Track.4-9「わたしといて楽しい?」
そこには、今となっては見知らぬ誰かのように微笑む、森瀬芽衣の顔と名前があった。
しかし、名前の下に小さく薄い文字で、“(2019年7月より休業中)”と書いてある。
写真や名前に貼られたリンクをクリックすれば、休業している理由ももっと分かるかも知れないと考えた芽衣は、マウスカーソルを動かそうとした。
しかし矢印を置くことはできても、人差し指がマウスの左ボタンを押してはくれない。指を変えたところでダメだった。そのリンクを踏んで個人の紹介ページには飛べなかった。
数分PCの前でどうにか格闘していた芽衣は、しかし諦めてウィンドウを閉じ、PCの電源を切って椅子を引いた。
立ち上がり、振り返ったところでそこにいた咲と目が合い、互いに異口同音の驚声を上げた。
「いたなら言ってよ!」
「ごめん、何か集中してたから……」
「もう……」
それからいつものテーブルに移動した二人はお勧めの本や最近読んだ本の話で盛り上がった。
咲は毎日この図書館に来ているようで、芽衣と出会うまでは児童書や児童文学、それからゲームブックを特に読んでいたと話す。
「ゲームブックって何?」
それは芽衣にとって聞き覚えの無い単語だった。咲は説明するよりもと芽衣を連れて児童書のコーナーまで案内すると、特にお勧めだという3冊を手に取って紹介した。
芽衣は嬉々として紹介されたそのうちの1冊――最も簡単なもの――を借りる5冊に含め、そして病室へと戻る。
「134
「珍しい本読んでるのね」
昼食を運んできた美青が芽衣に声をかけた。
「咲に紹介してもらった」
「そう……。面白い?」
「面白い――まぁまぁ?」
昼食後の時間もそのゲームブックをクリアすることに熱中した芽衣は、夕食が運ばれてくる前には再び図書室に足を運び、咲が紹介した残りの2冊を借りてクリアしたのだった。
「二人称の文学って珍しくない?」
消灯時間が過ぎた後の密会で芽衣は夷にそう訊ねる。
「君が知らないだけで、世界にはいっぱいあると思うけど?」
ベッドに腰掛ける夷は意地悪そうにそう返した。
月明かりが青白く染める病室の中で、やはりその白い影を芽衣は美しいと感嘆している。
「そういうあんたは本読むの?」
「読まないよ。読める時間に表に出れないからね」
「ああ、そっか」
「でも、咲が読んだ本は全部頭に入ってるよ」
「どんな本?」
「朝話したじゃん。絵本と児童文学が中心。最近だと読んだのは、ジュール・ヴェルヌかな」
「渋っ」
それから夷はカーテンを引いて窓から星の輝く空を見上げながら、乙女が星や星座の逸話を知らないのは失格だと告げて、星空を指さしながら様々な逸話を語った。
芽衣もそんな彼女の隣に移動し、病院で目を覚ましてから初めて、この病院から見える星空が満天だと知った。
「知ってる?あの星の輝きは、もしかしたら一億年前に死んだ星の光かもしれないんだよ」
遠く星の輝きを瞳に映しながら呟いたその横顔に、眺める芽衣の心臓はまた一つ高鳴った。
決して動かない北極星で知られるポラリスは実際には微々たる移動をしていて、遥か昔はカノープスという星が担っていたこと。
そのポラリスを尻尾に持つこぐま座と、北斗七星を尻尾に持つおおぐま座との間にあるギリシャ神話のカリストとアルカスの逸話のこと。
そのおおぐま座の尻尾の頂点からうしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカを結ぶのが春の大曲線で、同じくアークトゥルスとスピカ、そしてしし座のデネボラを結んだのが春の大三角形であること。
自分たちのいる地球、太陽系は、天の川銀河という銀河に属していて、毎秒毎に宇宙はどんどんと拡がっていること。
「よく知ってるね、てかよく覚えてるね」
「わたし、記憶力には自信があるから。好きなことはいつまでも覚えていたいじゃん?」
そして夷は「もうこんな時間だね」と言って、
芽衣は何故か無性に残念な気持ちになってしまい、少しだけ頬を膨らませてしまう。
「また、してあげるよ。星の話」
