第180話
人間の感覚では数百年も前のことだろうか。
のちのビルゴ王国の北西に、エルフ族の国があった。
人間――この空で『ヒュマネス』と呼ばれる人種と、エルフ族とは、耳の形で判別できる。エルフは尖った耳を有し、背丈の高いものが多かった。とりわけエルフの若い女性は幻想的な美しさを誇り、その姿は数多の絵画に残されている。
だが、エルフは徹底した血族主義であった。
古くはエルフ特有の美しさを守るための思想だったらしい。やがて彼らは何よりも『余所者の血で自分たちの血が汚れること』を恐れるようになった。
エルフの血統を『守る』というのは建前に過ぎない。
実際はエルフ以外の血を一切認めずに唾棄する、偏見や差別へと繋がっていった。
ひとを『血』で選別する、歪な社会。その傲慢にして卑劣な慣習は、やがてエルフの世界に絶対的な封建制度をもたらす。
一部の特権階級はハイエルフを名乗り、ほかのエルフを支配した。
一方で、小麦色のエルフは『ダークエルフ』と呼ばれ、蔑まれた。モンスターとの姦淫の末に生まれた忌み子とまで虐げられ、迫害される。
しかし、それはハイエルフがダークエルフの台頭を恐れてのものだった。
ダークエルフは深く眠ることで、老化を停滞させることができる。二十歳のダークエルフが眠り続け、十年後に目覚めても、心身ともに二十歳のままなのだ。
つまりダークエルフは寿命が長い。
また、特定の術式や瞑想を組み合わせることで、眠っている間に己の魔力を飛躍的に高めることもできる。
だからこそ、ハイエルフはダークエルフを脅威と考えた。
それゆえに迫害を煽り、見せしめに何十人、何百人と処刑した。
あるダークエルフの集落がハイエルフの襲撃を受けたのは、ステラがまだ六歳の頃。
その夜、突如として村に火が放たれた。
素朴な生活を営んでいただけのダークエルフたちは、炎の中を必死に逃げ惑う。
幼い子どもたちは母親を求め、泣きじゃくった。
だが、ハイエルフの戦士どもはまるで躊躇しなかった。それこそ害虫を駆除するかのように――罵詈雑言を吐きながら、罪のないダークエルフを虐殺していく。
幼いステラも母親と一緒に走った。
しかし母は後ろから槍で胸を貫かれ、あえなく絶命する。
「こんなところにまだいやがったか、ガキめ!」
「ダークエルフに生まれてきた自分を呪うんだな!」
ステラにはわけがわからなかった。
なぜ今しがた母親を殺されたのか。なぜ自分は追われているのか。
悪いことなんて何もしていないのに――。
恐怖は臨界をとっくに超え、幼い少女の心を砕いてしまった。悲鳴を上げようにも、声が出ない。涙も出てこない。
しかしステラは殺されなかった。殺されずに済んだ。
ハイエルフの戦士どもが不意に動きを止める。そして自ら武器を捨てると、頭を抱え込むように蹲ってしまった。
ステラはぺたんと尻餅をつき、呆然とする。
それから一時間、二時間と過ぎ、火の手は弱まっていった。赤い炎に代わって、真っ白な朝日がダークエルフの集落を照らす。
眠ることを忘れたままに朝を迎え、ステラはまったく別の軍勢を見た。
エルフの領域にもかかわらず、ヒュマネス(人間)の騎士団が続々とやってくる。彼らは生き残ったダークエルフを保護しつつ、ハイエルフの戦士を見つけ次第に拘束した。
「ひとりたりとも逃がすな! ならず者は全員、裁きにかけてくれる!」
ヒュマネスの女性司令官が声を荒らげる。
彼女こそルピナスの遠い先祖、ビルゴ王国の初代女王だった。その切れ長の双眸が小さなステラを見つけ、憐憫の情を湛える。
「母親を殺されたか。立てるか?」
「……」
「無理もない。これが『崇高なるハイエルフ』のやることとは、な……。魔宮の力がエルフを支配するには少々、時間が掛かったか」
女王は剣を抜くと、ステラの傍で蹲るハイエルフを鋭く睨みつけた。
「シュバルティンの魔宮が開かれた以上、貴様らの暴虐もこれまでだ。いつまでも時代錯誤なマチズモに固執する、本物の野蛮人め。処刑台が貴様らを待っているぞ」
ハイエルフの戦士は反抗のひとつもしない。
何がどうなっているのか、ステラにはわからなかった。わかるわけがなかった。
この一両日のうちにビルゴ王国はエルフの国を制圧する。ハイエルフの殺人鬼どもはひとり残らず逮捕され、一ヵ月後にはヒュマネスの法に則り、厳罰に処された。
それから間もなくステラは同じダークエルフの老婆に引き取られた。
「シュバルティンの魔宮じゃよ」
すべてを理解したのは、十二歳の誕生日の夜。
