第2話 きっと彼も、泥の中で足掻いている

 キィッという甲高い音が雲一つない空に鳴り響き、巨大な鉄格子の門が軋みながらゆっくりと開いていく。その向こうに続くのはお堀に掛けられたこれまた巨大な橋で、橋を渡りきるとまたもや巨大な城門が立ちはだかる。

 ここは、キャッスル・イノミリティ。この街の中心で、最も標高が高いところに建っており、中央政府機関や司法機関、議事堂、宮廷などが敷地内に整っている。

 「今日はなかなか穏やかだね」

 風にあおられて乱れた金髪を手櫛で整えながら、お堀の水流を眺めてフレールが呟いた。

 春の暖かな太陽に照らされて煌めく水面、不意にその光が歪むと魚が飛び跳ねた。そいつがどこを目指しているのか、俺には到底わからない。仮に天に届けと願ったのならば、現実は厳しいことを知っただろう。天に向かって数十センチ飛んだところで限界まで減速し、今度は水面方向への加速度が増加し始める。次の瞬間にはポチャンという可愛らしい音とともに水面に波紋を残し、姿を消していた。仕方がない。重力は甘くないのだ。重力様の前には魚もリンゴも無力なのである。だが、不可能に挑戦する姿勢は嫌いじゃない。俺は結構そういうのが好きなのだ。

 「次、また頑張れよ」

 その暁には塩焼きにして頂くことを約束し、小さく笑んだ。

 「……は?」

 お魚さんによる感動のドキュメントを見逃したフレールさんの、綺麗で純粋なマジでお前どうしたの?と問う碧眼に正面から捕らえられぬよう背を向け、「こんな穏やかな日にはりんご飴でも食いたくなるよな」と口任せを言って、城門へ歩き出す。背後からは「ナオキは甘いもの苦手だろ……」と言葉らしきため息が聞こえてきた。

 城門前に仁王立ちしている顔見知りの衛兵に通行証を見せ、城壁を潜る。一気に視界が開けたそこには西洋庭園が広がっていて、蜜を吸い花粉を運ぶ蝶や蜂が春容しゅんようを彩り、木の実を食らう鳥のさえずりが耳を撫でる、まさにエデンの園であった。

 正面に続く道の先、キャッスル・イノミリティを囲む正六角形の城壁のちょうど中心には、ネモフィラの鮮やかな青に負けないほど青く透き通った噴水がある。この噴水は湧き水を引いて造られており、噴水から城壁が成す正六角形の頂点に向けて水路が敷かれている。イノミリティを流れる水の全ての源流がこの噴水なのだ。だからお堀の水も流れている。大雨の後なんて超激流だ。

 「あなたを許す、ね……」

 職場があるキャッスル・イノミリティ地下の図書資料室への道すがら、フレールが微苦笑を浮かべて唐突に呟いた。

 「ネモフィラか」

 それが独白であることは明白だったが、一帯を染める青い花弁から目を背けることは出来ず、的確過ぎる相槌を打つ。フレールにはあとで赤いきつねでもおごってもらおう。

 「ああ、僕はこの花が大好きなんだけどね。今はなんだか、花の数だけ同情されてる気分だよ」

 「大丈夫。ネモフィラが興味あるのはお前じゃなくて虫だ。たぶん皆お前のことは無視だぞ」

 「ナオキ……。フォロー下手だな……」

 「よく言われる」

 微苦笑を浮かべ、冷ややかな目で俺を見るフレールに、口の端を片方だけ釣り上げてヘラっと笑ってみせる。そう、俺はフォローが結構お上手な部類なのだ。だから緑のたぬきを追加しても文句は言われないだろう。

 「あ、そう言えば今日ナオキ〝アレ〟の日じゃないか?」

 この調子でフォローを重ねて、緑と赤をどんどんとべらぼうにいただいちゃおうかなっと密かに策略を練っていると、急に爽やか金髪が何か思い出してように問うてきた。

 「アレ?」

 アレって何かしら。月一で来るアレ?確かにルナルナには男性という設定で登録することも出来るらしいが、おそらく違う。万が一そうだとしても、フレールが俺のアレを把握してるとか怖すぎる。じゃあ他にアレって何だろう……。

 問いには答えず、真顔でうーん、こらどっこいしょーと思案していると、おいワレ聞いとんのかとフレールが不思議顔で覗き込んで来る。

 「ん?今日新しい子の研修に入るって言ってなかったっけ?」

 「ああ!すっかり忘れてた……。そういや何でフレールじゃなくて俺なんだって文句言ってたわ。あの女頭おかしいよな。よりにもよって俺って……」

 嫌なことを思い出し、鉛でも着けられたかの如く足が重くなる。同時に重たいため息も出た。今の息、タールでも混じってたんじゃねぇの?敷地内は全面禁煙です。

 そう、今日は新米ライフクリエイターちゃんの研修初日で、その指導担当者があろうことか俺なのである。職場でミスターバッドエンド、命を紡ぐ変態、水都の異端児、仲間外れとか言われている俺には不向きなことくらい、誰がどう見ても明確だ。これはちょっと三秒くらい考えればわかることだと思いますよ。でも最後のは普通に傷つくんですが……。

