七 死闘
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち…………。
突然、場違いな音がしたかと思うと時雨の姿が消えた。
音は鳴りやまない。これは手拍子、だろうか? それがどんどん大きくなっていく。
音の大きさがある程度を超えると今度は強烈な風が吹き付けてきた。風は地吹雪となり、目も開けていられない。それでも腕の隙間からなんとか境内の様子を窺う。
「―――!?」
これは夢だ。
私は悪夢を見ているのだ。
そう、思いたかった。
「まったくこれは悪夢だな。まさか公国本土で学んだ俊英たちがこのような地の果てで誰に知られることもなく斃れるとは。皇帝陛下が知ったらさぞお嘆きになろう」
身体が特別大きくもなければ小さくもない男だった。先ほどの男の方がよほど兵士としての風格が備わっていただろう。その男は特別分厚い外套を身に着け、顔の半分を覆うほど大きい眼鏡を帽子越しにつけていた。
しかし、そんなことはどうでもいいことだった。
大木のような胴、馬を丸呑みできそうな首、境内の端まで届きそうな巨大な翼。そして、人など簡単に噛み殺せるであろう顎。
なぜ―――
皇帝陛下の御為にのみ
『―――――――――っ!!!』
大蛇(おろち)のような首が擡げると竜が吠えた。身を竦めるが、山向こうまで聞こえるはずの咆哮がなぜか聞こえない。あまりに大きすぎて耳が壊れたかと思ったがそうではなかった。
「空の上から君の戦い振りを見物させてもらったよ。共和国の者か、またそうではない者か。いずれにせよ素晴らしい強さだ」
パン、パン、パン、乾いた音が向こう側から聞こえたかと思うと黄色い光の線が鞍上に殺到した。しかし、男の面に至った弾丸はことごとく薄緑色の煙となって消えてしまった。
「無駄なことはやめたまえ」
そう言いながら男は両腕を芝居めいた仕草で広げた。その間も弾丸の雨は止まない。
「君が
弾丸の雨がぱたりと止んだ。
「うむ、いい判断だ。
男は口元を歪めると竜の頭に手を乗せた。竜が燐光で輝きだす。
「そして、
竜の全身が大きく膨らむと羽という羽が逆立った。そして、その反動で急速に萎み出すと同時に大きく開かれた顎から何かが噴き出した。
「時雨!」
それは氷の息だった。いや、息というそんな生易しいものではない。全てを凍てつかせるそれは境内の樹という樹を一瞬にして樹氷へと変えていく。
絶望で目の前が真っ暗になりかけたとき、宙を影が矢のように横切った。
鈍い金属音が響くが、やはり薄緑色の光とともに弾かれる。
「…………子供?」
訝しむ声とともに竜の動きが止まった。
「ふむ、ますます興味深い」
男が指を鳴らすと境内一体が不思議な静寂に包まれ、会話の一言一句が鮮明に聞こえるようになった。
「君は何者だね?」
「参ったな…………
時雨の声がはっきり聞こえる。でも、変な声だ。時雨の声に重ねるように別の男の人が合わせているような。
「貴様、何を言っている?」
「別に。単に呆れただけだ。まさか環の国に聞こえし帝国陸軍が山賊に身を落としていたとは。皇帝の権勢はこの頃から失墜していたというわけか」
「ふん、都の操り人形などは元々我らの皇帝陛下ではない…………そうか、操り人形か。貴様の正体にも貴様の使うその
再び竜が燐光で輝きだすと氷の息が吐きだされる。今度のは小さく、小刻みに、そして、より重く。息が吐かれる度に境内に穴が穿たれた。
時雨はそれらを天狗のような動きでひらりと躱すとサーベルが男の首を薙ぎ払う。
「くっ、やっぱり駄目か!」
「足りない、足りない、足りない」
自分に酔いしれた口調で男はそう言うと指を横に振った。
「私の首を落とすにはそのサーベルでは速さも、切れ味も、力も何もかもが足りない! 全く物足りない。君も
男の言葉を聞いて、張り詰めていた全身の緊張がふっと緩むのを感じた。
そして、気がつけば本殿に向かって走り出していた。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い―――。
あの時雨が私の知っている時雨じゃないことはいくら馬鹿な私でもわかる。
それでも、時雨が死んでしまうのはもっと嫌だ。
だから、私が助けなきゃ。
時雨はこんなところで死んじゃいけない。
時雨はどこまでも遠い彼方に行くことができる人間なんだから!
