ライフクリエイター

三越 銀

第1話 掟破り

 ━━予定説。

 それは、十六世紀にカルヴァンが唱えたキリスト教の神学思想である。人はこの世に生を授かったその時には既に、神の救済を与るか、滅びに至るかを予め決められているというものだ。

 では、もしもこの世に生を授かったその瞬間に、人生のシナリオ全てが決まっていたとしたら。そのような世界が存在したとしたら、人はそれをどう受け止め、どう生きていくのか。

 監視社会なんて生易しいものではない、完璧なる管理社会。いや、管理なんてものではない。誰もが、どこかの誰かが決めたシナリオに従って生きていく。いや、もっと理不尽な領域なのかもしれない。それこそ、神が本当に存在していて、今度こそは人間の自由になどさせてやるものかと手綱を固く握っているような━━。


 泥のように眠っていた。

 いや、酷く深刻めいた表現をしてしまったが、それは俺のノーマルであるといって差支えはない。昨日も今日も、そして明日も、俺は変わらずいつも通りに、濁りきった泥の中に身体を埋めて眠るのだろう。

 東の空から降り注いでくる陽光が、容赦なく泥にまみれる身体を突き刺し、朝だぞ働けと末梢から中枢にかけてじわりじわりと訴えていた。

 バッドモーニング。

 未だ開かず、されど室内を照らしつける光だけは瞼の上から捉える眼を擦りながらむくりと身体を起こすと、ひとつ大きな欠伸をした。

 何よりも愛しい俺の白い恋人、ミス・オフトゥンを無理やり引き剥がし、眩しい太陽の方角へと視線を送った。そこには、朝露に青々とした葉を濡らす木々、朝日を反射し水面を輝かせる透き通った運河、その運河に寄り添うようにずらりと規則正しく並ぶレンガ造りの建物。中世ヨーロッパを絵に描いたような街並みだ。一つ異なる点を挙げるとすれば、ここではほぼすべての生活行為や生活手段、そして資源エネルギーを街の中心に向かって蜘蛛の巣状に張り巡らされた運河が担っているということ━━。

 水の都、イノミリティ。

 ここは、絶対的王女として君臨するサオリによって治められている、この国の首都だ。

 街の中心とは逆方面、運河の下流のその向こうへと目を移すと、ちょうど漁師たちが大漁旗を掲げて帰ってくるところだった。

 ━━市民として漁師たちの頼もしい姿を誇らしく思い目を細めていると、室内にコーヒーの香ばしい匂いが漂った。振り返ると、そこにはコーヒーを乗せたお盆を片手に柔らかい笑みを湛える、決して派手とは言えないメイド服に身を包んだ少女の姿があった。

 「おはようございます。オーナー・ナオキ」

 彼女はぺこりと頭を下げると、窓際に設えたテーブルにコーヒーを置いた。

 質素ながらも綺麗にまとめられた紅茶色のお下げ髪、陽光を透通すように白い肌、優しく細められた目尻はやや垂れていて、その延長線上には泣きボクロがある。

 「今日も良い天気ですね……」

 控えめな胸の前で掌を合わせ、彼女はそう呟いた。

 絵画作品として完成しているかのように美しいその佇まいに、俺は朝の挨拶を返すことすら忘れていた。そのことに気付き、先ほど用意してくれたコーヒーを一口含んでから、ゆっくりと口を開く。

 「おはよう。コーヒー、美味しいよ。ありがとう、ハロ」

 ハロはこくりと頷いて、空になったカップを回収し、今度はやや深めに頭を下げてから部屋を後にした。

 ハロは、うちで働く使用人だ。

 詳しい話は避けるが、彼女は自分の親の顔を知らない。従って、生まれた場所も、年齢も、…名前も。何一つとして知らないのだ。唯一知っているのは、生きる術。年齢不詳とはいえ、まだ大人と言えるほどの年齢ではないことは確かな彼女が、その日を生きるのに必死になっていた。

 数年前、力なく家の前に座り込んでいた彼女を雇うことにしたのは、単なる善行でも、ましてや偽善でもなかった。当然ながら、哀れみや同情といった何様気取りなおぞましい感情でもない。

 どう足掻こうとも、巻き付く網からは逃げられない。どれほど知恵を絞ろうとも、禁忌に抗うことは敵わない。心の奥深く、この世の全てを吸い込んでしまうような漆黒が自身の行為を阻む。そんな、どうしようもない無力感。

