第111話 大聖不動明王伝
日のいずる東方の地に争いあり。
百鬼夜行の物の怪が跳梁跋扈、それ魑魅魍魎とひとは言ふ。
妖魔に虐げられしはシャガルアの都、信仰は崩れ、世は乱れるが必定。
そんな折にて、獄中からいでしはひとりの巨漢。
坊主頭をぱしりと叩きて、こう言った。
まずは風呂、それから飯だ!
しばしの間、破戒僧の痛快なる小話にお付き合いを。
語るはシャガルアの巫女にあいなりまする。
御仏の都――そう呼ばれ、繁栄を極めた一大国家があった。
かつて聖者が苛酷な旅の末に訪れ、悟りを開いた土地だという。彼の教えは経典に収められ、やがて信仰を集めるに至った。それこそが御仏の都、シャガルア。
シャガルアは今や大陸東方の三分の一を支配下に置くほどで、その強大さは華皇国にも匹敵する。だが、シャガルアもまた盛者必衰の理から逃れることはできなかった。
十年前の妖魔大戦によって都は疲弊し、近隣諸国の間では反発が広がりつつある。御仏の教えも軽んじられ、ひとびとは次第に心の拠り所を失っていった。
その世を今一度正すべく、シャガルアの巫女ヒミカは法王より勅命を受け、護衛団とともに旅立つ。
そして半月に及ぶ旅の末、とある辺境の獄舎へと辿り着いた。
ヒミカの任務はハインという男を釈放し、シャガルアまで連れ帰ること。保釈金を支払うと、看守らはまるで商人のように揉み手を交え、愛想笑いを引き攣らせた。
「巫女様のご指示とあれば喜んで! どうぞ、どうぞ!」
「こっちだ、ハイン! 正面から出ろというんだ!」
しばらくして熊のような大男が姿を現す。
「ふう~」
坊主頭がつるんと照り返った。無精髭が伸び、強面の人相は山賊のようですらある。
法衣は着崩され、分厚い胸板が肌蹴ていた。大きな手が看守の頭を上から押さえつけ、ぐりぐりと無理やり撫でる。
「世話になったのお、オッサン! ワッハッハッハ!」
「二度と来るなよ? ぶち込まれるような真似は余所でやれ、余所で」
荒くれ者の破戒僧、ハイン。その悪名は今やシャガルアの都まで届いていた。
暴力沙汰や破壊行動は日常茶飯事、先月も米蔵を襲撃し、その場で御用となっている。当然、彼を逮捕するたびに僧兵は総力をあげ、負傷者も続出した。
だが、どこの獄舎も彼を制御できず、王様気分で寝床にされる有様。この獄舎も例外ではなく、釈放はむしろ歓迎された。
「あんたがおれを出してくれたんだってなあ。……なかなか美人じゃねえか」
圧倒されながらも、ヒミカははきはきと自己紹介を始める。
「私はシャガルアの巫女、ヒミカと申します。法王様より命を受け、あなたをシャガルアへお連れすることになりました。一緒に来てください」
法王の、ひいては都の目的はおそらく彼を更生させることだった。問題だらけの破戒僧とはいえ、腕っ節は強く、たったひとりで僧兵十人分の働きをする。妖魔と戦うにあたって、これほどの人物はほかにいないだろう。
「あなたの力が必要なのです。御仏に仕える身なら、なすべきことはおわかりでしょう」
しかしヒミカが真剣に話そうと、ハインは大きな欠伸を噛むだけ。
「ふあぁ……そんなことより、まずは風呂。それから飯だ!」
「……はい? あっ、ハイン殿!」
巨体でずんずんと地を踏み鳴らしながら、勝手に離れていこうとする。
「どこへ行くのです!」
「だから『風呂』だと言ったじゃないか。おれに用があるってんなら、待ってな」
釈放してもらったことに恩など、まるで感じていない様子だった。ヒミカも護衛団も唖然として、追いかけるのを忘れそうになる。
