Track.4-8「だから黙って見てろっつてんだろ」
夜起きる夷のために昼間は咲は眠っているらしいと聞いた芽衣は、昼食後の時間を読書に当てた。
しかし結局返せなかった医学書は難しく、やはり10
気分転換も兼ねて図書室へと趣いた芽衣は、5冊の本を返すと列を成す本棚の漫画コーナーへと進む。
『ブラックジャック』は6巻が貸し出されてしまっていたため、2~4巻の3冊を手に取り、残り2冊を探すために物色を始めた。
目に付いたのは『ゲシュタルトの祈り』と表記されたメンタルヘルス・セラピーに関する本と、そして金城一紀の小説『フライ,ダディ,フライ』だ。特に後者は読んだことも聞いたことも、況してや著者さえ知らなかったが、ハードカバーの空色に惹かれて手に取った。
病室に戻った芽衣は早速『フライ,ダディ,フライ』を手に取り、表紙を捲る。その本を取るまでは『ブラックジャック』に没頭しようと考えていた彼女だったが、しかしベッドの上で活字が伝える物語にこそ没頭した。
流石に夕食時は本に栞代わりのスマートフォンを挟んで中断したものの、味気ないご飯に感想も言わず、食事を終えた傍から活字を目で吸収していった。
そしてクライマックスに向かう主人公が不意に口にした、ノルウィドの『灰とダイヤモンド』と呼ばれる詩の一節に、唐突に記憶が蘇る。
――松明のように その体から火花飛び散るとき
――君は知らない その身を焦がして自由になること
――持てるものは 失われる運命にあること
――残るのは灰と 嵐のように深淵に落ちていく混迷だけ
――永遠の勝利の暁に 灰の底深く
――燦然と輝く ダイヤモンドは残された
蘇った記憶は、
読み終えた本を閉じた芽衣は受け取ったまま起動していなかったスマートフォンを手に取ると電源を入れる。
繋がったままのイヤホンを両耳に嵌め、画面をスクロールさせながら何かを只管に探した。
『松明のように その体から――』
まだ拙くも力強く歌うその声を聞いた瞬間に、芽衣は心臓が収縮して小さくなった感覚を覚えた。
才能に恵まれず、努力に裏切られ、孤独に苛まれても。それでも命を燃やして立ち向かえと。
燃え尽きる前に灰になるんじゃないと。燦然と輝くダイヤモンドになるんだと歌う、我武者羅を音にしたような“少女たち”の声。
画面表示を見ると、“
「……
芽衣はそのアイドルグループの名を呟き、そして自分は同年代の彼女たちのことが好きだったという記憶を思い出した。
“
難解な熟語に特殊なふりがなを当てるそのアイドルグループは、ファンのことを“
「――こんばんは」
「ぅわっ!」
回想の最中に突然イヤホンを抜き取られ鼓膜に飛び込んできた甘い声に芽衣は叫び、またも「しぃーっ」をされてしまう。
自分が慌てる様子を見てけらけらと笑う姿に、芽衣は性根が曲がってやがると心で嘆息した。
「……あんた、脅かす現れ方しか出来ないの?」
「約束通りの時間に来たのに、ノックを無視して曲を聴いている人が悪いと思うけど」
薄いカーテン越しに月灯りだけが部屋を青白く照らす中、夷の影は幻想的に白んでいる。
何も無い部屋の中を仰ぎ見た彼女は、小悪魔的な、という形容が似合う微笑みで芽衣に擦り寄った。
「本、好きなの?」
夷はベッドボードの棚に並んだ5冊の本を見上げ、そのうちの1冊を手に取った。
その表紙には『ゲシュタルトの祈り』という言葉が刻まれており、夷はどこか懐かしいものを見るような柔らかい視線をその表紙に注ぐ。
「ゲシュタルトの祈り、ね」
そう呟いた夷は目を瞑ると淡い唇を少しだけ開き、その
――私は私のことをする
――君は君のことをする
――私が生きているのは君の期待に応えるためじゃなくて
――君が生きているのも私の期待に応えるためじゃない
――私は私で 君は君だ
――縁あって 私たちが互いに出会えたのなら それは素晴らしい
――もし出会えなかったとしても
――それもまた 出会えたのと同じくらい素晴らしい
「……知ってるの?」
開いた目の混じりきらない薔薇と琥珀の淡い色彩は、月の光に妖しく光って見える。
「そうだね、知っているね。わたし、この詩好きだから」
「詩、なんだ。そこからあたし知らなかった」
「特にね、最後の部分が、本来は“もし出会えなかったとしてもそれは仕方ない”って意味なとこが好き」
「どういうこと?」
「読みなよ、本」
けらけらと笑いながら立ち上がった夷は、唐突に芽衣を後ろから抱き締め、その頭髪の香りを嗅いだ。
恥ずかしさから首に回された両腕を芽衣が剥がすと、そのまま夷はベッドに大の字になった。
「咲はさ、」
そしてその薔薇色と琥珀色の混じり切らない淡い双眸で天井を見つめながら、彼女はもう一人の彼女の名前を口にする。
「あの通り子供だからさ」
「うん」
「結構面倒に思うかも知れないけどさ」
「そんなことないよ」
芽衣の顔を見上げる夷。
「何だこいつ、って思うことはあるけど、でも面白いよ。面倒だとは思わない、思ったことない」
夷はぱちくりと瞬きをしたかと思ったら、いつもの悪童めいた意地の悪い笑みではなく、柔らかい微笑みをその愛らしい満面に称える。
「安心した」
「……うん、それは良かった」
「あの子、きみのことすごく好きだからさ」
窓から差す月明かりに照らされた、白い笑顔。
芽衣の心臓はどきりと高鳴り、骨伝導で伝わる心音が耳障りだった。
そして長居するといけないからと、「じゃあね」と告げて病室を去っていくその背中に、乾いた喉で何も言えなかった芽衣はドアが閉まり足音が遠ざかったのを聞き届けてから、「何だよ、もう」と、独り毒吐いた。
意識を共有する五人のうち四人はその表情や仕草を見詰め、まるで恋する乙女だなと感想を漏らした後で、『だから黙って見てろっつてんだろ』と茜の再三の忠告を受けてしまうのだった。
翌朝。
朝食の後で図書室に繰り出した芽衣は、受付でインターネットの使用申請を行いPCの前に腰掛けた。
彼女がインターネットを使う目的は勿論エゴサーチである。自らの名前を入れて検索することで、自身の記憶に関する情報、あるいはそれを思い出すきっかけを探そうとしているのだ。
そして検索窓に“森瀬芽衣”と打ち込みエンターキーを押す。
一秒にも満たない画面更新の後で表示された検索結果の最上位には、何故か
眉根を寄せながら怪訝にそのリンクをクリックすると、バストアップのアーティスト写真が並び、写真の下にメンバーのフルネームが記載されている。
メンバーの並びは一期生から五十音順だ。マウスホイールで画面をスクロールさせていくと、やがてちょうど一年前に加入した二期生の顔が並んだ。
スクロールする度に、心臓の鼓動がやけに耳に煩い。
そして二段目の一番右のその顔を見て、芽衣は画面に食い入るように見ていた前傾姿勢を解いて椅子の背もたれに自重を預け、両手で顔を覆って誰にも聞こえないように「マジかよ」と呟いた。
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