Track.4-11「してよ、キス」

「咲」


 芽衣が声をかけると、咲は観念したように立ち上がった。

 二人の髪や肩はやわらかく降る小雨に濡れている。芽衣は真っ直ぐに咲を見据えているが、対する咲は俯き、入院着の裾を握って小さく震えている。


「ごめん、……ごめんなさい」


 頭を下げたのは芽衣だった。


「嘘吐いてごめんなさい。笑えないってこと、隠しててごめんなさい」

「……っ」


 その息遣いに芽衣が顔を上げた時、咲はぼろぼろと泣き出していた。声はしゃくり上がり、頬を濡らす涙は雨に混じらずに顎先から地面に落ちる。


「何でエミが泣くの?」

「だって……メイちゃんが笑えないのは、エミのせいだから」

「は?」

「エミが、笑ってばっかりだから。エミが、メイちゃんの分の笑顔まで、取っちゃったんだ……」


 傍観者も含めた全員の思考が停止した。当事者である芽衣が最もわけのわからないという顔をしていたが、傍観者5人もまた、同じような表情のイメージを抱いていた。

 えぐえぐと泣き続ける咲に、堪らず芽衣はもう一度言ってくれと懇願する。

 咲曰く、芽衣が笑えないのは一緒にいる咲が芽衣の分まで笑ってしまったからだと言う。


「だから、怖くて、怖くなって――咲のせいだから、芽衣ちゃんに会うのが、怖くなって――嫌われると思って、――芽衣ちゃんと会ったら、また、笑っちゃうから、そしたらまた、芽衣ちゃんが、――笑わなくなるって、思って――でも、」


 自分の言い訳に咽びながら、それでも咲は「我慢できなかった」と言った。


「我慢、したの、すごく、我慢したっ――でも、無理で、――出来なくて、――っ、――会いたくなって――そしたら、――っ、芽衣ちゃん、がっ、――いたからっ、――、追い掛けて――でも、――っ、怖くて、――、――怖く、って――」

「咲」


 呼び掛けられ顔を上げたのと同時に、芽衣の濡れた身体が咲を抱き締めた。両腕を背中に回し、力強く自分の方へと引き寄せるように。

 すると芽衣の耳に自分のとは違うもうひとつの心音が響いて伝わった。咲もまた、包まれた身体に自分のものとは違う拍動を迎え入れた。


 そして見つめ合った芽衣は、親指で咲の目元の涙を拭う。


「ありがとう」


 芽衣は続ける。


 ――ごめんね。あたしを気遣ったこと。あたしに会いたいと思ってくれたこと。

 ――あたしも同じだったよ、怖かったの。


 言い終える頃には芽衣すらも泣いていた。すると唐突に咲が笑った。嗚咽の中に笑い声を交えて芽衣を見詰めた。


「――ははっ」


 その笑い声は不器用だったが、その意図はちゃんと咲に伝わっていた。

 ずず、と、誰のものかわからない鼻を啜り上げる音が傍観者たちの間に響いた。


「戻ったらきっと、怒られちゃうね」

「そうだね。すっごく、怒られるね」


 息を整え合い、二人は手を繋いで病院の入口を目指して歩いた。

 相変わらず細かい雨粒が降り頻っていたが二人は全く気にしていなかった。

 咲が笑い、芽衣も笑い声のような声を上げた。

 そして駐車場から病院の入口に至る途中で、芽衣は意識を失った。



 暗転。



 学校だろうか。病院かも知れない。

 兎に角、芽衣は階段を駆け上った。黒い人影は相変わらず追従する。

 身体をぶつけるようにドアを開け、開けた屋上に飛び出ると辺りを見渡す。


 一見逃げ場は無いように思えた。けれど芽衣は屋上から地面に伝う配管を必死で探した。

 そしてフェンスの無い屋上の淵に足をかけて下を覗き込みながら、屋上へと出てきた人影に息を呑む。


 コンクリートの淵の上を慎重に、しかし足早に進む。黒い人影ははぁはぁ、と荒く呼吸を撒き散らかしながら、一歩ずつ確実に距離を詰めてくる。


 どれだけ逃げようが、そもそも逃げ場の無い屋上だ。芽衣はあっという間に追い詰められ、そして突き落とされた。

 しかし突き落とされるその瞬間。

 芽衣は見た。

 その黒いフードから溢れ出た黒髪を。

 その黒い暗闇の奥に覗くその目を。



 暗転。



 その緊急手術は、雨の中で無理したことから塞がりかけていた大動脈弁の孔が少し拡がってしまったために行われた。

 芽衣はあと数日で退院できそうだったが、入院期間はさらに一週間ほど伸びてしまった。しかし今月末にはどうにか退院できそうだと聞いて、芽衣は深く「ごめんなさい」と美青に頭を下げた。


