第21話 凋落 その四

 「旦那、故郷で人をお斬りなすって逃げてきたんでしょ。一人斬るも、二人斬るも一緒ですよ」

 ――お前の無為むいを産んだ過去を払拭せよ。お主が正しいと思うことのために戦うのだ。

 伊織いおり手酌てじゃくでぐい吞みに酒を注いだ。

 ――また逃げるのか。だまされたっていいじゃないか。だまされたなら、死ねば良い。

 内なる声と、それを打ち消したいという意思がせめぎ合っていた。

 ぐい吞みを持つ手が止まった。視線はあらぬ方向にある。

 ――また後悔するぞ。なにもしなければ、また後悔するぞ。

 勘蔵かんぞうを見ると、やつはギラギラしたいやらしい目をして見ていた。

 酒をぐっと呑み干して、ぐい吞みを膳に叩きつけた。

 ――気に入らないものはみな斬りつけろ。お前のことなんて誰も見ていない。誰も見ていないのが心地よいか。悔しくないのか。すべての視線をお前に向けろ。いじけるな。いじけていいことなんて何もないぞ。

 立ち上がろうという意思が湧くのだが、身体が動かない。

 伊織の気持ちを見透かしたように、勘蔵が伊織の肩を抱いた。見ると、肩に真っ黒に日に焼けた手の甲が見えた。爪先はヤニで真っ黒だった。

「まあまあ待ちなせえよ。話は最後まで聞くもんですよ。まさかタダでやってくれなんて言いませんよ。アッシに裏でね、こういうことをやってくれって頼む御仁というのがいるんですよ。名前は勘弁してくださいよ。その御仁が五十両出そうってんですよ。今のあなたには喉から手が出るくらいほしい物でしょ。逃げるのにも金が要る」

 逃げる必要はないのだが、どうせ信じぬものに真実を告げても意味がない。それはここに来てから嫌というほど思い知った。身に染みているのである。

 ただ生きていくには金が要る。借財を返すにも金が要る。勘蔵の言うとおり、逐電するにも金が要るのである。

 返事をどうするか思案するように腕を組んでいるようでいて、伊織は必死に思い出していた。故郷と袂を分かったあのときも今のように内なる声に従った結果が今のような気がしないでもないからだ。あのときは「逃げろ」と誰かがささやいた。

 考えていても、何もまとまらなかった

 物事はいつでもそうだ。飲み込めば確実にヤバいことになることは自明なのに、事態は向こうの方から飲み込みやすくなってケツかる。

「旦那負けが込んでるんでしょ。それだって帳消しにしますぜ」

 勘蔵の言葉はトコロテンのようでツルリと飲み込みやすい。

「その上に五十両乗せようってんだ。何が不満なんで」

 後悔は先に立たないが、もうやらないで後悔するのは嫌だ。動かないことに対して、恐怖があった。

「で、誰を斬ればいい」

 伊織は苦虫をかみつぶしたような顔で聞いた。腕組みはしたままだ。

「益屋嘉右衛門って、チンケな野郎で」

 旦那の腕なら造作もないですよ。

 そう言われて伊織は盛大に舌打ちした。

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