に向かうように大きく、ただ真っ直ぐに手を伸ばして。

　そこにある何かを掴み、握り締めた拳を心臓に置いて、全身を激しく揺さぶらせる。

　３分４０秒程度の長さを持つその楽曲を、本来は二期生全員で踊るべきその楽曲を。

　芽衣は、独りきりで踊りきった。

　拙いところがあったかもしれない。同じところでまた間違ったかもしれない。

　しかし芽衣にはそれは判らなかった。ただただやりきったという達成感が、彼女の心を支配していたからだ。

　そして最後のポーズを決め続ける彼女の眼前には、立ち上がり、満面に輝きを灯した彼女が。

「すごいねぇ！」

　突き抜けるような春空の真下で、そう叫ぶように称賛する声を芽衣はただ聴いていた。

　息は切れ、思い出したように涙がぼろぼろと頬に落ちる。

　この涙は、悲しいじゃなくて、嬉しい。

　この涙は、寂しいじゃなくて、楽しい。

　この涙は、苦しいじゃなくて、愛しい。

　芽衣はよろよろと咲に歩み寄り、その華奢な身体を強く抱き締めた。

　咲は驚いたが、そんな彼女を支えるようにぎゅっと強く抱き締め返した。

「咲……あたし、踊れてた？」

「うん、すごかったよ」

「あたし、ちゃんと、表現出来てたかなぁ」

「うん――ダンスが、楽しいって。嬉しいって、ちゃんと伝わった」

「じゃあ、良かった――」

　それから風に吹かれ、椚（くぬぎ）の樹の陰でただ何となく空を見上げる時間があった。

　芽衣は何も言わず、咲も何も言わない時間だった。

　一陣の風が吹き抜けて、木々の繁る緑色を揺らし、咲はついに芽衣を向いた。

　差し出された手を芽衣が握ると、咲は両手でぎゅっと握り返す。

　それは祈りに似ていた。

「芽衣ちゃん、……聞いて欲しいことがあるの」

「……うん」

　咲の表情からとても強い決意を感じた芽衣は、その淡い唇が零す言葉を待った。

　ダンスの前の、寂しさと悲しさと儚さが綯交（ないま）ぜになったような表情じゃなく、それは彼女たちの真上にある青空のように澄み渡っていて、そして太陽のように力強いと芽衣は感じた。

「わたしね、……ずっと、消えたかったの」

「……うん」

　溢れる言葉はまるでシャボン玉のように、虹色の輝きを放ちながら、意地悪な風に急にその姿を消してしまうようだ。

「わたしたちは、本当は要らない子たちだったから」

「……うん」

　否定したかった。そんなことないと、口が張り裂けても言い続けたかった。

　でも、その言葉の全てを聞きたかった。彼女が何を紡ぐのか、それを聴き届けたかった。

「でも、芽衣ちゃんが見つけてくれて、追いかけてきてくれて」

「……うん」

「話しかけてくれて、また追いかけてくれて、……話してくれた」

「……うん」

　ほんの少しだけ中庭を通り過ぎる風が、俄かに終わりを連れてくるようで芽衣は身震いする。

　でも決して目を逸らさずに、じっとその薔薇色と琥珀色が混じりきらない彼女の双眸を見つめ続けた。

「だからね、わたし、消えたくないって、そう思っちゃったの。わたしは、本当は消えないといけないのに」

「……うん」

「でも、芽衣ちゃんは前に進もうって思ってくれた。踊って、見せてくれた。だからね、」

「……うん」

「わたし、今とっても幸せなの。すごく、すごくすごくすっごく幸せで……もう、――消えちゃってもいいくらい」

　暗転。

『なぁ――』

『何だよ』

　航の疑問に、茜がぶっきらぼうに応じる。

『あいつ、消えたよな？』

『うん、うちにもそう見えた』

『魔術、には、見えませんでした』

『ああ、僕もそうだ』

『だから、消えたんだろ』

　茜の意思は相当苛立っているようだった。しかし残る四人の傍観者はそれを感じれどそれが何故かは皆目検討がつかないままだ。

　何となくそれは、自分たちが煩く声を上げ続けたことが原因とは思えない苛立ちだった。

『どういうことだよ』

『言ったまんまだよ。ほら、次始まるよ――』

　　　◆

　気が付くとあたしは、それまで腰掛けていた椚（くぬぎ）の樹の下のベンチで、一人眠ってしまっていた。

　空を見上げると鋭く欠けた月が夕闇の赤と青に染まった空に浮かんでいて、中庭の人気はまるであたしの血の気みたいに引いていた。

　ぼんやりとした思考は何だかまとまらず、それでも近くにいるはずの親友はどこにもいない。

「咲？」

　中庭にその白い姿は見えない。図書室に戻って探したけれど見当たらない。

　確信めいた予感が、彼女はもうどこにもいないのだとあたしを諭す。それを振り払うように足を運ぶけれど、でもどこに行けばいいのか分からなかった。

　もっと先だって言ってたじゃないか。

　いなくなるっていうのが、こんないきなりのことだなんて思っていなかった。

　昼ご飯の時間を過ぎても、況（ま）してやそろそろ晩ご飯の時間だというのに帰ってこないあたしに騒然とする東館の六階に立ち戻ったあたしを、看護師さんたちは焦ったような顔で心配してくれた。

