第106話 ありがとう
「さてと、そろそろ帰ってもいい頃かな……」
ひんやりとした風が吹く夜の外。
ベンチの上には黒の長財布、スーパーで買ったペットボトルの緑茶、粉末のココアとカイロが入った買い物袋が置いてある。
寮を抜け、蒼太が出向いた店といえば歩いて25分先にあるスーパーだけ。
残りは散歩をしたり、公園から星を見たりと半ば退屈な1時間40分を過ごしていた。
運動をしたい。リフレッシュしたい。
そんな目的もなかった蒼太からすればこの時間の体感はかなり長いものだっただろう……。
それでもこの行動は蒼太自らが選んだこと。後悔することはなにもなく、暇とも言える時間で考えることはただ一つ。
(料理は口に合ったかな……。咲さんがみんなと楽しめてるといいな……)
なんてお節介極まりないこと。
そしてこれは寮から出た理由とも繋がっている。
バイクでスーパーにいかなかった=わざと時間を消費させた時点で蒼太が気を遣ったのは紛れもない事実。
帰国初日の咲だからこそ、再び寮内でのポジションを獲得してほしかったからこそ蒼太はこの行動を取っていたのだ。
咲にとって一番距離が近く、遠慮をしない相手はあの4人の入居者メンバーであることに違いはない。
蒼太がその輪に入ってしまえば、話を全員に行き渡らせようと気を遣う入居者がいる。
咲からすれば蒼太という異性がいる時点で話したいことも話しづらくなるだろう。留学先の思い出に耽ることも、留学前の寮の思い出に耽るのもできないかもしれない。
直接関わっていない蒼太がこれだけの問題を炙り出せる。
この全ての解決法を挙げるとすれば——このようにお出かけする以外になかったのだ。
「はぁ……。でも、みんなに目的地を伝えてなかったのマズかったよなぁ……。心配かけさせたよね……」
これが蒼太の足に力を入れる言葉。
スマホをポケットに。右手で緑茶を持ち左手で袋の取っ手に手首をかけ、『おいしょ』と重そうに立ち上がった。
『用事があるからいってくる』『二時間くらいで帰ってくる』これが蒼太が残した言葉である。
スマホを使って行き先の連絡することもできたが、咲や他の入居者が楽しく食事をしてもらうための2時間。この間を埋めさせる場所を思いつくことができなかったのだ。
スーパーと言えば長く見ても1時間で帰ってこられる。
逆に娯楽施設を出せば遊んでいると仕事をサボっていると勘違いされる。
違和感を与えずに寮を離れるための口実を思いつくことができなかったのだ。
「怒られなければいいな……」
入居者のことを考えた結果のことでもあるが非があったことには変わらない。
こんな願望を漏らす蒼太はここから25分を歩いて寮に帰ることになる。
全ての目論見が入居者にバレていたことなど知る由もなく……。
****
その後、無事に帰宅し玄関に足を踏み入れればリビングに騒がしさはなかった。
逆に二階から盛り上がっている声がここまで聞こえていた。
ご飯を食べ終わり二階で二次会のようなものを開いているのだろう。
「よかった……。咲さん上手く馴染めたみたいで」
実際に馴染めたのかはわからないことではあるが、この寮には仲間はずれをするような入居者はいない。再会を果たした時の雰囲気を見てもそれはありえないことだろう。
ほっと安心した気持ちでリビングの扉を開ければ——
「あっ……」
「あ……」
呼応するように返ってくる声。目が合った瞬間に同じ反応。
二階にいると思ってた咲がリビングにぽつんと立っていた。麦茶をコップに注いでいたのだ。
「えっと……ただいま、咲さん」
「……うん。おかえり……」
「他の入居者さんは二階?」
「そう。咲の部屋で女子会してる。咲はお茶のおかわりにきた」
「そ、そうなんだね」
「うん」
「……」
「……」
会話は弾まない。すぐに止まってしまう現状。シーンとした空気が一瞬で襲いかかる。
どうしても居た堪れなくなる蒼太だが、それを救ったのは咲だった。咲が話題を出してきたのだ。
「……咲、びっくりした」
「えっ?」
「ご飯食べてる時みんなが管理人さんを褒めてたから。信頼されてるんだって思った」
「あ、あはは。そう言ってもらえるのは嬉しいけど長く関わってるから当然のことかもね」
「ううん、当然じゃない。女の人……全員から信頼を得るのは難しいこと」
眠たげな瞳は相変わらず。コップにお茶を次終わった咲は冷蔵庫に容器を直して再び蒼太に向かい合う。
「管理人さん。過ごしやすい環境が作れてるのにほんとにやめるの? みんなやめないでほしいって言ってたよ」
「……うん。俺も悲しくはあるけどやめることはもう決めてるから」
まさか咲とこんな話をするとは思わなかった蒼太だ。
食卓を囲んでいる途中、蒼太と話題がいろいろと出たのだろう。少しばかり興味が沸いているようでもあった。
「それにこんなことを言うのはあれだけど……俺はここに居ていい人間じゃないからね」
「それはどういう意味? いい印象があるからやめないでほしいって言われてるのに」
「あー、そっちの理由じゃなくってこの寮のシステムって言うのかな。ここは女子寮って看板を掲げてるでしょ?」
「うん。掲げてる」
「女子寮のメリットって言えば同性の方が住みやすいってことで……でも、今は男の俺が管理人をしているからその一番のメリットを潰しちゃってるんだよね」
日々働く中で蒼太は考えて——答えを出していた。
この職は新学期が始まる前には絶対にやめなければならないことだと……。
新学期、それは別の地域から上京する学生や社会人が増える時期。言わば新居を探し始める時期である。
