八 ゆめをみた
「ぎゃゃゃゃゃゃやややややややややややややゃゃゃゃっっっっっっっっっっっっっっっっ!!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬっっっっっっっっっっっっっっ!!!」
「あははは、大げさだなあ。りせは」
能天気に笑う顔を思いきり殴りつけてやりたいが、生憎両手が塞がっているのでそれも叶わない。というか死んでも離せない。離したら死ぬ。
『―――――――――ッ!』
竜の咆哮が震える胴を通じて感じた。心なしか嬉しそうである。
野分の如き風が顔をのべつ幕無しに吹き付け、息をすることもできない。しかし、それよりも辛いのは強烈な力で臓腑が内側から地面に引っ張られるような何とも形容しがたい不快感。吐きそうになるが、吐こうとしているものがたちまち中に引っ込んでしまう。
私たちは山寺少佐が置いていった竜の背に跨っていた。
時雨が言うにはこの竜は魔法の加護が施されており、周囲から見られることもなければ声を聞かれることもないという。
だから、ほとぼりが覚めるまで待つにはこれ以上ない方法だと言うのだが…………。
「だから、大丈夫だって。身体はちゃんと綱で縛っているから落ちることは絶対にないから。それに寒くもないし、息はおろかこうして話だってできる」
そうは言っても怖いものは怖いのだから仕方がない。伏し目がちにしているので自然と下の景色が視界に流れこんでくる。急速に小さくなる境内にふっと意識が遠のきかけた。
こうなると紗那が羨ましい。紗那は眠りの魔法が未だ解けておらず、鞍の後ろに全身を二重三重に拘束されている。安らかな寝顔でまさか自分が天空の彼方にいるとは夢にも思っていないだろう。
「着いたよ」
頭ごしに風が止むのを感じた。
「見てごらん。すごい景色だよ」
恐る恐る頭を上げると手綱を握る時雨の後ろ姿が見えた。その視線の先に目を向けると思わず息を呑んだ。これは確かに――――すごい。
「なんてきれいなの」
視界いっぱいに広がる
「うん、きれいだ」
眩しそうに目を細めると時雨はしみじみと言った。朝日を浴びた横顔はよく見れば傷だらけだった。青痣と擦り傷が顔のあちらこちらにあるだけでなく、氷の息を浴びたせいであろう赤黒い凍傷が額の隅や顎の先にあった。全身に目を向ければ袈裟の向きに破れた刀傷が見えた。傷の周囲は黒い染みになり、他も一夜で十年経ってしまったかのよう有様だった。
「時雨、辛くないの?」
「…………えっ?」
振り向いた顔は質問の意をわからず呆気に取られていた。自分でもなぜ「痛いか」ではなく「辛いか」と尋ねたかわからない。ただ、そのことを考えたとき少佐の前で見せたあのひどく辛そうな顔が浮かんだ。あれは私の知らない時雨の顔だった。
「…………辛くないと言えば嘘になる、かな」
その目を私はよく知っている。
あれは旅籠に泊まる旅人たちが見せる目だ。長い長い山道を通り抜けた果てに、ようやくつかの間の休息を得た彼らの疲れ果てた目。それは酒でどんな愉快に騒ごうとも決して晴れることはない、人に刻まれた年輪のようなものだ。
そして、時雨という少年から最も遠いところにあるはずのもの。
「後悔しているの?」
まただ。また私は似合わない言葉を使った。後悔という言葉の持つ意味は正直なところよくわかっていない。失敗ばかりの毎日だけど、時が戻ってほしいと思うようなことはまだなかった。
「…………僕は」
時雨が何と答えようと私は「帰ってきなよ」と答えるつもりだった。私の中にある私の知らない私がそう答えようとしている。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ
突然、今まで聞いたことのない音が空気を切り裂いた。ビクッとすると時雨と顔を見合わす。あれだけ何でも知っていた時雨が初めて困惑の色を見せた。
「…………何? 雷?」
「わからない。何だろう?」
キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィン
