Track.4-6「解離性健忘、って知ってる?」

「はじめまして」


 一頻ひとしきり泣いた後の芽衣の元に訪れたのは、常盤トキワ美青ミサオだった。

 目元はまだ腫れているが落ち着きを取り戻した芽衣は、彼女のプロポーション――特に凶器とも呼べる大きな双丘――に思わずそれを睨み付けてしまう。


「君は思い出したそうだけど、一応説明しておくね」


 美青はそう前置きして、芽衣が何をしてここに来たのかを説明した。

 ネットでしか出回っていない睡眠導入剤を大量に飲み込んでからのリストカット。ご丁寧にもバスタブに水を溜めて浸すことで血の流出が止まらなくなるようにした。

 しかし芽衣は最終的には自分自身で助けを呼んだ。それが無ければ命は潰えていたかもしれない。とにかく助かって良かった、と美青は告げる。


 美青は芽衣のカウンセリングやメンタルケアを担当し、主治医となることを説明した。他にも患者はいるため四六時中付きっきりではないけれど、という言葉に無表情な芽衣は、唐突に自身の記憶が無いことを告げる。

 自殺をしたこと、自分で緊急通報をしたことは思い出したが、それ以前の、どうして自分が自殺をしようとしたのか、この包帯の下にあるであろういくつもの躊躇い傷がどうやって生まれたのかを彼女は覚えていない、と。


解離性健忘かいりせいけんぼう、って知ってる?」


 美青の説明では、芽衣の脳に異常は見られなかったため、おそらく防衛機制が働き、命に関わる危うい記憶を脳が思い出せないように蓋をしているのだろう、ということだった。

 だから正確には思い出せないのではなく、思い出さないようにしている、と。


 そして自殺と心臓の手術が結びつかないと問うた無表情の芽衣に、美青は改めて芽衣が受けた手術の話をした。実際には芽衣が目を覚ました後で手術を担当した医師が簡単に説明をしていたのだが、目覚めたばかりの芽衣はそれをよく聞き取れていなかった。


 心臓に孔が開いた理由は、勿論リストカットだった。しかし要因はそれだけではない。

 血を失いやすい女性は特に、失血すると心臓が少ない血流を全身に行き渡らせるためポンプの機能を強く・激しくし、そこに大量の薬物が放り込まれたことで脳はその異物の濃度を下げるため、心臓をさらに拍動させた。

 結果、急速に激しく開閉をし続けた大動脈弁に小さな孔が開き、血流不全が発生したのだ。


「だから本当は、昨日みたいな心臓に負担をかける行為は絶対駄目なの。手術は成功したけど、それは完全に孔が塞がったわけじゃないから」


 芽衣は美青の言葉にこくこくと頷く。そうして昼ご飯の時にまた来るね、と告げて去った美青を見届けて、芽衣は再びベッドからリノリウムの床に降り立った。ベッドの傍に揃えてあったまるで上履きのような白い靴を履き、廊下の案内板に刻まれた図書館という表示を指でなぞる。

 そして彼女の病室のある東館から北館へと、1階の中庭に面した渡り廊下を抜けて移った彼女は、エレベーターで2階へと上がる。


 静謐な空気の漂う図書室に入った芽衣は、まずカウンターで本の借り方やインターネット用のPCの使い方を訊ねた。どうやら入院患者であれば診察券でも借りられるらしいが、やはり今の自分には難しいと結論づけた芽衣は借りることを諦め、今日のところは時間つぶしに留めようと、そして美青に後で診察券について聞こうと思考を纏めながら本棚を流し見る。

 そして蔵書量の最も多い医学書のコーナーで偶々見つけた、自身も患っている“解離性健忘”という言葉が表題タイトルに刻まれた一冊を手に取ると、中庭の様子を一望できるガラス張りの窓際へと歩む。