「ま、待ってください! あなたは私とシャガルアへ行くのですよ!」
「おーおー。風呂のあとも憶えてたらな」
投げやりな彼の後ろ姿には一抹の不安を禁じえなかった。
銭湯で一服したら、次は飯屋へ。
ヒミカの持ち金でハインは腹を満たしてしまった。
「ふ~! 食った、食った!」
「ど、どれだけ食べるんですか……」
護衛は煙たがれるため、ヒミカはひとりで彼と相席する。食べる量にも驚かされたが、それ以上に遠慮のなさには、もはや呆れてものも言えなかった。
お茶を飲み干し、ハインはおもむろに席を立つ。
「さあて。そんじゃ、おれはこれで」
「は……? ハイン殿、話を聞いてなかったのですかっ?」
ヒミカはお膳に両手をつき、声を荒らげた。
「法王様がお呼びなのですよ? ハイン殿には一刻も早く都に来ていただきたい、と」
「やれやれ、やかましい嬢ちゃんだなぁ」
「嬢ちゃ……わ、私は十九です!」
子ども扱いも癇に障り、大柄なハインを強気に睨みあげる。
ハインは肩を竦め、どかっと座りなおした。
「まあ聞け。ええと……あんた、名前はなんつったっけ」
「ヒミカです」
「じゃあ、ヒミカ。ちょいと落ち着いて考えてみろ? ここでおれが『力ずくで逃げた』ってことにしちまえば、いいじゃねえか」
思いもよらない提案をされ、ヒミカは目を丸くする。
「……どういう意味ですか?」
「わかんねえやつだな。おれは勝手に逃げた、あんたの責任じゃねえ。……それなら、あんただけでシャガルアに帰ったって説明はつくだろ? 誰もあんたを責めねえさ」
護衛団で連行したところで、この男がおとなしくするはずもなかった。明日には逃走されてしまう気がする。
それをヒミカが止められなかったとしても、当たり前のこと。むしろか弱い巫女に悪名高い大男を運ばせようとする、法王とやらの判断のほうがおかしかった。
「ですが、これは勅で……」
「勅だろーと何だろーと、おれには関係ねえ。あんたももっと賢く生きな」
ハインにしてもヒミカに従う気はさらさらないらしい。
実際、ヒミカも今回の任務には疲れ始めていた。慣れない長旅を強いられ、野宿の際は寝込みを妖魔に襲われたこともある。早く安全な寺院に帰りたい。
(……いいえ、その気持ちは護衛のみなも同じ)
だからといって、法王の命に背くわけにもいかなかった。
勅とはただの命令ではない。全身全霊をもって取り組むべき『使命』なのだ。これを怠慢ゆえに放棄したとなっては、ヒミカは直ちに巫女の資格を剥奪されるだろう。
「そんじゃあな」
「まっ、待ちなさい!」
立ち去ろうとする彼の道着を、ヒミカはしかと掴む。
経典の教えに背くことはしたくなかったが、ほかに手もなかった。
「今回の保釈はまだ『仮』のもの。私と一緒にシャガルアへ来ない限り、あなたはまた追われることになるんですよ? ハイン殿」
「脅しとるつもりか?」
脅迫など、敬虔な巫女がすることではない。それ以前に華奢な女がどう啖呵を切ったところで、彼のような巨漢には涼風に等しかった。
「私たちと都へお越しください」
それでも真剣に見上げてやると、ハインは根負けしたかのように折れる。
「……まあよいか。どうせ行くあてもないんだ、付き合うてやる。三日もすりゃあ、あんたのほうから『消えてくれ』と言うだろうしのぅ」
「そんなこと言いません」
「わかった、わかった。ただし支度くらいはさせてもらうぞ」
かつての聖者と同じくシャガルアを目指して。
巫女と破戒僧の長い旅が始まった。
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