1st:逃げる二人は、ハイウェイを駆けて
「起きた? いいタイミングね」
数えきれないほど見た悪夢の新たなページを読み終え、
シルバーのアンダーリム眼鏡をかけた女性の横顔越しに見えるのは、
見渡す限りに続く光景が、感情のない機械だけの世界がどこまでも続いているんじゃないかと錯覚させる。
──どこまでも、こんな世界だったらいいのに。
もう何もかもに、疲れてしまった。
会ってまだ数時間と経たない、『
百年近く前のデザインをイメージした車は、極端に長く先細りしたボンネットに、張り出したフロントフェンダー。円いヘッドライトと卵型のフロントグリルは少しかわいらしく、景色が映りこむほどの艶のあるブラックを
ゴロゴロとした低音のエキゾーストノートを鳴らす様は、まるで大きな黒猫。
一方の内装は、水平基調のブラックにシルバーの円でボタンやメーターを縁取られた極めてモダンで実用的。ダッシュボードの中央にはタブレット調のナビが立ち上がっていて、現在地である首都高速神奈川6号川崎線の浮島町付近を示している。
「──いい、景色です」
生まれつきの半眼気味の目を、無機質な景色の手前にある慧にフォーカスさせる。
夜明け前の青いロングヘアーを風に揺らし涼しい顔で車を滑らせる彼女の、スクエアのメガネがナトリウム灯に瞬く。
右手は十二時の位置でステアリングを握り、左手はシフトノブに置いている。
麗は
両親を殺した犯罪組織から逃げる麗に偶然出会い、車に乗せて逃げてくれていること。
逃げた際に転んで汚れてしまった服の代わりに、ペンギンのマスコットがトレードマークのディスカウントストアで、黒いスウェットの上下を買ってくれたこと。
初対面でなくても重すぎる借りがあるにも拘わらず、恩着せがましい様子なんて微塵も見せない。シフトノブに添える指先を、スピーカーから控えめに流れるジャズの風味を帯びた女性ボーカルのポップソングに踊らせている。
十月の夜。
大人びた横顔。
工業地帯の夜景。
その全てが調和して、いやに不愉快だった。
「よかった。私も好きなんだ、ここ」
目に映る何もかもが、彼女のためにあるようで。
──きっと、満たされているんだろうな。
凛とした声音に合わせて癖の一切ない髪が軽やかに
「どうしてですか?」
──どうせ、自分と同じ理由ではない。あたしの気持ちなんて、分かってはくれない。
意地悪な気持ちを込めて問いかけると、少しだけはにかんで慧は答える。メガネフレームのシルバーすら霞んで見える、白銀の瞳が瞬いた。
「ここに来ると、世界が全部こんな風になればって思うんだ。人間も自然もなにもかも、全部なくなっちゃえって」
ドクンと、心臓が大きく脈を打つ。
──同じ答え。思ってもみなかった。ずるい。ひょっとして、この人は心を見透かす
「大体そういう時って色々なことに疲れててさ。こうやって深夜に走って家に帰ったら、何にもしないですぐに眠るの。そうしたら夢でもこの景色のまま、朝まで逃げられるから」
三日月のチャームが揺れるネイビーのチョーカーがあしらわれた、白い首。
ついさっきまでは異性をたぶらかす武器に見えていたそれも、今では妙に魅力的で、吸血鬼でないのにかぶりついてしまいたくなる。
──我ながら、なんてチョロいんだ。あたし。
急に顔が熱くなるのを感じて風にあたろうと左を向くと。
あっ、と思い出したように慧は困った声になった。
「ごめんね。なんか不幸アピールみたいで」
「ううん……よかったです。慧さんにもそういう弱そうなところがあって」
「──『さん』はなしでいいよ」
一拍遅れる返事。気に障ったことでもあったかなと少しだけ不安になる麗だが、慧は何食わぬ顔で続ける。
「悩みとかなさそうに見える?」
「綺麗だし、スタイルいいし、大人っぽいし。なんか高そうな車乗ってるし……人生、楽しそうで」
「ありがとう。これはこれでずっと『そんな顔して世間知らずで』とか言われてきたのよ」
失礼しちゃうよね、と笑ってみせる。
「それに、麗は可愛いよ。眠そうなその若葉色の目も、気だるげな声も、華奢な手足も、私のタイプ」
「褒められているのか貶されているのか分からないんですけど……」
「褒めているのよ。──ねぇ、よかったら私と付き合わない?」
「な、何を言ってるんですか!? 大体あたしたち、出会ってまだ数時間なんですよ?」
「一目惚れに一瞬も永遠も関係ないでしょ?」
「──っ」