 ―俺は、聞かずとも彼女の過去を知っている。

 過去だけではない。家の前でへたり込むことも、使用人として働くことも、そしてこれから先どうなっていくのかも……。

 俺の仕事は、ライフクリエイターだ。

 世に受精卵が生まれたその瞬間に白紙の本が俺たちライフクリエイターの元に届く。そのまっさらな頁に、物語を紡ぐのだ。それは生まれてもいないその子の人生の物語となる。つまり、人生を創るということ、それが俺たちの仕事だ。

 俺たちの手によって創られた人生のレールから外れることは出来ない。それでも、一般市民から不満が噴出することは有り得ない。何故ならライフクリエイターの存在は伏せられているからだ。だから彼ら彼女らは何一つとして疑問を抱くことはなく、不確定の未来に向けて今日を生きている。その今日を生きるという行為さえも、確定要素であることなど知り得ることはなく……。

 そして俺たちには絶対に侵してはいけない禁忌がある。

 一度紡がれた人生を修正してはならない。

 誰かの一生を決める権限があるのであれば、極私的な理由で人生を書き換えることなど容易い。ただ、世界は絶妙なバランスで保たれているのだ。

 人口が増えすぎても、少なすぎても、年齢層に偏りがあっても、バランスは簡単に崩れてしまう。誰か一人でも、決められた人生以外を歩むことは許されない。

 もし禁忌を侵した場合、その人は全てを失うことになる。存在も、記憶も、何もかも。

 まだ少し部屋にわだかまるコーヒーの残り香が鼻腔をくすぐる。フラッシュバックする数分前の彼女の微笑と、過去と、未来に、俺は浅く唇を噛むと瞑目した。

 きっと今夜も泥のように眠るのだろう。

 そして彼女もまた、未だ泥の中で生きているのだ。


 手早く朝食を済ませ、ハロとの会話もそこそこに身支度を終えると、玄関口に用意してあった鞄を片手に仕事場へと急いだ。

 いや、朝寝坊したわけでも、何か重要な会議があるわけでもない。だから急ぐ必要など微塵もないが、それでも俺は急いでいた。

そう、これは義務感。人間の生きがいとは何か。それは仕事である。超高齢化が進むどこぞの国では、仕事に生きがいを求めてハローワークに群がる老人がいるという。既に四十年以上にも亘る過酷な勤労を終え、余生を楽しむ段階へと突入しているにもかかわらず、また仕事をするのである。うわぁ、社畜やべぇ……。死んでもアンデットとして社畜復帰するんじゃないの?最も、収入の減少に起因する生活苦が原因の致し方ない社畜リフレインみたいなことも多くあるので、一概には言えないが。

 しばらく歩いて行くと、慌ただしい朝の喧騒に満ちた船着き場に着いた。ここは、他国で言うバス停だ。イノミリティの街では運河が最大の交通手段になっている。故に、地区同士を結ぶ公共交通機関は、その唯一を船が担う。

 「よう、兄ちゃん!いつもいつも朝から元気ないねぇ。ま、魚も新鮮な状態でしか売れねぇ。俺には腐っちまったもんはどうすることも出来ねぇやい!!かーっはっはっは!」

 「うす。おっちゃんは相変わらずピッチピチっすね。少しはその元気老後に残しといたほうがいいんじゃないっすか?」

 朝から、じゃなくて朝だからなんだよなぁ……と、思わず口をつきそうになった言葉を飲み込み、皮肉いっぱいの挨拶を交わした彼は街の漁師。朝方窓から見えた大漁旗は、おそらくおっちゃんが掲げていたものだろう。

 というかこの人、さらっと腐ったとかなんとか言ってたけど、真っすぐ俺の目を見て言うのは逆に失礼なんじゃないですかね……。

 悪びれる様子も見せず、高らかに笑い続ける漁師のおっちゃんを横目にさっさと「城前行」の表示がある停泊所まで来ると、乗船口で定期券を見せ、進行方向向かって左側最後列の席に腰を下ろす。

 「……ふぅ」

 ようやく一息ついた。昔から人付き合いはあまり得意ではない。市場も近く、下町では最大の船着き場であるここ、アッサムポートの賑やかな雰囲気はどうにも気が滅入る。

 風にでも当たって気分転換しようと小窓を開けると、潮っ気の強い冷風が船内を通り抜けた。

 新春のやや肌寒さが残る陽気ではあるが、大量の人に中てられて火照った身体を冷やすには丁度良い。大きく伸びをすると同時に深く息を吸い込み、存分にマイナスイオンの空気を体内に取り込んだ。

