4th:惑う二人は、デッドラインを割って

コントロールの利かないままに錐揉みに回転し、側壁に衝突したヴァイパーをサイドミラーから見送る。

 フロント部を残し紙屑のように潰れた残骸が、衝撃の強さを物語っていた。

 麗の手から零れたデザートイーグルは地面を跳ね、霧のように消えていく。


「どうですか?」


 息も絶え絶えに車を路側帯に停めた麗は、ステアリングにしがみついたまま慧に尋ねた。黒いがっちりした手からはまだ鋭い爪が伸びている。

 役目を終えたヒミコも、不規則なアイドリング音を吐き出し不調を訴えている。


「もう、大丈夫よ」


 先ほどまであった全身が疼く痛みも底から沸く寒気もない。

 バックミラーを覗くと、灰色だった顔色もすでに元に戻っている。


 しかし、首肯で反応する麗の表情は晴れない。

 トラエナによって増幅された、ニトロ錠の過剰摂取。その上で限界まで行使した【超閾】。

 その負担は察するに余りある。


「お疲れ様、れ──」


 安っぽくなるとしても、言わずにはいられなかったねぎらいの言葉は。


 脇腹に走る、鋭い痛みに遮られる。


「い……?」


 豊かな黒い被毛から覗く、黒曜石を思わせる鋭い爪。

 麗の【超閾装】が、右脇腹に深く刺さっていた。

 視界に閃光が走り、体中を痛みが駆け巡る。


「あぁ。慧のお腹の中、とても暖かいですよ」


 シートに預けた頭を右に向けると、内臓の存在を確かめるように指を動かす麗。

 その顔には苦しみと恍惚が入り交じる。


「ねぇ。慧はこんなに暖かいのに。どうして父と母を殺したんですか」

 別に恨んでなんかいませんよ、あの人たちのことはあたしだって許せませんから、と熱に浮かされた微笑みをちらり、慧に見せる。


 覗く八重歯は、獲物に食らいつかんとする獣そのもの。

 不誠実だという自覚があっても、その危うさだけで出来た表情はあまりにも美しかった。


「銃を借りたときに分かったんです。両親の傷はこの銃でできたものだって」

 あたしには、お、み、と、お、し。なんですよ?