しわくちゃの顔を暖炉の色に染めながら、老婆は語る。
「ようやっと……百年ぶりに魔宮が開きおった。こうなれば、土地も民も、シュバルティンの魔宮での戦い次第となる。六年前のあれも、そういうわけじゃ」
ビルゴ王国はシュバルティンの魔宮へ一番乗りを果たし、手始めにエルフの縄張りへ侵攻した。エルフは魔宮に兵を置いていなかったため、戦うまでもなかったらしい。
「ハイエルフのやつらはシュバルティンの魔宮を甘く見ておったのよ。ところが、どうじゃ? 魔宮のほうをビルゴに押さえられては、あの通り……ふぇふぇふぇ」
かくしてエルフの国は名実ともにビルゴ王国の傘下となった。
歳相応に頭のよくなったステラは、首を傾げる。
「でもお婆様、エルフは誰も嫌がらなかったんですか?」
「おぬし自身も嫌とは思うておるまい。それが魔宮の恐ろしいところでのう。……まあ、おぬしもわしや王族の連中と同じで、多少は抵抗力があるようじゃが」
老婆はぎょろっと瞳を転がした。
「魔宮のほうを制圧すれば、土地のみならず、人心をも掌握できてしまいよる。そのためにエルフ族はビルゴを宗主と認め、あのハイエルフどもは鼻っ柱を折られてしもうたわけじゃよ。いやあ愉快、愉快!」
シュバルティンの魔宮は、この空の人間すべてを『ルール』に従わせるという。
さらに老婆はステラを見詰め、不敵な笑みを浮かべた。
「やろうと思えば、おぬしが魔宮を制圧し、ダークエルフの一大国家を築きあげることもできようて。ふぇふぇふぇ……まあ、わしは手伝えそうにないがのぉ」
老婆の寿命は尽きつつある。
そしてステラは今夜から数年の眠りにつく。おそらく、これが最後の別れだった。
一度は砕け散った心も、老婆のおかげで元に戻りつつある。そのせいで、今は寂しさを堪えなくてはならなかった。
「どうしても眠らなくてはいけませんか? お婆様……」
老婆の乾いたてのひらが、ステラの頬を撫でる。
「早いうちに慣れておいたほうがええ。しばらく……いいや、当分はつらい孤独が続くじゃろうが、な。決して諦めてはならぬ。自棄になってもならぬ」
その言葉をひとつずつ、ステラは頭ではなく胸の中に刻み込んだ。
「いつか……十年後か、もっと先か……おぬしにも『時』が来る。もう眠らずに済むような、運命的な出会いじゃ。それまでに力を蓄えておけ」
育ての親が老婆心を働かせる。
「でないと、おぬしまで、わしみたいに生涯独り身になってしまうでな?」
十二歳のステラにはまだ、ぴんと来ない。
☆
それから数百年の時が流れた。
とはいえ、ステラはほとんどの年月を眠って過ごしたため、体感的には七、八年程度でしかない。たまに目覚めては、一年ほど空の情勢を眺め、また眠りにつく。
その間にダークエルフはめっきり数が減ってしまった。
時間に置き去りにされるのが怖くて、長寿のために眠るのを止めたのだろう。それでもステラは老婆の言いつけに従い、時を越えていく。
むしろ家族も仲間もいないから、眠るほかなかった。
次に目覚めた時には、運命のひとに出会えるのでは――そんな期待を胸に秘めて。
そして心身の年齢が二十歳くらいになったところで、ステラは行動を始めた。まずはシュバルティンの魔宮へ入り、キャンサー王国から領土の半分を奪取。
そうすることで、ダークエルフでも本当に認められるか、試したかった。実際にステラは新たな支配者として、ひとびとに受け入れられる。
けれども満足できなかった。かえって虚しくなってしまった。
玉座に座って、大勢の部下に囲まれていても、ひとりぼっちは変わらない。
そんなステラに囁く者がいた。
「どうじゃ? ダークエルフの魔女よ。わらわと一緒に来ぬか?」
シュバルティンの魔宮に潜んでいた魔大公のバンシィが、ステラに誘いを掛ける。
「この大陸の人間どもに義理立てすることもあるまい。もとを辿れば、連中もハイエルフと同類のクズよ。罰は与えてやらんと、なあ……」
バンシィの言うことはわからなくもなかった。
ステラが一国の王として受け入れられたのは、魔宮の力によるもの。シュバルティンの魔宮がなければ、王ではなく『邪悪なダークエルフ』として扱われたに違いない。
それに王のステラは迫害されないというだけで、この空のどこかでは、今なお理不尽な差別や偏見がまかり通っているだろう。
あの女王のように毅然と悪を裁ける支配者は、少ない。
「わらわでは旗を置き、領土を広げることができぬ。じゃから、おぬしに代行して欲しいのじゃ。無論、王の権限はすべておぬしのものよ。悪くなかろう?」
