負けるもんか
江田 吏来
二〇二〇年の夏
悪い予感は的中した。
新型ウイルスの影響ですべての学校活動が停止しているなか、公益財団法人全国高等学校体育連盟の臨時理事会にて、二〇二〇年度
新型ウイルスの感染拡大が続き、三月から部活はもちろん、春季大会も片っ端から中止になっていた。そしてとうとう、東北から九州にかけて二十一府県にまたがる、異例の広域開催の話も消えちゃった。
「この決定は夢を奪うものではない。安心安全、命を守ることを選んだ結果です」
全国高体連会長はそう語っていたけど、走るだけしか能のない陸上部のあたしは息が止まりそうになる。命、健康があってこそのスポーツでも目の前が暗くなるのを感じた。
あれから数ヶ月たっても、まだ引きずっている。
「お姉ちゃん、聞いてよ。部活は学習指導要領で学校教育の一環なの。課外活動だけど、学業と同じぐらい重要な位置づけなのにひどいよね」
「はいはい、その話は何度も聞きました。それより今は数学でしょう。数学はね、解法パターンをたくさん身につけた人が勝つの。無駄口ばかり叩いてないで、さっさと解く」
「無駄口じゃないもん!」
あたしが怒りをにじませても、お姉ちゃんの視線は氷のように冷たい。セミの声がいくつも重なる暑苦しさを吹き飛ばす。
いつだってお姉ちゃんには勝てない。それもくやしい。こうなればシャーペンをクルクル回して、無言の抵抗。ふて腐れるしかない。
「あのね、私だって忙しいの。
「それは困りますぅ。お姉ちゃん、あたしのアイス、勝手に食べたくせに」
「アイスひとつでうるさいわね」
「あのアイスは特別だったのよ。自然と笑みがこぼれる甘くて豊かなバニラの香りに、舌の上でふわっと消えたあとにやってくる濃厚な味わい。美味しさと冷たさがのどを通り抜ける瞬間も最高だし、カップを指で押しながら食べごろを計る楽しさも、あたしから奪ったのよ」
「だからちゃんと謝ったでしょう。それプラス、こうして数学を教えてるの。インターハイ中止でスポーツ推薦がヤバいくせに」
「うっ……」
インターハイ出場に高校生活のすべてをかけてきた。それなのに史上初の中止。限りない不満を抱いて、夢に出てくるほど残念な気持ちでいっぱいなのに、さらに困ったことが起きている。
スポーツ推薦の選考条件は、インターハイの結果次第。そのインターハイが中止になった今、先がまったくみえなくなった。
全国高体連は三年生が活躍する場を模索しているけど、見通しが暗すぎて不安だらけ。
だったら勉強するしかない。
どうしてもいきたい大学があるなら、試験を受けて合格すればいい。そこで勉強のことなら、国立大学に通うお姉ちゃん。あたしとは正反対の性格で、年が近いからケンカばかりするけど、いざというときには頼りになる。
「そりゃ千夏がインターハイに向けてがんばってたのは知ってるよ。休校になっても自主練習は欠かさなかったもんね。それはすごいし、えらいと思うよ」
「そうかなぁ」
お姉ちゃんに褒められるのは悪くない。照れながら頭をかいていると、「でもね」と口調が変わった。
「中止は決まったの。それも四月に。今は二〇二〇年の夏だよ、いつまでもぼやかないで前に進みなさいよ。パンドラの箱って知ってるよね?」
「知ってるよ、開けてはいけない箱。開けてしまったから疫病、悲嘆、犯罪などの災いが飛び出して、箱の底に希望が残ってたってやつでしょう」
「そうよ。世界には災厄が満ちあふれて苦しむことになったけど、乗り越えた人には希望が残るの。千夏は勉強をやめてここで腐るつもり?」
「それはヤダ。進学したいもん」
シャーペンを握りなおして参考書に目を落とした。でも、今から勉強をして間に合うのか。焦りや不安は消えない。こんなことにならなければ。そればかりが頭の中を支配して、まだ新型ウイルスを軽くみていた半年前を思い出す。