 鼻先が触れるほどの距離でうっとりと吐かれた息。沸騰しそうな熱さに漂う人工的な甘い香りに、痛みさえ麻痺する。


「ただ、あたしは。あたしが遺された理由が知りたいんです。あの時あたしを殺すことだって、慧にならできたことでしょう?」


 何もないあたしなんて殺してくれてよかったのに、という言葉に力が乗り、痛みが増す。

 ──私は。私が麗を助けた理由は。


「この子に見えたから、かな」


 血を吸ったシートを優しく撫でる。


 両親の尻拭いのための、端金に消えた麗の人生。

 躊躇うことなく取引現場に現れ、あまつさえ笑顔で娘を売ったあの二人には、地獄が相応しい。

 最初はその一心からだったのだが。


「私が麗を見つけた時、あなたは泣きながら笑っていた」


 何もかもをなくして、壊れてしまった麗は、主を失ったこの車と一緒だった。

 このままでは生きていけなくても、変わることができれば、きっとまた走れるはず。

 それを、信じたかった。話しかける目は、一瞬たりとも逸らさない。


「あんなに躊躇いなく人を撃つのに、それを信じるって言うんですか?」


 刺さる爪に力が籠る。


「だからこそ、かな。いつかその時がきたら教えてあげる──そんなことより、私は麗がタイプだからって言ったでしょ」

 私だって人間なんだから、ここぞという時には私利私欲に走るのよ。欲しいものは力ずくでもってね。


 そう言い、笑って見せる。脇腹の痛みなんて、今は感じない。


「あの言葉、本当だったんですか?」

「もちろんよ」

「あたしはこんな酷いことをしているのに?」

「酷くなんかない。私が麗でも、同じようにしていたと思う」

 ごめんね、辛い思いをさせて。肩を抱き寄せられると、甘えた声が耳をくすぐる。

「慧のこと、許してあげます。痛くして、ごめんなさい」


 これ以上の痛みを与えないように慎重に爪を引き抜く。



 時折流れる車の音と、鼓動だけが聞こえる時間が過ぎようとしていたが、しかし。


「麗……?」


 返事はない。突然現れる、ゼイゼイとした不自然な呼吸。震える全身が鼓動に合わせて硬直を繰り返す。

 肩を掴んで確認した顔には、苦悶が刻まれている。


「麗! しっかりして!」


 シートを倒し、できるだけ楽そうな姿勢を取らせる。


「慧……苦しいよ……!」


 うわ言を漏らし、黒い爪で胸を掻きむしる。

 買い与えたスウェットが容易く破れ、白い胸が真っ赤に裂けていく。

 腕を抑え込もうにも、【超閾装】を纏う麗の力は強く、振りほどかれてしまう。


「駄目よ麗!【超閾装】を解いて!」

「痛いよ……苦しい……!」


 急に見開いた目は、白目の毛細血管が破裂した毒々しいまでの紅。


 今まで幾多の死線を越え、数多の敵を撃ってきた慧。

 しかしそれでも、大切なものが目の前で失われることへの恐怖に慣れることはできなかった。

 全身が震え、思考が停止する。

 ──これは私への天罰だろうか。


「ねぇ、慧……お願い。あたしを、殺して……!!」


 血の涙を流した懇願。瞳孔は裂けんばかりに拡がっている。

 生々しい水音が滴るごとに、麗の命が砕けていく。


「……慧に、なら……いいの」


 自分自身の【超閾】。

その能力に見出した、一つの方法。

 ──私には、できることがあった。


「ごめんね、麗。……すぐに楽にしてあげる」

 俯いたまま手を掲げ、虚空から再び【超閾装】をぶ。


 重みを感じないはずの【超閾装】が、今は銃口すら上げられないほどずっしりと感じる。

 グリップをきつく握り、手の震えを殺した。

 血に濡れた胸と突きつけられたクロムブルーの銃身が描く残酷なコントラストが目に刻み付けられるが、しかし麗の精一杯の笑顔で上書きされる。


「ありがとう……」

 ──おやすみなさい。

 銃声が轟く。

 黒い獣に抱かれて、麗は安らかな眠りに就いた。





 眼鏡のレンズにべっとりとついた返り血を拭き取り、かつて麗だったものを抱え上げ助手席に降ろす。

 力の入らなくなった人間はこんなにも重いんだな、と今更ながらに思う慧は。

 それすらも一歩退いて見ている自分自身に、一抹の虚しさを感じていた。

 ──壊れてるな、私も。


 自身の命を繋ぐために麗には人を殺させてしまい、さらにその麗を撃ってしまった。

 あまりに身勝手な我儘に眩暈と吐き気を催すが、それさえも今は甘えだと奥歯を噛み締めねじ伏せる。


 命が絶たれたことで麗の【超閾装】は解けた。可愛らしい猫耳も力強い手も、もう今はない。

 青白い指の爪先に、痛々しく凝固した血肉が詰まっているだけ。


 車も血と傷に塗れ、ボロボロだ。

 先の戦いにより、内外全ての消耗が激しい。レッドゾーンを超え、過剰な負荷をかけたエンジンももう駄目だろう。

 ──後始末が終わったら、もうこの子も終わりにしてあげようか。


 直視できず、逸らした視線の先が黒い缶で止まる。

 それを取り上げると、まだ少しの重みが残っていた。


 缶の底を麗に傾け、空に掲げる。

 残った最後の一口を、ゆっくりと口に含むと。

 作られた甘酸っぱさに満たされる。



 炭酸のせいだろうか。鼻の奥がツンと痛んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る