第9話女装男子とポニーテール
どんな異常も異変も、継続すると時間の経過とともに正常へと遷移するのは、誰もが理解していることだろう。むしろ慣れてしまった後に異常が取り除かれれば、元に戻ったはずのその状態が異常と思うことだってあるかもしれない。
骨折して腕に巻き付けたギブスとか、氷の張った湖とか、ナーフされたヘクターとか。
立ち止まり、蓬が見上げる葉桜もそうだ。
入学式の頃には満開だった桜はすでに緑になり、生徒たちよりも一足早く衣替えを済ましていた。
風が吹き、緑が波打つと、蓬は教室へと向かう。
少し前までは風となった桜のはなびらを懐かしむ声も聞こえたが、今はもうしない。
きっとだいたいの生徒たちは、葉桜を常盤木のように認識しており、真冬になれば枯れ木と誤解し、また春も中頃になればまた桜の木と理解するだろう。
1―A はまだ始業20分前ということもあり、生徒はまばらだった。
いつも通り、蓬は自分の席に着く。入学当初は珍獣のように視線を集めていた彼だったが今となってはほとんどない。
正真正銘の男子でありながら女ものっぽい黄色のカーディガンに身を包み、編み込んだ亜麻色の髪をハーフアップにまとめた彼を――彼という異端を、大方の生徒は極めて消極的に、正常なるピースの一つとしようとしていた。
始業の時刻が近くなり、次第にクラスの喧騒は沸き立ち始める。だが彼はぽつりとぼっち。
それがこのクラスの正常。
前に述べたように、蓬はこの状態に不服はなかった。
変に詮索されるよりは全然良いし、自業自得とも思っていたからだ。寂しさはあっても所在のない怒りを覚えることはなかった。
そうやって幾多の癒着を繰り返し、個々はゆっくりと、クラスという一つのコミュニティへとなっていく。
一度一つになると、もはやそこに一人一人の意志なんてほとんどない。
集合体に昇華したことにより副次的に身についた第六感でありもしない『空気』を無意識に読み取り、同調して、あたかも自分の意志のように振る舞う。
いわゆる社会性というものだ。
時折構図が変わる時があるがそのほとんどが些細なものであり、大きく変わるとしてもクラス全体が参加する行事の時くらいなものだ。言うなれば形状を変えることができる風船のようなものでもしピンポイントに突然衝撃を与えようものなら――
「おっはよ!」
麗葉がスマホをいじる蓬の背中を強く叩き、正面に立つ。
蓬は不意の出来事に目を丸くする。
教室が刹那静まり、すぐ、ざわめく。
――それは爆ぜて異常と認識される。
「返事は?」
「……おはよう、藤野さ――」
「麗葉」
「……麗葉ちゃん」
「きゃはは」
――そんなことなんてどうでも良いように麗葉は彼に笑顔を向けると、周りの視線を纏いながら長いおさげを揚々と揺らして席へと向かった。
蓬はなんとなく目で追えなくて、蓬は彼女の気配を追うように、耳を澄ます。
「おはよ、ウラ」
席を引く音がしたわずか後、かすれた声の女生徒が麗葉に話しかけた。
「お、ちゃっす、つきちゃん」
「うん。え、と、どういう関係?」
「え? あー蓬くん?」
呼吸が浅くなる。体がこわばる。
「部活仲間……。ちゅーか友達」
固まっていた蓬の体が弛緩して震える。口元が緩む。
蓬は独りぼっちになることを覚悟していた。初恋を叶えるため、不退転の決意で女装という蛮行に及んだ。
だから孤独を受け入れられていた。恋愛成就という妄想――もとい憧憬に思いを馳せることでそれ以外を諦めることができた。
でも、本当は違う。
覚悟はあっても寂莫はたしかにあるのだ。
胸に秘めた願望は、もっと理想で出来ていて。
自分の愚かな行為が受け入れられて、クラスで普通に過ごせたらと考えていた。
――友達。
だからその言葉はどうしようもなく嬉しくて。
蓬は机に顔をうずめた。
始業のチャイムとともに顔を上げた蓬はちゃんとお礼を言おうと決めたが、1時間目が体育で女子たちはそそくさと移動していったため実現しなかった。
二組の男子も加わって教室はがやがやと楽しげな空気に包まれる。
蓬はやはりぼっちだったが、もう慣れたもので黙々と着替える。
ベルトを抜いて、フロントホックを外しストンとズボンを落とす。食事制限のおかげで筋肉の削がれた足は、細くしなやかで象る曲線が美しい。
蓬は下のジャージを履こう――
――と。
不意に視線を感じた。
彼は手を止めきょろきょろと首を振るが所在は掴めない。
蓬は気のせいということにしてジャージを履きカーディガンを脱ぐ。Yシャツのボタンを外すと上半身が露わになる。
――と。
やはり視線を感じる。
蓬はきょろきょろと周りを見やるが誰もこちらを見ていない。談笑をするもの、しやがった身体を見せびらかすように半裸のまま闊歩するもの、着替え終わってスマホをいじるもの。周りは男子だけだ。
ふと自分の身体に視線を落とす。
まっ平らな胸板。あるわけのない膨らみ。
『あなたは女の子じゃない』
篝の声が小さく響く。
周りは男子だけであり、当然、蓬も男子なのだ。
彼にとって、それはすごく悔しく、悲しい。
上のジャージに袖を通し、最後に髪を解き後ろで結ぶ。
そして彼が教室を出ると、偶然にも女子三人と鉢合う。
「蓬じゃないか」
その中の一人の篝が、前髪を髪で漉きながら蓬を見て微笑む。
「お、おはよ……。って、なんで麗葉ちゃんも?」
「ん? ちょっとした関係でね。ちゅーか二人は?」
訊き返されて言葉に詰まる。昨日あえて名前を伏せて話した手前、中学からの付き合いとは言いづらかった。
「ちょっとした関係、かな」
「そかそか」
目を泳がせながら話す蓬だったが、麗葉は特別追求するでもなく頷いた。
「それにしても、今日はポニーテールか」
篝が蓬を物珍しげに観察する。蓬はなんとなくこそばゆくて身体をぷるぷると震わせる。
「似合っている」
「だね! ちょーかっこいい――」
篝の言葉に相槌を打って麗葉が蓬を褒めるが、彼の目から突然光が失われる。
「かっこいい?」
「――あー、女子的な意味で?」
「そ、そうかな?」
彼女の咄嗟の一言に彼の瞳は輝き、デレッと破顔した。
「……そろそろ行こうよ。二人とも」
「あ、ごめんごめん。つきちゃん」
その様子をそばで伺っていた
「またな、蓬」
「う、うん」
大げさにひらひらと手を振る麗葉に控えめな動きで返す。
彼女たちが見えなくなると、彼もまた廊下を歩いていった。
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