 我が都、イノミリティは水源が豊富であり、人々の生活は街の中心部から湧き出る清らかな水を基に成り立っている。蜘蛛の巣状に張られた運河は、欠かせない交通路で、各所に設置された水車では発電し、生活用水としても使われる。大切な資源である水を汚そうものなら老若男女を問わず厳しい罰則を与えられる。

 そんな水に超厳しいこの街の空気は澄み渡り、いわゆる公害は一切ないという。むしろこの水を毎日飲んでいるこの街の住人は圧倒的健康体だと言って過言ではない。

美容効果も抜群で、これもう水素水とか目じゃない。漁師のおっちゃんですらピチピチなくらいだ。あぁ~、運河の音ぉ~。運河の水、二代目CMキングは俺だな。

 毎朝の給水でアンチエイジング!とCMに向けて猛練習に勤しんでいると、出航を告げる汽笛が鳴り、船体がぐらりと揺れた。

 同時に、もたれかかるように俺の肩に手が置かれる。

 「お、っと……」

 もう、走行中は立ち歩かないでねって書いてあるでしょっ。コラコラと振り向くと、イケメンが申し訳なさそうに手刀を切っていた。

 後ろで結わかれた黄金に輝く長髪、海を映したような碧眼、細身ながらもどこか頼もしさを感じる佇まい。男の俺でさえ優しくされると勘違いしちゃうくらいには格好いい。

 「申し訳ない。今朝は家を出るのが少し遅くなってね、駆け込み乗船になってしまった。でも寄りかかったのが君でよかったよ。レディ相手にみっともない姿を見せるわけにはいかないからね」

 甘ったるい口調でナチュラルにイラつくセリフをさらっと吐くと、イケメンはグリーンのスプリングコートを脱ぎ俺の向かいの椅子の背もたれに掛け、そのまま座って足を組んだ。その普通の動作でさえ絵になる。ついでに遠くから熱い視線を送ってくるレディたちに軽く手を振り、口の形だけでおはようと伝えて微笑みかけた。いや、みっともない姿晒してるんだよなぁ。

 「うわぁ……。言っておくが、CMキングの座は譲らないからな」

 心からの嫌味節もプリンススマイルで軽くかわすこのイケメンは、フレール。

 俺の仕事仲間で、腐れ縁の悪友だ。

 フレールがいい奴なのはわかっているが、元来イケメンと高収入と検索履歴を見る女は男の敵と相場が決まっている。現状、船内の女性の注目を一身に浴びるこの男を、全国の健全な男子代表として許すわけにはいかない。

 居住まいを正し、持参していた運河の水を一口含むと、断固戦う意思を固め船内男子諸君の期待を背に立ち上がった。

 そして、フレールに向けてすっと手を挙げ、決め顔を崩さないまま踵を返して席を離れる。

 「ん?どうしたんだい、ナオキ」

 「ギャラリーが多すぎて全く落ち着かないから向こう行くんだよ」

 「あはは、何言ってるんだい君は。そんなの昔からじゃないか」

 対してフレールは、潔く敵前逃亡をキメた俺の腕を掴んで簡単に引き留めると、そのまま椅子までエスコートして余裕の笑みを浮かべる。やや離れたところでは、相変わらずイケメンの一挙手一投足に興奮を隠せない女性たちがいつの間にか集団となり、ナオフレの有無を問う緊急会合を開催していた。

 「何度も経験すれば慣れるというのは大間違いだ。いや、慣れるけど苦手なのは変わらないと言った方が意味合い的には近い。嫌なもんは嫌なんだよ」

 頬杖を突き、ため息交じりに言うとさすがのフレールも笑顔を潜め、一つ咳払いをすると女性たちのもとへと歩み寄った。彼の言葉を聞いた彼女たちは頷きを返し、その場から離れていった。

 再び席に戻ったフレールは、碧眼をしっかりと開き、俺を真っすぐ見据えた。俺は、こいつが普段なら決して女性を振り払うようなことはしない男であることを知っている。稀にこういう行動を取った時、それは真剣な話があると暗に伝えているのだ。

