第18話 凋落 その一

 そのまますべてを捨てたのである。

 幸い、伊織いおりには弟がいた。

 弟に父の代からの少ない田畑を継がせた。母の世話も任せた。というよりも任せるよりほかなかった。

 家を出る前日の夜、母と弟を前に余さず事情を打ち明けた。

「なんてこと。わたくしはあの男のせいで苦労しきりだったのです。その上、お前にまで苦労をかけて。わたくしは反対したのです。太平の世に剣術などしても、さして役に立ちませぬ、と。あの男は聞き分けが悪くてね。二言目には『もののふ』などと言って。見栄なんかはっても仕方がないのに。これからどうするの」

「なにも決めておりませぬ。なにせ師の行動が急だった故に」

「そうでしょうね」

 弟はまだ十にもならない。細かなことは理解できないようで、呆けた顔をして聞いていた。だが、なにかが切迫しているということは感じていて、大人しくしている。

「あとは任せたぞ」

 と言うと、少しだけ笑顔になって、弟は頷いた。

 そんな息子の姿を見て、母は泣いた。

 始めのころは実家からの援助もあった。

 その金で諸国を回り、剣術道場を建てた。建てたのは下総の大野村であった。

 近くの江戸川の渡しには関所があった。

 そこを通れば御府内である。伊織は免状を持参しているので、通ることもできる。だが、あえてしなかった。敵に遭ってしまうのが怖かったのだ。どんなに自分に利があっても、相手だって死にたくない。窮した者の本気を馬鹿にはできない。

 大野村の近郷の者と親しくしているうちに、師弟に剣術を学ばせたいと、道場に入門する者も増えてきた。子どもには余技として、簡単な読み書きも教えた。

 これも江戸市中に入りたくない理由だ。

 たつきが立つと人間それを手放すような冒険を厭うようになる。

 しかし、しばらくすると不穏な噂が出回り始めた。

「あのご浪人は人斬りをなすって、逃げてきたらしい」

 真相は真逆だ。

 だが、酒の席でもあえて敵討ちの話はせず、濁していた。それがまずかった。誰かが無責任に、「あの剣術の腕だから、人のひとりも斬ったこともあるだろう」と言ったことから、尾ひれが付いていったのだろう。慌てて説明をしても、のうのうと道場で暮らしている浪人は、血眼になって敵を探す武士とはほど遠い。誰も信じてくれなかった。人は信じたい方を信じるのだと伊織は学んだ。

 それから道場と伊織から人足は遠のいていった。

 実家からの援助もやがて途絶えた。

 弟が長じて、費用を出し渋るようになったと伊織は想像していた。表向きは「兄上には敵討ちをする意思が見られん」というのが理由だ。母もずいぶん口添えをしてくれたらしい。が、押し切られた、と詫び状が届いた。

 もしかすると、若いころにいた道場の連中が弟に工作したのかも知れないとも考えが一瞬頭に点灯したが、それももうどうでもよかった。

 村の連中に吹き込んだのも・・・・・・。

 どうでも良いと思いながらも、嫌な妄想は次々と起こる。

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