第73話 寝静まりの夜に甘えるまで①

「早く」

「う、うん」

 蒼太には一つ誤算があった。

 雷雨でもない今日。晴れの天気に美麗が呼びにくるとは思わなかったこと。一人で寝る、もしくは小雪と寝ると思っていたこと。

 入居者全員を見送った朝、ニュースで天気が崩れないことを確認した蒼太はこう考えたのだ。


『雷雨じゃないなら俺が手を加えることもないだろう』

『夜中に備えなくても大丈夫だろう』

『体はキツイけど1日くらいなら寝なくても平気だろう』——と。

 結果、昼寝を取らずに働き続け、睡眠不足のまま深夜を迎えたのだ。

 そうしてようやく就寝しようとした矢先——美麗の呼び出しがかかったわけである。

 もたもたしていると『早くきて』と再度の呼びかけがかかる。

 逃げ道など残されてはいない。蒼太は大きなあくびをすると目を擦り、睡魔を誤魔化して扉を開ける。


「こんばんは」

「ん、今日も……きた」

 言いづらそうにしているが、美麗がどうしてほしいのか理解できない蒼太ではない。寝る時に必ず使う、うさぎのぬいぐるみを抱えていれば誰にだってわかること。


「それじゃあ、リビングにいこっか」

「……ん。あ、あとあの布団も持ってきて」

「もちろん」

「あとはこっそり動いて。みんなにバレるから」

「了解」

 ピンクの触角を人差し指で巻きながら背を向ける美麗は、一人でリビングに行こうとしたりはしない。ドアストッパーの役割を果たすように、扉の隣で立っている。


 そうして、昨日と同じように肩に布団をかけた蒼太は美麗と共にリビングに向かう。

 リビングに着くと美麗はソファーに、蒼太はキッチンに向かい護身用の包丁を持ってくる。これも昨日と同様の動き。


「じゃあ包丁は床に置いておくからね」

「……あのさ、もしかしてその包丁、切れ味悪くしてる? アタシが刺した時に助かるように的な」

「え? どうしてそう思うの?」

「だって怖がる素ぶり見せてないじゃん。ずっと」

「それは俺が変なことをしなければ刃を向けられることもないでしょ? むしろ怖がってたら邪なことを考えてるってことにならない?」

「まあ……そうだけど」

「さすがに命は大事だから変なことは考えられないよ。あと……この寮にある包丁は全部切れ味はいい方だよ。切れ味が悪くなったら研ぎ機で研ぐようにしてるぐらいだからね」

「ふぅん」

「どうせならこの包丁の切れ味を紙とか布で試してみる? そっちの方が安心すると思うし」

「いや、そこまでしなくていい。そんな自信持っていえるってことはそうなんだろうし、どうせ切れ味自慢されるだけだし」


 昔の美麗であればこの発言自体が信じられないだろう。濁してはいるが、蒼太のことを信じていると捉えるには十分なセリフなのだから。


「ってか、こんな話してないで寝たい」

「あはは、それじゃあ隣失礼するね」

『美麗さんからの話だったのに』なんてツッコミはナシである。

 ソファーの端に座り、蒼太が左手をパーにして下ろせば美麗はすぐに動いた。半ズボンの足を伸ばし、体に布団をかぶせる。最後は当たり前に置かれた手のひらに頭を置く美麗だ。