夜景を望む高速道路で言うには適当な台詞ではあるが、あまりにも唐突な提案。麗の体温の上昇は止まらない。
「夜が明けた時には、答えを聞かせて欲しいな」
「そんな、急に言われても……」
彼女なりの気遣いなのかも知れないが、生まれて初めての積極的なアプローチに頭の中は真っ白だ。握ったスウェットの裾で火傷をしてしまいそうなほど。
「今夜はきっと、長くなるからね」
そんなことも露知らず、涼しい顔で続ける慧。
「そういえば、あなたが高そうって言ったこの車は、祖父の形見でね──」
懐かしむ笑顔。慧は見えない星座を描くように眺め、話し始めた。
慧の祖父が、定年の楽しみにと購入した車。
祖母を早くに亡くした祖父にとっては寂しさを紛らす意味もあったのかも知れないが、慧が学校で虐められたり、友人と喧嘩したりして辛いときには決まってドライブに連れ出してくれた。
アイスを買ってくれた道の駅。
静かな夕方の海。
清々しい山から見下ろす街並み。
励ましらしいことは何も言われなかったが、慧にはそれで十分だった。
祖父は祖父で、珍しい車ということもあってか見知らぬ人に声をかけられることも少なくなく、その度に綻ばせていた顔を見るたびに慧も嬉しくなった。
しかしそんな日々も長くは続かず、慧は特殊能力──
唯一の異能【超閾】と無二の異能武器
慧も例外なく引っ越すこととなったため、それきり一緒にドライブへ行くこともできなくなってしまった。
その後、全国的な豪雨による冠水で実家は浸水し、車も水没。あっけなく不動車になった上に、持ち主である祖父も被災が遠因で体調を崩してしまう。
結局会うことができたのは、亡くなる二週間前くらいのこと。一時的な帰省が許可され病院を訪れた時にはもう、祖父は痩せ細り見る影もなく、慧の目にも先は長くないことが明白だった。
病室では前向きな話で思う空気を晴らそうと努め、祖父も楽しげにしていたのだが。
面会時間の終わり際に、名残惜しそうに呟いた。
『あの車、もう走らせることもできないかも知れんが。いつか、お前にあいつを運転してほしくてな』
『退院したら、いくらでも運転できるじゃない』
『……そうだな。まぁ、もしもの時の話だ。頼むぞ』
祖父の没後、慧は島外での長期活動の許可が下るまでに腕を上げて、車庫に放置されていた車を引き取った。
当然だがほとんどの部品は痛んでおり、修理を依頼したショップにも、直すより買い替えた方が安上がりでやるだけ無駄だと言われてしまう。
それでも諦めきれなかった慧は、一つのアイディアとして出されたショップの提案に乗ることになった。
「それで、高い金払って乗り続けるのなら大胆な改造をしたらどうかって。今考えてみるとショップにとっては人の金で遊べる、くらいに思っていたのかも知れないけど」
麗は話に聞き入っていたことで、ようやく落ち着きを取り戻した。
「この車にはどんなことをしたんですか?」
「エンジンをLT1に載せ替えて、その他もほぼ全てをエンジンに合わせて強化された社外品に変えたかな。オリジナルなんてフレームと内外装くらいよ」
「えるてぃーわん?」
「排気量は6,200cc、アメリカ生まれのエンジンね。カマロなんかにも載ってるやつで……トランスフォーマーとか見たことない?」
「ないです。タイトルくらいしか知りません」
「うーんと、分かりやすく言えば、大体あれ十台分かな」
示されたのは左の車線。麗も街でよく見掛ける軽自動車だ。この車が過剰なパワーを持つことは、車に詳しくない麗にも分かった。
しかし、どうしても気になることがあった。
「もうそれって、同じ車の皮を被っただけの別の何かじゃないですか?」
「そうかも知れない。でも、私は変わることで存在し続けられるのなら、その方法を選択したいかなって」
少しだけ寂しそうな顔をして、ステアリングを撫でながら慧は言った。
この車──車種名『ヒミコ』は、四代目マツダ・ロードスターの完成車を一度分解し、専用部品を与えて再構築したモデル。
生まれ自体に、オリジナルの魂を持ち合わせていない存在。
それでも慧の祖父に、そして慧自身に必要とされ、代わりのないただ一つとしてここにいる。
「……そうですか」
淀みない慧の口調に、麗は心の中で反論する。
──あたしは両親に変えられてきた。
意志も自由もなく、型にはめられて。
それでも家族だから、大切だから、期待に応えたかった。
なのに、どうして?
