第15話 大和久伊織 その三

 例の板敷きの間に、師匠と相対して座った。初めてこの場所に座ったときのように。あの頃とは違って、円座など敷かれてはいない。それとしんしんと冷えていたあのときとは違って、晩夏の板の間は燃えるように熱かった。

 「其処そこもとはいつになったら行くのだ。お主が行かねば道場のけんにも関わるのだぞ」

 腕を組んだまま、白髪はくはつ白髯はくぜんの師匠は言った。

 あとで忠言をしてくれた友人に聞いたところによると、要するに道場で一、二を争う実力のある伊織が、おくしたように父親の敵を討ちに行かぬ、伊織がそのような卑怯な行為をしていては、藩内で道場に通う者や師匠のメンツが立たぬ、ということらしい。

 師匠にそう言われたときは、どうしてこんなことを師匠が言うのかといぶかしんだ。

 それだけでなく、師匠は伊織のことを藩の他の人間に吹聴していたらしい。自己保身のためにあることないことを言っていたのだろう。

 「師匠には師匠の立場があるのだから、分かれよ」

 と先の友人に肩をたたかれ言われて、失笑してしまった。

 元々人間味のある師匠ではあった。だが、大空を飛翔していたおおとりが、地に落下して、再び飛ぼうにも飛び方を忘れてしまった、そんなふうに師匠を見るようになった。

 実に下らぬ。

 自分が聖者気取りをするつもりはないが。あんまりと言えばあんまりであろう。

 それに。

 道場内でそういう論調に乗っかって踊る連中のメンツも頭に浮かんだ。

 つまるところは男の嫉妬だ。

 このところ、不安定な政情が反映しているのか、剣術を学ぶ者が増加していた。百姓の次男坊、三男坊も学ぶ者が多い。もちろん武家の者も熱心に学ぶ者が増えた。剣術を学んだとて、健全な武士道精神を持っていることなんてない。

 内情はねたみ、そねみ、ひがみの充溢じゅういつした世界だ。それこそ隙あらば斬り殺そうと手ぐすね引いている手合いもいるだろう。いや直接に手を下すならまだまし。こうして利用できるのであれば師匠ですら利用して、手を汚さずにつぶすのである。そういう手合いの理屈では、「つぶされるヤツが悪い」のである。

 こんな田舎の小さな道場で、一番になることの価値を伊織は見いだせなかった。が、他の頭の悪い連中にとっては、小さいとか田舎とかどうでもいいのである。競争心と無聊ぶりょうを慰められれば、それでよいのである。本気で斬り結ぶ戦場では尻込みするような、その程度の玉しかどうせ持ち合わせておらぬ。伊織にはそれが見えていた。そんな同輩の軽々しい策謀にどうして恩師は乗ったのかと訝しく思った。訝しさと同時に答えは簡単に出た。

 そりゃ、いくら腕が立つったって、あまり覇気を感じない男が自分の弟子たちの頭に座ることを面白く思う人間もおるまい。ふがいないと思うにちがいない。

 伊織の立場からすれば、「そんなふがいない人間を抜けない程度の弟子しか育てられないお主が悪いだろうに」ということだ。

 つまり、くだらない同輩と凡夫の師匠の利害が一致したのだ。

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