 サラサラとした髪が手を撫でる感覚は今でも慣れない蒼太である。


「ねえ、明日もちゃんと起こしてよ? 今朝ひよりが変なこといってたから」

「変なことじゃなくて事実だけどね……? 『抱っこして』とかの声とか」

「っ、ち、違うっての。あれはひよりの空耳だし。アタシは抱っこしてとかいわないし」

「じゃあ今日は抱っこしなくていいの?」

「……そもそもあんた、腰、痛めてんでしょ? だから今日はいい」

「あれはひよりの勘違いだけどね?」

「はいはい」


 今朝、美麗は聞いている。

『あっ、腰に手を当てて痛そうにもしてましたよ! こっそりとバレないように!』

 腰が痛くなっている理由は入居者内で美麗しか知らないこと。本当は抱っこをしてほしい口ぶりだが、無理はさせたくないようだった。


「じゃ、もうアタシは寝るから」

「わかった。おやすみ、美麗さん」

「……お……すみ」

「え?」

「……ふんっ。バカ!」

「え!?」

 聞こえなかったらそれでいい。なんて伝えるように鼻を鳴らした美麗は暖かな手のひらの上で頭を微弱に動かす。しっくりくるポジションを見つけると、大きな猫目をゆっくり閉じた。

 明日も平日。学校を休みたくない美麗は早めに寝たいのだ。


「……」

「……」

 そのまま3分が過ぎようとしていた頃である。

「ふぁぅ……」

 うとうとし始めた美麗は、意識的に押し殺そうとした小さな声を耳に入れた。

 静寂な空間だからハッキリと聞こえたものであり、初めて聞く蒼太のあくびだった。


 一旦は無視をするも、ずっと無視できるものではなかった。

 蒼太は座りながら睡魔に身を任せ、美麗は横になりながら睡魔に身を任せている。

 睡眠の質が違うのは間違いのないこと。

 うなされてもいない、比較的元気な状態でこの横になったポジションでいることに罪悪感があったのだ。

 心に余裕があるからこそ気が回る。優しい心を出せる。


 少しして——美麗はおもむろに目を開けていた。

 暗闇の中、美麗が視界に入れたのは蒼太の頭がコクリコクリと落ちている光景であり、眠りに抗っている光景……。


「ねえ」

「……ん? え、あ……?」

 美麗の問いに、力無いクエストチョンマークがついた語尾を返す蒼太。睡魔の中で残りある力を振り絞ったような返事である。

「ちょっとトイレいってくる。それまであんたは横になってて」

「え? 俺はらいじょぶ」

 呂律が回っていない蒼太だが、『大丈夫』といっていることはわかる。


「いいから横になっててよ。包丁で刺すよ」

「あー。そっか。わかたよ」

「じゃあほら、早く」

 寝ぼけているからこそ違和感なく続く会話だだろう。

 美麗が立ち上がれば、当然ソファーのスペースが開き、まるで休息を求めていたように横になる蒼太だ。


「……アタシがトイレ行く間、これ預けとく。床に落としたら刺す」

「ん……」

 美麗はぼんやりとしている蒼太に大切なうさぎのぬいぐるみを渡し、布団をかけた。

「じゃ、また戻ってくる」

「うん……」

 そうして美麗は髪を揺らしながら廊下に移り、一階にあるトイレに入る。

 美麗はこの時に決めていた。——今日はもう自室で寝ようと。

 あのうとうとした様子を見て、座りながら寝らせる……との効率の悪い寝方をさせたくはなかったのだ。


 用を済ませ、手を洗い、美麗が再びリビングに戻った矢先のこと。


「すうー、すうー」

「……は?」

 そこには予想外の光景が広がっていた。蒼太はうさぎのぬいぐるみを両腕で抱いたままソファーの上で熟睡していたのだ。気持ちよさそうな寝顔が露わになっている。


「いやいや、さすがにふざけないでよ」

 美麗のトイレは小さい方。長い時間を使ったわけじゃない。寝たふりだと考えるのも自然である。


「そんな遊びに付き合ってる暇ないんだけど……」

 美麗は鬱陶しそうにしながら床に置いてある包丁を持ち、言葉を繋ぐ。

