3rd:今宵二人は、レッドゾーンを超えて
静かに音を立ててドアが閉まると、ヴァイパーがスキール音を残し、本牧方面へ走り去る。
「慧!しっかりして!」
危機が去り元に戻った手で、ぐったりと倒れ込んだ慧を起こす。右胸、腹、右上腕に穿たれた弾痕が、真っ赤だったブラウスに根を伸ばすように黒く染め上げていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい! 私の、せいで」
「……まだ、大丈夫」
努めて平坦な口調を崩さない。麗に左腕を担がれ、ゆっくりと立ち上がる。
「まだ……?」
「あいつの【超閾】、【致死性の嫌悪】は呪いよ」
白く美しかった首も、今では生気のない灰色に支配されつつある。息を呑む麗。
「このままだと、残念だけど私は死ぬわ」
──あんなに強い慧が、死ぬ?
死というたった一音が【超閾者】の魔法を解いて、ただの女性にしてしまうようだった。
動揺しつつもステアリングが邪魔になる運転席を避け、慧を助手席に降ろす。
灰色は歪む口元まで迫り、脂汗が滲んでいる。
「……呪いを止める方法は、あるんですか?」
「恐らく、あいつを殺すことだけね」
「嘘──」
この状況で嘘なんかつくはずがないのに、口から零れてしまう言葉。
今この場で久留我を殺すことができるのは、麗ただ一人。
何もなくても唯一、真っ当な人間であることが、最後の存在価値だと思っていた。
それを捨てることはつまり。
──人間をやめてしまったら、もう。あたしは本当にどこにも。
何もかもを忘れて、逃げ出したくなる。
──慧を殺すのはあの男だ。あたしは悪くない。
それに慧だって、きっとあいつらの一員だったんだ。こんなの、ただの仲間割れだ。あたしは悪くない。
「行きなさい。……麗、不幸を背負わせてしまって、ごめんね」
慧の頬を涙が伝う。
その笑顔は雫が零れるだけで壊れてしまいそうだった。
──あたしのために、こんな顔をしているなんて。
自分のために涙を流してくれる人なんて、初めてだった。
大切なものを守りたい。
その一心で走ってきた無垢な少女は。
変えられ続け、何もかも失ったはずの自分自身の一番奥で、長く深い眠りから目を覚ました。
──いや、あたしのために、こんな顔をしてくれる人がまだいるのなら。
麗は車のフロントを回る。
「慧、ごめんなさい」
ガラス越しに合った、別れの色を帯びた慧の視線を切り──運転席へと乗り込んだ。
「初心者なので、ぶつけるかも知れません」
「……早く、逃げなさい」
「あたしのせいで慧が死んだら。人間をやめるよりずっと惨めなのに、死ぬことも許されないなんて。そんなの絶対に嫌です」
だからあたしが、あいつを殺します。
きつく握られたステアリングがギリリと音を立てる。
スタートボタンを押すと、目覚めの咆哮が響き、エンジンが唸り始めた。
シフトノブに左手を置き深く集中すると、手を伝って『車の感覚』が流れ込む。
麗のまだ識別名なき【超閾】は、扱う道具を『自分の身体』として扱う能力。
タイヤが触れる地面の温度はアスファルトに裸足で立つのと変わりなく、エンジンは心臓。マフラーから出る排気は吐息そのもの。
【超閾】を使用している間だけは、構造も理論も分からなくても、感覚で全てを支配できる。
──いける。この車は、あたしだ。
サイドブレーキを下ろし、
迷いを振り払う。
左足でクラッチペダルを踏み、
恐れを断ち切る。
シフトノブを1速に入れ、
不安を追い出す。
一気に戻す左足に合わせアクセルを踏み込み、
弱い自分を捨て去る。
タイヤが白煙を上げ、弾き出される。その場に置き去りにされそうな強烈なGすら、今の麗には感じない。レッドゾーンギリギリまで踏み込み、ギアを上げていく。
野蛮な咆哮を上げながら加速する黒い獣は、少しでも手綱を緩めれば吹き飛んでしまいそうなほどに不安定。【超閾】を
それもそのはず。クラシカルな外見は、スピードリミットを超える高速域で走り続けることを全く想定していない。
感覚でそれを理解はしても、決してアクセルを緩めない。
──もう迷わない。もう後悔はしない。あたしのために涙を流してくれた慧を、必ず助けるんだ。
遥か遠くに見える鮮やかな緑は、死の象徴であり、同時に手の届く星にさえ見えた。
時速百キロ以上の相対速度では、高速道路を走る車でさえ止まっているも同然。
瞬時に詰まる距離を、荷重移動とハンドル捌きで抜けていく。
──もっと。もっと速く、もっと正確なラインを。最短のルートを。
しかし、久留我の駆るヴァイパーとの距離は離れこそしないものの、一向に縮まる気配はない。
焦りと共に、慧とのたった数時間の記憶が走馬灯のように思い返される。
その中から、一本の蜘蛛の糸を手繰り寄せた。
左のポケットから、クリアレッドのブリスターを取り出す。
──できることは、死に物狂いでやってやる!
