第5話 翌日 その一

 「またですね・・・・・・」

 目明めあかしの熊八はため息まじりにそう言った。向かいには同心の松丸が座る。二人はほうの階段下であった惨殺事件の現場に行って、現状を見た。その後に大門通りを通り、街道筋に出て、そば屋に入った。この後は益屋へ行って事情を聞く。

 熊八はそばを食べようという気になんぞなれるわけもない。

 向かいの同心も同じで、だんまりを決め込んで、まだ昼前だってのに酒をあおっている。空になったぐい飲みにすかさず熊八が酒を注ぎ込む。注ぎながら、

 「なんだか物騒な世の中になってきましたな。こんな田舎で人斬りなんて。しかも近々に三件も。京や大阪じゃないんですぜ。あっちは荒れ放題だっていうじゃないですか。攘夷ですか。それにしたってここいらは将軍様直々に治める場所ですぜ。そんなところで、まったく。切られたのも商人だってんでしょ。それに懐のものにはいっさい手をつけず。なにか恨みでも買ってるんしょうかね」

 熊八は外に眼を向ける。往来を行き来する人々はいつもにも増して平静を装っているように見える。

 あんな現場を見てきたからだろうか。

 首を切り離された胴からは多量の血液が宙を舞ったらしい。階段の三つある踊り場の三つ目より下は、まるで緋毛氈を敷いたように血に染まっていた。益屋嘉右衛門が切られてまもなく、梅雨の雨は止んだらしく、水に混じって広がった血を押し流しはしなかったようだ。

 凶行の一部始終を見ていた手代の亀吉は身振り手振りを交えながら様子を語るのだが、歯の根は合わず、思わず手にとって支えたくなるほど指先が震えていた。

 「おまえ唇が震えているぞ」

 松丸に指摘されて、自分の声が震えているのに気づいた。

 「亀吉も震えていたな。かわいそうに・・・・・・。ありゃ、一生頭に焼き付くだろうぜ」

 一杯飲めというように呑んでいたぐい飲みを差し出され、熊八はそれを押し頂いた。松丸が徳利を傾け注いでくれた。それを熊八はぐいと飲み干して、右手で顔をつるりと撫でた。

 「おまえが言うとおり。こことて徳川様の御領地よ。だから信じられないけれども、水戸様の脱藩浪士が近頃この辺りに出没していると聞く。そいつらの仕業かもしれぬな」

 「そんな輩がどうして商人を切ったんで。関所の番人やら、役人やらを切ったってんなら話が通りますがね」

 「そうなのだ。それが分からぬのよ。三件とも、切られたのはいずれも大店の主なのだが殺された以外に実害がない。まさか、そんな浪士を探し出したとはいえ、正直に話すはずもなし。手繰れる糸がない」

 ところがだ。

 新しく運ばれてきた徳利とぐい吞みで、松丸は手酌で飲んだ。顔色は少し紅潮している。

 「今回は、亀吉が生きている」

 「最低限、男と女のいざこざという筋はなくなったということですな」

 「そうだな」

 もっとも亀吉が言うには、あるじを斬り殺した男については、暗くてその容貌がはっきり分からず、また暗がりに浮かんだ黒い影は会ったことがあるような体躯をしていたわけでもないらしい。

 「どうせなら、そういう艶っぽい話のほうが好きなんですがね」

 何かに触れていないと指先まで震えそうで、二の腕を強くこすった。

 松丸はなにも反応しなかった。

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