 図書室の奥に並ぶ読書用の広いテーブルは滑らかな手触りで、琥珀色に浮かんだ木目が目を引いた。

 少し重い椅子はおそらくテーブルと同じ木材で出来ており、廊下や病室のリノリウムとは異なる板張りの床や蔵書が整列され並ぶ本棚とマッチしている。

 椅子を引き、テーブルの上で開いた医学書に視線を落とした芽衣は、しかし突如肩ごしにかけられたその声に振り向いた。


「こんにちは」


 “白い少女”だ――。芽衣は少し驚いた表情のままで「こんにちは」と挨拶を返す。

 見詰めるその先の顔は、あの百合の丘で垣間見た天使の笑顔だ。


「あのさ」


 夷は身振り手振りで読書を促したが、芽衣はその意向とは真逆に開いたばかりの医学書を閉じ、夷に問いかけた。


「なぁに?」

「……何から逃げてたの?」


 きょとん、とした顔の上に疑問符を浮かべた少女は、それを感嘆符に変えると笑んで「忘れちゃった」と答えた。その回答に芽衣が呆れたような荒げたような声を発すと、夷は慌てて立てた人差し指を芽衣の口につけて「しぃーっ」と囁いた。


「だから、忘れちゃった。そんなことより、昨日はありがとうございました」

「ああ、……うん」


 陽気さが突き抜けた言葉に全身の力が抜けてしまった芽衣は、本当は聞きたかった様々な疑問を胸の内に留めた。

 何故入院しているのか。何故そんなに白いのか。

 しかし自殺未遂で運ばれて入院する羽目になった自身の経緯を思い返すと、確かに誰かに問われて気持ちよく答えられるものではない、もしかしたら彼女も同じような傷を抱えているのかもしれないという直感がそうさせたのだ。


 結局彼女にこれ以上関わらず読書を再開しようと本の表紙に触れた瞬間、夷はそんな彼女の落ちた目線を取り戻す。


「かいりせいけんぼう」

「……読めるんだ」


 正直言うと、芽衣は彼女のことを年下だと思い込んでいた。よく見ると身長は彼女の方がやや高いのだが、あくまでもそれは自分の身体が平均に比べて小さいからだと。

 だからその難しい漢字五文字を難なく読んでみせた夷に、余りにも失礼な言葉を投げてしまい咄嗟にそれを後悔したのだ。


 結論から言うと、彼女は芽衣よりも一つ上の学年だった。もうすぐ17歳になる16歳の芽衣と、17歳になりたての夷。一見すると同じ学年なのだが、夷の生まれた日は日本の法律では一つ上の学年になってしまうのだ。


 嘆息し再び本を閉じた芽衣の姿に、読書を邪魔してしまったと涙目になる夷。しかし芽衣は身体を夷に向け、昼ご飯までの時間を彼女の話し相手になることを提案した。

 おもむろに無垢な笑顔を見せて椅子に腰掛けた夷は、次々と取り留めのない話題を持ちかける。相槌を打つように言葉を返送し、静かな図書館の一角で会話の花が咲く。



 病室に戻って昼ご飯に食指を伸ばす芽衣は、傍で耳を傾ける美青に夷のことを語る。

 主立って得られた情報は、夷の白さはある日突然訪れたものだ、ということだった。それまでは頭髪も黒々としていたし、両目の虹彩も今のような淡い薔薇色と琥珀色とが上下で混じりきらない不思議な色ではなかったと聞いた。勿論、それがどうしてそうなったのかは追及できず、彼女もまた語らなかった。



 午後の検査の結果は良好だった。心臓の孔はまだ完全に癒着しきってはいないため過度な運動はNGだが、断りを入れれば図書室に足を運ぶ程度は許された。

 そして美青から診察券を受け取った芽衣は、昼過ぎの図書室に再び趣いて一度に借りられる上限である5冊の本を選ぶ。

 読み損ねた解離性健忘の本と、その隣にあった表題の一部が同じである“解離性同一性障害”の本、夏目漱石の『坊ちゃん』と東野圭吾の『容疑者Xの献身』、そして漫画コーナーで目にした手塚治虫の『ブラックジャック』の1巻を受付に運び、貸出の処理をしてもらう。


 夕食が運ばれてくるまでの間、ベッドで時折体勢を変えながら読書に耽る彼女は、しかし1冊目から早くも欠伸を噛み殺しだした。どうにも活字が言わんとしている内容が頭に入ってこない――当然だ、それは医学書なのだから。

 10ページも読み進めないうちから本を閉じ、ベッドボードの上部の棚の部分に押し込んだ芽衣は、借りた2、3、4冊目をすっ飛ばして『ブラックジャック』を手に取った。ページを構成する要素のうち活字の割合が少ないそれはすんなりと物語が頭に入り、芽衣は自分の記憶が戻って過去を思い出せたら、この漫画を描いた手塚治虫のように自分も自身の過去を何かに昇華させることが出来るだろうか、とぼんやりと考えた。

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