 しかし、そんなこともわからない輩が一人いたらしい。あの女……。

 「あの女って、うちのこと?」

 背後で声がした次の瞬間、背中をバシーーーンと誰かに叩かれる。普通に痛い。ぴえん。

 「コピ、おはよう」

 俺の痛みも知らず、隣のイケメンがその女、コピに挨拶する。

 「おはよっ。今日は穏やかですな~」

 彼女は頭上の太陽にも負けず劣らずの笑みを見せ、鼻歌交じりに数歩先まで軽くスキップしていく。ブラックコーヒーよりももっと黒い髪は細くて美しく、向かって右側のサイドを編み込んでいて左耳が露わになっている。春の暖かな風が吹き、目を伏せてそのミディアムヘアをそっと左耳の後ろにかけなおす。その一瞬、ほんの少しだけ目を奪われていると視線が合ってしまった。彼女はほんのり恥ずかしそうにハニカムと、ぷっくりとした頬をわずかに朱くした。目を細めていてもわかる綺麗な二重線、開かれてわかるくりっとした瞳、赤いおちょぼ口に丸い顔。

 コピは、俺とフレールと同時期に命を書く仕事を始めた仲間だ。ド天然お花畑であほ丸出しだが、筆を持つと驚くほど繊細な表現を持って言葉を紡ぐ。まあなかなか、ペコちゃんの次くらいには可愛いやつなのだ。

 同期の女の子に一瞬でも目を奪われてしまい、きまりが悪くなって取り敢えず適当なアピールをしておくことにする。

 「痛ぇ……。馬場さんの弟子かよ……」

 既に大して痛くはなかったが、さっきまでは本当に痛かったのでジョークを交えて背中をさすってみせた。

 「あ~、そういうのはいいかも」

 しかし、ふわふわボイスで軽くあしらわれてしまう。ぴえん。

 茶番はそこそこに、職場へと歩みを進めながらコピに疑問をぶつける。

 「それにしても、なんで俺なんだよ。新人研修。他にもっといただろ。このイケメンとか」

 フレールの方へと顎をクイッとしつつ、出来る限りの嫌な顔でコピを問いただす。

 「そりゃ、フレフレの方がかっこいいし、感じもいいし、上手くできるんだろうけどさ、それじゃなおぴのためにならないし」

 コピさんは思う存分フレールを褒めてご機嫌上々、ドヤ顔満面、主張強めの胸を張ってえっへん!なご様子だが、肝心の理由が曖昧だ。思わずジト目になってしまう。ちなみにフレフレというのはフレールのあだ名で、なおぴというのは俺のあだ名だ。最高にダサい。

 「うわぁ、何だしその目きもぉ……。せっかく作ってきたお弁当が腐るんですけど」

 「腐らねぇよ失礼な。結構傷つくからガチトーンはやめてくれ」

 思う存分俺をディスって気分上々なコピさんは、あざとくニヤッと笑うと、ニマニマしながらずいずいっと肩を寄せてくる。

 「何?知りたい?知りたい?やっぱ気になっちゃう??」

 「はいはい、知りたいです。超気になるなー」

 ここまで結構傷ついていたのと、単純に面倒くさいので早めに折れてとっとと先を促した。コピはこうして俺をからかっては、ケラケラ笑って喜んでいるのだ。ゆるふわガールに見えて意外とSっ気がある。ついでに言うと、俺はこのイジりがそこまで嫌じゃないのでMかもしれない。

 「うーん、残念っ!教えな~い」

 そして彼女は、いつも決して答えは言わないのだ。

「さ、早く行こっ!」

こうやって意地悪く笑って、鼻歌交じりに先へ先へと行ってしまう。意味ありげなことを言っては、ひとしきりからかって、答えを伏せたまま去っていく。同じ問いを投げかけることはなく、正解があるのかさえわからない。それでも、僕は彼女の問いに答え続けるのだ。どうしても俺が辿り着けないそこには、どんな世界が待っているのだろう。そんな不確定な世界を、夢見てしまうのだ。それが、彼女には見えている気がしてならなかった。

 「ナオキ、わかったかい?」

 そしてそれはきっと彼も……。

 「さっぱりだ」

 「だよね」

 彼も、未だ泥だらけの世界で生きている。

 眼前には、重く佇む城がそびえ立っていた。

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ライフクリエイター 三越 銀 @Gin_Mitsukoshi

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