丘の上の憐みの石

@tnaka6156

第1話


まるでワイドレンズで眺めている様な光景だった。高い山がくっきりと見え、周りが少し歪んで見えた。高山病に罹ったなとすぐに解ったが下山するには遅すぎた。

日の光は山の裏に隠れ、段々と暗くなりつつあった。次の村、ペリチェまでまだ1時間ほど登らなければならない。

松島はあの丘に寄ったことを後悔し始めていた。

昨夜、同じ登山者の男があの丘の石のことを話していて興味を持ったのがきっかけだった。松島はチャイを飲みながら聞き入った。

アマダブラムからエベレストに向かう途中、ペリチェと言う村のはずれにその石があるらしい。その石のことを村の人たちは「憐みの石」とよんでいて、その石に触るとその人の心の奥底にある悩みを癒してくれると言われてる伝説の不思議な石らしい。

松島は興味をもった。

松島は昔あることをきっかけに、人と交わることも、仕事や趣味に没頭することもなくなった。ただ日々を生きるためだけに生きていた。

ネパールに来たのもそんな自分を変えたいと思い自分を奮い立たせてここまでやってきた。

山々は美しかった。

朝日が険しい山々にあたるとオレンジ色から赤い色、そして紫色に変わった。松島は息をするのを忘れ巨大な自然のアートに震えた。  初めての感動だった。ここに来て良かったと思った。そして、自分が少しは変れる様な気がした。

松島はその夜、藁を敷いてあるだけのベッドで横になりながら考えた。明日は少し早めに出て、そこに行ってみよう。計算だとペリチェまで午後2時には着く。寄ってみる時間は充分にある。松島は背中にダニが這いまわるのを感じながら眠りにおちた。


翌日、通り沿いの村人に憐みの石の場所を聞こうとしたが皆話したがらなかった。中には顔色を変えて立ち去る人もいた。松島はあの登山者に教えてもらった簡単な地図だけを頼りにその丘に向かった。

丸太だけの橋を渡った。川は真っ白に濁っていて結構な急流だった。バランスを崩して落ちたら助からない、そんなやつはこの土地では生きてはいけないと言っている様だった     白く濁っているのは上流の氷河が解けて流れ出ていて、たぶん何万年前の酸素をいっぱい含んでいるのだろう、だからこんなに真っ白な水になっているのだ。

途中、ある崖に沿った細い道を通ると今にも落ちてきそうな一軒の家くらいの岩が剥き出しになっているのを見た。その下を通る時体が震えるのを感じた。その岩がポッコリはがれ落ちたらお終まいだ。まるで昔見たインディ ジョンズの探検映画みたいだなと思った。


目の前にある憐みの石は巨大な石だった。石といっても岩なのだが、それが河原の小石みたいにすべすべで丸みをおびた石だった。普通は川などに流されて角が取れて丸みを帯びるがこんな巨大な岩が川に流されたとは考えられない。周りの岩と比べても明らかに異なっていた。松島はその石に触れてみた。冷たかった。ほかの岩と比べても冷たい気がした。足もとにあつた石を憐みの石にぶっつけてみた。乾いた金属音が響いた。

やはりと松島は思った。この石は大昔に堕ちた隕石だろう、地上に落ちた時に割れなかったのは積雪の中かこのあたりが海で水中に堕ちたからなのだろう。

実際、エベレストの上の方で貝の化石が発見されている。松島は触ったり叩いたりしたが自分に何の変化もなかった。

「まあ、こんなもんさ」と心の中で呟いた松島は落胆などしなかった。かえって人があまり見ることもない不思議な巨大な隕石を見たことに気持ちを良くした。


それから数時間後、高山病に罹った。ペリチェに暗くなる前に着くことができた。松島は食事もとらずベッドに横になった。

この部屋には多くの登山者いて、いろんな言語が飛び交っていた。目の前は相変わらずワイドレンズを覗いたように歪んでいて、頭痛もしてきた。

「これが高山病か」松島は日本にいる時は本の中でしか知ることができなかったが今は自分の身体で実体験していて、それが不思議に思えた。

松島はその夜、眠れなかった。

宿に着いた時より高山病の症状は重くなっていた。頭痛もより酷くなり脈も速く刻んでいた。こんな酷い頭痛はかつて経験したことがなかった。

その時、ドアを開けて男が入ってきた。男は入るなり医者はいないか、医療の経験をしたことのある者はいないかと英語で叫んだ。男は金髪の北欧なまりの青年だった。蚕棚のようなベッドからひとりの青年が這い出し自分は医学部の学生だがというと、金髪の青年は堰をきったように事情を話し出した。