なに食わぬ顔で宿った【超閾】だけがあたしの価値で。
型にすら合わずに捨てられたあたしは、何だっていうの?
「──ごめんなさい、ちょっと気分が悪くて。また、休んでてもいいですか?」
「もちろんよ。もう少ししたら、一度休憩しましょう」
慧がシフトノブの手前にある銀縁のツマミを回しオーディオをフェードアウトさせると、車内はノイズ混じりの低いエンジン音だけに満たされる。
身体の奥に届くその響きは憂鬱な心にもどこか心地よく、大きな猫にでも抱かれているよう。
意識は再び、引きずり込まれるように深いところへと落ちようとしたが。
後方から響く派手な排気音が、麗を引き戻す。
こんな深夜に随分うるさい車がいるんだな、と振り返ろうとした瞬間。
「うわっ──!?」
先ほどまでゴロゴロと大人しく唸っていたエンジンがけたたましく吠え、シートに押しつけられる。
車が地面を蹴り、タイヤの甲高い悲鳴が置き去りにされた。
「あいつらよ」
慧は目だけを動かしバックミラーを睨む。そこにあるのは急接近するヘッドライト。
クォーンという仰々しくも官能的なエキゾーストノートを吐き出す、三叉槍のエンブレムをフロントグリルに据えた白いセダンが迫っていた。
ナンバープレートは付いておらず、フロントガラスまでスモークがかかっている。まともな用途でないのは明らかだ。
「そんな……!」
「女の子一人に、大人げないわね」
慧が左手を麗の前の、何もない空間に手を伸ばすと。空気が固まるように、透明の輪郭が鮮明になっていく。
小指の下ほどから親指の上までは縦に伸び、そこからは垂直に近い角度で折れた形状が数秒で色と質量を得ると。
『ハンドキャノン』とも称される大型自動拳銃──デザートイーグルに似た形を成した。慧の髪色に瓜二つの、灼けたチタンにも見えるクロムブルーの銃身が【超閾装】であることを主張している。
「綺麗……」
「ありがとう。この銃を見たものに朝陽は昇らないとか言って、
右手に持ち替えつつ、歯を見せた嘲笑。実銃よりなお危険な【超閾装】を構えてその冗談は笑えない、と麗は思う。
「この子なら振り切れるけど、どうせしつこいだろうから……」
麗は絶対に、手を出さないで。これは私の役目だから。
先ほどまでは慈愛すら感じるほどの優しげな瞳も、今は交わす視線だけで斬られてしまいそうな鋭さ。それだけで、慧がただ者ではないと伝わってくる。
「……分かっていますよ。あたしは自分の【超閾】、嫌いですから」
「じゃあ、前が危なくなったら教えてね」
不機嫌を隠さない麗をよそに、踊っていた慧の左手がシフトノブを払う。
五速、四速。矢継ぎ早に行うシフトダウンに合わせ、ブレーキを爪先で踏みつつ踵でアクセルを煽り、一気に減速。エンジンが叫び、強烈なエンジンブレーキが発生する。
「ひっ──!」
前に向かって放り出されそうになるのを、麗はシートベルトを握り締めて堪える。
急激な減速で追い越される形になった、白いセダンのリアドアが真横に見えると色の濃いスモークガラスが下にスライドを始め。
窓から炎が吹き出した。
「【超閾者】!?」
間近に炎のオレンジが網膜に焼き付く恐怖に、思わず目を固く瞑る。
慧は咄嗟にステアリングを切り距離を取るが、熱に侵された塗料の臭いが鼻を刺した。