 だから俺もへの字に曲げていた口を真一文字に結び、次の言葉を待つ。

 不意に訪れた静寂に、船のモーター音がけたたましく響いた。窓の外へと視線を移すと、街の中心、高い城壁に囲まれたキャッスル・イノミリティの最高部にはためく国旗が微かに見える。城下町に続く道は急勾配だ。故にギアを1つ上げたのだろう。

 そのモーター音を合図に、フレールはおもむろに口を開いた。

 「サオリ女王の噂を知っているかい?」

 「噂?」

 「ああ、サオリ様が最近表舞台にあまり立っていないのは知っているね?」

 「まあな」

 女王様の動向は、必然、全国民の注目を集めることになる。だから何らかのアクションがあれば、マスメディアが報じるのは当然のことだ。

 確かに最近、新聞でも街の掲示板でも女王様の記事を目にすることは無くなった気がする。

 フレールは、俺の反応を1つ1つ確かめるようにゆっくりと慎重に言葉を選びながら話を続ける。

 「それで最近巷では、サオリ様が体調を崩されたという噂が流れているんだ」

 「なるほどなぁ……」

国事や国儀などといったことにほとんど興味がない俺は気にしていなかったが、注意深く国政を見守ってきた人には、あまりに動きがないのはさぞ不可思議だろう。

 だが少し待ってくれと、話を一旦止めるよう手で制し、そのままその手を額に当てて瞑目する。

 今まで活発に行われていたものが急に滞ったら、そこに何らかの原因があると想定するのは別段不思議なことではなく、むしろ当然だと言える。しかし往々にして人は、その原因を大袈裟に考え、面白おかしく装飾を加え、真実とは程遠い誰得物語を作り上げる。それが噂話だ。偏見かもしれないが、噂話など不変の日常に倦んだ人々による誰かを槍玉に挙げた醜い道楽に過ぎない。

 加えて、決定的なのは王女の体調不良をすっぱ抜いた記事が1つとしてないことだ。一般市民ですら噂で耳にするこの大スクープを、マスメディアが取り上げないわけがない。国政の透明化を謳ってこの国では一切の検閲を行わないと明文化されている以上、国家的な圧力がかかっているとも考え難い。

 第一、誰かを傷つけるような噂話を最も嫌っているのはフレールのはずだ。

 瞼を上げて、もう一度目の前の碧眼を捉える。

 「ただの噂話ではない、ということか?」

 これ以上意味のない前振りに付き合うつもりはなかった。

 フレールはやれやれと息を吐くと、目線を逸らし、しばらく近くに迫った城下町を眺めていた。やがて決心がついたのか、再び俺に向き直るとぐっと拳を握り込んだ。

 「サオリ様の、本を読んだんだ―」

 「は……?」

 そう告げた友人の震える拳と、冷たい眼差しが何を意味するのか、すぐにわかってしまった。凍り付いた汗が背中を伝うのを感じる。

 「読んだってお前、それは規則違反だろ」

 思わず語尾が強くなり、怒気がこもってしまう。

 「……わかってるよ。でも禁忌とは違う」

 「禁忌じゃなくたって、規則違反がバレたら厳しい処罰が下るのはわかってるだろ。それに一般人ならまだしも、女王の人生だぞ。最悪、命だって無いかもしれない」

 自分で執筆したものを含め、人生の本を読むことはプライバシーの侵害に該当する為に規則で禁じられている。禁忌を侵した時ほどではないが、違反者には厳しい罰則が与えられる。

 殊に、王家へのプライバシー侵害は最も重罪であり、最悪懲戒免職なんてことにもなりかねない。俺たちの職業は国家機密になっている故に、懲戒免職となれば同時に記憶を消されてしまう。

 ライフクリエイターは、この世で唯一、本を持たない存在だ。受精卵と同時に生まれる人生の本の表紙に『ライフクリエイター』と記してあり、一ページ目に『類稀なる文才を持つ』とだけ書かれる。

しかし記憶を消された場合、その本は全くの白紙へと姿を変えてしまう。それは、執筆対象であることを示し、人生の物語が綴られることになる。新たな物語は、若くして精神的に追い込まれ自ら命を絶つという、残酷極まりないものがほとんどらしい。

