第112話 大聖不動明王伝

 三日ほど一緒に過ごして、わかったことは多い。

 ハインは荒くれ者ではあるものの、意外に博識で色々なことを知っていた。経典の教義にも精通し、梵字も達筆。外見からは信じられないほどの知性に溢れている。

 肉体の鍛錬においても余念がなかった。朝は誰よりも早く起き、日課の身体作りで汗を流す。護衛団の僧兵たちでさえ彼の運動量には追いつけなかった。

 また子どもに対しては穏やかでもある。

「ばいばーい、おじさん!」

「おれぁまだ二十三だ。オジサンなんて歳じゃねえんだぞ? ヘヘッ」

 とりあえず彼が暴力を振るうような場面は一度もなかった。品行方正な僧侶には程遠いが、犯罪者というほど性根の悪い人物でもないらしい。

 ハインがヒミカの容貌をしげしげと見下ろす。

「しっかし……あんた、そんななりで、よく都から身包み剥がされずに来れたのう」

 ヒミカは絢爛な法衣をまとい、金の錫杖を携えていた。誰もが一目でシャガルアの巫女とわかる風体で、旅の道中はあちこちで食事や寝床の提供を受けている。

「御仏の慈愛はみなの心に通じているのですから。賊もいずれは己の所業を恥じ、悔い改めることでしょう」

 しかしヒミカが真摯に信仰を説こうと、破戒僧は鼻で笑った。

「へえー。都の連中はあんたみたいな暢気者ばっかりかい」

「暢気者……とは、どういう意味でしょうか」

「わからんのか? あんた、妖魔大戦はもう終わったとでも思っとるんだろ」

 十年前、大陸の南東部で大事件が勃発している。

 突如として夥しい数の『妖魔』が現れ、シャガルアを脅かしたのだ。辛くも都は侵攻を免れたものの、シャガルアの領土は荒れ放題となってしまった。

 都は天魔ラムーヴァを召喚することで、妖魔の軍勢を鎮圧。この戦いは『妖魔大戦』と呼ばれ、各地に無数の傷跡を残している。

「このあたりはまだ平和なもんさ。だが、もっと東のほうは酷いもんだぜ……さっきのと変わらねえ歳のガキが、素っ裸で物盗りしてんだからな」

 ハインの言葉はあまりに現実離れしており、俄かには信じられなかった。

「そ、そのようなこと……妖魔大戦から、もう十年なのですよ?」

「妖魔大戦だけじゃねえだろ。復興したなんて言えるかい?」

 だが反論もできない。妖魔大戦のあともシャガルアは次々と災厄に見舞われた。

 災害、疫病、そして反乱――シャガルアの支配も今や揺らぎつつあり、遠方には離反を始めた国家もある。

 それだけ『信仰』は力を失っていた。

「ここらでだって金がなけりゃ、食い物も足りてねえ。あんたの綺麗な『おべべ』を売り飛ばしゃあ、みんなが腹いっぱい食えるってのによ」

「……っ!」

「暢気にしてられんのは、あんたらだけさ」

 着慣れたはずの法衣を急に重たく感じる。シャガルアの巫女に相応しい優美な装いが、罪深いものにさえ思えてきた。

「……………」

 押し黙っていると、ハインが坊主頭をぽりぽりと掻く。

「おっと、悪い悪い。別にあんたを苛めるつもりはなかったんだ」

「あ、いえ……勉強になりました」

 錫杖を握り締め、ヒミカは雑念を振り払った。

 ハインが話題を変えようと目を逸らす。

「それにしても殺風景だのぅ。そろそろ田植えの時期のはずなんだが、なあ……」

 一面の田んぼは乾いた土が剥き出しになっていた。水路もすっかり干上がっている。

 農村の男たちは農具も持たず、無念の表情で肩を落としていた。

「何かあったのでしょうか……」

「かもしれん。……よし! おれが一丁、確かめてやろうじゃないか」

 ハインが道着を脱ぎ、護衛の僧兵に無理やり預ける。

「ヒミカ、お前の法衣を貸してくれ。杖もだ」

「え? これを、ですか?」

 首を傾げながらも、ヒミカは豪奢な法衣と錫杖をハインに手渡した。裾の丈はまったく足りないものの、ハインでもそれなりに高僧らしい風貌となる。

「ここで待っておれ」

 彼はにやりと唇を曲げ、農民らに近づいていった。

「失礼。道をお聞きしたいのだが……」

「で、でっかい坊さんだなあ」

 村人はハインの大男ぶりに気圧され、あとずさる。しかし身なりのよさから高位の僧侶と思ったようで、律儀に応じてくれた。

「ところで、何かお困りのご様子……拙僧にもお話くださらんか? なぁに、こんなものは旅の僧の気まぐれ。他言せぬこと、御仏に誓いましょうぞ」

 ハインは恭しい物腰でヒミカの祈りを真似る。

「そうだなあ……坊さんなら、まあ」

「話してどうなることでもねえけどさ。実はここらの領主様が、先週……」

 あらかたの事情を聞き終え、大柄な僧侶はもう一度祈りを捧げた。

「御仏の祝福があらんことを」

「オラたちなんかのためにありがとうごぜえます、お坊さん」

 そして笑いを堪えつつ、ヒミカのもとへ戻ってくる。

「むふふふ……面白くなりそうだぞ、こいつは」

「ハイン殿? 彼らは何と?」

「領主の屋敷へ行くぞ! シャガルアの巫女ご一行として、挨拶もせんとなあ~」

 まっすぐ都へ向かうつもりが、早々に寄り道することになってしまった。

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