　戻った病室で女医さんは散々あたしのことを叱ったけれど、その声はあたしの耳に全然響かなかった。

　ただただあたしは、咲がいなくなってしまったことだけに混乱し、困惑し、気が気じゃなかった。

　それでも、夜は訪れる。

　ひどく疲れていてしまったあたしは、夷が来るまで起きていられず、いつの間にか泥のように眠ってしまっていた。

　夷も、やっぱりもういなかった。

　暗転。

　その、暗い泥濘（でいねい）の真ん中であたしは目を開く。

　遠くでは、嗚咽をしゃくり上げるあたし（芽衣）が、頻（しき）りに「ごめんなさい」と繰り返している。

　重圧が包むこの空間は、その暗さもあってまるで深海に漂っているようだ。

　それでも真っ暗な泥を踏み付けて、掻き分けるようにあたし（芽異）はあたし（芽衣）に到達した。

　恐る恐る顔を上げるあたし（芽衣）の表情は、それはとても愛しくて。

　あたし（芽異）の顔は、きっと困ったような下がり眉なんだろうな。本当なら微笑んであげたいけれど、どうやらそれはあたし（芽異）には出来ないことだろうから。

　だからそれは、あたし（芽衣）に託そうと思う。

「お待たせ」

　あたし（芽異）がそう告げると、あたし（芽衣）は頻（しき）りに首を横に振った。

　駄々をこねる幼児みたいに、この次の展開を拒絶している。

　そりゃあ、そうだろうと思う。誰だって、本当ならこんなことは、無い方がいいに決まってる。

「それでも、あたしには必要なことなんだよ」

　言い聞かせ、しばらく泣いた後であたし（芽衣）は、嗚咽を噛み殺してこくりとひとつ頷いた。

「これで、最期（おわかれ）だね」

　そしてあたし（芽衣）は、泥に半ば埋もれるようにそこに在った細いカッターナイフを取り上げると、緩慢ながらも確かな動作で、ちきちきとその刃を押し出す。

　あたし（芽異）は右手で彼女がカッターナイフを握る右手に掌を重ね、力強く握った。

　そして左腕を差し出し、刃の切先を手首に押し当てた。　

「でき、ないっ」

「出来る。出来るよ――弱いあたしを殺して生まれ変わるんでしょ？」

　ぎゅっと握り締めた拳は、カッターナイフの刃を皮膚にめり込ませていく。

　食い込んだ切先からは、玉のような赤い雫が零れる。

「強いあたしに、なるんでしょ？」

　込み上がった雫は段々と線を作り、開いていく傷口からそれは溢れるように流れ出た。

　暗闇に溶けていく赤色は、灼けるような熱を上げ、そこには命の匂いを感じられた。

「笑うんでしょ？アイドルになるんでしょ？見返してやるんでしょ？じゃあ――弱いあたしは、要らないよ」

　そうして、あたし（芽衣）はカッターナイフを握る手に力を込めた。

　折れそうなほどに力を込められた刃は、確りと皮膚を裂いて肉を割いて、暗闇の泥にいくつもの赤い花を咲かせた。

　その赤い花を燃べた熱は、光の粒子となって虚空に舞い上がる。

　気が付けば、あたし（芽異）の身体も光に分解されて、暗闇の只中に舞い上がっていた。

　消えていくあたし（芽異）を泣きながら抱き締めるあたし（芽衣）は、何度も何度も懺悔を口にした。

　殺してしまってごめんなさい。

　損な役割を押し付けてごめんなさい。

　何度も切ってごめんなさい。

　それなのにずっと、強くなれなくてごめんなさい――。

「ううん」

　その祈りのような声に、だからあたし（芽異）はこう返すんだ。

「あたしを、殺（アイ）してくれてありがとう。愛（コロ）してくれて、ありがとう」

　そして長らく繰り返されてきたその“儀式（イニシエーション）”は漸く終わった。

　あたしは、強くなったのだから。

　強く、なれてなんかいなければ――それはもう、全部嘘だってことだ。

　咲のことも。夷のことも。そして、芽異のことも。

　それらを全部嘘なんかにさせないために、あたしは強くなくてはいけない。

　立ち上がれ。

　立ち向かえ。

　これは――そのための傷痕だ。