二人分の体が入った布団の中は外部よりも湿気っていた

 その日ボクらは寝具の中で、いつものように言葉を小鳥達みたいに交わし、猿の社会みたいに毛を撫で合っていた。夕日に似つかないライトもこういう時はあたたかかった。

「ジュース取ってきて」

 かわいいあの人はボクと違って甘え上手だった。ボクは生まれたままの姿で布団から出て、オレンジの舞台照明に照らされた中で、冷蔵庫内から発生する白い光を浴びる。手前に並んだ二つの紙パックのうち右側を取った。冷蔵庫から帰り道の方を向くと、あの人はベッドの縁に座る形で待ち構えていた。艶やかな腿が白いハイライトと陰を出している。

「ありがと」

 ボクを見上げたあの人の目に、瞬時に照明の光が舞い込んだ。光というものはいつもあの人の目に親しくしている。あの人の目はこの世のものとは思えない美しさだから、光も愛さずにはいられないのだろう。ボクは光に嫉妬した。ボクもあの人の目の中に入り込んでしまえたら。だけどこうしてあの人がボクを見上げている姿は好きだ。

 ボクからジュースを受け取ったあの人は、即座に上部に付いたプラスチック製の開け口を回して蓋を取り、円形のそこに口をつけて全体を持ち上げた。ほんの少し邪な考えが過った。

「これマンゴーの方か。勝手にオレンジ持ってくるって思ってたからちょっとびっくりしちゃった」


 時が止まった。


 一瞬の空白を経て、ボクは衝迫のまま雑多な道具を入れた缶ケースに手をかけた。金属の入れ物はこういう時五月蝿い。カッターを探し出すと、チキチキと音を立てさせ、出した刃を腕に当てようとした。

「リスカするの?」

 叱りよりも、不快が勝るあの人の声が背後から聞こえた。

「汚い傷を見て絶望することになるよ」

 迫害されたモンスターの気持ちで振り返ると、ぼやけた視界の中に美しいあの人がいた。それは焦点が合うにつれ、足が、脚が、股が、腹部が、腕が、首が、毛髪が、美しさをより誇示していった。

「期待したものを持って行けなくて申し訳無かったのね。でもパッケージを見ずに飲んだ私も悪かったの。瞬発的に自傷するのはやめよう? カッターを仕舞って」

 ボクは言われるまま、音を立てて今度はカッターの刃を入れた。そしてケースに戻すと、下を向いてベッドへと歩いた。小学校低学年の記憶が薄くオーバーラップした。

「どうして君は私のことになるとそんなに極端になっちゃうのかな」

 あの人があくまで何気なくそう言ったことは理解できていた。その上で、ボクは逆鱗にそれを触れさせた。

「あんたの所為だよ」

 ボクはあの人の上下の唇を噛んだ。歯に伝わる、今まで食べたどの動物とも違う感触に心躍った。柔らかい唇の肉は憐れに裂けて、降伏の印の贄とばかりに血を差し出してきた。少量だが、確かに甘やかな生と鉄の匂いが鼻を抜ける。口を離して見たあの人の目は呆れ返っていた。痛みのせいか眉は険しく目元に影を作っている。唇にできた瑞々しい傷口が、照らされて細かに光の粒子を生んでいた。

 だけどあの人は一度深めに目を閉じると、また普段の通りにボクを見た。

「疲れてるんだよ。今日はもう寝なさい」

 あの人はそう言って布団に入ると、中から持ち上げてスペースを作って、ボクに入るように促して誘った。光を背にしたボクは、虚脱に似た気分で、そのまま自然に脚を布団の中に滑らせた。

 枕に頭を乗せたあの人の表情は諦めとか慰めとか憐みとかほんのりとした好意とか、色んな原材料で構成されていた。ボクが猫みたいに丸まると、あの人の胸元と布団で遮られて、光が入ってこなくなった。空気を通してあの人が持つ温度が伝播してくる。あの人の温度が伝播してくる。温度が伝播してくる……。

 眠りに落ちる直前、照明を消すピッという音が聞こえた。

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行為に至らない話 濁面イギョウ @nigoritsura

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