アルミシートを握りつぶすように破り、ありったけを舌下に置く。
「麗……そんなことしたら!」
そもそも、何錠飲めばいいのかも知りはしない。
止める間もなく、すぐに溶け出し吸収されるニトロ錠。
そして、センターコンソールに置いてあった黒い缶の中身を一気に飲む。
あっという間に、心臓も頭も今にも爆発してしまいそうに痛みが脈を打ち始め、全身は燃えるように熱くなる。
そして、麗の頭から黒い被毛を纏った三角形の耳が音もなく生え、無垢な若葉色の瞳が、瞬きと共に縦に裂けた瞳孔を持つ金色へと変わる。
麗の【超閾装】は自分自身。
理性でコントロールできなくなり発現したそれは、身体能力と感覚を向上させ、手足を強靭な獣のそれへと変化させる。
長い爪が伸びた獣の手は一見不器用に見えるが、自身の【超閾】のおかげで車に乗っている限りは不便さは感じない。
自分でも怖くなるくらいに、麗の思考が目覚めていく。
情報の解像度が上がり、全能感さえ覚えてしまう。
タイヤとブレーキは問題なさそう。水温、油温はちょっと高い。エンジンの限界はそう遠くなさそう。
──でも、もっと攻められる。もっと速く走れる。
アクセルをさらに踏み込む。サイドミラーが追い越す車を掠め、弾ける音を上げる。
僅かに距離は縮まりだしたが、このままでは追い付くより先にニトロ錠の効果時間が切れる。そうなれば、何もかもが終わりだ。
──何か、もっと他の手は。
意識を車の端まで巡らせる。その間にも動悸が、頭痛が、熱が全身を蝕んでいく。
──これは?
