葉桜の君に〜やまない雨
西川笑里
第1話 雨の夜に
その電話があったのは、帰り支度をしていた夕方のことだ。
ここ数日ざんざん降りの雨が続いているため、今日こそは早く帰って溜まってしまった洗濯物をコインランドリーにぶっ込みに行こうと思っていた矢先のこともあり、つい舌打ちをしてしまう。
「東署の……、はい……、生活安全課の……、はい、日暮警部補、ですね。あの日暮という字は……、あっはい、わかりました」
それは、私の勤める高校の一年の女子生徒を補導したという警察からの連絡だった。私はできるだけ詳細にメモを取りながら、私の電話の受け答えで事件性に気がついた周りの教師たちに肩をすくめてみせると、隣のベテラン教師が2、3度首を振りながら深いため息をつくのが見えた。
「はい、確かにその生徒はうちの学校の生徒で、はい」
私は生徒の名前と補導内容をメモに走り書きし、そのメモを隣に渡すと近くにいる数名に回覧され、最後に渡された若い教師がそのメモを持って、私が指差して持っていくようにジェスチャーで指示した教頭のところへ走っていくと、メモを渡された教頭が、それを読んで慌てて私のところへ向かって来るのが見えた。
「あっ、私がその生徒のクラス担任をしております、秋田と申します……。秋田葉太。秋田県の秋田に、葉っぱに太いと書きます。あっ、引き受けにですか? あっ、はい、もちろんです。これからすぐにでも……。あっ、ご迷惑をおかけします。はい、それでは後ほど」
私が電話を切ると、「うちの生徒で間違いないのか」と真っ先に教頭がいう。
「はい、うちのクラスの春川桜子で間違いなさそうです」
私がそういうと、
「万引きかあ……」
と教頭はしばらく黙り込んだ。
「警察にはすぐに私が引き取りにいくと言いましたので、とりあえず行ってきます」
私は教頭にそう言い、上着を引っ掛ける。
「その、春川さんのご両親への連絡はどうなってるの」
教頭がそう聞くので、私は引き出しから生徒の名簿を取り出し、補導されている春川桜子のページをめくりながら、
「警察の話では、春川が私を指名してきたと言っているんで……」
名簿のページをめくる指が「春川」で止まり、その指を保護者の名前が書いている欄に這わせてゆく。
——児童養護施設「あすなろ園」
「川沿いの公園脇にある、あすなろ園の子ですね」
「ああ、だから先生を引受人にしたんですかね。その春川って、どんな子ですか」
「まだ入学したばかりなので、よくわからないんですが、この何日間かを見ている限りでいうと、授業中やホームルームなどでは、たまにボーッと外を見ていることがあったり、友達もまだいない感じで」
私は教室での春川桜子の記憶をたどりながら、そう返事をする。
「引き受けは先生一人で行かれますか? 誰か女の先生を一緒につけましょうか?」
という教頭の申し出を、
「なぜかはわかりませんが、お互いにまだよく知らないとはいえ、春川が私を指名したのは間違いないことですから、別の先生も行くと変に刺激するかもしれません。とにかく私が行ってきます。もし何かあったら連絡します」
と、やんわりと断り、私は春川桜子の待つという東江戸川署へ向かった。
外は春の雨が相変わらず降り続いており、折からの強い風も相まって私の履いている靴とズボンの裾は、びしょ濡れになりながら警察の玄関をくぐったのだ。
⌘
生活安全課を探し、カウンターのそばに座っている制服の女性警察官に身分と名前を名乗ると、奥まった小さな部屋に通された。毎年、うちの高校でも補導される子は何人かいるのだが、私は幸いにこれまでにそういった生徒を受け持ったことがなく、実は警察署というところへ入ったのは初めてであった。
しばらくすると、小柄な女性が私が待つ部屋に入ってきた。
「先ほど電話いたしました、日暮です。秋田先生、で間違いありませんか」
と彼女が聞いてくるので、私は鞄に入れていた職員証を提示した。
日暮警部補から一枚の紙を渡される。引き受けに関する誓約書のようなものだと言われ、必要事項を記入するよう促された。私が記入している最中、
「春川さんに何度も家への連絡先を聞くんですけど、秋田先生を呼んでくれというばかりで。ご両親とは連絡は取れますか」
と日暮警部補がいう。
「春川は、あすなろ園の子なんです」
「ああ、川沿いの養護施設ですか。だから、先生だったんですかね」
警部補がいう。
「そうだと思います。私以外に頼る人がいなかったのかもしれません」
口ではそうは言ったが、実はなぜ桜子が自分を頼ってきたのか、私はわかりかねていた。私がクラスの担任になってから、まだ春川桜子とはほとんど会話をしたことがない。春川にとっても最初に頼る大人とは思えないのだ。普通なら、今暮らしている園の職員か、もしまだ生きているなら離れて暮らしているとはいえ、親ではないのだろうか。
「では、園の方はこちらから連絡しておきましょうか」
と警部補が聞くので、それは学校が責任を持って連絡しますからと丁重に断った。春川桜子が何を考えているのか、ゆっくりと聞いてみたいと思ったからだ。
書類を書き終え別の部屋に案内されると、そこには笑いながら女子警察官と喋っている制服のままの春川桜子がおり——。
「先生、遅いよぉ」
と、やけに気安く喋りかけてきたのであった。
——それはまるで、昔からの親しい友達のように。
《続》
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