「せっかく、いい走りができるようになったのになぁ」
スターターピストルの音が青空に響くと、体が倒れこむような前傾姿勢であたしは走り出した。左足が接地した時には、右足が左足をしっかり追い越し、つま先をあげて足を前に持っていく。
完璧なスタートと加速ができたあの日、ついに理想の走りを手に入れたと喜んだ。そしてそれを失うのが怖くて、休校になっても毎日練習をくり返した。それなのに魅せる場面が奪われる。ため息しか出てこない。
「あー、もう。うっとうしいわね。千夏にいい言葉を教えてあげる。Normality is a paved road: it’s comfortable to walk but no flowers grow. 」
「の? のーまりてぃい、いず……あ、えっと、なんだっけ?」
「ポスト印象派の画家、ゴッホの格言よ。普通とは舗装された道。歩きやすいが花は咲かない。今の状況は悲惨かも知れないけど、私は自分の得意を磨くチャンスだと考えてるの」
「へぇ、でもあたしは舗装された道路でも突き破って、花を咲かせてみせる」
「道路を突き破るって、雑草みたい。千夏は雑草ってことね」
「ひどーい」
顔を見合わせて笑った。でもお姉ちゃんは、笑いすぎた目元を拭って真剣な眼差しをぶつけてきた。
「いつも赤点ギリギリの千夏だから、走ることしか能がないってバカにしてたけど、そうじゃなかったね」
「なに、急に」
「スポーツにはふたつの価値があると思うの。ひとつは」
ノートにとても綺麗な字で【人を楽しませる】と書いた。
「ラグビーのルールなんてまったく知らなかったのに、去年はテレビに釘付けだったでしょう」
「アジア初のラグビーワールドカップだったもんね」
「東京で開催される四年に一度の祭典は来年になっちゃったけど、すごく楽しみにしてたし、応援するって楽しいの」
「もうひとつは?」
「それは」
【逆境に立ち向かう】と力強く書いて、ぐるっと円で囲む。
「部活がないから休めばいいのに、千夏はいつも以上の練習をしてたでしょう」
「走ってないと落ち着かなくて」
「ひたむきな熱気に包まれて、一生懸命ってすごいなって感心したの」
「いや、すごくないって。あきらめが悪いだけ。来るべき時を想像しながら、ベストの状態にしておきたくて」
「そこだよ、ふたつめの価値。スポーツはうまくいかないことの方が多いのに、自分を高めることをやめない。逆境に立ち向かう姿勢。なんて言うのかな、スポーツは体だけじゃなくて心も鍛えるでしょう」
「スポーツは心技体って先生がよく言ってた。精神、技術、肉体を鍛えるものだって」
「自粛、自粛でつらいけど、千夏のひたむきな姿のおかげで、私もがんばろうって気持ちになったのよ」
「えっ、それはびっくり。あたしがお姉ちゃんのお手本になってるの? なんだか照れるなぁ」
「手本になんかしてないわよ。はい、次の問題を解いて。制限時間は三十秒」
「無理、無理、無理。あたしはお姉ちゃんとは違うんだからッ」
またケンカしながらの勉強がはじまった。でも、セミの声が遠のいて涼しげな風鈴の音が部屋に響く。窓の外は太陽が幅を利かせて、燃えるような青空が広がっているけど、心地いい風が前髪を揺らす。
志望校合格の可能性がとても低くて絶体絶命のピンチでも、幸いなことに未来はまだ決まっていない。あらゆる日常が奪われても目標は自分で立てられる。やり場のない気持ちを前向きに。
「よし、やるか」
指先に力が入る。
努力してすべてが報われるわけじゃないけど、マイナスにはならない。きっと新しい大切な何かが生まれる。
二〇二〇年の夏。青すぎる空の色をあたしは忘れない。
負けるもんか 江田 吏来 @dariku
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