この場所からもう一度

高野ザンク

車窓から海は見えない

 外房線なんて名前がついていると、車窓から見える海を期待するけれど、上総一ノ宮駅までは内陸を走るので残念ながら海は見えない。


 向かい合わせの座席には5才ぐらいの男の子を連れた母子が座っている。さっきまでは母親を質問攻めにしていたけれど、喋り疲れたのか今はおとなしく眠っている。こういう光景を見ると子供がほしいなと思う。そういう話を正樹ともするけれど今は難しい。心の問題というより、物理的な問題だ。いや、心の問題なのかもしれないなと、これといって特徴のないローカルな景色を眺めながら思い直す。



 正樹は今、セブ島にいる。フィリピンは東南アジアで一番新型コロナの感染者を出したというのに、どうものんびりした様子でいる。

「飛行機はもう飛んでるんでしょ。帰ってこないの?」

「日本だって似たようなもんだろ。なら、こっちで稼いだほうがいいような気がする。どうせ今、仕事ないんだろ?」

 その通りだ。海外取引の多い商社である私の会社はパンデミック世界的感染爆発のせいで、3月から仕事はめっきり減り、4月からはテレワークという名の自宅待機になった。6月に職場復帰したものの、取引先の不渡りや倒産などがあって前ほど仕事はない。このままだとリストラ、下手をすれば倒産も現実味を帯びてきて、私も今後の身の振り方を考えたりしている。

 正樹は私と同じ商社で働いていたが、2年前にフィリピンに転勤になり、そちらが相当気に入ったらしく、半年後に仕事を辞め現地で飲食店を起業してしまった。私には事後報告。

 仕送り額が増えたからいいだろ?と言っていたけれど、そういうことではないだろう。

「まあ、これまで通りきちんと仕送りできるから心配すんな。秋ぐらいには一旦帰るよ」

 嘘でもいいから「こっちに来たら」と言ってくれてもいいのに、と思う。とはいえ、そういう人じゃないことは十分わかって結婚したのだけれど。それに、行ってはいけない気配もちゃんとわかってはいるのだ。



 駅を降りると、幼馴染の耕太が車で迎えに来てくれていた。

「久しぶりだねー、美郷」

「春に会ったばっかりじゃない」

「あの時はすぐ帰っちゃったろう。それに葬式やら何やらで忙しかったから、会った実感がないんだよな」

 3月に父が亡くなった。葬儀のために私は一旦この町に帰ってきた。父の死因は新型コロナではない。去年に癌で余命宣告を受けていたので、別れは覚悟はしていた。身内とごくわずかのご近所さんだけで式を済ませて、私はすぐに東京へ帰った。

 外出自粛で四十九日の法要には帰れなかった(私は帰ろうとしたけれど母から固辞された)。7月に入り、新盆には少し早いが、母のことが少し心配だったのでこの時期に里帰りをすることにした。父と母は決して仲の良い夫婦ではなかったけれど、35年も連れ添った相手がいなくなって弱気になっているのではと思ったのだ。


 国道を進んでも海は見えない。でも開け放した窓から、海の匂いは少し漂ってくる。故郷に帰ってきた感じが一気にしてきた。東京からたかだか2時間なのに、すごく遠くにいる気がする。

「海が見たいな」

「おお、じゃあ後で行こうか」

 耕太はいつも返事が早い。親同士仲が良かったので、私と耕太は小さいときから一緒だった。九十九里の海にもよく行った。

 小学校4年の夏。浜辺で「大きくなったらみさとちゃんと結こんするからね」と言われたのをはっきりと覚えている。自分の返事は覚えていない。仲良しでずっと一緒にいた男の子の素直な気持ちは嬉しかった。でも約束は果たされず、中学に入ってからはお互い別の友達ができて、そして別の恋愛をした。大学生になって東京で独り暮らしを始めてからは、盆と正月に顔を合わせる程度になってしまった。

 あの約束からもう20年になろうとしている。


 自宅は春に帰ってきたときとさほど変わっていなかった。線香の匂いもそのままだ。

 私はまず仏壇に手を合わせて父に挨拶をし、母の様子を伺った。思ったより顔色がよくてホッとしたが、すこし痩せたようなのが気になる。

「いつかいつかと思ってたけど、まさかこういう、人が集まれないような時に逝くとはねえ」

 もっとも、大袈裟なことをするのも、そして人付き合いも得意でない父にとっては、それで良かったような気もする。

「正樹がまだ日本に帰れないから、連れてこれなくてゴメンね」

「そうね。正樹さん、フィリピンだっけ?あなたも独りじゃ心細いだろうけどね。慣れると気楽なものよ」

 そういって母は笑った。


 孫を見せてあげたら元気になるのかな、とふと思う。子供を産む、というのはそういうことじゃないんだろうけれど、ここ3か月ほどの「緊急事態」を超えて、私自身、それは父と母の命を繋ぐようなことなんじゃないかなと思うようになってきたのだ。それですべてが解決するような簡単なことじゃないのに。