本殿の扉の前に立つと肺腑が焼けついていた。目をぎゅっと瞑ると腰紐の袋に手を伸ばす。「神祖陛下! どうか」藁をもつかむ気持ちで袋の中に指を這わせた。
「…………そ、そんな!?」
しかし、祈りは届かなかった。袋に入れていたはずの鍵は消えていた。予想はしていたが、私たちが眠りこけていたときに時雨が既に取り出していたのだろう。
どうして、どうしてこんな無情な。普段の敬いが足りなかった? 儀を退屈だと思い、うとうとしていたから?
お腹がぎゅっと痛くなり、泣き出しそうになりながら尚も諦めきれず袋の中を探しているとふと硬いものが触れて歓喜の声をあげた。だが、それもすぐに失望に変わる。硬いのは袋の外だ。持ってきたところでどうにかなるわけではないが、それでも護身用にと持ってきた使い古した手斧であった……………………うん?
もしかしてこれを使えばいいのではないか?
しかし、扉を破れば私が山賊になるのでは、とちらりと思いもしたが、幼馴染の危機にそんなことは当然構ってなどいられない。これも民にお優しい神祖陛下の賜物と深く感謝すると斧を構えた。古くなった扉は冬籠りの前に行った薪と比べれば豆腐のようなものでしかなく、あっさり子供一人通れる分の穴ができあがる。
本殿の中は暗くて何がどこにあるかまるでわからない。火種を探すわけにもいかず、私は外から漏れる僅かな光を頼りに手に触れられるものを片っ端から検分していった。中には錠がついたものもあったが、扉同様斧で叩き割った。
「あった!…………でも」
脇間と思しき所で剣、のようなものをようやく手にできたが、これは違うと思った。似たようなものがすぐ近くにあったし、何より重さがある。きっと儀式で使う宝剣の類だろう。
―――だが、重さのない剣なんて本当にあり得るのだろうか?
私は御伽話に幼馴染の命を託しているのではないか、なぜ大人たちに助けを呼びにいかなかったのか? 焦燥は高まり、闇に伸ばす手は空を切る。
何もかもが絶望に塗り固められたとき、ついに本殿の最奥に辿り着いた。扉から届く光は小さな星のように小さく、いよいよここで見つからなければ打つ手が無くなる。
今一度祈りを込めて壁に手を伸ばす。
何かが手に触れた。
「…………風?」
不思議な感触だった。空気の流れに手を当てているような。実体を感じるのにそこには何もない。意を決してそれを掴むと蛍光が闇のなかで輝いた。
「時雨、これを使って!」
投げる。
本殿からここまでの記憶は一切ない。気がつけば私はそれを投げていた。
時雨が振り向くのが見えた。驚いていた。けれど、それはすぐに喜色に満ちる。
『―――――――――ッ!!』
竜はその僅かな隙を見逃さなかった。顎が開くと声のない咆哮とともに冷たく輝く息を吹きかける。白い氷の幕が時雨の身体を覆いつくす。
「馬鹿な!?」
一陣の風が吹いた。
旋風となった風は吹雪を巻き込むとそのまま
「――――十年越しの夢をやっと叶えることができた」
時雨は手にした剣を感慨深げに見つめていた。
刃の長さは一尺ほどでそれほど長いわけでない。刀身が針のようにまっすぐ伸びていて、後の時代に武士たちが使う刀とは明らかに形状が異なる。そして、何より特徴的なのは形容しがたい刃の色だった。限りなく白に近い白銀で今は僅かに射した曙光を受けて東雲色に染まっていた。
「
「そ、それを渡せ。卑しき鉄を使う者に古代樹の剣を持つ資格など…………」
男の手が時雨の足首を掴んでいた。全身の骨という骨が折れているのだろう。男が息をするたびにぜいぜいと喘ぎ、血が氷の上に零れる。
「黒幕はあなた、だったのか…………」
