Track.4-7「友達が出来たって言うから見に来たの」

 19時になり夕食が運ばれてくる。健康面をかなり意識して作られたその病院食はかなり薄味だが、「不味くはないけど美味しくもない」という不躾ぶしつけな感想はやたら柔らかい白米と一緒に喉の奥に飲み込んだ。


 食後の読書に東野圭吾の『容疑者Xの献身』を選んだ理由は、確かTVで見たことがあった気がするのと、『ブラックジャック』は読み終えてしまったからだった。

 しかし読了前に消灯時間が来てしまい、芽衣は看護師が去ったのを確認してベッドボードの読書灯を点けた。


 前半も終わりに差し掛かろうとしたところで結局睡魔に負けることにした芽衣は、ブックカバーの折り返し部分を栞代わりにページに挟んでその文庫本を閉じるとベッドボードの棚に身体を伸ばして置いた。

 腰と背中のクッションにしていた枕を整えて後頭部を埋める。重力が加速したように瞼が落ちて、芽衣の意識は黒い泥のような暗闇へと誘い込まれた。



 暗転。



 突如網膜に飛び込んできた光景と状況のいびつさが、芽衣の意識にそれが夢だと諭す。

 金属製のアンティーク調の椅子に縛られた身体は動かせない。部屋は薄暗く、それがどこか判るような目印も無ければ既視感も無い。

 そして目の前には、“黒い人影”がいた。衣服がそもそも黒いのか、影に包まれたその人物は輪郭さえも朧気で誰なのか・何なのかの判別が出来ない。


 芽衣はその人影が右手に持つ鈍く光る鉈のきっさきが突き出されたことで、自分はこれから殺されるのだと直感し「嫌だ!」と強く叫んだ。

 しかしどれだけ叫ぼうと、どれだけ喚こうと黒い偉人は近寄ってくる。鉈の刀身が再び鈍く照り返り、最早眼前まで歩み寄った黒い人影は真一文字に芽衣の喉仏を掻き斬った。

 呼吸を失い、血を失い、そして意識を喪失する。



 明転。



 その悪夢に被った毛布を跳ね飛ばしながら起き上がった芽衣は、荒く息をしながら痛む左胸を右手で押さえた。身体を屈めるように小さくすることで、段々と拍動は恐怖心を引き連れて収まっていく。

 額に前髪が張り付いて気持ち悪かった。背中もそうだ、汗に濡れた入院着が気持ち悪い。


 今何時だと時計を見ようとして顔を上げた芽衣は、すぐ目の前に心配そうに自分の顔を覗き込んでいる白い少女がいることに恐慌し情けない叫び声を上げた。


「ぅわっっっ!」


 ベッドボードに仰け反った後頭部を打ち付け、ガタンと大きな音を出してしまう。

 夷は朝の図書室でやったように、折角収まった心臓の鼓動をバクバクと鳴らす芽衣の唇に伸ばした人差し指を立て、「しぃーっ」と囁いた。

 その表情は、昨晩の駐車場で見た悪魔の蠱惑だった。


エミがね、友達が出来たって言うから見に来たの。今日は、それだけ――そうか、君だったんだね」


 日の差さぬ暗い病室の中でさえ白いと判る少女は、まるで他人のように自分の名前を呼んだ後で腰掛けていたベッドから静かに下りた。

 そして病室のドアのところで妖しく振り向くと、小さく「じゃあね」と手を振る。


 芽衣はその影がドアの向こう側に消えて行った後も動けずに、ただただ呆然とするばかりだった。

 結局目が冴えてしまった彼女はその後なかなか寝付けずに、ただただあの白い少女のことばかりを考えてしまう。

 昼の天使と、夜の悪魔。

 あの百合の丘で極彩の夕焼の下で見せた笑顔は、その景色と相俟って美しかった。

 しかし先程の、青い闇の中でさえ白く蠱惑するその表情もまた、官能的に美しかった。

 心臓のドキドキは止まらないまま、やがて空が白む頃、漸く芽衣は眠りへと誘われた。



 そして朝食を運んできた看護師が芽衣を起こし、眠たい目を擦りながら薄味のご飯を食べ終えた後で、芽衣はどうせ読めないだろうと諦めた医学書2冊と読み終えた『ブラックジャック』の計3冊を抱えて図書室へと向かった。

 スライドドアを潜って静謐な空間へと入り込んだ芽衣は、視界の遠くに夷の姿を見つけ、本を返すよりも先に駆け寄る。


「ねぇ、昨日の夜あたしの病室来た?」


 いきなりの問い掛けに純真無垢な天使の笑みを陰らせ、もじもじとしながら「ごめんね」と返す夷。芽衣はつい責め立てるような口調になってしまったことを後悔しながら、夷の座る隣の椅子を引いて窓際のテーブルに腰を落ち着けた。