女子寮を探す女性がいるとして、その寮を管理する人間が
先ほども言った通り、メリットを潰したのならこんな障害が発生する。
もちろん、女性全員に当てはまることではないだろうが少数派であることには間違いのないことだろう。
「入居者さんに金銭面のことを話すのはあれなんだけど、維持費はどうしても必要だから入居者さんを増やさないとだから」
「咲、静子おばあさんから聞いた。この土地は自分のもので寮にローンもないって。だから入居者は増えなくても経営に問題はないはず」
「そ、それは初耳なんだけど……って話は置いとくね。確かにそれだと問題はないかもだけど、長い目で見たら収入減る可能性は高いからね。特にひよりと美麗は今年が受験だから遠い大学にいく可能性だってあるから」
「でも……」
もうわかるだろう。蒼太をまだまだ信用していない咲ではあるが、確実に止めに入っていることを。
一時間前の食事で咲は聞いたのだ。
他の入居者から『やめないでほしい』そんな切実な気持ちを。
そこから少しでも助けになれたら……との行動なのだ。
「ここは女子寮だからやっぱり女性が管理人をするのが一番なんだよ。デリケートな話もするんだけど女性にはいろいろな症状が出るし……そうなった時に頼れるのは女性の管理人さんで相談もしやすいだろうから」
「……そっか。もう固めてるんだね。やめるの」
「うん。だから未練を残さないように最後まで全力で取り組もうと思ってるよ」
「縁があったから、もっと関われたらって咲は思ってた」
「嬉しい言葉をありがとうね。でも! まだ時間は残ってるから最後まで仲良くしてもらえると嬉しいな」
「そうだね。わかった」
もうやるべきことはしたとクールに完結させた咲は止めることを諦めた。
「それじゃあ咲はそろそろいく」
「うん。いってらっしゃい」
容器の中がいっぱいになったものを運ぶのは苦手なのだろう、麦茶入りのコップを持った咲は半ば中腰になってそろーりと移動している。
「……あ」
「ん? どうしたの咲さん」
一言声を上げた咲はいきなり立ち止まる。蒼太を見て……次に左手にかかっている袋に目を向けた。
「その袋の中……なにを買ってきたの? 咲、気になる」
「あっ! そうそう忘れてた忘れた。これ咲さんに買ってきたやつなんだよね。はいどうぞ」
蒼太は咲の空いた左手に袋を渡す。
「咲の? なに?」
そしてすぐに袋を覗く咲。そこに入っているのは粉末のココアとカイロと理解できない組み合わせである。
「ココアとカイロ? なんで?」
「咲さんは帰国したばかりで時差ボケがあると思うから睡眠物資が取れるようにって思って。ホットココアにして飲むと効果があるらしくて。牛乳は冷蔵庫にあるものを使っていいから」
「あ、ありがとう……。でも、なんでカイロ? まだ使う時期じゃない」
「あぁ……それは長時間飛行機に乗ってたからもしかしたら腰を痛めてるんじゃないかって思って」
「っ」
「おへその真後ろの背中って言うのかな。そこに貼れば少し楽になるって書いてあったから買ってきたよ。部屋のクーラーをつけたらカイロで汗をかくこともないと思う」
「…………」
蒼太はこんな知識を最初から持っていたわけではない。スマホの履歴にはちゃんとその証拠が残っている。時期的に売り場にで出ていなかったカイロは店員に在庫を聞いて購入していたのだ。
全てを聞いた咲はぽかんとしていた。小さな口を開けて上目遣いのまま固まっていた。
『
この瞬間、あの発言が間違っていることに気づいたのだ。
『それは違うわよ、咲。ほら、このメンバーで食事をするのって年単位ぶりでしょう? 話が持ち上がるのは当然のことだからその邪魔をしないように動いてくれたのよ。ソウタさんが報告を遅れさせるような時っていつもこうだから』
『ホント気を遣いすぎだよねそーたって。こんだけ豪華な料理作って自分は出ていくとか理解できないって』
『……でも、蒼太さんらしいですよ。あれはどう頑張って引き止めても出ていくつもりでしたからね』
『蒼太さんはもっと甘えてほしいです……。気を利かせすぎです……』
皆の言っていたことが正しかったことに気づいたのだ。
それも、時間を潰して……なおかつ時差ボケから腰のことまで気を利かせたことに。
「……そっか。これにやられたんだ」
「なにか言った?」
「ううん、なんでもない。じゃあこれもらう。ありがとう」
「いやいやお節介しただけだから気にしないでよ。女子会楽しんでね」
「わかった」
そうして、初めて微笑みを浮かべた咲はまた半ば中腰になって再びコップを運んでいく。
蒼太の横を切り——リビングから廊下に出た時、咲は振り返る。
目を合わせてちゃんと伝えるのだ。
「……
「ははっ、それはどうも」
「じゃあばいばい」
「うん。バイバイ」
別れの挨拶を交わし……蒼太は見送る。
亀のようなスピードで、こぼさないように真剣にコップを見つめながら階段を登ろうとしている咲を。
「咲さん。なんだったらそのお茶、俺が上まで持っていこうか……?」
「……いい?」
「もちろん。じゃあ貸して」
信頼がゼロであれば咲はこうした提案を断っていただろう。
頼むということはそういうこと。
『いや、そこで一回麦茶を飲めば溢れないのに』
そのツッコミは正しいだろう……。
ちょっぴり抜けているその性格はこちらにきても変わらない咲なのであった。
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