 きっとこれはフレールだって理解しているはずだ。末路を知ってなお、こいつは規則を破った。それだけの動機がないと、とてもじゃないが出来ない。

 フレールの冷たい瞳の奥に火が灯った気がした。

 「……彼女は、サオリ様は、僕の恩人なんだ」

 そこで一度言葉を区切り、視線を落とす。そして柔らかに語り出した。

 「僕は、幼い頃に両親を亡くした。それからの生活は大変だった。盗みを働いて、その日の食料を確保するのも精一杯。いわゆるストリートチルドレンというやつだね……。毎日空腹は満たされなくて、辛くて、仕方がなかった。そんな時、隣国への外交から帰って来たサオリ様が行列をなして近くを通りかかったんだ」

 フレールは柔和な笑みと共に落とされた視線を上げ、船外を見やった。気付くと船は城下町の中を進んでいた。爽やかな風に黄金に輝く長髪を揺らし、そのシルエットを確かに捉えるところまで来たキャッスル・イノミリティに目を細める。

 「サオリ様は僕を見つけると、お城まで一緒に来ないかと仰った。僕の人生は一八〇度変わったよ。お城には、僕以外の孤児もたくさんいて、サオリ様はそんな僕たちの為に孤児院を作ってくださった。孤児院の完成までお城で過ごした後、新設の孤児院で保母さんに育ててもらったんだ」

 握られた拳の震えはいつしか止まっていて、そこには強固な決意が感じられる。

 「だから今度は、僕がサオリ様を助ける番だ。彼女に助けられた命を懸けて、何としてでも助けたい。僕には、それが出来る。未来を……変えられる」

 ああ、そうか。こいつは、規則違反で終わるつもりはなかったんだ。禁忌を侵すつもりだとはっきりと伝わってきた。未来を変えるというくらいだ。女王には死が迫っているのだろう。

 ならば、俺はどうする。俺の双眼を捕らえて離さない彼の誠意に、俺はどう応えるべきなのだろう。きっと言葉だけの忠告も、中途半端な援護も、彼は望んでいない。

 だから俺がすべきことはただ一つ。心は決まった。

 「馬鹿じゃねえの」

 「……え?」

 予想外の言葉だったのか、フレールは明らかな動揺を見せた。

 今度は俺の方が視線から逃げることを許さない。グッと睨み付けて、一気に吐き出す。

 「女王が救ったお前の命は、簡単に捨てていいものなのか?禁忌を侵してまで自分を救おうとすることを、女王が望むと思ってるのか?俺は思わないね。そんなのその気がなくたって、将来自分のピンチを救ってもらう為の保険として助けたみたいじゃねえか。俺だったら絶対嫌だ。プライドが許さない」

 女王が実際のところどう思うかはわかり得ない。これが正解か否かなど、答えがない以上確かめようがなく、迷宮入り必至だろう。それでも俺は、友人の為に自分の意見をぶつけた。全力で彼の行為を否定すること、それが俺の誠意だ。

 「じゃあ、じゃあ君は、恩人が命を落とすとわかっていて、しかも助ける手段を持っているに、それでも見殺せというのか?それはあまりに残酷なんじゃ」

 「それはお前の気持ちであって、女王の気持ちではないだろ。俺は、当たり前のことをしたまでなのに、勝手に恩返しと謳ってせっかく救った命を落とされるほど残酷なことはないと思う」

 わななく声で最後の抵抗を見せた彼に、間髪入れずトドメを刺す。

 人は、他人の気持ちを理解することは出来ない。だから、彼のその感情や恩返しと謳うその行為は、自らへの罪悪感に対する偽善だ。それで誰かが救われると考えるのは、酷く傲慢で自己中心的であるに過ぎない。そして俺の彼に対する言葉も、女王の気持ちなど欠片もない、大嘘だ。

 世界にわだかまる立派な自己犠牲の精神は、欺瞞と、建前と、傲慢さから来る最大の自己肯定に他ならない。

 フレールが静かに目を閉じると、その頬を雫が伝った。

 窓の外へと注意を向けると、高くそびえ立つ城壁が圧倒的な存在感を放っていた。空の青は果てしなく遠く、手を伸ばしても指先すら触れる気がしない。

 それはさながら、強くありながらも深い懐を持つ、サオリ女王の人柄を映したようであった。

 まもなく汽笛が鳴り、乗客たちがそれぞれの行先へと船を下りていく。

 「さ、仕事だ」

 フレールに一声掛け、俺は勢いよく席を立った。

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