別の宿のドイツ人の男が高山病で意識不明になり痙攣を繰り返しているらしい。二人は急いで出て行った。

松島は日本を発つ前に登山書を何冊も読んで高山病の知識と対処を熟知していた。

唯一の最良の対処法は下山して高度を下げるしかない。富士山あたりでも高山病で死亡した例はある。ここは富士山よりも、ずっと高い高度なのだ。松島は不安になってきた。先ほどから脈もより速くなってきている。腕時計のストップウオッチで計って計算してみると脈拍が220を超えていた。

松島は驚いた。

今までこんなに脈が速くなることなど無かったし、聞いたこともなった。松島は大きく深呼吸した。きっと、先ほどの重体のドイツ人の事で動揺しているのだろう、心を落ち着けるため別のことを考えようと努力した。

いろんな過去の出来事がフラッシュバックのように現れては消えていったが最後はあの丘の憐みの石のことが思い出された。暗い宇宙の空間をあの石が浮かんでいるイメージが松島を心地よくさせた。

いったいあの石はどのくらいかけてこの地球に辿り着いたのか、もしかすると何百万年、いや何千万年それよりもずっと昔かもしれない。

そもそも何処から来たのか。もしかすると生命体がいる惑星が何かの原因で爆発して来たのかもしれない。旅する途中に高度に発達した惑星の宇宙人に調査されたかも知れない松島はそんなことを考えていると少し楽になった。


ドアが乱暴に開けられ先ほどの医大生が帰

ってきた。ベッドに寝ていた連れらしき男がどうなったかと聞くと医大生は吐き捨てるように「ダイ」と言い捨てて不機嫌にベッドにもぐりこんだ。

「ダイ」「死んだ」という言葉がこんなに重く響く言葉なのだと松島は初めて知った。部屋中が重苦しい空気に包まれた。


真夜中、吐き気を伴って目が覚めた。

腕時計を見ると午前二時半を指していた。宿は静まり返っていた。吐き気はますます激しくなりそれと共に便意も模様してきた。松島はかなりいけないと思った。高山病としては重症だ。もしかしたら、死ぬかもしれないと思った。

昔読んだアウシュビッツ収容所の本の中での看守の証言を思い出した。それはガス室の扉の前に嘔吐と糞尿の山ができていて、人間は死に直面すると嘔吐と便意をもようすらしいと書いてあった。

松島は這うように宿の外に出た。この辺の風習でトイレは無く河原で用を足すことになっていたからだ。

真っ暗な中、川の音を頼りに河原に降り立った松島は一気に胃の中にあるものを吐き出した。岩に寄りかかり呼吸を整えようと深く息を吸った。吐き出した為か便意は無くなった。松島は少し楽になったので大きく息をするため天を仰いだ。

そこには夜空に散らばった無数の星が煌めいていた。

こんなに透明で輝いている星の群れを見たことが今まで無かった。それに手前の黒いシルエットの山の向こうに巨大な白銀色に輝くエベレストが松島を見下ろしているように存在していた。 

松島は圧倒された。

その光景から目が離せなかった。物凄い感動が体中を駆け巡った。

その時、松島の手に温かいものがふれた。松島は驚いて振り返ろうとしたが何故か体が動かなかった。

「見ないで!」

その声は少女の声だった。

松島の身体は硬直した。振り返ろうとしても体が動かなかった。辛うじて自分の手の上にのっている物を見ることができた。

子供の手であった。

その指には玩具の指輪が嵌められていた。

その指輪に見覚えがあった。

それは小学校五年だった妹の美奈子が欲しがった駄菓子屋の景品だった。松島は妹の誕生日に自分のこずかいを使って当たるまでクジを引いた。美奈子は松島がそのルビーに似たおもちゃの指輪を引き当てると飛び上がって喜んだ。