 それから三日が経ち、漸く病室から外に出る許可が下りた芽衣は、しかし慎重だった。

 美青に断り、ノートと筆記用具を持って図書室へと出向いた彼女は、晴れ上がった空から降る光が中庭を明るく染め上げる窓際のテーブルで、漸くの邂逅を果たした。


「――おはよう」

「うん、おはよう」


 そしてその日の夜、もうひとつの邂逅も果たされたのだった。


「……こんばんは」


 月明かりに照らされて青白い空気を満たす夜の病室に、白い少女が密やかに入ってくる。

 読書灯の点いたベッドボードに凭れて意味のわからない医学書に目を落としていた芽衣は、本を閉じてベッドボードの棚に戻すと、相変わらず意地の悪い微笑みを称えてじらす夷に「早く来てよ」と口を尖らせた。


「会いたかったよ」


 ベッドに駆け上がるや否や、芽衣を少し押し退けて毛布のその隣に入り込んできた夷は、蠱惑する悪魔の微笑みで芽衣の耳元で囁く。芽衣はその台詞にむせてしまい、ごほごほと咳き込んだ。


『なんかエロいけどこのまま見て大丈夫か?』

『あんたが考えるようなことは起きないから安心してくださいよ』


 航の想念に茜が答える。


『安芸、お前これ見るの初めてじゃ無いよな?』


 幾分か落とされたトーンに、茜は自らも真面目に返す。


『そうっすね。確か、――これで3回目です』


 眼下ではけらけらと笑う夷に、芽衣が頭を下げていた。


「謝罪の言葉だけで許せるほど軽い女じゃ無いんですけど?」

「だから、ごめんって。本当、ごめんなさい。どうかしてた」

「んー、どうしよっかなぁー……」


 そうして夷は、顎に手を当てる仕草をしながら芽衣を横目で見る。

 月明かりに照らされた横顔は、もともと彼女が有する神秘性を格段に跳ね上げ、芽衣はその姿に本当に綺麗だと見惚れてしまう。

 そんな芽衣の視線を受けて、夷はその蠱惑的な表情を意地悪く歪めた。


「じゃあ、ちゅーして」

「はっ?――え、ちゅーって?」

「ちゅーだよ。ちゅー、知らないの?キ、ス」

「キス……っ?」


 思わず、芽衣は笑氏の薄く尖った淡い唇に視線を落とした。

 桜色に染まるその艶やかな唇を、俄かに舌が這って舐めずる。その妖艶で蠱惑的な仕草に、芽衣の頬は紅潮し、心臓の鼓動が高鳴って早まる。


「してよ、キス」


 強請ねだるような、それでいて真面目な表情で迫る、小さく端整な顔。

 その細い身体が毛布から翻り、芽衣に馬乗りになった夷はその両手で芽衣の頬を捕まえた。

 驚いて声を上げることも、目を泳がせることすらも出来ない。

 ゆっくりと、夷の唇が芽衣の唇に迫り、徐々に肉薄し――


『リリィちゃん、見たらあかんで!』

『リリィ、目を閉じろ。刺激が強そうだ』

『何で私ばっかり言うんですか!』


 しかし目を瞑った芽衣の密かな期待感も、傍観者たちの悲鳴も置き去りにして、夷は芽衣の額を指で弾いた。


「痛っ!」


 目を開け、驚愕のままぽかんと口すら開けているその表情を見て、夷は文字通り笑い転げ、ベッドから転落してしまったのだ。


「だ、大丈夫?」

「あは、あははははっ――はぁ、最高っ」


 彼女を起き上がらせるために手を伸ばした芽衣は、うっとりとしたその表情に差し出した手を引っ込めた。


「今日のところは、その表情で許してあげる」

「煩いっ、早く帰れっ!」

「そんなこと言わないでよ。もっとお話しよっ」

「……っ」


 仄かに心臓に痛みを覚えながら芽衣は決意する。この白い少女に、自分のことを伝えて知ってほしいと思ったからだ。

 だからそのために、自らのことを思い出さなければいけないと。

 芽衣は、人知れずそう自らに固く誓った。

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