5th:終わる二人は、ブルーアワーを明けて
八景島の向こうにある未来島、その遥か向こうの房総半島を朝靄に浮かび上がらせる日の出間近。
車を停め、静かにドアを閉める。
冷えた空気をめいっぱい吸い込むと、朝の匂いが現実感をもたらす。
──何もかもが、夢のような夜だった。
スマートフォンを耳に当てるためにかきあげた髪は、一刻前の空の色。
呼び出し音が途切れると、先ほどまでの出来事を感じさせない事務的な口調で告げた。
「
『お疲れさま!すでに死体の回収は済んでるよー』
スピーカーの向こうから刺さる底抜けに明るい声。小動物を思わせるそれも、早朝においては毒でしかない。
見えないのをいいことに、顔をしかめたまま耳を傾ける。
『それにしても
「いえ……残念ながら、久留我は運悪く飼い犬に手を噛まれまして」
助手席の麗をちらりと見遣る。
──真実を知るのは、私だけで十分だ。
一拍置いて、返ってくる声。
『なーんだ。ざんねん』
「すみません。高く売れたものを」
『でーもー、潜入中にあらかた情報はもらったし』
興奮した息遣いが聞こえる。
『それに、
有能な【超閾者】は金脈だ。ましてや麗の能力は応用がきく。
久留我から得られる情報なんかより、最初から麗が本命だったのだろう。
「識別名、それにするんですか? ……今は彼女には、寝てもらっています」
撃ちました、とは言えたものではない。
『千夜ちゃんをお預けさせるなんていい度胸ね!まぁこれで町野慧ちゃんの潜入捜査も無事完結!おめでとー』
こちらの気も知らぬ軽い言い草に、呆れを込めて返す。
「相応の対価が必要ですね」
『はいはい、わかってますよ。美遊ちゃんの便利な【超閾】のおかげですからねー』
人の気も知らないで、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
裁かれるべき犯罪者ならいざ知らず、罪のない少女を眼前で撃つことには慣れようもない。
たとえそれが、『自分が殺した人間のみを復活させることができる』【超閾】、
『それにしても、美遊ちゃんは絶対に敵に回したくないなぁ。口を割るまで何度だって殺されないといけないとか、地獄どころの話じゃないよね!』
「私も好きでやっているんじゃないんですけどね」
与えてきた痛みと死の恐怖を身をもって知り、変わってほしい。
それが美遊が【超閾】を使うのを躊躇わない理由だった。
そのためなら、美遊は自分が撃った相手の死に顔を夢の中で毎日拝むことくらい、覚悟のうちにも含まれていなかった。
『ごめんね、いつも無理させちゃって』
「いえ……別に。これで少しでも【超閾】犯罪が減るのなら、苦ではあっても嫌ではありませんから」
『ほんっと可愛いなぁ美遊ちゃんは!』
「それで社長。光嶺麗についてのことですが」
『どう?実際のところ使えそうなの?』
慧が言い終わる前に言葉を被せてくる。
「いなければ死んでいた、と断言できるくらいには」
『美遊ちゃんのピンチを救っちゃうとか妬いちゃうなー!』
少しだけ間を開け、声音を崩す。
「ねぇ……千夜。一つお願いが」
『ずるーい美遊ちゃん。そういう時だけ名前で呼ぶの』
子どもみたいな文句を無視して、美遊は続ける。
「光嶺麗の身柄は、私が引き受ける」
『ふぅーん……この可愛いかわいい千夜ちゃんがいるのにそんなことするんだ?』
「寝ぼけているなら切るわよ」
『えぇー、美遊ちゃんのために起きてたのに酷くなーい?いいもんいいもん千夜ちゃんも女の子買っちゃう、いや飼っちゃうもんね!』
電話越しでも口を尖らせているのが分かり、聞こえるように溜め息を漏らす。それに意味がないことは美遊も十分に理解していても、しないわけにもいかない。
「社員が命を危険に晒して夜通し働いていたんだから、起きてるくらいで文句言わないでよね」
『よっ!デキる女は違うね!サイコー! ところで麗ちゃんの履歴書用意しておいてね。これでもクリーンな会社だし形式上必要なのよ』
「国への登録申請もお願い」
『はいはい。それにしてもあんなにツレない美遊ちゃんが、ねぇ……。一体どんな子なの?』
「簡単に言えば、猫。かな」
独りよがりで寂しがり屋。フラっといなくなってしまいそうな雰囲気。
『ネコかぁー、ネコじゃ仕方ないなぁ』
でも。
『首輪はちゃんとつけておいてね』
放っておくと、すぐに死んじゃうよ? 屈託のない声のどこかに感じる強烈な冷たさに、さっきまでは砕けた態度でいた美遊も息を飲む。
「もうつけたわ」
美遊の視線の先で、微風に髪だけを揺らす麗。
その首にはシンプルなネイビーの革のチョーカーの真ん中で、金の三日月が輝いている。
『あたしにもつけてよ!』
さっきの冷ややかさはどこへやら。すぐに元の調子に戻った千夜。
『とりあえず、起きたら来てちょーだい。報告書が終わり次第、今週の残りは有給にしておいてあげるから』
「私徹夜なんですけど。報告書はあとでもいいかしら」
『あれだけの違法行為をしても罪に問われないのは、誰のおかげだったかなぁ?』
「寛大なお心遣いありがとうございます。すぐに出社いたします」
『千夜もお昼過ぎには顔出すから、あとはおやつ休憩の時にでも、ねっ』
「……本当にいいご身分ね」
そうなの、千夜はいいご身分なのよ──
聞き終える前に耳に当てていたスマートフォンをポケットにしまった。
美遊は振り向き、静かに車へと足を運ぶ。
そこにいるのはボロボロの黒い棺に抱かれた、物言わぬお姫様。
助手席の扉を開けて跪く。
冷たくなった頬を包み込む。
永遠の誓いを交わすような、優しい口づけ。
柔らかな青い光が麗の身体を覆う。
傷口の潤いが戻り、時が巻き戻るかの如く跡形もなく塞がっていく。
土気色をした肌には赤みが差し、硬直した身体はしなやかな線を取り戻す。
ゆっくりと心臓が鼓動を刻み始め、息吹が蘇る。
そして。
頬を包み額を合わせると、夢見心地の瞼がゆっくりと開く。
若葉色の瞳が、空と地を割って生まれた朝陽を受けて鮮やかに煌めいた。
ねえ、麗。あなたの答えを聞かせて──
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