第2話 破

「こんな時間まで、先生というお仕事も大変ですね」

 そう気遣ってくれる日暮警部補には何度も頭を下げつつ、私と桜子は警察署の正面玄関のポーチに立つ。桜子は全く他人事のように玄関に立つ警察官に大はしゃぎで敬礼をしたりしている。


 ——雨は相変わらず降り続いていて。


 タクシーを呼ぼうとする私に、嫌だ、歩いて帰ろうよと春川桜子がいう。確かに歩いて帰れない距離ではないが、この雨に少したじろぐ。

「先生、傘は?」

 来るときには学校からここまでタクシーに乗ったため、桜子に言われて初めて予備の傘を持ってきてないことに気がついた。

「悪い。1本しか持ってきてなかった。やっぱりタクシーを呼ぼう」

 そう言う俺に桜子が、

「じゃあ相合い傘だね。先生うれしいでしょ」

と、「歩いて帰る一択」しか私に選択の余地を与えてくれないらしい。まだ知り合ったばかりとしか言えないこの子の私に対する距離感には、例えようのない戸惑いしかない。


「仲良いんですね、羨ましい。じゃあ、あとは先生にお任せして大丈夫かな」

 玄関まで見送ってくれた日暮警部補に大いなる勘違いをされている。

 私は折りたたみの小さな傘を鞄から出した。

「ちっちゃ!」

 桜子は、小さな傘を逆に喜んでいるみたいにはしゃいでいる。

「なっ、これは二人で帰るには小さ過ぎると思わないか」

「くっつけば、なんとかなるよ」

 私がもう一度言っても、桜子は全く気にする様子もない。

 ——だから、君のその距離感は……。

 戸惑いながら、私はとりあえず学校に電話を入れて、これからあすなろ園へ彼女を送っていくこと、今日は時間も遅いので詳しいことは明日報告することを教頭に告げた。


 日暮警部補に別れを告げ、警察署の雨の正面階段を一歩ずつ滑らないように慎重に降りてゆく。桜子は私の左腕にすがるように腕を絡め、全く隙間がないほどに私に密着させて、同じように一段ずつ慎重に足を出していた。


——可愛い顔をして、いったい何を企んでいるんだ。


 私もすでに40を過ぎ、中年と呼ばれる年になった。10代の可愛い女子に密着されて、ただ素直にうれしいだけの時代はとっくに過ぎた。私の左腕に、その制服の上からの見た目よりもずっとふくよかな胸を押し付けられても、むしろ疑念だけが頭に浮かんでくる。だが、どこかで危険を告げる音が鳴るこの状況ではあっても、この仕事を放棄するわけにもいかない。


 歩き出してすぐ、ただでさえ小さな折りたたみ傘の縫い目の小さな破れから、少しずつ雨が染み込んで、濡れるというほどではないが左の眉毛に水滴が落ちてくるのがわかった。だが、今さらそれを桜子に言ったとて聞き分けるとも思えない。ましてや、もうすでに私の右の肩はだいぶ濡れ始めてしまっているのだ。

 ——嫌がるだろうか。

 しかしこの状況では仕方がない。私は傘を右手に持ち替えて、できるだけ桜子が濡れないように、桜子が絡めた腕をほどき、その華奢な左肩を軽く引き寄せた。桜子は全く嫌がる素振りも見せず、さらに顔を私の左胸に寄せて、軽く私を見上げて笑ったのだ。

 そう、かつて愛した冬木夢と同じ顔で。

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葉桜の君に〜やまない雨 西川笑里 @en-twin

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