「今なら寝たふりでも許してあげるから起きてよ。早く」

「すうー……」

「心臓に刺すよ? ホントに。いいの?」

「すう」

「……ちょ、マジ寝? それ」

 ここまで脅しても寝息以外に反応がないことから、勘違いしていることを察す。包丁を元の位置に戻す美麗は、蒼太の寝顔を見ながら翡翠の瞳をパチパチとする。

 そして、状況を把握する。


「って、じゃあ返してよ! あんたを寝させるために渡したわけじゃないしっ! アタシのぬいぐるみ返してよ……っ!」

 もう自室で寝ることを決めていた美麗であり、寝る時にはこのうさぎのぬいぐるみが必需品なのだ。

 トイレにいくからと渡したことがここにきて仇になる。


「ぐぐぐぬぬぬっ、返してぇ……っ!」

 腕の中にあるぬいぐるみを取ろうとするが、蒼太の腕と胸の間にしっかりと挟まっている。大切にしている分、強く引っ張ることもできない。組まれた腕を解くこともできなかった。


「ね、ねえちょっと起きてよ! そこで寝てていいから! 泥棒っ!!」

 ——ペチペチ。ペチペチ。

「んー……」

 ——ペチペチ。

「んっ!」

 手を使って頰を攻撃。どうにか蒼太を起こそうとする美麗だが、邪魔だというように払い除けられる。


 この一連の流れでも美麗は気づくことがある。

「は……え? こいつ……もしかして昼寝とかしてないわけ? 朝寝てないのに……」

 美麗は蒼太の寝起きが早いことを知っている。普段から寝坊をすることもなく、琴葉との飲みの後、早朝に起きようとしていたほどなのだから。

 そんな蒼太が、今は起きる素ぶりも見せないのだ。


 つまり、そういうこと。あれだけうとうとしていた理由にも繋がる。


「はぁ……。なんなのホント……。もうちょい手抜きしなって……」

 だが、蒼太が手抜きをしない訳も美麗は知っている……。


 それはこの寮にゴキブリ子が出現した後のこと——。

 22時過ぎ、入居者の皆がそれぞれ部屋に戻った時に見たのだ。

 蒼太が一人、隅から隅を一生懸命に掃除していることを……。

『昨日はこんな掃除したのになぁ』

『もっと頑張らないとな』

 と、独り言を漏らしながら部屋を清潔に保つことで苦手な害虫を出さないようにしていたことを……。


 昼寝をしていないのは、毎日している掃除する時間を得るため……。

 

「もうぅ……、なんなのこいつ……」

 うざったく、嬉しくもある。そんなごちゃごちゃした想い。美麗はモヤモヤするように頭を掻く。口を尖らせながら目を細める。強く睨む。


「こんなんじゃこいつ起こせないじゃん……。ぬいぐるみも取れないじゃん……」

 八方塞がりとはまさにこのこと。人の気持ちを考えられる美麗だからこそ、強く出られない。


「泥棒……。バカアホ……。変態……。人でなし……」

 床に女の子座りをしながらぼそぼそと悪口を吐き続ける。

 

「早く寝なきゃなのに……。もうこいつが盗んだから……。ど、どうしよう……」

 腕の中にいるうさぎのぬいぐるみと目が合う美麗。その瞬間である——大切に扱ってきたぬいぐるみが助け舟を出したかのように美麗に別の思考が浮かんだのだ。


『こいつを……ぬいぐるみみたいに……』と。

 熟睡している状況なら、蒼太にバレることもない。好きなだけ甘える行動ができる。抱きつくことだって安心して寝ることだってなんだってできる……。


 美麗はキョロキョロと周りを確認。もちろんリビングには誰もいない。


「っ、ア、アタシは悪いことしてないし……。こいつがぬいぐるみ取るからいけないんだし……。アタシはこいつのこと嫌いだし……」

 その言葉が美麗を動かす第一声。頰を赤らめながら、蒼太が寝るソファーに上がっていく……。


 過去、琴葉と二人っきりで眠っていた蒼太を一番に批判した美麗であるが、甘えん坊のスイッチが強く押されているのだった……。

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