 墓参りは明日にしようということになり、私は耕太に声をかけて海へ連れて行ってもらうことにした。

 母はむしろ、私が自分といるよりも耕太と一緒にいることを喜んでいるようにも見えた。ひとりになってしまった母を耕太はずいぶんと面倒見てくれたらしい。母にとっては、男手として、そして息子代わりとして大切な存在なんだろう。



 海沿いの道を走ると所々にサーフィンの看板が目についた。そういえば、今年ここはオリンピックのサーフィン会場になるはずだったのだ。開催されれば随分と賑わっていただろうに。平日だからか、あるいはウイルスの第二波が来ると言われているからか、今は地元の人がちらほらと歩いている程度だ。

「オリンピック残念だったね」

「ああ、そうだな」

 耕太はそっけない返事をした。

「耕ちゃんはサーフィン、まだやってるの?」

「おう、バリバリだよ」

 そういうと白い歯をニッと見せて笑った。日焼け具合や逞しい風貌からすると相当の波乗りに見えるが、耕太はサーフィンが上手くはない。ただ、面倒見がよいので、地元のサーフィン会のリーダーのような役割としていると聞いたことがある。きっとオリンピックが始まったら、色々と活躍する場があったはずだ。


 

 浜辺に降りても、人はまばらだった。午後5時だが日はまだ高い。


 夏だ。


 今年もちゃんとここに夏はある。


 水際に行って波に足を入れてみたりして、私たちはただただ時間を過ごした。

 ふと、ここは耕太が私にをしてみせた場所だと思い出す。

「ねえ、耕ちゃん、昔ここでした約束覚えてる?」

「ああ、あれねえ。覚えてるよ」

 耕太はまだ結婚していない。

「もしかして、まだそれを守ってるわけ?」

 冗談で、でも少し本気で訊ねてみる。

「そんなわけないだろ」

 照れくさそうに耕太が答えた。

「ここにずっといるとさ、正直、そんなに出会いなんてないもんなんだよ」

 それは事実かもしれない。でも別に過疎化が進んだ町ではない。誰かひとりぐらい良い人がいたってよいだろうに。


「ねえ、あの約束ってまだ有効かな?」

「馬鹿だなあ、約束に期限なんかないよ」

 耕太は私越しに海を眺めながら言った。


「でも、大人になって、守れるかわからない約束するなんて無責任だろ」


 そうだ。子どもだからできた他愛のない約束。実現性のない夢みたいな約束。でもそれをどこかで私はよすがにして、あるいは逃げ場にしてきたのかもしれない。


 気がつけば、あたりはだんだんと暗くなり始めた。私たちは黙って、暮れていく海と波を見つめていた。



 家に帰ると、母が、アジフライとままかりという私の好物を夕食に用意してくれていた。

 動物の生態を映すテレビをぼんやり見ていたら、急に画面が会見場に切り替わった。どうやら再度緊急事態宣言が出るらしい。「不要不急の外出を自粛してください」と3か月前と同じ口調で首相が訴えた。

「また、身動きを取るのが難しくなるわね」

 そう言いながらもこの町で暮らす母にはあまり関係のない様子でもあった。


「私、明日お墓参りしたらそのまま帰るね」

 アジフライを頬張りながら言うと、母は残念そうな顔をした。本当ならもう一泊するはずだったのだ。

「でも、また来月。新盆にはちゃんと帰ってくるから。約束だから」

 そのままこっちで暮らすかも。という言葉が出かかったけれど飲み込んだ。大の大人が、守れるかわからない約束をするなんて無責任だ。

 なんだか決意した物言いになってしまったからか、母は私の顔をじっと見て、それからゆっくり微笑んだ。その表情は今日見た中で、一番嬉しそうだった。



 翌日、私と母と耕太で、午前中に墓参りを済ませた。ファミレスで昼食を食べて母を家まで送ると、そのまま耕太の車で駅まで送ってもらった。

「宣言が出たからって、今日帰ることないのに。またいつ戻ってこれるかわからんぞ」

 耕太が少し残念そうだったのが、正直嬉しかった。

「ううん、来月必ず帰ってくる。そのためには今は一旦東京に早く戻りたい」

 そう。東京に戻って、色々と蹴りをつけたくなったのだ。仕事も、正樹のことも、そして私のこれからも。

 ありがたいことに私には戻る家がある。そして戻る自由も戻らない自由も。今は正直どちらがいいのかわからない。でも、ここにそういう場所があることに気づいた今、なにもかもが東京に置いてあることに居ても立っても居られなくなったのだ。


 駅で車を降りて、耕太に問いかけた。

「ねえ、今度私が戻ってきたら、これからのこと一緒に考えてくれる?」

「ああ、いいよ。考えよう」

 耕太はいつも返事が早い。私たちはお互いを見合って笑った。



 帰りの外房線も当然のように海は見えない。

 ただ車窓から見える町並みの奥に、海はある。それは私の海だ。そう思うだけで心強かった。


 (休みだからいいよね)と呟いて、缶チューハイを開ける。昼から飲むお酒は酔う。でも今のこの酔いはアルコールのせいなのだろうか、昂ぶった気持ちのせいなのだろうか。いずれにしても気分がいいから、それでいいか。

 

 私は海の見えない車窓に海を感じながら、一人微睡まどろんでいた。



(了)

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