第113話 大聖不動明王伝
ヒミカたちは領主シカログの豪邸を訪れる。
守衛たちはヒミカがシャガルアの巫女と知るや、態度を軟化させた。いそいそと領主に取り次ぎ、屋敷へと招き入れてくれる。
「おれとヒミカだけでいい。おぬしらは外で待っておれ」
またしても護衛の僧兵は遠ざけられ、ヒミカはハインとふたりだけになった。
「先に行ってろ。すぐに行く」
「は、はあ……」
そのハインも一旦離れ、先にヒミカだけ庭へと案内される。
言葉通り破戒僧はそそくさと戻ってきた。
「何をしてたんですか? ハイン殿」
「まあまあ。おれに任せておけ」
中庭の盆栽を眺めながら、領主のシカログを待つ。
農民の話によれば、シカログは最近になって上流貴族から錦鯉を譲り受けたという。しかし日照りが続き、池の水位も下がっていた。これでは鯉が死んでしまう。
そこでシカログは農村の水路に手を加え、自分の屋敷にだけ水が流れるようにしてしまったのだ。そのせいで農民は田植えもできず、途方に暮れている。
ヒミカとしても許し難い所業だった。
「説得でしたら、私が……御仏の慈悲をもってすれば、シカログ殿も改心するでしょう」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。悪党が説法なんざ聞くわけねえだろ」
しばらくして、豪邸の主が縁側に姿を現す。
「よくぞ参られましたなあ、シャガルアの巫女様!」
シカログは歯を見せて笑った。
表向きはヒミカも無難な挨拶で応じる。
「突然の訪問、恐れ入ります。私はシャガルアの巫女ヒミカと申す者」
「いえいえ! 巫女様のお手伝いができるのでしたら、喜んで尽力致しますとも」
ヒミカのような聖職者の一行は、旅先でこのような歓迎を受けることが多々あった。それは無論、相手がのしあがるための伝手を求めてのこと。
シャガルアの巫女を助けたとなれば、箔もつく。
「長旅でお疲れでございましょう。今夜はぜひ我が屋敷でお寛ぎください。もちろん、お付きのかたにもお部屋を用意させますので」
「数々のご厚意、恐れ入ります。御仏もお喜びになりましょう」
そのことには世間知らずのヒミカも気付いていた。だから援助を受けるだけに留め、過度な接待などは断っている。
「ところで、巫女様。我が庭園はいかがですかな?」
シカログは草履を履き、縁側から降りてきた。
客を庭へと案内させたのは、自慢の中庭を披露するためらしい。小太り気味の家主とは打って変わって、庭の造りには繊細な趣向が凝らされている。
噂の錦鯉とやらも池で泳いでいた。
「もとは枯山水だったのですが、鯉を二匹もいただきまして、作り変えたのですよ。我ながら、都のご貴族様にもひけを取らないものと自負しております。ハッハッハ」
何も知らなければ、ヒミカも頷いただろう。
(確かに綺麗だけど……)
しかしこの庭は農民らの生活を犠牲にしていた。たかが鯉のために村の水路を独占し、田んぼを枯れさせている。
その事実を追求するべく、ヒミカは口を開いた。
「シカログ殿。あなたは農家のかたがたのことをご存知で……むぐっ?」
が、ハインの大きな手に口を塞がれる。
「いやあ、見事な庭園ですなあ! 盆栽の枝ぶりも立派ではございませんか」
「ほお! おわかりになりますか? ええと……」
「おっと、申し遅れました、拙僧の名はハイン。ヒミカ様の護衛を務めておりまする」
ハインはにっこりと朗らかな笑みを浮かべ、おべんちゃらを振るった。
「どうですかな? 今夜は拙僧らと一杯。この出会いを一日限りのもので終わらせてしまっては、御仏のお導きを無下にするというものですぞ」
甘い誘いにシカログも乗ってくる。
「ええ、ええ! 私もヒミカ様の説法を拝聴したく思っておりまして」
「ワッハッハ! 話のわかる御仁ですなあ、シカログ殿は!」
早くもふたりは意気投合してしまった。
残念ながら都の僧にも道を外れ、悪徳領主や資産家と癒着するような輩がいる。いたずらに民を苦しめ、自分たちは甘い蜜を吸っているのだ。
『寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。悪党が説法なんざ聞くわけねえだろ』
そのようなこと、本当はヒミカも身をもって思い知らされていた。
(ハイン殿、あなたはどうするつもりで……?)