再び耳をつんざくような大きな音が鳴る。音の響く間隔がさっきよりも短い。私は怖くなって、時雨の腕をぎゅっと掴んだ。しかし、時雨は何も答えてくれない。それどころか、掴んだ腕は力なく垂れ下がり、いくら揺すっても何の反応もない。
「ねえ、時雨」
「…………―――だ」
「えっ?」
時雨は惚けた顔で
「時雨!」
「…………まさか、見られるなんて」
魂が抜けたような言葉が漏れる。その顔はもう今にも泣きそうだった。
私は腕を揺するのを止めて心なしか少し苛立ちながら時雨の視線の先を追う。山々の向こうの先、空と山の境に何やらきらきらしたものが見える。
「あの、山の上にぼんやり青く輝くものは何?」
「海だよ。あの先に大陸がある」
「あれが…………海?」
生まれて初めて見る海は空と混じりあっていた。
どこまでも広く、どこまでも遠いはずのそれは私にとって空と変わりない。
時雨がゆっくりとした動きで海を指さした。すると何やら白いものが刻一刻と大きくなってくるのが見えた。まさか、
「『
「あれが?」
気がつけば白い染みに過ぎなかったそれらは翼を広げた鳥の形となり、山肌を滑るように悠々と舞っていた。美しい鳥だった。広げた翼は絵師の優れた筆で描かれたように優美で羽は新雪のように輝いている。
「もうほとんど残っていないんだ。あの海の向こうの繁殖地が長い領土戦争に巻き込まれたせいでね。もうあと何年もしないうちにあの姿は二度と見られなくなる」
時雨は最後の一羽が見えなくなった後も山々の先を見つめていた。まるで目に見えない幻を追うかのように。曇っていた紫の瞳に光が宿り始める。より多くの空気が欲しいのか、自然と口元は微笑むように薄く開き始めた。どくんどくんと脈打つ胸の鼓動が聞こえるかのよう。そして、元々紅い髪は今や陽の光に反射して、燃えているかの如く輝いている。
時雨。私のよく知っている時雨。遠い世界を夢見る、純白の心を持った少年。熱い想いを滾らせ、今にもその背中に羽が生えて飛んでいきそう。
「よかったね」
涙が頬を伝う。嬉しいのに哀しかった。
「白鳥を見るのが時雨の夢だったものね」
「…………うん。夢を叶えたんだ」
溢れ出した感情をぐっと堪えるかのように呟くと手元にある神祖の剣を握りしめた。燐光が鞘から漏れ出すと奇跡の続きはまだかと応える。
「時雨の次の夢を聞かせてよ。次は何を追いかけるの?」
「僕の次の夢…………」
時雨の全身から湯気のような何かが立ち上り始めていた。
あの白い糸だった。白い糸は「
「りせ! 僕は…………」
時雨は何を言うべきか逡巡していたが、なかなか言葉にならない。
「君は、君たちは未来で…………」
意識が遠くなるのを必死に抵抗しているその姿がなぜだかとても愛おしくて―――
私はその背中にそっと手を置くと言った。
「がんばれ、時雨。私はあなたをずっと見ているから」
時雨はハッとして表情を浮かべるとやがて泣き笑いを浮かべた。
「りせ、ありがとう。頑張るから。もう一度また彼方を目指すから―――」
白い糸は空に一つの形を作り出す。
白鳥だった。
もう時雨の意識は無く、その鳥を見ることは叶わない。
白鳥は一度だけ私と私に凭れかかった少年に首を向けた後、天空を翔けた。
海と空のさらに遠くの彼方へ向かって―――。
「…………さて、私たちはこのまま無事に地上に下りられるのかね」
思い出したように阿呆の頭をはたくが、乾いた音がするばかり。少年はその身を灰色の衣に
包まれ、未だ目が覚める気配はない。
「ちゃんと起こしたからね。それでも寝ているあんたが悪いんだから」
そう、私たちは夢をみている。
真実はすべて夢の中に埋もれてしまった。
ゆっくりと下降を始めた竜の背に顔を埋めると村がちらりと見えた。山の片隅にあるちっぽけな村は未だ夜の闇に沈み、村人たちは華胥の夢の中にいる。
ゆめをみた。
彼方を目指して再び走り出した少年のゆめを。
少年は彼方の果てを翔ける 希依 @hopedependism
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