──男、二人。
炎が途切れた瞬間を狙い、慧は拳銃を叩き込む。
間隔を空けずに放たれた二発は、吸い込まれるように後部座席に乗る二人の男の胸部を捉えた。
窓から噴き出した血液が地に落ち、瞬時に彼方に消えていく。
象をも屠ると言われる実弾の『
「いっ、今の、殺し──っ!?」
「ごめんね。やらなきゃ、やられるだけ」
私もあなたも、もうそういう世界を生きているの。轟音の中にあってもはっきりと耳に刺さる声。
彼女がさっきまで纏っていた
シフトダウンに合わせてアクセルを煽るブリッピング。ヴォン、と一吠えでかかるエンジンブレーキで後方に一度距離をとり、すぐさまアクセルを深く踏み込む。
360km/hまで刻まれたメーターは普通の車の倍の密度にも関わらず、針は軽やかに右へと走る。
高い回転数を維持したままの強烈な加速が、生きた心地を置き去りにする。
追い抜き様に、左フロントウィンドウから前面へと弾丸を射抜く。黒いガラスが二枚割れ、露になる前席のダークスーツを着る屈強な男たち。
その右の助手席に座る方が握るボールを見せつけるようなポーズを取ると、紫の電光が手の中心から光を増し、一際強い光となる。
「──させない」
響く轟音。手から光が放たれるより先に、銃弾が男の眉から上を弾け失わせる。
「くそっ!」
逃げようと急ブレーキをかけるが既に遅く。
銃声が運転席の男を、助手席と瓜二つにしていた。
慧の銃はまだ止まらない。
無人のまま追い越し車線を走る車の左の前輪を、そして後輪を正確に撃ち抜く。
大きく左に逸れ、側壁にぶつかり停車したところでやっと銃を下ろし、息を吐いた。
「端に寄せておかないと、危ないからね」
「危ないって……こんな状況なのに、おかしいですよ!」
親切をした、とでも言わんばかりの発言に声を荒らげた。
「それじゃあ麗は、このままあいつらに捕まって、どんな風にされてもいいの?」
何も言えなかった。
国にまだ認知されていない【超閾者】の麗を買い、両親を殺し、目撃者のいる最中に公道上で襲撃してくる。法令順守の言葉を欠片ほども持ち合わせない、極め付きの反社会的勢力だ。
言葉で引き下がるはずもなければ、逃げても地の果てまで追いかけてくるだろう。
「大丈夫。麗は何もしていない。ただ私に連れられているだけよ」
あなたが気に病むことではないの。全部私がやったことだからね。
優しい語りかけに俯くことしかできないが、後方から木霊する複数の排気音が沈黙を破る。
「まぁ、一台なわけがないわよね」
深く吐く息とともにミラーに映る向こうへ言葉を投げると、第二ラウンドが始まった。
慧のステップと指揮に合わせて、黒い獣が荒々しく唄う。
一人と一頭が奏でる、超高速の二重奏。
狼の群れの如く迫る追手は翻弄され、銃声の一音ごとに一台、また一台と後方へ脱落していく。
あまりに苛烈な慧の反撃に恐怖を覚えながらも、誰よりも自由で一切の敵を寄せ付けないその姿は、つい先ほど見た炎よりも鮮烈に網膜を焦がす。
鶴見つばさ橋を越える頃には二人を追っていたものはなく、ゴロゴロした気だるいエンジン音が聞こえるだけだった。
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