夷は呆れたように笑みながら手を振る。そしていつものように「じゃあね」ではなく「またね」と告げて病室を去った。
「……またね」
とくんと、ひとつまた心臓が高鳴り、やけに煩い心音を全身で感じながら芽衣は、夷がいなくなった後も彼女が去った病室のドアを眺めて惚けている。
その姿に意識の溶けた五人のうち四人が口々に感想を漏らし、それを茜が咎めた後で芽衣は漸くベッドに入り込み、もじもじとしながらもいつしか寝息を立て始める。
『これってさ、森瀬の様子しか見れないのか?』
『芽衣ちゃんの過去やからそうなってんちゃうん?』
『でも常磐さんは彼女たち二人の、って言ってませんでした?』
『確かに、あの夷って子、気になるな』
『――取り敢えず今は、森瀬の過去を見ててくれ。夷の方もちゃんとあるから』
視界が暗転し、そしてまた明転する。
翌日も芽衣は図書室でPCの前に座るが、しかしやはり昨日から何も進めずにいた。
その後で咲と会い、本の話をしたりゲームブックの解き方を習う。
夜になると夷が彼女の病室を訪れ、からかう夷の意地悪な笑顔に芽衣が照れ隠しでそっぽを向いたり、意味深な溜息を吐いたりする様子が続く。
やがて一週間が経過する頃には、芽衣は児童書コーナーにある全てのゲームブックをクリアしてしまい、喜ぶ咲の提案に乗って自分たちでゲームブックを作ってみよう、ということになった。
コンビニで筆記用具とノート2冊を買い、片方をアイデアノートとしていつものテーブルで二人は言葉を弾ませ合った。
「どういうのがいい?」
「わたしは、やっぱりファンタジーっぽいのがいい」
「ファンタジーね。じゃあ定番の、勇者が魔王を倒しに行く感じ?」
咲は喜々として首を縦に振り、芽衣はアイデアノートに勇者が魔王を倒しに行く、と書いてそれを丸で囲った。
「途中途中で仲間を増やしていくのにしようよ」
「お、桃太郎方式ね。あ、じゃあさ、その仲間を増やして行く時に、ちょっとした試練っていうかテストがある感じは?」
「すごくいいと思う!」
仲間にするキャラクターにそれぞれ“戦士”“魔法使い”“賢者”という名前を与え、やはり丸で囲う。
弾む言葉とともにペン先もノートを縦横無尽に駆け巡る。アイデアは溢れ、理路整然としない言葉の群れが白地を蹂躙していく。
時間はあっという間に進み、しかし咲は段々とどこかそわそわとし始めた。
「芽衣ちゃん……芽衣ちゃんは、……わたしといて楽しい?」
「え?」
おどおどと訊ねる咲。そこで芽衣は、自分が一切笑えないということを思い出した。自分では気付かなかったが、嬉々として語る咲の横に仏頂面を崩さない陰湿な女がいるのだ。それは傍から見れば、きっとつまらないように映っただろう。
「楽しいよ」
「……でも芽衣ちゃん、わたしとお話しても笑ったこと無いよ」
「わ、笑うよ!そんなことないって、笑うって!」
だから芽衣は、この病院で出来た友達のために笑ってみせることを決意した。目を瞑り、思い返せば彼女との楽しい記憶は確かにある。感情があるのだから、身体がそれに追従しないのはおかしいと。
一つ、深呼吸をして目を開き。
目の前の天使のような容姿を持つ少女を見据えて――泣いた。
「芽衣ちゃん?」
「ぅあ――ぁっ」
笑顔を作ろうとするたびに、嗚咽が喉の奥から湧き上がった。
笑い声を上げようとするたびに、二つの目からぼろぼろと涙が溢れていった。
あると信じていた楽しい・嬉しい・幸せな気持ちは、その仮面を剥ぎ取って申し訳なさ・不甲斐なさ・情けなさという正体を表した。
もはやそれは号泣だった。
「――っ」
咲は表情を青褪めさせて立ち上がると、パニックを起こしたようにどこかへと走り去っていく。
芽衣はおそらく「待って」と発したが、嗚咽に塗れたそれは言葉には聞こえなかった。
表情と呼吸がぐちゃぐちゃになり、彼女を追いかけようと椅子を立ち上がったところで倒れ込んだ彼女に、図書室のスタッフが慌てて駆け寄った。遅れて医療スタッフも駆けつけ、芽衣は強張る身体を不自由に震わせながら、ただただ泣き続けた。
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