「慧。トランクにあるのは何ですか?」
使わずに置いておいた、最後の手段を思い出す。
「そうだ……ニトロ。この車のための『ニトロ』よ」
シフトノブを指す慧。爪の先を滑り込ませて跳ね上げると蓋が開き、赤いボタンが顔を覗かせた。
ナイトロ・システム──通称ニトロまたはナイトロ。
ガソリンを燃焼させるための酸素は、通常の空気には約20%含まれているが、対するナイトロ・システムがエンジンに直接噴射する亜酸化窒素(N2O)には約50%の酸素。
単純計算で最大2.5倍の空気を燃焼するのと同等になり、それだけのパワー増加が見込める。
さらに液体としてボンベに保存している亜酸化窒素が噴射時に気化することで周囲の熱を奪い、吸入される空気の圧縮率をも向上させる。
端的に言えば、エンジンの限界を大幅に上回る出力を、ボンベに搭載された液化ガスがなくなるまでの数分の間だけ得られるカスタム。
躊躇うことなく、ボタンを押し込む。
心臓が冷却され、膨大な空気が押し込まれるのを感じるその瞬間。
限界を超えた力が湧き上がる。
止まっていたスピードメーターの針が再び動き出し、空力で劣る車体を、驚異的な出力で無理やり加速させる。
空気が質量を持った壁になり、ボディを震え上がらせる。
極限まで直線に近いラインが、一筋の黒い糸を幾度となく針穴に通し続けていく。
何もかもが一瞬で終わってしまう極限でさえ今は快楽。アドレナリンが
──高水温警告灯 [点灯]。
慧のように、華麗な二重奏は奏でられない。
ここにあるのは、敵に食らいつくための本能のみ。
二頭の黒の獣が一体となり、風を切り裂いていく。
──オイル警告灯 [点灯]。
他の車との相対速度は二百キロを超える。瞬きの間に、彼方に消えていく近景。
ナイトロ・システムで冷却されても間に合わない排熱。
メーターには、警告表示が一つ、また一つと灯る。
──エンジン警告灯 [点灯]。
「あと少しだけ、頑張ってください!」
──あなたは誰に助けられて、何のためにここにいるんですか!!
近付きつつあるヴァイパーの背を捉え、麗は最後のチャンスに賭ける。
──燃料残量警告灯 [点灯]。
回転数を示す針が、レッドゾーンに踏み入る。
風は悲鳴を上げ、景色が溶けていく。
「いっっけえぇぇぇぇえええ!」
彼方にいた緑の蛇は、吸い込まれるように近づき。
ついに、その尾を掴まれた。
麗は意を決して告げる。
「銃を貸してください」
──引鉄を引いたら、最後だ。
それでも構わない。一度は死んだ『この子』だって、慧のお祖父さんに、慧に、そしてあたしに必要とされてきたんだ。
あたしだって、きっと──
「いいのね」
一瞬の躊躇いの後の言葉は、彼女の言葉の中で最も重く、真剣な響きをしていた。
口を開くと、全てが零れてしまいそうだから。ただ、頷く。
「……麗。ありがとう」
顔は見ない。声が震えている。
それだけで、十分だった。
掌を開く。長く伸びた爪で構えられなくなった銃を、慧が指に通して構えさせる。
本来なら重くても、今の麗にはおもちゃ同然だ。
手にしたことで完全に理解する、クロムブルーのデザートイーグルの感覚。
そして導き出される記憶と答え。
──ああ、この銃でできる傷は。
今はそれを、心の奥に押し込む。
じりじりと、ヒミコがヴァイパーに迫る。
露になった左側の運転席からこちらを見る久留我の顔に張り付くのは、驚きと恐怖を押し殺した笑み。
裏腹に、左に握る緑青色のリボルバーから放たれる弾丸は正確に麗を捉え、男の確かな力を感じさせた。
だが、粉砕する窓ガラスを伴い飛来する弾丸は。
「遅いですよ」
銃を握る薬指と小指の爪の間で止まる。
増強された身体能力による反応と、慧のデザートイーグルを持ったことで得た先読みの感覚。
もう、弾が当たることはない。
「くっ!これで──!」
冷静さを欠き、乱れる銃声は悉く爪であしらわれる。
至近距離からの発砲にすら、恐怖も危険も感じなくなっていた。
──あぁ、こんなに遠くまで来ちゃった。帰り道も、もう分からないな。
一瞬の膠着の後、右手に構えたクロムブルーと、左手に構えた銅錆色が交差する。
「い、いいことを教えてあげます。貴女の親を殺したのは僕ではなく、そこにい──」
「もういいです。さようなら」
──弱いだけのあたし。
幾多の幸せを奪ってきた笑顔が。
一つの幸せを見つけた笑顔が。
指にかけた引鉄に力を込めた──
エンジン音にかき消される二つの銃声。
左頬が薄く裂け、微かに痛みが走る。
主を失った緑の蛇は断末魔の叫びを上げ、虚空へと投げ出された。
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