「わたしは止めたんだけど、でもヱミがどうしても行きたいって言うから」

「は?」


 芽衣の脳裏に、昨晩の蠱惑する悪魔のような表情の白い少女が浮かぶ。彼女もまた、自らを他人のように呼んでいたことを思い返した芽衣は、夷がもう一人いるのか、と訊ねる。

 すると夷は、芽衣がテーブルの上に置いた3冊のうちの1冊を指差す。そこに書かれたあった表題タイトルは“解離性同一性障害”だ。芽衣はなるほど、多重人格かと納得した。


「朝と昼はエミでね、夜はヱミなの」


 芽衣は難しい呼び分けに怪訝な顔をしたが、夷――ではなく、今は咲――が「行っちゃダメ、って言っておくね」と実に寂しそうにそう告げたのを聞いて狼狽える。

 正直芽衣は迷惑だとは思っていない。ただ驚いただけなのだ。悪夢を見て飛び起きたというのに、まるで悪霊のようにそこにいたのだ。そこにいて、自分を見つめていたのだ。

 だから事前に来るか来ないかが解ってると驚かないし迷惑じゃないと芽衣は告げる。その回答に表情を眩しくさせた咲は鼻息荒く何度も首を縦に振った。



「そう言えば先生」

「何?」

「あたしのうちってどうなってるの?」


 昼食時の美青との会話で芽衣は少しばかり不安に思っていた自分の家族のことを訊ねる。

 芽衣がこの医院で心臓の手術を受けてからもう三日が経つ。芽衣には家族の記憶が無いため家族が現在何処で何をしているか知りようが無い。しかし三日も音沙汰が無いというのは流石に異常だと芽衣は考えていた。


「思い出すまで教えてくれないの?」


 しかし問い掛けに美青は答えず、ただ黙って芽衣の手を握るだけである。


「あたしが、また死にたくなるかもしれないから?――あたし、多分もう死にたくなったりしないと思う」


 少しだけ目を伏せて手を放した美青に、芽衣はその本心を打ち明けた。

 芽衣は自身の自殺やリストカットについて、それをまるで他人事のように俯瞰している自分に気付いたのだ。まるで誰かの身体に入り込んでしまったようだとSFのような感想すら抱いた。


「それでも、今は言えないの。……ごめんね」


 女神のような慈愛の表情を崩させたことに、あたしこそごめんなさいとうそぶいて謝った芽衣は手早く食事を終え、読書に耽ることを決める。

 少しして食器を下げに来た美青は、芽衣に彼女の財布とスマートフォンを差し出した。自殺未遂という線で捜査をしていた警察から帰ってきたものだった。財布の中には数枚のお札と、いくらかの小銭、そしてキャッシュカードと保険証が入っている。


 入院費については退院が決まってから改めて話しましょうと提案する美青に、芽衣は「取るんですね」と当たり前のことを返した。「慈善事業じゃないの」と応じた美青は、芽衣のその表情を見て眉尻を下げ謝った。


「ごめんね、まだ怒ってる?」

「え?――何でですか?」


 芽衣は別に怒ってなどいないし、自分が何に怒っているように見えたのかさえ考えつかなかった。

 訊ね返された美青は、芽衣が全然笑わないから、寂しさや不安でいっぱいで、そこに家族のこともあって機嫌を損ねているんじゃないかと思った、と丁寧に説明する。


「あたし、別にそんなこと無いと思いますけど……」


 芽衣は驚きながらそう告げて、そして自らの違和感に漸く気付く。


 確かに芽衣は、目を覚ましてから一度たりとも笑うことは無かった。微笑むことも、愛想よく口角を上げることすらも。自嘲ですら、彼女には何も無かった。


 だから彼女は、試しに笑ってみようとした。長らく笑みを称えていないその目や頬は、至極当然のように引き攣り、口角を上げようとすると唇が、顎が震えた。


「ぁ」


 笑わなかったのではなく、笑えなかったのだと、芽衣自身と美青はそこで気付く。

 笑えない少女は代わりに大粒の涙を零し、笑い声の代わりに嗚咽を漏らした。

 泣きじゃくる芽衣の背中を摩る美青は、頻りに「大丈夫」と繰り返す。やがて芽衣の身体に泣き止む兆候が現れると、ティッシュで涙と鼻水を優しく拭った。

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