男の眼鏡がぱきりと音をたてると鼻筋を境に左右に割れた。その顔を見てハッとした。鋭い一重の瞼、それ以外は特徴らしい特徴のない顔、そして、忘れられない血潮の臭い。
「君は…………あの宿の少年、か?」
山寺少佐の顔に旧懐を含んだ笑いが浮かぶ。それはこの場にひどく似つかわしくなかった。
「昨年の冬は君には大変世話になった。それにしても一年で大きくなったなあ」
時雨が少佐、当時は中尉の世話を献身的に行っていたことを思い出す。やがて、中尉が回復すると二人はすっかり意気投合し、時雨は中尉の海外留学の話をせがむように毎日聞きに行っていた。その当時、部屋の近くを通ると二人の笑い声がよく聞こえてきたものだ。
「懐かしいなあ。雪に閉ざされた宿の中で君と話した時間は本当に楽しかった。山を下りて軍に入る決心はついたか? 君は海軍兵学校を志望していたな。私は陸軍だが、海はいいぞ。水平線を見ると私ぐらいの歳でも胸がときめく」
時雨が軍に? 初めて知る事実に胸がざわつき、時雨の横顔を窺う。しかし、その表情は全く異なる意味で裏切られた。
―――時雨。あなた、なんて顔をしているの?
何かが痛むかのように唇の端は歪み、両眉の間には深い谷。そして、仰向けに倒れる男を見下ろす紫の瞳は曇り、あの輝くような輝きはすっかり失われていた。
「僕は、僕は…………あなたのせいで…………」
苦みに満ちた声が呟かれると剣を持つ手が震えだす。
「少年、その剣を渡しなさい。君はどのような経緯でここに至ったのかを私が知らないように君も私たちのことを知らないはずだ。これは国家の大きな意思なのだ。君はまだ若い。今一度国家にその身を捧げ、その若々しい心をもって大いなる大海に乗り出すのだ」
「僕は馬鹿だった」
「…………な、に?」
「己の器を弁えず、自分が世界を変えられる人間だと思っていた。そして、あんたたちのような大人の口車に乗って、散々利用されて、結局後悔しか残らなかった。彼方なんてどこにもない。単に遠いか近いかの違いだけだ。昔の僕はそれを全くわかってなかった」
時雨が剣を振り下ろす瞬間、私は時雨の身体を抱きしめていた。
「駄目っ、時雨!」
耳のすぐ近くで歯軋りが聞こえたが、すぐにそれも消えるとやがて力がふっと緩む。そして、時雨は私の背中に腕を回すと涙よりも温かいものが二人の身体を包んだ。
「ねえ?」
「…………なに?」
「あの人を逃がしてもいいの?」
時雨は腕を解くと僅かに目の端を拭った。
「大丈夫だよ」
山寺少佐は足を引き釣りながら玉垣の崩れた隙間にその身を隠そうとしていた。
「あの人は無駄なことはしない。そういう人たちなんだ」
それに―――とその先の言葉が風で掻き消える。「この先二度と会うことがないから」、そう聞こえたような気がした。
「それよりも逃げよう。後詰めの部隊が来るはずだ。少佐はともかく彼らの身体はさすがに自然にどうにかなるわけじゃないからね」
境内はひどい有様だった。樹氷は折れ、玉垣は所々崩れ落ち、穴だらけの地面は雪の下から凍結した地肌が覗いている。そして、その所々に兵士たちが五つ横たわっていた。
「…………死んでいるの?」
時雨はかぶりを振った。確かによく見ると僅かに胸の辺りが動いている。
「自動治癒の魔法が施されているから簡単には死ねないよ。彼らを殺さなくて…………本当に良かった。まだこの僕は―――」
それからほんの少し時雨は黙った。
「早く行こう。急がないと」
「行くってどこへ?」
私がそう言うと時雨は笑った。
いたずら心を隠しきれないような、いつまでたっても幼さを残すあの笑顔で。
「彼方の向こうさ」
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