第16話 大和久伊織 その四

 そんなことを考えていると、目の前に座っている老いた男が、まるで猿にしか思えなくなった。密かに失笑した。師をさげすむ思いがふつふつと胸中に沸いてくる。それはまるで制御が効かなかった。

 ――ふつふつ、ふつふつ。

 泡が次々と液体のなかを浮かんでいくところを伊織は想像した。

 いや、この思いはこの十数年、密かに抑え込んでいたものなのだ。覆っていた砂が嵐に吹き飛ばされ、出てきたのだ。

「藩からのご許可はいただいておる」

 師が免状であろう紙束を懐から取り出し、伊織の目の前に置いた。その束を開き、中身を確認した。藩主の花押を見たとき、首筋をせり上がるような気配を感じた。殺意だ。

 目の前の男を殺し、出奔しゅっぽんして、他の弟子が敵討ちに来たところを返り討ちにしてやろうか。

 いや、他の弟子たちが敵討ちなどしようはずもない。また誰かに責を押しつけ、だんまりを決め込むのは必定ひつじょう。馬鹿の被害は自分だけで良い。目の前の凡夫は殺されるだけのことをしているのである。

 凄惨せいさんな顔をしていたのだろう。

 師の老爺は驚いた顔になった。

 さすがに気づくか。

 師の表情に怯えを見た。

 そうか、己はとうに師を越えていたか。

 それはそうか、こちらは青年、師は老いている。

「これはお主を思ってやっておるのだぞ。武士にとって名誉ほど失ってはならぬものはない」

 師は焦った顔でそう言った。

 「左様で」

 としか答えられなかった。そのまま慇懃いんぎんに頭を垂れた。

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