それでもステラはバンシィの誘いを断った。
「興味がないわ」
バンシィの口が耳まで裂ける。
「愚かなやつよ……わらわの誘いを無碍にしたこと、後悔させてやろうぞ!」
バンシィの金切り声が衝撃波となって、ステラを弾き飛ばした。
「く……?」
立ちあがろうにも、ステラは眩暈を覚える。
どうやらバンシィの絶叫が聴覚を介し、神経に作用しているようだった。バンシィは酷薄な嘲笑を浮かべる。
「シュバルティンの魔宮では死なぬ、と思っておろう? じゃが、痛みや苦しみからは逃げられぬぞ。夜明けまで、たっぷりと遊んでやろうて」
にもかかわらず、ステラは余裕綽々に構えた。
「悪趣味ね」
「そう強がるでない。今なら、考えなおしてやらんこともないぞ?」
バンシィが大口を開ける。
またも甲高い叫び声が魔宮に響き渡った。超音波がステラの平衡感覚を狂わせる。
「あうっ? こ、これが魔大公の力……!」
「クックック! まだ立っておるとは、見上げた根性じゃ」
それこそ『倒れていない』だけで、魔法の詠唱はおろか、得意の鞭を振るうこともできなかった。物理的なダメージもあり、黒衣が千切れる。
「ほぅれ、もう一発!」
再びバンシィが金切り声を放った。
「でも……対処法はあるわ」
同時に、ステラは小さなものを呼び出す。
それは人面のついた不気味な薬草、マンドレイクだった。
「ギャアアアッ!」
マンドレイクの絶叫がバンシィの叫びを相殺したため、ステラにダメージはない。
忌々しそうにバンシィは顔を顰める。
「な、なんと……器用な真似を」
「マンドレイクの大声には慣れてるもの。魔大公のあなたでも、同じ『音』で勝負されては、分が悪いでしょう?」
「ちいっ! じゃが、これしきのことで……ゥグ?」
不意にバンシィの声が途切れた。
マンドレイクはフェイク。すでにステラは沈黙の魔法を命中させていた。
ステラの右手が青白い炎を揺らめかせる。
「同じ口を使うなら、呪文のひとつでも唱えるべきだったわね」
「よもや、それはヘルファイア? なぜエルフの貴様が邪法を使いよる?」
「お婆様はダークエルフの専売特許だと教えてくれたわ」
地獄の炎が瞬く間にバンシィを包み込んだ。
「ギャアアアアアーーーッ!」
さっきのマンドレイクに似た断末魔が木霊する。
しばらくしてヘルファイアの炎は去り、黒焦げのバンシィだけが残された。まだかろうじて息があり、苦しげに呻く。
「あなたも魔宮では死なないんじゃないの?」
「ふ……そうではない。所詮、わらわは『モンスター』なのじゃ」
バンシィの言葉にもはや邪気はなかった。
魔女のステラとて、敵を無駄に苦しめることは好きではない。とどめを刺してやるつもりで、ヘルファイアの炎を呼び戻す。
「今、楽にしてあげるわ」
「……待て。その前にひとつだけ……頼みがある。こんなことを頼める身では、はあ、なかろうが……おぬしなら、きっと」
バンシィは虚空を見詰め、何かに縋るように手を伸ばした。
「この魔宮の謎を解き、わらわたちを解放してくれ」
「約束はできないわ」
「構わぬ。……さらばじゃ、ダークエルフの魔女よ……」
青い炎が彼女の躯を焼き尽くす。
その一ヵ月後――ステラはアリエム王女との一騎打ちに敗れ、勇者の軍門に降った。
それからというもの、彼女は充実した日々を送っている。
「今日は私とマスターと、ティキさんだけですね。お夕飯はいかがなさいますか?」
「そうだなあ……ステラに作ってもらおうかな」
セピア色だった世界に鮮やかな色がついたような心地だった。
「タコ焼きってわかる?」
「いいえ……申し訳ございません」
「気にしないで。じゃあ、一緒に作ろう」
勇者の少年が長身のステラを見上げ、はにかむ。
「僕も焼いたのは一回だけなんだけどさ。文化祭の出し物で」
「お手伝い致します。ふふっ」
この空の支配者には彼こそが相応しい――と、ステラは確信していた。
シュバルティンの魔宮は勝者を絶対的な支配者とする。つまり、たったひとりの聖人君主がいれば、空の平和は約束されるはず。
だからこそ、彼を勝利に導かなくてはならなかった。
ステラは今、喜びの中にいる。
そして運命を感じている。
「それではソルトレイクまで、クレイジーオクトパスを狩りに行って参りますので」
「市場に売ってるタコでいいよ……」
ひとりぼっちで眠ることは、もうなかった。
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