しかし、その年に美奈子は溺死した。


「お兄ちゃん、苦しまないで。あの時、無理いって桜の花を取ろうとした美奈子が悪いの。お兄ちゃんはちっとも悪くない。だから私の事で悩まないで」

松島の手の上に重なっている美奈子の手は温かく懐かしかった。それは闇の中に白く浮かび上がっていた。

松島は美奈子が死んだ日の事を思い出して涙が込み上げてきた。

「あの時、美奈子がお兄ちゃんにねだってボートに乗ったから」

松島はあの時美奈子にせがまれてボートに乗った。

その湖の岸辺には満開の桜の花が枝を伸ばし湖に迫り出していて美しかった。その桜の花を取りたいと美奈子は言いだし、立ち上がった時にバランスを崩してボートから落ちた 松島もその反動でボートの反対側に落ち慌てて美奈子の方に泳いで行こうとした。

その時、松島の足が攣った。

気持ちは美奈子を助けなければと気だけがあせるが、身体を動かすと激痛が走った。焦った松島は水を飲んでしまった。焦りと激痛で美奈子の方を見た時にはすでに美奈子の姿を見失っていた。松島は水中に潜って美奈子を探したが見つけることはできなかった。


あくる日の午後消防隊員が変わり果てた美奈子を発見した。

「助けられなかったのは俺のせいだ。俺が不甲斐ないから、あんな時に限って足なんか攣るから」

「自分を責めないで。そんな事しても美奈子はもう、この世には戻れない」

松島は慟哭した。 

「俺は幸せになっちゃいけない、美奈子を死なしたから普通の人と同じ暮らしをしちゃだめなんだ」

「お兄ちゃんが幸せになってくれる事をあの世からずっと願っていたの、だから私の事は忘れて幸せになってほしい」

松島は美奈子の手の温かさが心に染み入いるのを感じた。

松島は美奈子が生きていた頃を思い出した家族が幸せに暮らしていた頃を。

それは美奈子が家族の中心で笑いに包まれていて、普通よりも貧しかったが少しもそれを感じさせなく楽しく幸せに暮らしていた。しかし、美奈子が死んだことで家族から笑いが消え両親は離婚した。

そのことを松島はずっと自分のせいだと思って暮らしてきた。あの時どうして助けられなかったのだろう、どうしてボートなど乗ったのだろう、そんな後悔と自分を責める気持ちを何回となく繰り返して生きてきた。


「今まで美奈子の事を思ってくれてありがとう。いつも遊んでくれてありがとう。この指輪取ってくれてありがとう。そして私のお兄ちゃんでいてくれてありがとう。その事をずっと伝えたかった、伝えられて本当によかった」

松島は流れる涙が冷たくなるのを感じた。そして頭の奥の痛みがすっと氷が解けるように無くなってゆき、そしてしだいに意識も遠のいていった。


松島は無数の目が自分を見つめている夢を見た。その一つの目が段々大きくなりその中心から眩しい光が松島を照らし、その中に松島は吸い込まれていった。

松島は目を覚ました。


眩しい太陽の光を遮るように黒い影が左右に動いていた。松島の周りに七、八人の子供が松島をじっと覗いていた。子供たちの顔はいずれも垢にまみれて黒光りしていた。しかし、その瞳は日本では見られないくらい煌めいていた。どうしたらこんなに澄んだ目に成れるのだろうかと思った。そして、松島はゆっくりと立ち上がった。


あれから二十四年あれは夢なのかも知れないと思うようになってきた。松島がすることもないと思っていた結婚をして、平凡な家庭と平凡な父になったがあのネパールでの不思議な出来事を誰にも話すことはなかった。

あの、憐みの石は今でも在るのだろうか。今でも旅人の悩みを憐れんであの様な不思議な夢を見させているのだろうか。

あの丘の石は遠い宇宙から来た何かの生命体かも知れないと思った。







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