ハインが急にぶるっと震える。
「……にしても冷えますなあ。どれ、ちょいと厠へ失礼」
「お待ちください。今、案内を……ん?」
しかし彼はシカログに構わず、ずかずかと池の傍へ歩み寄った。そして、あろうことか魔羅(まら)を出し、堂々と粗相を始めたのだ。
じょぼじょぼじょぼ~!
錦鯉は驚き、池の中を逃げまわる。
(……は?)
あまりに奔放な振る舞いにヒミカは度肝を抜かれ、目を点にした。シカログもあんぐりと口を開け、ハインの放水ぶりに唖然とする。
「……………」
家主の前で、屋敷の池に。
ヒミカにとっては『女性の前で』も加わり、時間が凍りつく。
「ふい~っ。さっきの茶がいかんかったの」
魔羅を引っ込め、ハインは次にシカログへと迫った。
シカログははっとし、怒りで顔を赤くする。
「ききっ貴様! なんという狼藉を……ヒミカ様、この男は何者でございますか!」
「わ、私にも何が何だか……」
「ええいっ、曲者じゃあ! であえ! であえ!」
家主の怒号が響き渡る。
しかし衛兵はひとりとして駆けつけてこなかった。
「……どうしたっ? 誰でもいい、こやつをひっ捕らえい!」
「そいつは無理ってもんよぉ、ご領主様。屋敷の連中にはちょいと『おねんね』してもらったんでなあ。実はあんたにお願いがあるんだ」
とうとうハインの手がシカログの首を掴み、力任せに持ちあげる。
「今すぐ水路を元に戻してくれんかのう? 田んぼが干上がってしもうてなー。農民も迷惑しとるんだ、これが」
「はっ、放さんか、貴様! わしを誰だと思っておる?」
爪先立ちの姿勢を強いられ、シカログは苦悶した。
「ん~? あんた、ご自分の立場ってのが、まだわかってねえみたいだなァ」
それでもなおハインは容赦せず、彼を逆さまに持ち替える。
そして彼の頭を、小便臭い池にどぼん。
「おわっぶ? へぶ、ごぼぼっ!」
「聞こえてっか? 水路を戻してくれっちゅう話よ。それ、もう一回!」
二度、三度と繰り返し、シカログを拷問する。
「おげえっ、やめ……こんなんで、えぶぅ、話ができるひゃっ!」
「あんたが独り占めした水だろーが。ほうれ、もっと飲め」
ヒミカは我に返り、慌てて制止に入った。
「お、お待ちなさい、ハイン殿! やり過ぎです!」
「まあ見ておれ。どうだ、シカログ? このままじゃ小便なんぞで溺れ死ぬぞ?」
ようやく池から頭を引き抜かれ、シカログは激しく咳き込む。
「ゲホッ! ゴホ! よ、よくもわしに……先生っ! コーマ先生ぇ~!」
不意に奇妙な影が庭を横切った。
それを見上げ、ヒミカはまさかと顔を強張らせる。
「なっ……よ、妖魔?」
屋根の上にはひとりの妖魔が佇んでいた。羽根を広げ、居丈高に声を響かせる。
「情けないやつめ、シカログ。……まあよい。こいつはオレ自ら葬ってやるとしよう」
人間と同等の知恵を有し、妖術に長ける魔の一族。妖魔大戦を引き起こした悪鬼が、シカログと結託していたようだった。
ヒミカは錫杖を掲げ、退魔の札を指に挟む。
「さてはあなたがシカログ殿を唆したのですねっ? 許しません!」
「フン。小娘の分際で勇ましいではないか」
それをコーマは涼しい顔で流し、屋根から降りてきた。
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